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朋友・長谷川平蔵 ~意知は平蔵を「相棒」に選ぶ~

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「さて、これからどううごくべきか…」

 意知おきともはそうあたまなやませると、やがて一人ひとりおとこかおおもかべた。

「やはりここは…、平蔵へいぞうさんをたよるしかあるまい…」

 平蔵へいぞうさん、こと長谷川はせがわ平蔵へいぞう宣以のぶためかおおもかべたのであった。

 長谷川はせがわ平蔵へいぞうとは、西之丸にしのまるにて書院番しょいんばんとしてつかえる旗本はたもとであり、家基いえもと西之丸にしのまるあるじであったおりには、西之丸にしのまるへとされることのおおかった意知おきとも案内役あんないやくつとめたものである。

 進取しんしゅ気性きしょうんでいた家基いえもとおなじく進取しんしゅ気性きしょうみ、海外かいがい事情じじょうつうじていた意知おきともとはい、家基いえもと意知おきともはなしもとめて、しばしば西之丸にしのまるへと意知おきとも召出めしだしたものであった。

 そのさい意知おきとも案内役あんないやくってたのが西之丸にしのまる書院番しょいんばん長谷川はせがわ平蔵へいぞうであった。

 そのころはまだ、意知おきとも奏者番そうじゃばんではなく、しかし、老中ろうじゅう田沼たぬま意次おきつぐそくとして、御城えどじょう本丸ほんまる雁間がんのまづめであり、それが次期じき将軍しょうぐんたる家基いえもと思召おぼしめしにより、その居城きょじょうとも言うべき西之丸にしのまるへと度々たびたびまねかれたのであった。

 だがそれをこころよおもわないものもおり、たとえばそばしゅう佐野さの右兵衛尉うひょうえのじょう茂承もちつぐおなじくそばしゅう小笠原おがさわら若狭守わかさのかみ信喜のぶよしなどはその筆頭ひっとうであった。

 佐野さの茂承もちつぐにしろ、小笠原おがさわら信喜のぶよしにしろ、そばしゅうの、それも筆頭ひっとうたる用取次ようとりつぎとして家基いえもと側近そっきん自認じにんしており、にもかかわらず、家基いえもと佐野さの茂承もちつぐ小笠原おがさわら信喜のぶよしを、

差置さしおいて…」

 意知おきともしたしく語合かたりあさま面白おもしろくなかったのであった。よう嫉妬しっとであった。

 そこで意知おきとも西之丸にしのまるへとあしれることを、つまりは家基いえもと接触せっしょくするのをなんとしてでも阻止そし、と言うよりは妨害ぼうがいせんと、佐野さの茂承もちつぐにしろ小笠原おがさわら信喜のぶよしにしろ、そのよう姦計かんけいめぐらしたものだが、それを身体からだって阻止そししたのが長谷川はせがわ平蔵へいぞうであったのだ。

 平蔵へいぞう意知おきともの「SP」として、家基いえもとぜんまで案内あんないすることで、佐野さの茂承もちつぐ小笠原おがさわら信喜のぶよしの「姦計かんけい」は打砕うちくだかれた。

 もっとも、平蔵へいぞうとて純粋じゅんすい意知おきともためうごいたわけではない。

「ここで意知おきともおんっておけば、ゆくゆくおのれ出世しゅっせやくつ…」

 そんな打算ださんから、意知おきともの「SP」をってたのであった。

 いや、それ以上いじょうに、次期じき将軍しょうぐんたる家基いえもとにもかおおぼえてもらえることにもなり、つまりはそれだけ確実かくじつ出世しゅっせつながる。

 かくして、意知おきとも平蔵へいぞうしたしく付合つきあようになった。

 意知おきとも平蔵へいぞうの「結婚けっこん記念日きねんび」がしくもおなであったことも、一層いっそう意知おきとも平蔵へいぞう距離きょりちぢめることになった。

 意知おきともいまつま義姫よしひめ祝言しゅうげんげたのは明和6(1769)年12月15日のことであったが、この平蔵へいぞうもまた、大橋おおはし與惣兵衛よそべえ親英ちかひで三女さんじょ靜榮しずえ祝言しゅうげんげていたのだ。

 意知おきともがまだ、平蔵へいぞうしたしく付合つきあようになるまえはなしであり、無論むろん、ただの偶然ぐうぜんであった。

 だが平蔵へいぞうはこの偶然ぐうぜんをも奇貨チャンスえた。

 平蔵へいぞう意知おきともしたしく付合つきあようになると、「結婚けっこん記念日きねんび」である12月15日には意知おきともいわいのしなおくようになったのだ。それも意知おきともではなく、妻女さいじょよしこのみそうなしなおくった。

 平蔵へいぞう意知おきともしたしくなると同時どうじに、その妻女さいじょであるよしともしたしくなろうと、そうかんがえて、そこで「結婚けっこん記念日きねんび」を利用りようして、よし贈物プレゼントを、たとえば反物たんものなどをかさなかったのだ。

 これもまた、立身出世りっしんしゅっせ目論もくろんでのことであった。意知おきとも愛妻家あいさいかであるのを平蔵へいぞう見逃みのがさなかったからだ。

 だがそのよし去年きょねんの天明2(1782)年6月に、6月20日にしゅっしてしまった。

 ここで数多あまた普通ふつうものならば、それっきりであろう。最早もはや結婚けっこん記念日きねんび贈物プレゼントをすることもあるまい。

 だが平蔵へいぞうちがった。今度こんどなんと、よし命日めいにち照準しょうじゅんわせ、今年ことし、天明3(1783)年の6月20日には平蔵へいぞう破格はかく香典こうでんつつんだのであった。

 これも無論むろん究極的きゅうきょくてきには出世しゅっせためであった。

 意知おきともとて、それはひゃく承知しょうちしていたが、しかしそれでもなお平蔵へいぞう厚意こうい素直すなお感謝かんしゃした。

 意知おきともが「相棒あいぼう」として平蔵へいぞうかおおもかべたのはかる次第しだいによる。

 しかも平蔵へいぞう意知おきともとはちがって探索たんさくにもつうじているものとおもわれる。

 それと言うのも平蔵へいぞうちち長谷川はせがわ備中守びっちゅうのかみ宣雄のぶお先手弓頭さきてゆみがしらとして火附ひつけ盗賊とうぞくあらためかた兼務けんむし、火附ひつけ盗賊とうぞくあらためかたとしておおくの手柄てがらて、遠国おんごく奉行ぶぎょうなかでも長崎ながさき奉行ぶぎょう京都きょうと町奉行まちぶぎょうへと立身りっしんげたまさ立志伝中りっしでんちゅうじんであり、平蔵へいぞうはそのせがれとして、ちち宣雄のぶお背中せなか間近まぢかてきただけに、

探索たんさくにもきっとつうじているはず…」

 意知おきともはそうかんがえ、平蔵へいぞうを「相棒あいぼう」としておもさだめた。

 翌日よくじつ―、10月25日に意知おきとも奏者番そうじゃばんとしての仕事しごとえて神田橋かんだばし門内もんないにある屋敷やしきへと帰宅きたくすると、かみしもはかま脱捨ぬぎすて、着流きながしへと変身へんしんした。

 意知おきともはそのうえで、裏口うらぐちより屋敷やしきようとしたところで、意知おきとも附属ふぞくする家臣かしん村上むらかみ半左衛門はんざえもんより呼止よびとめられた。

「どちらへ、おはこびへ?」

 村上むらかみ半左衛門はんざえもん意知おきともさきたずねた。

 意知おきとも一瞬いっしゅんこたえるのを躊躇ためらった。なにしろこと秘密ひみつようするからだ。仮令たとえ家臣かしんであろうとも、おいそれとかせない。

 だがここで下手へたかくてすれば、半左衛門はんざえもん勘繰かんぐられるおそれがあった。

 そこで意知おきとも正直しょうじき打明うちあけることにした。

「うん…、久方ひさかたぶりに平蔵へいぞうさん…、いや、長谷川はせがわ殿どのかおおがもうとおもうてな…、いや、これからは中々なかなかうことも、ままならないであろうから…」

 意知おきともおのれ若年寄わかどしより内定ないていしたことは村上むらかみ半十郎はんじゅうろうにも打明うちあけていたので、半十郎はんじゅうろうもそれで、「ああ」と合点がてんがいった様子ようすであった。

 成程なるほどいまよう一介いっかい奏者番そうじゃばんならばいざらず、若年寄わかどしよりともなればそう気軽きがる出歩であるくこともままならないであろう。

 ましてや着流きながしで出歩であるくなど、不可能ふかのうとは言わないにしても、やはりままならない。

 そこで若年寄わかどしよりまえ息抜いきぬきかと、村上むらかみ半十郎はんじゅうろう合点がてんしたのだ。

 意知おきとも長谷川はせがわ平蔵へいぞうしたしくしていることも、半十郎はんじゅうろう承知しょうちしていたからだ。

 半十郎はんじゅうろう意知おきとも期待きたいしたとおり、意知おきとも言葉ことば額面通がくめんどお受取うけとったようで、

「それではおをつけて…」

 なんうたがいもなく意知おきとも送出おくりだしたのであった。

 意知おきとも半十郎はんじゅうろうのこの反応はんのうに、下手へたかくてしなくてかったと、心底しんそこむねろしたものである。

 これでかり下手へたかくてしようものなら、半十郎はんじゅうろうのことである、

ともつかまつりたい…」

 などと言出いいだしかねないからだ。

 さて、意知おきとも着流きながしで神田橋かんだばし門外もんそとへとると右折うせつし、鎌倉かまくら河岸かし沿ってあるいた。

 意知おきともはそれから竜閑橋りゅうかんばしわたって、常盤橋ときわばし門外もんそとたる日本橋にほんばし本町ほんちょうにて今度こんど左折させつした。

 その意知おきともさら人形にんぎょう丁通ちょうどおり竈川岸へっついがし入江いりえばし濱町川岸はまちょうがし組合橋くみあいばしえて新大橋しんおおはしまえ廣小路ひろこうじ辿たどいた。

 そして新大橋しんおおはしわたれば、平蔵へいぞう屋敷やしきがある本所深川ほんじょふかがわである。

 その新大橋しんおおはしわたって本所深川ほんじょふかがわて、猿子橋さるこばしわたり、そのまま真直まっすすすむと、新治郡にいはりぐん府中ふちゅうはん下屋敷しもやしき突当つきあたる。

 府中藩ふちゅうはん下屋敷しもやしき門前もんぜん左折させつし、しばらあるくとようやくに、長谷川はせがわ平蔵へいぞう屋敷やしき辿たどく。

 意知おきとも平蔵へいぞう屋敷やしきいたのはひるの八つ半(午後3時頃)であった。

 意知おきとも期待きたいしたとおり、平蔵へいぞうさいわいにして在宅ざいたくであった。

 平蔵へいぞう西之丸にしのまる盟主めいしゅが、すなわ次期じき将軍しょうぐん家基いえもとから家斉いえなりへとわったのち引続ひきつづき、西之丸にしのまる書院番しょいんばんとして西之丸にしのまるにてつかえていた。

 そうであれば宿直とのいのケースもありたが、平蔵へいぞう場合ばあい進物番しんもつばん兼務けんむしていたので、宿直とのい免除めんじょされていた。

 進物しんもつ贈答ぞうとうがかり、つまりは賄賂わいろ受取うけとりがかりである進物番しんもつばん書院番しょいんばんならびに小姓こしょう組番ぐみばん所謂いわゆる両番りょうばんからの出役しゅつやくであり、この進物番しんもつばんえらばれると日々ひび番士ばんしとしての宿直とのいからは解放かいほうされる。進物番しんもつばんとしての職務しょくむ専念せんねんさせるためであった。

 意知おきとももそれは承知しょうちしていたので、今時分いまじぶんならば平蔵へいぞう在宅ざいたくだろうと期待きたいしていたのだ。

 一方いっぽう平蔵へいぞう不意ふい意知おきとも来訪らいほうおどろいたものの、それでも歓待かんたいした。

 平蔵へいぞう意知おきとも奥座敷おくざしきへと案内あんないすると、上座かみざすすめたが、しかし、意知おきともはそれを峻拒しゅんきょした。

今日きょう平蔵へいぞうさんにたのみがあるゆえに、上座かみざすわわけにはまいらぬによって…」

 平蔵へいぞう意知おきともたいして、おのれのことは呼捨よびすてにしてもらってかまわないとげていたものの、意知おきともは3つも年上としうえ平蔵へいぞう遠慮えんりょして、「さんけ」であった。

 いや、意知おきとも元々もともとは「平蔵殿へいぞうどの」と、殿とのけてんでいたのだ。それを、「さん」に敬称けいしょう格下かくさげしたわけで、意知おきともとしてはこのうえさら呼捨よびすてになど出来できなかった。

 ともあれ、上座かみざ拝辞はいじした意知おきとも客座きゃくざこし落着おちつけたために、平蔵へいぞう下座げざまぬがれた。

 意知おきとも平蔵へいぞう相対そうたいしたところで、平蔵へいぞう妻女さいじょ靜榮しずえとその小姑こじゅうと―、平蔵へいぞう義理ぎりあねりょう茶菓子ちゃがしはこんでた。

 りょうじつ駿府すんぷまち奉行ぶぎょうつとめた朝倉あさくら仁左衛門じんざえもん景増かげます次女じじょであり、それを平蔵へいぞうちち長谷川はせがわ宣雄のぶお養女ようじょとしてもらけ、平蔵へいぞうともに、

へだてなく…」

 そだてられたのであった。

 そうしてりょう宣雄のぶお養女ようじょとして旗本はたもと三宅みやけ半左衛門はんざえもん徳屋のりいえの許《もと》へとした。それが宝暦元(1751)年、りょうかぞえで18歳の時であった。

 だが三宅みやけ半左衛門はんざえもんりょう結婚生活けっこんせいかつは2年にたないものであり、宝暦3(1753)年にりょうおっと半左衛門はんざえもんてられ、実家じっかであるここ、長谷川はせがわ出戻でもどったのだ。

 いや、りょう朝倉あさくら仁左衛門じんざえもん次女じじょであるので、実家じっかうならば、朝倉あさくらこそが実家じっかえよう。

 しかし、そのとき―、宝暦3(1753)年の時点じてんではまだ、りょう実父じっぷ朝倉あさくら仁左衛門じんざえもん景増かげます存命ぞんめいであり、りょう出戻でもどるになん差支さしつかえはないようにもおもえた。

 だが、嫡子ちゃくしにして、りょう実兄じっけいである仁左衛門じんざえもん光景てるかげ妻女さいじょめとっており、そこへりょう出戻でもどれば、その妻女さいじょにしてみれば小姑こじゅうと一人ひとりえることになり、それではりょうにとっても、妻女さいじょにとっても窮屈きゅうくつであるのは間違まちがいない。

 養父ようふ宣雄のぶおかる朝倉あさくら事情じじょう承知しょうちしていたので、そこで宣雄のぶおりょうおもんぱかって、長谷川はせがわにてりょう引取ひきとることにしたのだ。

 それは宣雄のぶお先手弓頭さきてゆみがしら昇進しょうしんしてから1年目のことであった。

 爾来じらいりょうはこの長谷川はせがわにてらしていた。

 このかん長谷川はせがわ当主とうしゅ宣雄のぶおから平蔵へいぞうへとわり、その平蔵へいぞう靜榮しずえなる妻女さいじょむかえたが、しかし、りょう窮屈きゅうくつおもいをすることはなく、それはひとえに、靜榮しずえ小姑こじゅうとであるりょうつかえていたからだ。

 一方いっぽうりょう靜榮しずえ配慮はいりょ心底しんそこ感謝かんしゃし、そのよう靜榮しずえむくいるべく、靜榮しずえ平蔵へいぞうとのあいだにもうけた子女しじょじつよういつくしんだ。

 さて、りょう意知おきともの、靜榮しずえ夫君ふくん平蔵へいぞう夫々それぞれ給仕きゅうじになうと、平蔵へいぞう二人ふたり目配めくばせし、すると靜榮しずえりょう心得こころえたもので、そのをあとにした。

 意知おきともふたたび、平蔵へいぞう二人ふたりきりになると、「じつ内密ないみつはなしがあって…」と切出きりだした。

 すると平蔵へいぞう右手みぎてかかげて意知おきともせいしたかとおもうと、靜榮しずえりょうとも退出たいしゅつするさいじた障子しょうじもとより、ふすまをもけたのだ。

内談ないだんさいにはこれにかぎりますゆえ…」

 平蔵へいぞう部屋へやすべてのはなつと、意知おきともにそうげた。

 成程なるほど内談ないだん密談みつだんをするには部屋へや開放的かいほうてきにするのが一番いちばんであった。

 そのほうかえって立聞たちぎき、ぬすきされたりする危険性リスク軽減けいげんさせるからだ。

 部屋へや開放的かいほうてきはなたれた状態じょうたいでは立聞たちぎき、ぬすきしようにも、ぐにバレるからだ。

 それゆえ御城えどじょう本丸ほんまるにある老中ろうじゅう執務室しつむしつであるうえよう部屋べやや、若年寄わかどしよりのそれであるつぎよう部屋べやもその「原理げんり」にもとづいて、普段ふだんふすま障子しょうじすべ取外とりはずされており、じつ開放的かいほうてき空間くうかんであった。

 ともあれ平蔵へいぞう部屋へやを「開放的かいほうてき」にしたところで、意知おきとも取直とりなおして、ふたたび「じつは…」とくちにすると、まずはおのれ若年寄わかどしより内定ないていしたことから切出きりだした。

 それにたいして平蔵へいぞう流石さすがおどろいた様子ようすかべた。

 意知おきともはまだ家督かとく相続前そうぞくまえ所謂いわゆる部屋へやずみであり、それが若年寄わかどしより就任しゅうにんするとは前代未聞ぜんだいみもんと言え、平蔵へいぞうおどろくのも無理むりはなかった。

 だが平蔵へいぞうぐに納得なっとくした面持おももちとなった。

僭越せんえつながら…、意知様おきともさま奏者番そうじゃばんとして大層たいそう活躍かつやくにて、さればいずれはその筆頭ひっとう奉行ぶぎょう…、寺社じしゃ奉行ぶぎょうか、あるいはおん若年寄わかどしよりさまへと、おすすみあそばされるものとおもうておりました…」

 平蔵へいぞう意知おきともをそう持上もちあげてみせた。いや、平蔵へいぞういつわらざる本心ほんしんであり、意知おきとももそれはかっていたのでなんともくさく、居心地いごこちわるかった。

かたじけない…」

 意知おきとも平蔵へいぞうの「ヨイショ」を額面通がくめんどおりに受取うけとり、まずはそう謝意しゃいくちにすると、

「いや、それがそうよろこんでばかりもいられないのだ…」

 意知おきとも表情ひょうじょう引締ひきしめ、そうげたのだ。

 すると平蔵へいぞう意知おきともにつられて表情ひょうじょう引締ひきしめると、

「とおおせられますと?」

 意知おきともいま言葉ことば真意しんいうた。

 そこで意知おきともは2年前の天明元(1781)年12月、一人ひとりだけ奏者番そうじゃばんにんじられたさい将軍しょうぐん家治いえはるより「耳打みみうち」されたこととして、

意知おきともには若年寄わかどしよりとして家基いえもと真相しんそう…、毒殺どくさつ真相しんそう解明ときあかしてしいのだ…、それにから池原いけはら良明よしあきら刺殺事件しさつじけんさらには戸田とだ要人かなめ水死事件すいしじけんについても…」

 それゆえ若年寄わかどしよりへとすすませるべく、その前段階ぜんだんかいとして奏者番そうじゃばん取立とりたてるのだと、意知おきとも将軍しょうぐん家治いえはるより「耳打みみうち」された、おのれ奏者番そうじゃばん取立とりたてた真意しんい平蔵へいぞうつたえたうえで、かる一連いちれん事件じけん概要がいようについてもい摘《つま》んで説明せつめいしたのだ。

 平蔵へいぞういままでにないほどおどろきをおぼえたものの、しかしそれからぐに、

「ストンと…」

 むねちるものがあった。

 長谷川はせがわ平蔵へいぞう水谷勝久みずのやかつひさ番頭ばんがしらつとめる4番組ばんぐみ書院番しょいんばんとして、家基いえもと最期さいご鷹狩たかがりに扈従こしょうし、しかも拍子木役ひょうしぎやくという大役たいやくまでつとめたのだが、うれしさよりも疑問ぎもんほうさきった。

 それと言うのも書院番しょいんばんで言えば、本来ほんらいは1番組ばんぐみ家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうすべきところであったからだ。

 だが意知おきともいまはなしいて、平蔵へいぞう疑問ぎもん氷解ひょうかいした。

 成程なるほど、その当時とうじ―、安永8(1779)年における西之丸にしのまる書院番しょいんばんなかでも平蔵へいぞうぞくしていた4番組ばんぐみには三卿さんきょう清水しみず所縁ゆかりのあるものおおぞくしており、それにけたおなじく三卿さんきょう一橋ひとつばし治済はるさだおのれ家基いえもとわる次期じき将軍しょうぐんとなるべく家基いえもと始末しまつし、しかもそのつみ天下謀叛てんがむほんとも言うべき大罪たいざい清水しみず重好しげよしかずくべく、そこで家基いえもとには鷹狩たかがりの途中とちゅう効目ききめあらわれる遅効性ちこうせい毒物どくぶつあたえると同時どうじに、その鷹狩たかがりに書院番しょいんばんよりは清水しみず所縁ゆかりものおおふくまれている4番組ばんぐみ扈従こしょうさせることで、家基いえもといやったのが、さも清水しみず重好しげよしであるかのよう周囲しゅういおもわせようとした…。

 辻褄つじつまうが、しかしなん証拠しょうこはなかった。

 いや、それ以前いぜん遅効性ちこうせい毒物どくぶつなんであるかも判然はんぜんとしていない。

 これでは一橋ひとつばし治済はるさだの「兇行きょうこう」として、治済はるさだを「断罪だんざい」することさえ不可能ふかのうであった。重好しげよしにもまた、おなじことが、すなわち、

清水しみず重好しげよし家基いえもとってわろうとたくらみ、おのれ所縁ゆかりのあるもの使嗾しそうして、鷹狩たかがりの利用りようして家基いえもと毒殺どくさつした…」

 その可能性かのうせい完全かんぜんくなったわけではないからだ。

 無論むろん家治いえはるとて、腹違はらちがいとは言え、おとうと重好しげよし次期じき将軍しょうぐんねらって家基いえもと毒殺どくさつしたなどとはおもってもいなかった。

 だが重好しげよし立場たちば治済はるさだおなじである以上いじょう治済はるさだへの疑惑ぎわく立証りっしょうされないかぎりは、重好しげよしへの疑惑ぎわく払拭ふっしょくするわけにはゆかなかった。

 そこで家治いえはる家基いえもとわる次期じき将軍しょうぐんとして、治済はるさだ一子いっし豊千代とよちよえらんだのであった。

 一応いちおう表向おもてむきこそ意次おきつぐ推挙すいきょとの体裁ていさいってはいたが、実際じっさいには家治いえはる裁断さいだん親裁しんさいによる。

 家治いえはるより家基いえもとわる次期じき将軍しょうぐん選定せんていまかされた意次おきつぐじつは、まず清水しみず重好しげよし第一だいいち候補こうほげ、いで一橋ひとつばし治済はるさだ、そのそく豊千代とよちよじゅんげたのであった。

 すると家治いえはるえて第三だいさん候補こうほぎなかった一橋ひとつばし豊千代とよちよえらんだのであった。

 かり一橋ひとつばし治済はるさだの「大罪たいざい」が立証りっしょうされようものなら、そうとはらずに治済はるさだ次期じき将軍しょうぐんえらんだ家治いえはるは、

ころした張本人ちょうほんにん次期じき将軍しょうぐんえたおお間抜まぬけ…」

 ということになる。

 同様どうように、清水しみず重好しげよしえらんだ場合ばあいにもまる。

 まんひとつもありないとはおもうが、重好しげよし次期じき将軍しょうぐんえらんでから、やはり家基いえもと毒殺どくさつした首魁しゅかいだったとすれば、家治いえはるはやはり、「おお間抜まぬけ」ということになる。

 そこで次善じぜんさくとして、家治いえはる治済はるさだ一子いっし豊千代とよちよ次期じき将軍しょうぐんえらんだのだ。

 これならば、かり治済はるさだの「大罪たいざい」が立証りっしょうされたとしても、「おお間抜まぬけ」とのそしりからはまぬがれよう。

 そして無論むろん、そのときには豊千代とよちよこと家斉いえなりとの養子ようし縁組えんぐみ解消かいしょうするつもりであった。つまりは次期じき将軍しょうぐん剥奪はくだつするつもりであった。

 やはりこのことも、意知おきとも奏者番そうじゃばん就任しゅうにんおり将軍しょうぐん家治いえはるより「耳打みみうち」されたことで、それをそのまま平蔵へいぞうつたえた。

平蔵へいぞうさん…、いや、長谷川はせがわ殿どの何卒なにとぞ、この意知おきともちからしてもらいたい…」

 意知おきともまえならべられた茶菓子ちゃがしわきけると、両手りょうてたたみいてあたまげたのであった。

 これにはさしもの平蔵へいぞうあわてた。

意知様おきともさま何卒なにとぞあたまを、おげになってくださりませ…」

 平蔵へいぞうはそう懇願こんがんした。大名だいみょう子息しそくあたまげさせては、それもいまときめく老中ろうじゅう田沼たぬま意次おきつぐそくあたまげさせては勿体もったいい、どころか恐怖きょうふでしかなかった。

 だが意知おきとも平蔵へいぞう懇願こんがんにもかかわらず、あたまげようとはしなかった。

 どうやら平蔵へいぞう意知おきともねがいを聞届ききとどけないかぎりは意知おきともあたまげるつもりはないらしかった。

 そこで平蔵へいぞうは「承知しょうちつかまつりました」とおうじたことから、意知おきともようやくにあたまげた。

 それでも平蔵へいぞうは、

「なれど…、この長谷川はせがわ平蔵へいぞう探索たんさくにかけましては、けっしてつうじているわけではござりませぬゆえ…」

 意知おきともにそうくぎすことをわすれなかった。つまりは、

あまり、期待きたいしないでしい…」

 というわけである。

 だがそれを意知おきともかぶりって受流うけながした。

なんの…、長谷川はせがわ殿どの…、平蔵殿へいぞうどの名奉行めいぶぎょうほまれだか宣雄のぶおさまいておられれば…」

 たしかに、平蔵へいぞうちち宣雄のぶお京都きょうとまち奉行ぶぎょうとして名奉行めいぶぎょう評判ひょうばんた。

 それゆえ平蔵へいぞうもその宣雄のぶお貴重きちょういているだけに、探索たんさくにかけては生来せいらい才能さいのうがあると、意知おきともはそう言いたいらしい。

 平蔵へいぞうはこのうえ最早もはや意知おきともなにを言ってみたところで、馬耳東風ばじとうふうちがいないとあきらめ、それでも「交換こうかん条件じょうけん」と言うわけでもないが、

何卒なにとぞ、これまでどおり、平蔵へいぞうと、おくださりませ…」

 今度こんど平蔵へいぞう懇願こんがんするばんであった。

 正確せいかくには意知おきとも平蔵へいぞうを「さんけ」でび、それにたいして意知おきともおのれのことを官職かんしょくめいではなく、そのいみなである「意知おきとも」のんでくれるようたのみ、たがいにそうっていたのだ。

 意知おきとも平蔵へいぞうのこのねがいは聞届ききとどけ、

「それでは平蔵へいぞうさん、よろしくたのむ…」

 意知おきともあらためて平蔵へいぞうにそうたのんだのであった。

承知しょうちつかまつりました…」

 平蔵へいぞうもそうおうじたものの、ひとつだけたしかめることがあった。

「されば…、この平蔵へいぞう意知様おきともさま片腕かたうでとしてはたらきますことに、上様うえさまたして如何いかに…」

 平蔵へいぞうはそれがになって仕方しかたなかった。

 いや、家基いえもとおおいにられていたとの自負じふがある平蔵へいぞうである。その家基いえもと実父じっぷである将軍しょうぐん家治いえはるからもおおいにられているにちがいないと、そうしんじてうたがわなかったが、しかし、じか家治いえはるたしかめてみたわけではない。

 それゆえ意知おきともおのれ探索たんさく片腕かたうで、もとい「相棒あいぼう」としてえらんだことに、家治いえはるたして如何いかなる反応はんのうしめすか、それが平蔵へいぞうには気懸きがかりであった。

 すると意知おきとも平蔵へいぞうのそのよう不安ふあん看取かんしゅすると、

「されば此度こたび探索たんさくについてはこの意知おきとも上様うえさまより全権ぜんけん委任いにんされているによってあんずることはない…、無論むろん平蔵へいぞうさんに探索たんさくたのんだことは上様うえさまにも事後じご報告ほうこくつかまつらねばならぬが、なれど平蔵へいぞうさんなれば、上様うえさまとてきっと、おおいに満足まんぞくされるはず…」

 意知おきとも平蔵へいぞうにそう太鼓判たいこばんした。あん平蔵へいぞう家治いえはるからもられていると示唆しさしたのだ。

 それで平蔵へいぞう安堵あんどした。

 こうして意知おきとも用件ようけんませると、長谷川はせがわ辞去じきょした。

 かえぎわ意知おきとも平蔵へいぞう嫡子ちゃくし辰蔵宣義たつぞうのぶのりと、それに長女ちょうじょにして辰蔵たつぞう直下すぐしたいもうとであるしげ挨拶あいさつけた。

 辰蔵たつぞう意知おきとも嫡子ちゃくし龍助りゅうすけよりも3歳年上としうえであり、しげ龍助りゅうすけおなどしであった。

 それゆえ意知おきともが「おしのび」で龍助りゅうすけれてここ長谷川はせがわあしはこんださいには辰蔵たつぞうしげ龍助りゅうすけあそ相手あいてつとめてくれる。

 去年きょねんよりは辰蔵たつぞう龍助りゅうすけけん相手あいてもしてくれるようにもなった。

「いや、辰蔵殿たつぞうどの、いつにても当家とうけへとあそびにまいられよ…、そのおりにはまた、龍助りゅうすけ相手あいてをしてやってもらいたい…」

 意知おきとも辰蔵たつぞうにそうたのむと、辰蔵たつぞうも「承知しょうちつかまつりました」と即答そくとうした。

 辰蔵たつぞうもまた、ちち平蔵へいぞういており眉目びもく秀麗しゅうれいであり、将来しょうらいたのしみであった。

「ああ、それから紹殿つぐどの銕五郎てつごろう殿どのにもよろしく…」

 意知おきとも平蔵へいぞうにそう言伝ことづてをし、長谷川はせがわをあとにした。

 つぐとは平蔵へいぞう次女じじょであり、一方いっぽう銕五郎てつごろうとは次男じなんにしてすえ銕五郎てつごろう正以まさためであった。

 つぐは3年前の安永9(1780)年に出生しゅっしょうし、銕五郎てつごろうはその翌年よくねんの、しかも意知おきとも奏者番そうじゃばん取立とりたてられたまさにその、天明元(1781)年12月15日に出生しゅっしょうした。

 つぐかぞえで4歳、銕五郎てつごろうかぞえで3歳であり、いまともあそつかれてていた。
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