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朋友・長谷川平蔵 ~意知は平蔵を「相棒」に選ぶ~
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「さて、これからどう動くべきか…」
意知はそう頭を悩ませると、やがて一人の男の顔を思い浮かべた。
「やはりここは…、平蔵さんを頼るしかあるまい…」
平蔵さん、こと長谷川平蔵宣以の顔を思い浮かべたのであった。
長谷川平蔵とは、西之丸にて書院番士として仕える旗本であり、家基が西之丸の主であった折には、西之丸へと召されることの多かった意知の案内役を務めたものである。
進取の気性に富んでいた家基は同じく進取の気性に富み、海外事情に通じていた意知とは気が合い、家基は意知の話を求めて、屡、西之丸へと意知を召出したものであった。
その際、意知の案内役を買って出たのが西之丸書院番士の長谷川平蔵であった。
その頃はまだ、意知は奏者番ではなく、しかし、老中・田沼意次の息として、御城本丸の雁間詰であり、それが次期将軍たる家基の思召しにより、その居城とも言うべき西之丸へと度々、招かれたのであった。
だがそれを快く思わない者もおり、例えば御側衆の佐野右兵衛尉茂承や同じく御側衆の小笠原若狭守信喜などはその筆頭であった。
佐野茂承にしろ、小笠原信喜にしろ、御側衆の、それも筆頭たる御用取次として家基の側近を自認しており、にもかかわらず、家基が佐野茂承や小笠原信喜を、
「差置いて…」
意知と親しく語合う様が面白くなかったのであった。要は嫉妬であった。
そこで意知が西之丸へと足を踏み入れることを、つまりは家基と接触するのを何としてでも阻止、と言うよりは妨害せんと、佐野茂承にしろ小笠原信喜にしろ、その様な姦計を巡らしたものだが、それを身体を張って阻止したのが長谷川平蔵であったのだ。
平蔵が意知の「SP」として、家基の御前まで案内することで、佐野茂承や小笠原信喜の「姦計」は打砕かれた。
尤も、平蔵とて純粋に意知の為に動いた訳ではない。
「ここで意知に恩を売っておけば、ゆくゆく己の出世に役に立つ…」
そんな打算から、意知の「SP」を買って出たのであった。
いや、それ以上に、次期将軍たる家基にも顔を覚えて貰えることにもなり、つまりはそれだけ確実に出世に繋がる。
かくして、意知は平蔵と親しく付合う様になった。
意知と平蔵の「結婚記念日」が奇しくも同じ日であったことも、一層、意知と平蔵の距離を縮めることになった。
意知が今は亡き妻・義姫と祝言を挙げたのは明和6(1769)年12月15日のことであったが、この日、平蔵もまた、大橋與惣兵衛親英の三女の靜榮と祝言を挙げていたのだ。
意知がまだ、平蔵と親しく付合う様になる前の話であり、無論、ただの偶然であった。
だが平蔵はこの偶然をも奇貨に変えた。
平蔵は意知と親しく付合う様になると、「結婚記念日」である12月15日には意知に祝いの品を贈る様になったのだ。それも意知ではなく、妻女の義が好みそうな品を贈った。
平蔵は意知と親しくなると同時に、その妻女である義とも親しくなろうと、そう考えて、そこで「結婚記念日」を利用して、義に贈物を、例えば反物などを欠かさなかったのだ。
これもまた、立身出世を目論んでのことであった。意知が愛妻家であるのを平蔵は見逃さなかったからだ。
だがその義も去年の天明2(1782)年6月に、6月20日に卒してしまった。
ここで数多、普通の者ならば、それっきりであろう。最早、結婚記念日に贈物をすることもあるまい。
だが平蔵は違った。今度は何と、義の命日に照準を合わせ、今年、天明3(1783)年の6月20日には平蔵は破格の香典を包んだのであった。
これも無論、究極的には出世の為であった。
意知とて、それは百も承知していたが、しかしそれでも尚、平蔵の厚意に素直に感謝した。
意知が「相棒」として平蔵の顔を思い浮かべたのは斯かる次第による。
しかも平蔵は意知とは違って探索にも通じているものと思われる。
それと言うのも平蔵の父、長谷川備中守宣雄は先手弓頭として火附盗賊改方を兼務し、火附盗賊改方として多くの手柄を立て、遠国奉行の中でも長崎奉行に次ぐ京都町奉行へと立身を遂げた正に立志伝中の御仁であり、平蔵はその倅として、父・宣雄の背中を間近に見てきただけに、
「探索にもきっと通じている筈…」
意知はそう考え、平蔵を「相棒」として思い定めた。
翌日―、10月25日に意知は奏者番としての仕事を終えて神田橋御門内にある屋敷へと帰宅すると、裃と袴を脱捨て、着流しへと変身した。
意知はその上で、裏口より屋敷を出ようとしたところで、意知に附属する家臣の村上半左衛門より呼止められた。
「どちらへ、お運びへ?」
村上半左衛門は意知に行き先を尋ねた。
意知は一瞬、答えるのを躊躇った。何しろ事は秘密を要するからだ。仮令、家臣であろうとも、おいそれと明かせない。
だがここで下手に隠し立てすれば、半左衛門に勘繰られる恐れがあった。
そこで意知は正直に打明けることにした。
「うん…、久方ぶりに平蔵さん…、いや、長谷川殿の顔を拝もうと思うてな…、いや、これからは中々に逢うことも、ままならないであろうから…」
意知は己が若年寄に内定したことは村上半十郎にも打明けていたので、半十郎もそれで、「ああ」と合点がいった様子であった。
成程、今の様に一介の奏者番ならばいざ知らず、若年寄ともなればそう気軽に出歩くこともままならないであろう。
ましてや着流しで出歩くなど、不可能とは言わないにしても、やはりままならない。
そこで若年寄に就く前の息抜きかと、村上半十郎は合点したのだ。
意知が長谷川平蔵と親しくしていることも、半十郎は承知していたからだ。
半十郎は意知が期待した通り、意知の言葉を額面通り受取った様で、
「それではお気をつけて…」
何の疑いもなく意知を送出したのであった。
意知は半十郎のこの反応に、下手に隠し立てしなくて良かったと、心底、胸を撫で下ろしたものである。
これで仮に下手に隠し立てしようものなら、半十郎のことである、
「御供、仕りたい…」
などと言出しかねないからだ。
さて、意知は着流しで神田橋御門外へと出ると右折し、鎌倉河岸に沿って歩いた。
意知はそれから竜閑橋を渡って、常盤橋御門外に当たる日本橋本町にて今度は左折した。
その後、意知は更に人形丁通、竈川岸、入江橋、濱町川岸、組合橋を越えて新大橋前の廣小路に辿り着いた。
そして新大橋を渡れば、平蔵の屋敷がある本所深川である。
その新大橋を渡って本所深川に出て、猿子橋を渡り、そのまま真直ぐ進むと、新治郡府中藩下屋敷に突当る。
府中藩下屋敷の門前を左折し、暫く歩くと漸くに、長谷川平蔵の屋敷に辿り着く。
意知が平蔵の屋敷に着いたのは昼の八つ半(午後3時頃)であった。
意知が期待した通り、平蔵は幸いにして在宅であった。
平蔵は西之丸の盟主が、即ち次期将軍が家基から家斉へと代わった後も引続き、西之丸書院番士として西之丸にて仕えていた。
そうであれば宿直のケースもあり得たが、平蔵の場合は進物番を兼務していたので、宿直は免除されていた。
進物の贈答掛、つまりは賄賂の受取係である進物番は書院番、並びに小姓組番の所謂、両番からの出役であり、この進物番に選ばれると日々の番士としての宿直からは解放される。進物番としての職務に専念させる為であった。
意知もそれは承知していたので、今時分ならば平蔵は在宅だろうと期待していたのだ。
一方、平蔵は不意の意知の来訪に驚いたものの、それでも歓待した。
平蔵は意知を奥座敷へと案内すると、上座を勧めたが、しかし、意知はそれを峻拒した。
「今日は平蔵さんに頼みがある故に、上座に座る訳には参らぬによって…」
平蔵は意知に対して、己のことは呼捨てにして貰って構わないと告げていたものの、意知は3つも年上の平蔵に遠慮して、「さん付け」であった。
いや、意知は元々は「平蔵殿」と、殿を付けて呼んでいたのだ。それを、「さん」に敬称を格下げした訳で、意知としてはこの上、更に呼捨てになど出来なかった。
ともあれ、上座を拝辞した意知は客座に腰を落着けた為に、平蔵も下座を免れた。
意知と平蔵が相対したところで、平蔵の妻女の靜榮とその小姑―、平蔵の義理の姉の亮が茶菓子を運んで来た。
亮は実は駿府町奉行を勤めた朝倉仁左衛門景増の次女であり、それを平蔵が父・長谷川宣雄が養女として貰い受け、平蔵と共に、
「別け隔てなく…」
育てられたのであった。
そうして亮は宣雄の養女として旗本・三宅半左衛門徳屋の許《もと》へと嫁した。それが宝暦元(1751)年、亮が数えで18歳の時であった。
だが三宅半左衛門と亮の結婚生活は2年に満たないものであり、宝暦3(1753)年に亮は夫・半左衛門に棄てられ、実家であるここ、長谷川家に出戻ったのだ。
いや、亮は朝倉仁左衛門の次女であるので、実家と言うならば、朝倉家こそが実家と言えよう。
しかし、その時―、宝暦3(1753)年の時点ではまだ、亮の実父・朝倉仁左衛門景増は存命であり、亮が出戻るに何ら差支えはないようにも思えた。
だが、嫡子にして、亮の実兄である仁左衛門光景が妻女を娶っており、そこへ亮が出戻れば、その妻女にしてみれば小姑が一人増えることになり、それでは亮にとっても、妻女にとっても窮屈であるのは間違いない。
養父の宣雄も斯かる朝倉家の事情は承知していたので、そこで宣雄は亮の身を慮って、長谷川家にて亮を引取ることにしたのだ。
それは宣雄が先手弓頭に昇進してから1年目のことであった。
爾来、亮はこの長谷川家にて暮らしていた。
この間、長谷川家の当主は宣雄から平蔵へと代わり、その平蔵は靜榮なる妻女を迎えたが、しかし、亮が窮屈な思いをすることはなく、それは偏に、靜榮が小姑である亮に良く仕えていたからだ。
一方、亮も靜榮の配慮に心底、感謝し、その様な靜榮に報いるべく、靜榮が平蔵との間にもうけた子女を実の子の様に愛しんだ。
さて、亮が意知の、靜榮が夫君、平蔵の夫々、給仕を担うと、平蔵は二人に目配せし、すると靜榮も亮も心得たもので、その場をあとにした。
意知は再び、平蔵と二人きりになると、「実は内密の話があって…」と切出した。
すると平蔵は右手を掲げて意知を制したかと思うと、靜榮が亮と共に退出する際に閉じた障子は元より、襖をも開けたのだ。
「内談の際にはこれに限ります故…」
平蔵は部屋の全ての戸を開け放つと、意知にそう告げた。
成程、内談、密談をするには部屋を開放的にするのが一番であった。
その方が却って立聞き、盗み聞きされたりする危険性を軽減させるからだ。
部屋が開放的、開け放たれた状態では立聞き、盗み聞きしようにも、直ぐにバレるからだ。
それ故、御城本丸にある老中の執務室である上御用部屋や、若年寄のそれである次御用部屋もその「原理」に基づいて、普段は襖や障子は全て取外されており、実に開放的な空間であった。
ともあれ平蔵が部屋を「開放的」にしたところで、意知は気を取直して、再び「実は…」と口にすると、まずは己が若年寄に内定したことから切出した。
それに対して平蔵も流石に驚いた様子を浮かべた。
意知はまだ家督相続前、所謂、部屋住の身であり、それが若年寄に就任するとは前代未聞と言え、平蔵が驚くのも無理はなかった。
だが平蔵は直ぐに納得した面持ちとなった。
「僭越ながら…、意知様は御奏者番として大層な御活躍にて、さればいずれはその筆頭の御奉行…、寺社御奉行か、或いは御若年寄様へと、お進みあそばされるものと思うておりました…」
平蔵は意知をそう持上げてみせた。いや、平蔵の偽らざる本心であり、意知もそれは分かっていたので何とも照れ臭く、居心地が悪かった。
「忝い…」
意知は平蔵の「ヨイショ」を額面通りに受取り、まずはそう謝意を口にすると、
「いや、それがそう喜んでばかりもいられないのだ…」
意知は表情を引締め、そう告げたのだ。
すると平蔵も意知につられて表情を引締めると、
「と仰せられますと?」
意知の今の言葉の真意を問うた。
そこで意知は2年前の天明元(1781)年12月、一人だけ奏者番に任じられた際に将軍・家治より「耳打ち」されたこととして、
「意知には若年寄として家基の死の真相…、毒殺の真相を解明かして欲しいのだ…、それに絡む池原良明刺殺事件、更には戸田要人水死事件についても…」
それ故に若年寄へと進ませるべく、その前段階として奏者番に取立てるのだと、意知は将軍・家治より「耳打ち」された、己を奏者番に取立てた真意を平蔵に伝えた上で、斯かる一連の事件の概要についても掻い摘《つま》んで説明したのだ。
平蔵は今までにない程の驚きを覚えたものの、しかしそれから直ぐに、
「ストンと…」
胸に落ちるものがあった。
長谷川平蔵も水谷勝久が番頭を勤める4番組の書院番士として、家基の最期の鷹狩りに扈従し、しかも拍子木役という大役まで勤めたのだが、嬉しさよりも疑問の方が先に立った。
それと言うのも書院番で言えば、本来は1番組が家基の鷹狩りに扈従すべきところであったからだ。
だが意知の今の話を聞いて、平蔵の疑問も氷解した。
成程、その当時―、安永8(1779)年における西之丸の書院番の中でも平蔵が属していた4番組には御三卿の清水家に所縁のある者が多く属しており、それに目を付けた同じく御三卿の一橋治済が己が家基に代わる次期将軍となるべく家基を始末し、しかもその罪、天下謀叛とも言うべき大罪を清水重好に被くべく、そこで家基には鷹狩りの途中で効目が現れる遅効性の毒物を与えると同時に、その鷹狩りに書院番よりは清水家に所縁の者が多く含まれている4番組を扈従させることで、家基を死に追いやったのが、さも清水重好であるかの様に周囲に思わせようとした…。
辻褄は合うが、しかし何ら証拠はなかった。
いや、それ以前に遅効性の毒物が何であるかも判然としていない。
これでは一橋治済の「兇行」として、治済を「断罪」することさえ不可能であった。重好にもまた、同じことが、即ち、
「清水重好が家基に取って代わろうと企み、己に所縁のある者を使嗾して、鷹狩りの機を利用して家基を毒殺した…」
その可能性も完全に無くなった訳ではないからだ。
無論、家治とて、腹違いとは言え、弟の重好が次期将軍の座を狙って我が子・家基を毒殺したなどとは思ってもいなかった。
だが重好の立場は治済と同じである以上、治済への疑惑が立証されない限りは、重好への疑惑を払拭する訳にはゆかなかった。
そこで家治は家基に代わる次期将軍として、治済の一子、豊千代を選んだのであった。
一応、表向きこそ意次の推挙との体裁を取ってはいたが、実際には家治の裁断、親裁による。
家治より家基に代わる次期将軍の選定を任された意次は実は、まず清水重好を第一候補に挙げ、次いで一橋治済、その息・豊千代の順で挙げたのであった。
すると家治は敢えて第三候補に過ぎなかった一橋豊千代を選んだのであった。
仮に一橋治済の「大罪」が立証されようものなら、そうとは知らずに治済を次期将軍に選んだ家治は、
「我が子を殺した張本人を次期将軍に据えた大間抜…」
ということになる。
同様に、清水重好を選んだ場合にも当て嵌まる。
万に一つもあり得ないとは思うが、重好を次期将軍に選んでから、やはり家基を毒殺した首魁だったとすれば、家治はやはり、「大間抜け」ということになる。
そこで次善の策として、家治は治済の一子、豊千代を次期将軍に選んだのだ。
これならば、仮に治済の「大罪」が立証されたとしても、「大間抜け」との誹りからは免れよう。
そして無論、その時には豊千代こと家斉との養子縁組も解消するつもりであった。つまりは次期将軍の座を剥奪するつもりであった。
やはりこのことも、意知は奏者番就任の折に将軍・家治より「耳打ち」されたことで、それをそのまま平蔵に伝えた。
「平蔵さん…、いや、長谷川殿、何卒、この意知に力を貸して貰いたい…」
意知は目の前に並べられた茶菓子を脇に除けると、両手を畳に突いて頭を下げたのであった。
これにはさしもの平蔵も慌てた。
「意知様、何卒、頭を、お上げになって下さりませ…」
平蔵はそう懇願した。大名の子息に頭を下げさせては、それも今を時めく老中・田沼意次の息に頭を下げさせては勿体無い、どころか恐怖でしかなかった。
だが意知は平蔵の懇願にもかかわらず、頭を上げようとはしなかった。
どうやら平蔵が意知の願いを聞届けない限りは意知も頭を上げるつもりはないらしかった。
そこで平蔵は「承知仕りました」と応じたことから、意知も漸くに頭を上げた。
それでも平蔵は、
「なれど…、この長谷川平蔵も探索にかけましては、決して通じている訳ではござりませぬゆえ…」
意知にそう釘を刺すことを忘れなかった。つまりは、
「余り、期待しないで欲しい…」
という訳である。
だがそれを意知は頭を振って受流した。
「何の…、長谷川殿…、平蔵殿は名奉行の誉高い宣雄様の血を引いておられれば…」
確かに、平蔵の父、宣雄は京都町奉行として名奉行の評判を得た。
それ故、平蔵もその宣雄の貴重な血を引いているだけに、探索にかけては生来の才能があると、意知はそう言いたいらしい。
平蔵はこの上は最早、意知に何を言ってみたところで、馬耳東風に違いないと諦め、それでも「交換条件」と言う訳でもないが、
「何卒、これまで通り、平蔵と、お呼び下さりませ…」
今度は平蔵が懇願する番であった。
正確には意知は平蔵を「さん付け」で呼び、それに対して意知も己のことを官職名ではなく、その諱である「意知」の名で呼んでくれるよう頼み、互いにそう呼び合っていたのだ。
意知も平蔵のこの願いは聞届け、
「それでは平蔵さん、宜しく頼む…」
意知は改めて平蔵にそう頼んだのであった。
「承知仕りました…」
平蔵もそう応じたものの、一つだけ確かめることがあった。
「されば…、この平蔵が意知様の片腕として働きますことに、上様は果たして如何に…」
平蔵はそれが気になって仕方なかった。
いや、家基に大いに気に入られていたとの自負がある平蔵である。その家基の実父である将軍・家治からも大いに気に入られているに違いないと、そう信じて疑わなかったが、しかし、直に家治に確かめてみた訳ではない。
それ故、意知が己を探索の片腕、もとい「相棒」として選んだことに、家治は果たして如何なる反応を示すか、それが平蔵には気懸かりであった。
すると意知も平蔵のその様な不安を看取すると、
「されば此度の探索についてはこの意知、上様より全権を委任されているによって案ずることはない…、無論、平蔵さんに探索を頼んだことは上様にも事後報告仕らねばならぬが、なれど平蔵さんなれば、上様とてきっと、大いに満足される筈…」
意知は平蔵にそう太鼓判を押した。暗に平蔵が家治からも気に入られていると示唆したのだ。
それで平蔵も安堵した。
こうして意知は用件を済ませると、長谷川家を辞去した。
帰り際、意知は平蔵の嫡子の辰蔵宣義と、それに長女にして辰蔵の直下の妹である成の挨拶を受けた。
辰蔵は意知の嫡子、龍助よりも3歳年上であり、成は龍助と同い年であった。
それ故、意知が「お忍び」で龍助を連れてここ長谷川家に足を運んだ際には辰蔵や成が龍助の遊び相手を務めてくれる。
去年よりは辰蔵が龍助の剣の相手もしてくれる様にもなった。
「いや、辰蔵殿、いつにても当家へと遊びに参られよ…、その折にはまた、龍助の相手をしてやって貰いたい…」
意知が辰蔵にそう頼むと、辰蔵も「承知仕りました」と即答した。
辰蔵もまた、父・平蔵の血を引いており眉目秀麗であり、将来が楽しみであった。
「ああ、それから紹殿と銕五郎殿にも宜しく…」
意知は平蔵にそう言伝をし、長谷川家をあとにした。
紹とは平蔵の次女であり、一方、銕五郎とは次男にして末っ子の銕五郎正以であった。
紹は3年前の安永9(1780)年に出生し、銕五郎はその翌年の、しかも意知が奏者番に取立てられた正にその日、天明元(1781)年12月15日に出生した。
紹は数えで4歳、銕五郎は数えで3歳であり、今は共に遊び疲れて寝ていた。
意知はそう頭を悩ませると、やがて一人の男の顔を思い浮かべた。
「やはりここは…、平蔵さんを頼るしかあるまい…」
平蔵さん、こと長谷川平蔵宣以の顔を思い浮かべたのであった。
長谷川平蔵とは、西之丸にて書院番士として仕える旗本であり、家基が西之丸の主であった折には、西之丸へと召されることの多かった意知の案内役を務めたものである。
進取の気性に富んでいた家基は同じく進取の気性に富み、海外事情に通じていた意知とは気が合い、家基は意知の話を求めて、屡、西之丸へと意知を召出したものであった。
その際、意知の案内役を買って出たのが西之丸書院番士の長谷川平蔵であった。
その頃はまだ、意知は奏者番ではなく、しかし、老中・田沼意次の息として、御城本丸の雁間詰であり、それが次期将軍たる家基の思召しにより、その居城とも言うべき西之丸へと度々、招かれたのであった。
だがそれを快く思わない者もおり、例えば御側衆の佐野右兵衛尉茂承や同じく御側衆の小笠原若狭守信喜などはその筆頭であった。
佐野茂承にしろ、小笠原信喜にしろ、御側衆の、それも筆頭たる御用取次として家基の側近を自認しており、にもかかわらず、家基が佐野茂承や小笠原信喜を、
「差置いて…」
意知と親しく語合う様が面白くなかったのであった。要は嫉妬であった。
そこで意知が西之丸へと足を踏み入れることを、つまりは家基と接触するのを何としてでも阻止、と言うよりは妨害せんと、佐野茂承にしろ小笠原信喜にしろ、その様な姦計を巡らしたものだが、それを身体を張って阻止したのが長谷川平蔵であったのだ。
平蔵が意知の「SP」として、家基の御前まで案内することで、佐野茂承や小笠原信喜の「姦計」は打砕かれた。
尤も、平蔵とて純粋に意知の為に動いた訳ではない。
「ここで意知に恩を売っておけば、ゆくゆく己の出世に役に立つ…」
そんな打算から、意知の「SP」を買って出たのであった。
いや、それ以上に、次期将軍たる家基にも顔を覚えて貰えることにもなり、つまりはそれだけ確実に出世に繋がる。
かくして、意知は平蔵と親しく付合う様になった。
意知と平蔵の「結婚記念日」が奇しくも同じ日であったことも、一層、意知と平蔵の距離を縮めることになった。
意知が今は亡き妻・義姫と祝言を挙げたのは明和6(1769)年12月15日のことであったが、この日、平蔵もまた、大橋與惣兵衛親英の三女の靜榮と祝言を挙げていたのだ。
意知がまだ、平蔵と親しく付合う様になる前の話であり、無論、ただの偶然であった。
だが平蔵はこの偶然をも奇貨に変えた。
平蔵は意知と親しく付合う様になると、「結婚記念日」である12月15日には意知に祝いの品を贈る様になったのだ。それも意知ではなく、妻女の義が好みそうな品を贈った。
平蔵は意知と親しくなると同時に、その妻女である義とも親しくなろうと、そう考えて、そこで「結婚記念日」を利用して、義に贈物を、例えば反物などを欠かさなかったのだ。
これもまた、立身出世を目論んでのことであった。意知が愛妻家であるのを平蔵は見逃さなかったからだ。
だがその義も去年の天明2(1782)年6月に、6月20日に卒してしまった。
ここで数多、普通の者ならば、それっきりであろう。最早、結婚記念日に贈物をすることもあるまい。
だが平蔵は違った。今度は何と、義の命日に照準を合わせ、今年、天明3(1783)年の6月20日には平蔵は破格の香典を包んだのであった。
これも無論、究極的には出世の為であった。
意知とて、それは百も承知していたが、しかしそれでも尚、平蔵の厚意に素直に感謝した。
意知が「相棒」として平蔵の顔を思い浮かべたのは斯かる次第による。
しかも平蔵は意知とは違って探索にも通じているものと思われる。
それと言うのも平蔵の父、長谷川備中守宣雄は先手弓頭として火附盗賊改方を兼務し、火附盗賊改方として多くの手柄を立て、遠国奉行の中でも長崎奉行に次ぐ京都町奉行へと立身を遂げた正に立志伝中の御仁であり、平蔵はその倅として、父・宣雄の背中を間近に見てきただけに、
「探索にもきっと通じている筈…」
意知はそう考え、平蔵を「相棒」として思い定めた。
翌日―、10月25日に意知は奏者番としての仕事を終えて神田橋御門内にある屋敷へと帰宅すると、裃と袴を脱捨て、着流しへと変身した。
意知はその上で、裏口より屋敷を出ようとしたところで、意知に附属する家臣の村上半左衛門より呼止められた。
「どちらへ、お運びへ?」
村上半左衛門は意知に行き先を尋ねた。
意知は一瞬、答えるのを躊躇った。何しろ事は秘密を要するからだ。仮令、家臣であろうとも、おいそれと明かせない。
だがここで下手に隠し立てすれば、半左衛門に勘繰られる恐れがあった。
そこで意知は正直に打明けることにした。
「うん…、久方ぶりに平蔵さん…、いや、長谷川殿の顔を拝もうと思うてな…、いや、これからは中々に逢うことも、ままならないであろうから…」
意知は己が若年寄に内定したことは村上半十郎にも打明けていたので、半十郎もそれで、「ああ」と合点がいった様子であった。
成程、今の様に一介の奏者番ならばいざ知らず、若年寄ともなればそう気軽に出歩くこともままならないであろう。
ましてや着流しで出歩くなど、不可能とは言わないにしても、やはりままならない。
そこで若年寄に就く前の息抜きかと、村上半十郎は合点したのだ。
意知が長谷川平蔵と親しくしていることも、半十郎は承知していたからだ。
半十郎は意知が期待した通り、意知の言葉を額面通り受取った様で、
「それではお気をつけて…」
何の疑いもなく意知を送出したのであった。
意知は半十郎のこの反応に、下手に隠し立てしなくて良かったと、心底、胸を撫で下ろしたものである。
これで仮に下手に隠し立てしようものなら、半十郎のことである、
「御供、仕りたい…」
などと言出しかねないからだ。
さて、意知は着流しで神田橋御門外へと出ると右折し、鎌倉河岸に沿って歩いた。
意知はそれから竜閑橋を渡って、常盤橋御門外に当たる日本橋本町にて今度は左折した。
その後、意知は更に人形丁通、竈川岸、入江橋、濱町川岸、組合橋を越えて新大橋前の廣小路に辿り着いた。
そして新大橋を渡れば、平蔵の屋敷がある本所深川である。
その新大橋を渡って本所深川に出て、猿子橋を渡り、そのまま真直ぐ進むと、新治郡府中藩下屋敷に突当る。
府中藩下屋敷の門前を左折し、暫く歩くと漸くに、長谷川平蔵の屋敷に辿り着く。
意知が平蔵の屋敷に着いたのは昼の八つ半(午後3時頃)であった。
意知が期待した通り、平蔵は幸いにして在宅であった。
平蔵は西之丸の盟主が、即ち次期将軍が家基から家斉へと代わった後も引続き、西之丸書院番士として西之丸にて仕えていた。
そうであれば宿直のケースもあり得たが、平蔵の場合は進物番を兼務していたので、宿直は免除されていた。
進物の贈答掛、つまりは賄賂の受取係である進物番は書院番、並びに小姓組番の所謂、両番からの出役であり、この進物番に選ばれると日々の番士としての宿直からは解放される。進物番としての職務に専念させる為であった。
意知もそれは承知していたので、今時分ならば平蔵は在宅だろうと期待していたのだ。
一方、平蔵は不意の意知の来訪に驚いたものの、それでも歓待した。
平蔵は意知を奥座敷へと案内すると、上座を勧めたが、しかし、意知はそれを峻拒した。
「今日は平蔵さんに頼みがある故に、上座に座る訳には参らぬによって…」
平蔵は意知に対して、己のことは呼捨てにして貰って構わないと告げていたものの、意知は3つも年上の平蔵に遠慮して、「さん付け」であった。
いや、意知は元々は「平蔵殿」と、殿を付けて呼んでいたのだ。それを、「さん」に敬称を格下げした訳で、意知としてはこの上、更に呼捨てになど出来なかった。
ともあれ、上座を拝辞した意知は客座に腰を落着けた為に、平蔵も下座を免れた。
意知と平蔵が相対したところで、平蔵の妻女の靜榮とその小姑―、平蔵の義理の姉の亮が茶菓子を運んで来た。
亮は実は駿府町奉行を勤めた朝倉仁左衛門景増の次女であり、それを平蔵が父・長谷川宣雄が養女として貰い受け、平蔵と共に、
「別け隔てなく…」
育てられたのであった。
そうして亮は宣雄の養女として旗本・三宅半左衛門徳屋の許《もと》へと嫁した。それが宝暦元(1751)年、亮が数えで18歳の時であった。
だが三宅半左衛門と亮の結婚生活は2年に満たないものであり、宝暦3(1753)年に亮は夫・半左衛門に棄てられ、実家であるここ、長谷川家に出戻ったのだ。
いや、亮は朝倉仁左衛門の次女であるので、実家と言うならば、朝倉家こそが実家と言えよう。
しかし、その時―、宝暦3(1753)年の時点ではまだ、亮の実父・朝倉仁左衛門景増は存命であり、亮が出戻るに何ら差支えはないようにも思えた。
だが、嫡子にして、亮の実兄である仁左衛門光景が妻女を娶っており、そこへ亮が出戻れば、その妻女にしてみれば小姑が一人増えることになり、それでは亮にとっても、妻女にとっても窮屈であるのは間違いない。
養父の宣雄も斯かる朝倉家の事情は承知していたので、そこで宣雄は亮の身を慮って、長谷川家にて亮を引取ることにしたのだ。
それは宣雄が先手弓頭に昇進してから1年目のことであった。
爾来、亮はこの長谷川家にて暮らしていた。
この間、長谷川家の当主は宣雄から平蔵へと代わり、その平蔵は靜榮なる妻女を迎えたが、しかし、亮が窮屈な思いをすることはなく、それは偏に、靜榮が小姑である亮に良く仕えていたからだ。
一方、亮も靜榮の配慮に心底、感謝し、その様な靜榮に報いるべく、靜榮が平蔵との間にもうけた子女を実の子の様に愛しんだ。
さて、亮が意知の、靜榮が夫君、平蔵の夫々、給仕を担うと、平蔵は二人に目配せし、すると靜榮も亮も心得たもので、その場をあとにした。
意知は再び、平蔵と二人きりになると、「実は内密の話があって…」と切出した。
すると平蔵は右手を掲げて意知を制したかと思うと、靜榮が亮と共に退出する際に閉じた障子は元より、襖をも開けたのだ。
「内談の際にはこれに限ります故…」
平蔵は部屋の全ての戸を開け放つと、意知にそう告げた。
成程、内談、密談をするには部屋を開放的にするのが一番であった。
その方が却って立聞き、盗み聞きされたりする危険性を軽減させるからだ。
部屋が開放的、開け放たれた状態では立聞き、盗み聞きしようにも、直ぐにバレるからだ。
それ故、御城本丸にある老中の執務室である上御用部屋や、若年寄のそれである次御用部屋もその「原理」に基づいて、普段は襖や障子は全て取外されており、実に開放的な空間であった。
ともあれ平蔵が部屋を「開放的」にしたところで、意知は気を取直して、再び「実は…」と口にすると、まずは己が若年寄に内定したことから切出した。
それに対して平蔵も流石に驚いた様子を浮かべた。
意知はまだ家督相続前、所謂、部屋住の身であり、それが若年寄に就任するとは前代未聞と言え、平蔵が驚くのも無理はなかった。
だが平蔵は直ぐに納得した面持ちとなった。
「僭越ながら…、意知様は御奏者番として大層な御活躍にて、さればいずれはその筆頭の御奉行…、寺社御奉行か、或いは御若年寄様へと、お進みあそばされるものと思うておりました…」
平蔵は意知をそう持上げてみせた。いや、平蔵の偽らざる本心であり、意知もそれは分かっていたので何とも照れ臭く、居心地が悪かった。
「忝い…」
意知は平蔵の「ヨイショ」を額面通りに受取り、まずはそう謝意を口にすると、
「いや、それがそう喜んでばかりもいられないのだ…」
意知は表情を引締め、そう告げたのだ。
すると平蔵も意知につられて表情を引締めると、
「と仰せられますと?」
意知の今の言葉の真意を問うた。
そこで意知は2年前の天明元(1781)年12月、一人だけ奏者番に任じられた際に将軍・家治より「耳打ち」されたこととして、
「意知には若年寄として家基の死の真相…、毒殺の真相を解明かして欲しいのだ…、それに絡む池原良明刺殺事件、更には戸田要人水死事件についても…」
それ故に若年寄へと進ませるべく、その前段階として奏者番に取立てるのだと、意知は将軍・家治より「耳打ち」された、己を奏者番に取立てた真意を平蔵に伝えた上で、斯かる一連の事件の概要についても掻い摘《つま》んで説明したのだ。
平蔵は今までにない程の驚きを覚えたものの、しかしそれから直ぐに、
「ストンと…」
胸に落ちるものがあった。
長谷川平蔵も水谷勝久が番頭を勤める4番組の書院番士として、家基の最期の鷹狩りに扈従し、しかも拍子木役という大役まで勤めたのだが、嬉しさよりも疑問の方が先に立った。
それと言うのも書院番で言えば、本来は1番組が家基の鷹狩りに扈従すべきところであったからだ。
だが意知の今の話を聞いて、平蔵の疑問も氷解した。
成程、その当時―、安永8(1779)年における西之丸の書院番の中でも平蔵が属していた4番組には御三卿の清水家に所縁のある者が多く属しており、それに目を付けた同じく御三卿の一橋治済が己が家基に代わる次期将軍となるべく家基を始末し、しかもその罪、天下謀叛とも言うべき大罪を清水重好に被くべく、そこで家基には鷹狩りの途中で効目が現れる遅効性の毒物を与えると同時に、その鷹狩りに書院番よりは清水家に所縁の者が多く含まれている4番組を扈従させることで、家基を死に追いやったのが、さも清水重好であるかの様に周囲に思わせようとした…。
辻褄は合うが、しかし何ら証拠はなかった。
いや、それ以前に遅効性の毒物が何であるかも判然としていない。
これでは一橋治済の「兇行」として、治済を「断罪」することさえ不可能であった。重好にもまた、同じことが、即ち、
「清水重好が家基に取って代わろうと企み、己に所縁のある者を使嗾して、鷹狩りの機を利用して家基を毒殺した…」
その可能性も完全に無くなった訳ではないからだ。
無論、家治とて、腹違いとは言え、弟の重好が次期将軍の座を狙って我が子・家基を毒殺したなどとは思ってもいなかった。
だが重好の立場は治済と同じである以上、治済への疑惑が立証されない限りは、重好への疑惑を払拭する訳にはゆかなかった。
そこで家治は家基に代わる次期将軍として、治済の一子、豊千代を選んだのであった。
一応、表向きこそ意次の推挙との体裁を取ってはいたが、実際には家治の裁断、親裁による。
家治より家基に代わる次期将軍の選定を任された意次は実は、まず清水重好を第一候補に挙げ、次いで一橋治済、その息・豊千代の順で挙げたのであった。
すると家治は敢えて第三候補に過ぎなかった一橋豊千代を選んだのであった。
仮に一橋治済の「大罪」が立証されようものなら、そうとは知らずに治済を次期将軍に選んだ家治は、
「我が子を殺した張本人を次期将軍に据えた大間抜…」
ということになる。
同様に、清水重好を選んだ場合にも当て嵌まる。
万に一つもあり得ないとは思うが、重好を次期将軍に選んでから、やはり家基を毒殺した首魁だったとすれば、家治はやはり、「大間抜け」ということになる。
そこで次善の策として、家治は治済の一子、豊千代を次期将軍に選んだのだ。
これならば、仮に治済の「大罪」が立証されたとしても、「大間抜け」との誹りからは免れよう。
そして無論、その時には豊千代こと家斉との養子縁組も解消するつもりであった。つまりは次期将軍の座を剥奪するつもりであった。
やはりこのことも、意知は奏者番就任の折に将軍・家治より「耳打ち」されたことで、それをそのまま平蔵に伝えた。
「平蔵さん…、いや、長谷川殿、何卒、この意知に力を貸して貰いたい…」
意知は目の前に並べられた茶菓子を脇に除けると、両手を畳に突いて頭を下げたのであった。
これにはさしもの平蔵も慌てた。
「意知様、何卒、頭を、お上げになって下さりませ…」
平蔵はそう懇願した。大名の子息に頭を下げさせては、それも今を時めく老中・田沼意次の息に頭を下げさせては勿体無い、どころか恐怖でしかなかった。
だが意知は平蔵の懇願にもかかわらず、頭を上げようとはしなかった。
どうやら平蔵が意知の願いを聞届けない限りは意知も頭を上げるつもりはないらしかった。
そこで平蔵は「承知仕りました」と応じたことから、意知も漸くに頭を上げた。
それでも平蔵は、
「なれど…、この長谷川平蔵も探索にかけましては、決して通じている訳ではござりませぬゆえ…」
意知にそう釘を刺すことを忘れなかった。つまりは、
「余り、期待しないで欲しい…」
という訳である。
だがそれを意知は頭を振って受流した。
「何の…、長谷川殿…、平蔵殿は名奉行の誉高い宣雄様の血を引いておられれば…」
確かに、平蔵の父、宣雄は京都町奉行として名奉行の評判を得た。
それ故、平蔵もその宣雄の貴重な血を引いているだけに、探索にかけては生来の才能があると、意知はそう言いたいらしい。
平蔵はこの上は最早、意知に何を言ってみたところで、馬耳東風に違いないと諦め、それでも「交換条件」と言う訳でもないが、
「何卒、これまで通り、平蔵と、お呼び下さりませ…」
今度は平蔵が懇願する番であった。
正確には意知は平蔵を「さん付け」で呼び、それに対して意知も己のことを官職名ではなく、その諱である「意知」の名で呼んでくれるよう頼み、互いにそう呼び合っていたのだ。
意知も平蔵のこの願いは聞届け、
「それでは平蔵さん、宜しく頼む…」
意知は改めて平蔵にそう頼んだのであった。
「承知仕りました…」
平蔵もそう応じたものの、一つだけ確かめることがあった。
「されば…、この平蔵が意知様の片腕として働きますことに、上様は果たして如何に…」
平蔵はそれが気になって仕方なかった。
いや、家基に大いに気に入られていたとの自負がある平蔵である。その家基の実父である将軍・家治からも大いに気に入られているに違いないと、そう信じて疑わなかったが、しかし、直に家治に確かめてみた訳ではない。
それ故、意知が己を探索の片腕、もとい「相棒」として選んだことに、家治は果たして如何なる反応を示すか、それが平蔵には気懸かりであった。
すると意知も平蔵のその様な不安を看取すると、
「されば此度の探索についてはこの意知、上様より全権を委任されているによって案ずることはない…、無論、平蔵さんに探索を頼んだことは上様にも事後報告仕らねばならぬが、なれど平蔵さんなれば、上様とてきっと、大いに満足される筈…」
意知は平蔵にそう太鼓判を押した。暗に平蔵が家治からも気に入られていると示唆したのだ。
それで平蔵も安堵した。
こうして意知は用件を済ませると、長谷川家を辞去した。
帰り際、意知は平蔵の嫡子の辰蔵宣義と、それに長女にして辰蔵の直下の妹である成の挨拶を受けた。
辰蔵は意知の嫡子、龍助よりも3歳年上であり、成は龍助と同い年であった。
それ故、意知が「お忍び」で龍助を連れてここ長谷川家に足を運んだ際には辰蔵や成が龍助の遊び相手を務めてくれる。
去年よりは辰蔵が龍助の剣の相手もしてくれる様にもなった。
「いや、辰蔵殿、いつにても当家へと遊びに参られよ…、その折にはまた、龍助の相手をしてやって貰いたい…」
意知が辰蔵にそう頼むと、辰蔵も「承知仕りました」と即答した。
辰蔵もまた、父・平蔵の血を引いており眉目秀麗であり、将来が楽しみであった。
「ああ、それから紹殿と銕五郎殿にも宜しく…」
意知は平蔵にそう言伝をし、長谷川家をあとにした。
紹とは平蔵の次女であり、一方、銕五郎とは次男にして末っ子の銕五郎正以であった。
紹は3年前の安永9(1780)年に出生し、銕五郎はその翌年の、しかも意知が奏者番に取立てられた正にその日、天明元(1781)年12月15日に出生した。
紹は数えで4歳、銕五郎は数えで3歳であり、今は共に遊び疲れて寝ていた。
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