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その夜の入浴 ~将軍・家治は若年寄の田沼意知に湯殿掛の小納戸に代わって、身体を洗うよう命ずる~ 前篇

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 家治いえはるは暮六つ(午後6時頃)を四半刻しはんとき(約30分)もまわったころ意知おきともしたがえて御殿ごてんより玄関げんかんへとると、玄関外げんかんそとにてひかえていたほか従者じゅうしゃをもしたがえて、清水家しみずけ下屋敷しもやしきをあとにし、御城えどじょうへともどった。

 家治いえはる主従しゅじゅう御城えどじょう辿たどいたのはとり中刻ちゅうこくすなわち、くれの六つ半(午後7時頃)であった。

 表向おもてむきにてはまず玄関げんかんにて月番つきばん留守居るすいである高井たかい土佐守とさのかみ直熈なおひろ太田おおた駿河守するがのかみ資倍すけます二人ふたり家治いえはる出迎でむかえた。

 留守居るすいには宿直とのい、つまりは夜勤やきんがあり、毎日交代まいにちこうたい宿直とのいつとめる。

 留守居るすいいまはこの高井たかい直熈なおひろふくめて4人おり、4人の留守居るすい毎日交代まいにちこうたい宿直とのいつとめる。

 そしてこの時刻じこく―、くれの六つ半(午後7時頃)まで高井たかい直熈なおひろ太田おおた資倍すけます二人ふたり留守居るすい御城えどじょうのこっているとなると、畢竟ひっきょう今宵こよい宿直とのい当番とうばん高井たかい直熈なおひろ太田おおた資倍すけます二人ふたりようにもおもわれるがそうではなかった。

 留守居るすいにおいては宿直とのいは1人であり、2人がつとめることはなく、今宵こよい宿直とのい当番とうばん太田おおた資倍すけます一人ひとりであり、高井たかい直熈なおひろ今宵こよい宿直とのい当番とうばんではなかった。

 にもかかわらず今時分いまじぶんまで高井たかい直熈なおひろ御城えどじょうのこっていたのは鷹狩たかがりへと出向でむいた将軍しょうぐん家治いえはるのそのかえりをっていたからだ。

 留守居るすい月番つきばんともなると、仮令たとえ今日きょうよう宿直とのい当番とうばんではないであったとしても、その将軍しょうぐん鷹狩たかがりなどに出向でむけば、それまでその帰城かえりっていなければならなかったのだ。

 それは老中ろうじゅう若年寄わかどしよりにもまる。

 老中ろうじゅう若年寄わかどしより留守居るすいとはことなり、宿直とのいはなく、しかし月番つきばんはあるので、やはり月番つきばん老中ろうじゅう若年寄わかどしより将軍しょうぐん外出がいしゅつにはその帰城かえりたねばならなかった。

 天明3(1783)年12月の今月こんげつ老中ろうじゅうにおいては首座しゅざ松平まつだいら周防守すおうのかみ康福やすよしが、若年寄わかどしよりにおいては加納かのう遠江守とおとうみのかみ久堅ひさかた夫々それぞれ月番つきばんつとめており、それゆえ松平まつだいら康福やすよし加納かのう久堅ひさかた二人ふたりもまた、今時分いまじぶんまで家治いえはる帰城かえりっていた。

 もっとも、松平まつだいら康福やすよし加納かのう久堅ひさかた二人ふたり家治いえはる出迎でむかえたのは玄関げんかんではなく、御成おなり廊下ろうかへとつうずる黒書院くろしょいん囲炉裏之間いろりのまめんした入側いりがわにおいてであった。

 将軍しょうぐん表向おもてむきよりその居所きょしょである中奥なかおくへともどさいには御成おなり廊下ろうか使つかわれ、その廊下ろうかへとつうずるのが黒書院くろしょいんの、それも囲炉裏之間いろりのまめんした入側いりがわであった。

 これは老中ろうじゅう若年寄わかどしよりほう留守居るすいよりも格上かくうえであることに由来ゆらいする。

 つまりは留守居るすいともに、老中ろうじゅう若年寄わかどしよりまでも玄関げんかんにて将軍しょうぐん出迎でむかえさせては老中ろうじゅう若年寄わかどしより留守居るすい同格どうかく看做みなされるやもれず、しかしそれでは、

老中ろうじゅう若年寄わかどしよりかくちる…」

 というものであり、そこで老中ろうじゅう若年寄わかどしよりにはその「かく」―、留守居るすいよりも格上かくうえ立場たちば配慮はいりょして、玄関げんかんではなく、より中奥なかおくちか黒書院くろしょいん囲炉裏之間いろりのまめんした入側いりがわにて出迎でむかえさせるのを仕来しきたりとしていた。

 こうして老中ろうじゅう若年寄わかどしよりからの出迎でむかえをもけた家治いえはる御成おなり廊下ろうかつたって中奥なかおくへとあしれると、そこでは中奥なかおく最高さいこう長官ちょうかんたる側用人そばようにん水野みずの出羽守でわのかみ忠友ただともとそれにひらそば津田つだ日向守ひゅうがのかみ信之のぶゆき出迎でむかえをけた。

 側用人そばようにんそばしゅうといった中奥役人なかおくやくにんには月番つきばん制度せいどはないが、しかし宿直とのいはあった。

 もっともその宿直とのいにしても側用人そばようにんや、それにそばしゅうなかでも筆頭ひっとう用取次ようとりつぎ免除めんじょされていた。

 それでも水野みずの忠友ただともだけは宿直とのい義務ぎむがないにもかかわらず、今日きょうよう将軍しょうぐん家治いえはる鷹狩たかがりなどで外出がいしゅつしたおりには、家治いえはる帰城かえりつのをならわしとし、今日きょう勿論もちろんそうであった。

 水野みずの忠友ただとも側用人そばようにんとしてそば用取次ようとりつぎうえ位置いちする中奥なかおくわば最高さいこう長官ちょうかんではあるものの、忠友ただとも老中ろうじゅう格式かくしきとしてのかお持合もちあわせており、それゆえ忠友ただとも側用人そばようにんとして中奥なかおく最高さいこう長官ちょうかんでありながら表向おもてむきにある老中ろうじゅう執務室しつむしつであるうえよう部屋べやにて老中ろうじゅう執務しつむたる時間じかんながく、うらかえすとそれだけ中奥なかおくにいる時間じかんみじかく、中奥なかおく最高さいこう長官ちょうかん地位ちい部下ぶかであるそば用取次ようとりつぎうばわれがちであった。

 そこで水野みずの忠友ただともとしては、

側用人そばようにんたるおのれこそが中奥なかおく本来ほんらい最高さいこう長官ちょうかんである…」

 すこしでもそう、側用人そばようにんたるおのれ存在そんざい中奥全体なかおくぜんたい再確認さいかくにんさせるべく、今日きょうよう将軍しょうぐん家治いえはる鷹狩たかがりに出向でむいたおりには、中奥なかおくにて家治いえはる帰城かえりつのをならわしとしていたのだ。

おそくまでつと苦労くろう…」

 家治いえはる中奥なかおくあしれるや、まずは忠友ただともねぎらった。

帰城かえりおそくなり、相済あいすまぬな…」

 家治いえはる忠友ただともにそうびもしたので、忠友ただともおおいに恐縮きょうしゅくさせた。

「いや、今日きょう帰途きと蠣殻町かきがらちょう清水屋形しみずやかたへとあしばしてのう…、そこで重好しげよしはなし盛上もりあがってのう…」

 家治いえはるはいつもよりもかえりがおそくなった「言訳いいわけ」をした。無論むろん、その定信さだのぶがいたことまでは打明うちあけなかったが。

 一方いっぽう忠友ただともとしては家治いえはる帰城かえりおそければおそほど大歓迎だいかんげいであった。

 それだけ中奥なかおくにて家治いえはる帰城かえりっていられる、つまりは中奥なかおくながくいられるからだ。

 無論むろん忠友ただともはそのような「本音ほんね」はまさかに、

くちけても…」

 家治いえはるには言えず、わりに、「左様さようでござりましたか…」とおうじたうえで、

清水宮内しみずくないきょう殿どの今日きょう蠣殻町かきがらちょうにある下屋敷しもやしきへと偶々たまたま、おはこびに?」

 そういのれた。

左様さよう…、簾中れんじゅう貞子ていし殿どの舟遊ふなあそびに…、そこで蠣殻町かきがらちょうにある下屋敷しもやしきへもあしを、いや、ふねけたそうで、そこへ鷹狩たかがりの帰途きと蠣殻町かきがらちょうにある下屋敷しもやしきへと立寄たちよるや、重好しげよしとそれに貞子ていし殿どのくわしてのう…」

 家治いえはるもまた、重好しげよしえたのは「偶々たまたま」であることを強調きょうちょうした。

 それにたいして忠友ただとも家治いえはるのその言葉ことばをすっかりしんじた様子ようすで、やはり「左様さようでござりましたか…」とそう繰返くりかえすと、

「されば湯殿ゆどのへ…」

 あせまみれの家治いえはる入浴にゅうよくすすめたのであった。

「うむ…」

 家治いえはる忠友ただともすすめにしたがい、忠友ただともとそれに津田つだ信之のぶゆき案内あんないにて湯殿ゆどのへとあしけた。

 湯殿ゆどの中奥なかおくなかでも梅之間うめのま囲炉裏之間いろりのまとは廊下ろうかはさんだかいがわにあり、脱衣所だついじょである上湯あがりゆ板敷いたじき風呂場ふろばからなっており、上湯あがりゆには小姓こしょう新見しんみ大炊頭おおいのかみ正徧まさゆきとそれに相役あいやく水野みずの相模守さがみのかみ貞利さだとし、それに湯殿ゆどのがかり小納戸こなんど石黒いしぐろ官次郎かんじろう易明やすあきとその相役あいやく岩田いわた平十郎へいじゅうろう定功さだとし夫々それぞれひかえていた。

 脱衣所だついじょである上湯おがりゆにて将軍しょうぐんふくがせ、また風呂ふろがりの将軍しょうぐん身体からだぬぐい、真新まあたらしい着物きものへと着替きがえさせるのは小姓こしょう、それも宿直とのい小姓こしょう担当たんとうし、今宵こよい新見しんみ正徧まさゆきとも水野みずの貞利さだとし宿直とのいつとめるので、この二人ふたり小姓こしょう将軍しょうぐん家治いえはる入浴にゅうよくまえあと介助かいじょ担当たんとうする。

 水野みずの貞利さだとし家治いえはる愛息あいそく家基いえもととぎ、それも家基いえもと生前せいぜん最期さいごとぎつとめ、家基いえもとからおおいに寵愛ちょうあいされていた。

 一方いっぽう水野みずの貞利さだとし家基いえもとつかえてくれた。

 それゆえ家治いえはるもこの水野みずの貞利さだとしおおいに信頼しんらいし、家基いえもと歿ぼっしたのち小姓こしょう取立とりたて、いまいたる。

 家治いえはる小姓こしょうなかでは意次おきつぐ意知おきとも父子ふし縁者えんじゃである新見しんみ正徧まさゆきともに、この水野みずの貞利さだとしをも信頼しんらいしていた。

 一方いっぽう湯殿ゆどのがかり石黒いしぐろ官次郎かんじろうはそうではなかった。

  石黒いしぐろ官次郎かんじろういまから10年前ねんまえの安永2(1773)年5月7日に小納戸こなんど拝命はいめいし、それが湯殿ゆどのがかりねるようになったのは8年後ねんご―、一昨年おととしの天明元(1781)年11月のすえ、それも29日のことであった。

 その前日ぜんじつの28日、家治いえはるおのれ湯殿ゆどのがかり小納戸こなんどとしてつかえてくれた竹本たけもと九八郎くはちろう正温まさよし小姓こしょうへと昇進しょうしんさせ、そこで竹本たけもと九八郎くはちろう後任こうにんとして―、後任こうにん湯殿ゆどのがかり小納戸こなんど石黒いしぐろ官次郎かんじろうえた次第しだいであった。

 もっとも、それは「結果論けっかろん」であり、家治いえはるとしてはべつ小納戸こなんど湯殿ゆどのがかりねさせるつもりであった。

 だが「前任者ぜんにんしゃ」とも言うべき竹本たけもと九八郎くはちろう家治いえはるたいして、

是非ぜひとも石黒いしぐろ官次郎かんじろうめに…」

 おのれ後任こうにんとして湯殿ゆどのがかりねさせてやってしいと、そう陳情ちんじょうしたのであった。

 竹本たけもと九八郎くはちろうじつ叔母おば石黒いしぐろ官次郎かんじろう養父ようふである書院番しょいんばん石黒いしぐろ四兵衛しへえ嵩易たかやすとついでおり、そこで、石黒いしぐろ四兵衛しへえ養嗣子ようししである官次郎かんじろう竹本たけもと九八郎くはちろう後任こうにんとして湯殿ゆどのがかりねさせるべく、縁者えんじゃでもある竹本たけもと九八郎くはちろうたよったにちがいない。

 すなわち、それこそが竹本たけもと九八郎くはちろうよりの将軍しょうぐん家治いえはるへの「陳情ちんじょう」、もとい石黒いしぐろ官次郎かんじろうの「推挙すいきょ」であった。

 だが家治いえはる最初さいしょはその「推挙すいきょ」に難色なんしょくしめした。

 それと言うのも、石黒いしぐろ官次郎かんじろうはこのとき―、天明元(1781)年11月時点じてんすで一橋ひとつばし家老かろうであったはやし肥後守ひごのかみ忠篤ただあつ実弟じっていであったからだ。

 石黒いしぐろ官次郎かんじろうじつ新番頭しんばんがしらつとめたはやし藤四郎とうしろう忠久ただひさ五男ごなんであり、はやし藤四郎とうしろう嫡子ちゃくしであるはやし忠篤ただあつにとってはじつおとうとたる。

 そのはやし忠篤ただあつ一橋ひとつばし家老かろう拝命はいめいしたのはそれより半年前はんとしまえの天明元(1781)年6月のことであり、

大過たいかなく…」

 浦賀うらが奉行ぶぎょうつとめていた忠篤ただあつのその「手腕しゅわん」に家治いえはる期待きたいして、つまりは、

一橋ひとつばし治済はるさだ監視役かんしやく…」

 それを期待きたいして、浦賀うらが奉行ぶぎょうより一橋ひとつばし家老かろうへと抜擢ばってきしたわけだが、しかし結果けっか家治いえはるの「期待きたい」を裏切うらぎるものであった。

 はやし忠篤ただあつ一橋ひとつばし家老かろう拝命はいめいしてから半年はんとし、どころかさらにその半分はんぶんにもたない2ヶ月歩ほどで、監視かんし対象たいしょうであるはず一橋ひとつばし治済はるさだに、

「すっかりと…」

 取込とりこまれてしまっていたのだ。

 家治いえはるはそのことを相役あいやく―、もう一人ひとり一橋ひとつばし家老かろうである、つ、家治いえはる期待きたいこたえて、

治済はるさだとはけっしてわず…」

 あくまで治済はるさだ監視役かんしやくてっする水谷みずのや但馬守たじまのかみ勝富かつとみより「耳打みみうち」された。

 それゆえ家治いえはるとしてはそのようはやし忠篤ただあつ実弟じっていである石黒いしぐろ官次郎かんじろう湯殿ゆどのがかりねさせることに難色なんしょくしめしたのであった。

 いや家治いえはるもその当初とうしょ石黒いしぐろ官次郎かんじろうはやし忠篤ただあつ実弟じっていであるとは気付きづかず、しかし、竹本たけもと九八郎くはちろうの「推挙すいきょ」をけてあらためて石黒いしぐろ官次郎かんじろうの「身許みもと調査ちょうさ」をめいじて判明はんめいしたことであり、その結果けっか家治いえはる難色なんしょくしめしたわけだ。

 だが結局けっきょく家治いえはるは、

田安たやすとの関係かんけい悪化あっかさせたくはない…」

 それが理由りゆう竹本たけもと九八郎くはちろうのその「推挙すいきょ」を受容うけいれたのであった。

 竹本たけもと九八郎くはちろう大叔母おおおば―、九八郎くはちろう実父じっぷにして普請ふしん奉行ぶぎょうつとめたこともある竹本たけもと越前守えちぜんのかみ正章まさあきら叔母おば田安たやす始祖しそである宗武むねたけ母堂ぼどう本徳院ほんとくいん古牟こん、そのひとであった。

 それゆえ竹本たけもと田安たやすとの所縁ゆかりふかく、一族いちぞくには田安たやすにてつかえるものおおい。

 そのよう竹本一族たけもといちぞくの、それも始祖しそ宗武むねたけ実母じつぼである本徳院ほんとくいん古牟こんじつ姪孫てっそんである竹本たけもと九八郎くはちろうの「推挙すいきょ」を無碍むげにしては最悪さいあく田安たやすとの関係かんけいにまでひびいてくるやもれず、そこで家治いえはるまさに、

断腸だんちょうおもい…」

 竹本たけもと九八郎くはちろう後任こうにんとして石黒いしぐろ官次郎かんじろう湯殿ゆどのがかりねさせたのであった。

 一方いっぽう、もう一人ひとり湯殿ゆどのがかりねる小納戸こなんど岩田いわた平十郎へいじゅうろうであるが、これはやはりおなとし―、天明元(1781)年の師走しわすは4日に湯殿ゆどのがかりにんじられた。

 すなわち、その前日ぜんじつの12月3日に湯殿ゆどのがかりねていた小納戸こなんど水谷みずのや彌之助やのすけ勝里かつさと西之丸にしのまる小納戸こなんどへと異動いどう横滑よこすべりをたしたことにより、湯殿ゆどのがかりに「き」が出来でき、そこにすわったのが岩田いわた平十郎へいじゅうろうであった。

 湯殿ゆどのがかりとして将軍しょうぐん家治いえはるつかえていた本丸ほんまる小納戸こなんど水谷みずのや彌之助やのすけ西之丸にしのまるへと送込おくりこんだのが家治当人いえはるとうにんだとすれば、その水谷みずのや彌之助やのすけ後任こうにんとして、小納戸こなんど岩田いわた平十郎へいじゅうろう湯殿ゆどのがかりねさせたのはそば用取次ようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきらであった。

 水谷みずのや彌之助やのすけもまた、竹本たけもと九八郎くはちろう同様どうよう湯殿ゆどのがかりとして家治いえはるつかえてくれた。

 その水谷みずのや彌之助やのすけ家治いえはるえて西之丸にしのまるへと送込おこりこんだのは、

次期じき将軍しょうぐんたる家斉いえなり掣肘せいちゅうするため…」

 それが目的もくてきであった。

 家治いえはる一応いちおう家斉いえなりを、

将軍家しょうぐんけ養君ようくん

 次期じき将軍しょうぐんとして西之丸にしのまるむかれはしたものの、こころそこから家斉いえなり次期じき将軍しょうぐんとして認知にんちしたわけではなかった。

家斉いえなりすきあらば…」

 家治いえはるはいつにても、家斉いえなり次期じき将軍しょうぐんよりきずりろすつもりであり、そこで家斉いえなりの「監視役かんしやく」として水谷みずのや彌之助やのすけ送込おくりこんだのであった。

 水谷みずのや彌之助やのすけじつ一橋ひとつばし家老かろうの、それもはやし忠篤ただあつとはことなり、治済はるさだの「監視役かんしやく」にてっする水谷勝富みずのやかつとみ養嗣子ようししであった。

 養嗣子ようししゆえ勝富かつとみ彌之助やのすけとのあいだにはつながりはない。

 だが、彌之助やのすけ勝富かつとみわば、

薫陶くんとうけて…」

 そだったにちがいなく、家治いえはるはそのてんって水谷みずのや彌之助やのすけ西之丸にしのまるへと、家斉いえなりの「監視役かんしやく」として送込おくりこんだのであった。

 そして水谷みずのや彌之助やのすけ場合ばあいはやし忠篤ただあつとはことなり、つまりは家治いえはるのそのような「期待きたい」を裏切うらぎることなく、家斉いえなりの「監視役かんしやく」にてっしているようで、家斉いえなり随分ずいぶん居心地いごこちわるおもいをしているとく。

 さて、その水谷みずたに彌之助やのすけ後任こうにん湯殿ゆどのがかりとして、そば用取次ようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきら推挙すいきょしたのが岩田いわた平十郎へいじゅうろうであった。

「されば岩田いわた平十郎へいじゅうろう水谷みずのや彌之助やのすけとは同期どうきなれば…」

 それが正明まさあきら家治いえはるげた推薦すいせん理由りゆうであった。

 正明まさあきらによれば岩田いわた平十郎へいじゅうろう水谷みずのや彌之助やのすけおなじく、安永2(1773)年5月7日に小納戸こなんど取立とりたてられ、さらに、さき湯殿ゆどのがかりにんじられた石黒いしぐろ官次郎かんじろうにしても同様どうように安永2(1773)年5月7日に小納戸こなんど取立とりたてられたので、それゆえ石黒いしぐろ官次郎かんじろうにとっても同期どうきである岩田いわた平十郎へいじゅうろうあらたに湯殿ゆどのがかりくわわれば、石黒いしぐろ官次郎かんじろう心強こころづよいだろうと、正明まさあきらはその意味いみでも岩田いわた平十郎へいじゅうろ推薦すいせんしたそうな。

 だが家治いえはるはその「推薦すいせん理由りゆう」が表向おもてむきのものにぎないと見切みきっていた。

 この時点じてん家治いえはるすでに、稲葉いなば正明まさあきら一橋ひとつばし治済はるさだとがつうじていることに気付きづいており、

「そのよう正明まさあきら岩田いわた平十郎へいじゅろうなる小納戸こなんど湯殿ゆどのがかりねさせようとほっするからには、岩田いわた平十郎へいじゅうろうなるものもきっと、治済はるさだめと所縁ゆかりがあるに相違そういあるまい…」

 家治いえはるはそう直感ちょっかんし、そこで岩田いわた平十郎へいじゅうろうの「身許みもと調査ちょうさ」をめいじた。

 だがその結果けっかあん相違そういしたもので、岩田いわた平十郎へいじゅうろう一橋ひとつばしとの、つまりは治済はるさだとの「所縁ゆかり」は見当みあたらなかった。

 いやおもて右筆ゆうひつなかでも「戸籍こせきがかり」の分限ぶげんちょうあらためやくふかく、徹底的てっていてき調査ちょうさしていれば、岩田いわた平十郎へいじゅうろう一橋ひとつばしとの所縁ゆかりについてあきらかにすることが出来できたやもれぬ。

 だがこのとき―、天明元(1781)年8月までのあいだにそれまで分限ぶげんちょうあらためやくねていたおもて右筆ゆうひつみな退職たいしょくしたために、家督かとくがたおもて右筆ゆうひつ分限ぶげんちょうあらためやくねており、そこで家治いえはる石黒いしぐろ官次郎かんじろう岩田いわた平十郎へいじゅうろうの「身許みもと調査ちょうさ」については彼等かれら家督かとくがたおもて右筆ゆうひつたのむよりほかになかった。

 家督かとくがたとは家督かとく相続そうぞく担当たんとうおもて右筆ゆうひつであり、家督かとく相続そうぞくわば「エキスパート」であり、「戸籍こせきがかり」の分限ぶげんちょうあらためかた同様どうよう相続そうぞくにはかせない系図けいずあらためることもあった。

 だが本職ほんしょくの「戸籍こせきがかり」である分限ぶげんちょうあらためやくとはことなり、家督かとくがたはあくまで、相続そうぞく適正てきせいおこなわれたかどうか、それをあらためるのを職掌しょくしょうとしていたので、「戸籍こせきがかり」である分限ぶげんちょうあらためかたよう提出ていしゅつされた系図けいず真正しんせいなものかどうか、それを徹底的てっていてきあらためることまではせず、またその技術ノウハウ持合もちあわせてはいなかった。

 それゆえ、そのよう家督かとくがたであるので、石黒いしぐろ官次郎かんじろう一橋ひとつばし家老かろうはやし忠篤ただあつじつ兄弟きょうだいであることは、その程度ていどなら突止つきとめられたが、しかし、岩田いわた平十郎へいじゅうろう祖父そふかいして、あるいは実妹じつまいかいして夫々それぞれ一橋ひとつばし所縁ゆかりがあったことまでは突止つきとめられなかった。

 家治いえはるより岩田いわた平十郎へいじゅろうの「身許みもと調査ちょうさ」をもめいじられた家督かとくがたおもて右筆ゆうひつはそのような、

見落みおとしある…」

 調査ちょうさ報告ほうこくをそのまま家治いえはるへと提出ていしゅつし、家治いえはるもそれが真正しんせいのものだと、つまりは岩田いわた平十郎へいじゅうろう治済はるさだとの所縁ゆかりはないとしんじてしまった。

 そこで家治いえはるもこれはと、くびかしげたものである。

 家治いえはるはてっきり、岩田いわた平十郎へいじゅうろう治済はるさだ所縁ゆかりがあるにちがいないと、そうしんじてうたがわなかったからだ。

 それが岩田いわた平十郎へいじゅうろう治済はるさだとは所縁ゆかりがないと、家治いえはる家督かとくがたおもて右筆ゆうひつよりそのよう調査ちょうさ報告ほうこくけてしまったために、

「これは…」

 稲葉いなば正明まさあきらなんよこしま思惑おもわくなしに、岩田いわた平十郎へいじゅうろう湯殿ゆどのがかり推薦すいせんしたのやもれぬと、家治いえはるはそうおもんでしまい、結果けっか

「そういうことなれば…」

 たまさかには正明まさあきらかおててやるのもかろうと、正明まさあきら推薦すいせんしたがい、岩田いわた平十郎へいじゅうろう水谷みずのや彌之助やのすけ後任こうにん湯殿ゆどのがかりにんじてしまったのだ。

 だがそれもいまとなっては失敗しっぱいであったと、家治いえはるまえひかえる岩田いわた平十郎へいじゅうろうるにつけ、そうおもった。

 重好しげよし所縁ゆかりのある、「戸籍こせきがかり」となった分限ぶげんちょうあらためやく長野ながの善三郎ぜんざぶろう岩田いわた平十郎へいじゅうろう治済はるさだとの「所縁ゆかり」を突止つきとめてくれたからだ。
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