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その夜の入浴 ~将軍・家治は若年寄の田沼意知に湯殿掛の小納戸に代わって、身体を洗うよう命ずる~ 前篇
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家治は暮六つ(午後6時頃)を四半刻(約30分)も回った頃に意知を随えて御殿より玄関へと出ると、玄関外にて控えていた外の従者をも随えて、清水家の下屋敷をあとにし、御城へと戻った。
家治主従が御城に辿り着いたのは酉の中刻、即ち、暮の六つ半(午後7時頃)であった。
表向にてはまず玄関にて月番の留守居である高井土佐守直熈と太田駿河守資倍の二人が家治を出迎えた。
留守居には宿直、つまりは夜勤があり、毎日交代で宿直を勤める。
留守居は今はこの高井直熈を含めて4人おり、4人の留守居が毎日交代で宿直を勤める。
そしてこの時刻―、暮の六つ半(午後7時頃)まで高井直熈と太田資倍の二人の留守居が御城に残っているとなると、畢竟、今宵の宿直の当番は高井直熈と太田資倍の二人の様にも思われるがそうではなかった。
留守居においては宿直は1人であり、2人が勤めることはなく、今宵の宿直の当番は太田資倍一人であり、高井直熈は今宵は宿直の当番ではなかった。
にもかかわらず今時分まで高井直熈が御城に残っていたのは鷹狩りへと出向いた将軍・家治のその帰りを待っていたからだ。
留守居も月番ともなると、仮令、今日の様に宿直の当番ではない日であったとしても、その日に将軍が鷹狩りなどに出向けば、それまでその帰城を待っていなければならなかったのだ。
それは老中と若年寄にも当て嵌まる。
老中や若年寄は留守居とは異なり、宿直はなく、しかし月番はあるので、やはり月番の老中や若年寄も将軍の外出時にはその帰城を待たねばならなかった。
天明3(1783)年12月の今月は老中においては首座の松平周防守康福が、若年寄においては加納遠江守久堅が夫々、月番を勤めており、それ故、松平康福と加納久堅の二人もまた、今時分まで家治の帰城を待っていた。
尤も、松平康福と加納久堅の二人が家治を出迎えたのは玄関ではなく、御成廊下へと通ずる黒書院は囲炉裏之間に面した入側においてであった。
将軍が表向よりその居所である中奥へと戻る際には御成廊下が使われ、その廊下へと通ずるのが黒書院の、それも囲炉裏之間に面した入側であった。
これは老中や若年寄の方が留守居よりも格上であることに由来する。
つまりは留守居と共に、老中や若年寄までも玄関にて将軍を出迎えさせては老中や若年寄が留守居と同格と看做されるやも知れず、しかしそれでは、
「老中や若年寄の格が落ちる…」
というものであり、そこで老中と若年寄にはその「格」―、留守居よりも格上の立場に配慮して、玄関ではなく、より中奥に近い黒書院は囲炉裏之間に面した入側にて出迎えさせるのを仕来りとしていた。
こうして老中と若年寄からの出迎えをも受けた家治は御成廊下を伝って中奥へと足を踏み入れると、そこでは中奥の最高長官たる側用人の水野出羽守忠友とそれに平御側の津田日向守信之の出迎えを受けた。
側用人や側衆といった中奥役人には月番の制度はないが、しかし宿直はあった。
尤もその宿直にしても側用人や、それに側衆の中でも筆頭の御用取次は免除されていた。
それでも水野忠友だけは宿直の義務がないにもかかわらず、今日の様に将軍・家治が鷹狩りなどで外出した折には、家治の帰城を待つのを習わしとし、今日も勿論そうであった。
水野忠友は側用人として御側御用取次の上に位置する中奥の謂わば最高長官ではあるものの、忠友は老中格式としての顔も持合わせており、それ故、忠友は側用人として中奥の最高長官であり乍、表向にある老中の執務室である上御用部屋にて老中と執務に当たる時間が長く、裏を返すとそれだけ中奥にいる時間が短く、中奥の最高長官の地位を部下である御側御用取次に奪われがちであった。
そこで水野忠友としては、
「側用人たる己こそが中奥の本来の最高長官である…」
少しでもそう、側用人たる己の存在を中奥全体に再確認させるべく、今日の様に将軍・家治が鷹狩りに出向いた折には、中奥にて家治の帰城を待つのを習わしとしていたのだ。
「遅くまで勤め御苦労…」
家治は中奥に足を踏み入れるや、まずは忠友を労った。
「帰城が遅くなり、相済まぬな…」
家治は忠友にそう詫びもしたので、忠友を大いに恐縮させた。
「いや、今日は帰途、蠣殻町の清水屋形へと足を伸ばしてのう…、そこで重好と話が盛上がってのう…」
家治はいつもよりも帰りが遅くなった「言訳」をした。無論、その場に定信がいたことまでは打明けなかったが。
一方、忠友としては家治の帰城は遅ければ遅い程、大歓迎であった。
それだけ中奥にて家治の帰城を待っていられる、つまりは中奥に長くいられるからだ。
無論、忠友はその様な「本音」はまさかに、
「口が裂けても…」
家治には言えず、代わりに、「左様でござりましたか…」と応じた上で、
「清水宮内卿殿は今日は蠣殻町にある下屋敷へと偶々、お運びに?」
そう合いの手を入れた。
「左様…、簾中の貞子殿と舟遊びに…、そこで蠣殻町にある下屋敷へも足を、いや、船を向けたそうで、そこへ余が鷹狩りの帰途、蠣殻町にある下屋敷へと立寄るや、重好とそれに貞子殿と出くわしてのう…」
家治もまた、重好と逢えたのは「偶々」であることを強調した。
それに対して忠友も家治のその言葉をすっかり信じた様子で、やはり「左様でござりましたか…」とそう繰返すと、
「されば御湯殿へ…」
汗まみれの家治に入浴を勧めたのであった。
「うむ…」
家治も忠友の勧めに従い、忠友とそれに津田信之の案内にて湯殿へと足を向けた。
湯殿は中奥の中でも梅之間や囲炉裏之間とは廊下を挟んだ向かい側にあり、脱衣所である御上湯と板敷の風呂場からなっており、御上湯には小姓の新見大炊頭正徧とそれに相役の水野相模守貞利、それに湯殿掛の小納戸の石黒官次郎易明とその相役の岩田平十郎定功が夫々、控えていた。
脱衣所である御上湯にて将軍の服を脱がせ、また風呂上がりの将軍の身体を拭い、真新しい着物へと着替えさせるのは小姓、それも宿直の小姓が担当し、今宵は新見正徧と共に水野貞利が宿直を勤めるので、この二人の小姓が将軍・家治の入浴前と後の介助を担当する。
水野貞利は家治が愛息・家基の御伽、それも家基が生前、最期の伽を勤め、家基から大いに寵愛されていた。
一方、水野貞利も家基に良く仕えてくれた。
それ故、家治もこの水野貞利を大いに信頼し、家基が歿した後に小姓に取立て、今に至る。
家治は小姓の中では意次・意知父子の縁者である新見正徧と共に、この水野貞利をも信頼していた。
一方、湯殿掛の石黒官次郎はそうではなかった。
石黒官次郎は今から10年前の安永2(1773)年5月7日に小納戸を拝命し、それが湯殿掛を兼ねる様になったのは8年後―、一昨年の天明元(1781)年11月の末、それも29日のことであった。
その前日の28日、家治は己に湯殿掛の小納戸として良く仕えてくれた竹本九八郎正温を小姓へと昇進させ、そこで竹本九八郎の後任として―、後任の湯殿掛に小納戸の石黒官次郎を据えた次第であった。
尤も、それは「結果論」であり、家治としては別の小納戸に湯殿掛を兼ねさせるつもりであった。
だが「前任者」とも言うべき竹本九八郎が家治に対して、
「是非とも石黒官次郎めに…」
己の後任として湯殿掛を兼ねさせてやって欲しいと、そう陳情したのであった。
竹本九八郎が実の叔母は石黒官次郎が養父である書院番士の石黒四兵衛嵩易に嫁いでおり、そこで、石黒四兵衛は養嗣子である官次郎に竹本九八郎の後任として湯殿掛を兼ねさせるべく、縁者でもある竹本九八郎を頼ったに違いない。
即ち、それこそが竹本九八郎よりの将軍・家治への「陳情」、もとい石黒官次郎の「推挙」であった。
だが家治は最初はその「推挙」に難色を示した。
それと言うのも、石黒官次郎はこの時―、天明元(1781)年11月時点で既に一橋家老であった林肥後守忠篤の実弟であったからだ。
石黒官次郎は実は新番頭を勤めた林藤四郎忠久の五男であり、林藤四郎の嫡子である林忠篤にとっては実の弟に当たる。
その林忠篤が一橋家老を拝命したのはそれより半年前の天明元(1781)年6月のことであり、
「大過なく…」
浦賀奉行を勤めていた忠篤のその「手腕」に家治も期待して、つまりは、
「一橋治済の監視役…」
それを期待して、浦賀奉行より一橋家老へと抜擢した訳だが、しかし結果は家治の「期待」を裏切るものであった。
林忠篤は一橋家老を拝命してから半年、どころか更にその半分にも満たない2ヶ月歩程で、監視対象である筈の一橋治済に、
「すっかりと…」
取込まれてしまっていたのだ。
家治はそのことを相役―、もう一人の一橋家老である、且つ、家治の期待に応えて、
「治済とは決して狎れ合わず…」
あくまで治済の監視役に徹する水谷但馬守勝富より「耳打ち」された。
それ故、家治としてはその様な林忠篤の実弟である石黒官次郎に湯殿掛を兼ねさせることに難色を示したのであった。
否、家治もその当初は石黒官次郎が林忠篤の実弟であるとは気付かず、しかし、竹本九八郎の「推挙」を受けて改めて石黒官次郎の「身許調査」を命じて判明したことであり、その結果に家治は難色を示した訳だ。
だが結局は家治は、
「田安家との関係を悪化させたくはない…」
それが理由で竹本九八郎のその「推挙」を受容れたのであった。
竹本九八郎が大叔母―、九八郎が実父にして普請奉行を勤めたこともある竹本越前守正章が叔母は田安家の始祖である宗武の母堂の本徳院古牟、その人であった。
それ故、竹本家は田安家との所縁が深く、一族には田安家にて仕える者も多い。
その様な竹本一族の、それも始祖・宗武の実母である本徳院古牟の実の姪孫である竹本九八郎の「推挙」を無碍にしては最悪、田安家との関係にまで響いてくるやも知れず、そこで家治は正に、
「断腸の思い…」
竹本九八郎の後任として石黒官次郎に湯殿掛を兼ねさせたのであった。
一方、もう一人の湯殿掛を兼ねる小納戸の岩田平十郎であるが、これはやはり同じ年―、天明元(1781)年の師走は4日に湯殿掛に任じられた。
即ち、その前日の12月3日に湯殿掛を兼ねていた小納戸の水谷彌之助勝里が西之丸小納戸へと異動、横滑りを果たしたことにより、湯殿掛に「空き」が出来、そこに座ったのが岩田平十郎であった。
湯殿掛として将軍・家治に仕えていた本丸小納戸の水谷彌之助を西之丸へと送込んだのが家治当人だとすれば、その水谷彌之助の後任として、小納戸の岩田平十郎に湯殿掛を兼ねさせたのは御側御用取次の稲葉正明であった。
水谷彌之助もまた、竹本九八郎と同様、湯殿掛として家治に良く仕えてくれた。
その水谷彌之助を家治が敢えて西之丸へと送込んだのは、
「次期将軍たる家斉を掣肘する為…」
それが目的であった。
家治は一応、家斉を、
「将軍家御養君」
次期将軍として西之丸に迎え入れはしたものの、心の底から家斉を次期将軍として認知した訳ではなかった。
「家斉に隙あらば…」
家治はいつにても、家斉を次期将軍の座より引きずり下ろすつもりであり、そこで家斉の「監視役」として水谷彌之助を送込んだのであった。
水谷彌之助は実は一橋家老の、それも林忠篤とは異なり、治済の「監視役」に徹する水谷勝富の養嗣子であった。
養嗣子故、勝富と彌之助との間には血の繋がりはない。
だが、彌之助は勝富の謂わば、
「薫陶を受けて…」
育ったに違いなく、家治はその点を買って水谷彌之助を西之丸へと、家斉の「監視役」として送込んだのであった。
そして水谷彌之助の場合、林忠篤とは異なり、つまりは家治のその様な「期待」を裏切ることなく、家斉の「監視役」に徹している様で、家斉も随分と居心地の悪い思いをしていると聞く。
さて、その水谷彌之助の後任の湯殿掛として、御側御用取次の稲葉正明が推挙したのが岩田平十郎であった。
「されば岩田平十郎は水谷彌之助とは同期なれば…」
それが正明が家治に告げた推薦理由であった。
正明によれば岩田平十郎は水谷彌之助と同じく、安永2(1773)年5月7日に小納戸に取立てられ、更に、先に湯殿掛に任じられた石黒官次郎にしても同様に安永2(1773)年5月7日に小納戸に取立てられたので、それ故、石黒官次郎にとっても同期である岩田平十郎が新たに湯殿掛に加われば、石黒官次郎も心強いだろうと、正明はその意味でも岩田平十郎を推薦したそうな。
だが家治はその「推薦理由」が表向きのものに過ぎないと見切っていた。
この時点で家治は既に、稲葉正明と一橋治済とが通じていることに気付いており、
「その様な正明が岩田平十郎なる小納戸に余が湯殿掛を兼ねさせようと欲するからには、岩田平十郎なる者もきっと、治済めと所縁があるに相違あるまい…」
家治はそう直感し、そこで岩田平十郎の「身許調査」を命じた。
だがその結果は案に相違したもので、岩田平十郎と一橋家との、つまりは治済との「所縁」は見当たらなかった。
否、表右筆の中でも「戸籍係」の分限帳改役が深く、徹底的に調査していれば、岩田平十郎と一橋家との所縁について明らかにすることが出来たやも知れぬ。
だがこの時―、天明元(1781)年8月までの間にそれまで分限帳改役を兼ねていた表右筆が皆、退職した為に、家督方の表右筆が分限帳改役を兼ねており、そこで家治も石黒官次郎や岩田平十郎の「身許調査」については彼等、家督方の表右筆に頼むより外になかった。
家督方とは家督相続担当の表右筆であり、家督相続の謂わば「エキスパート」であり、「戸籍係」の分限帳改方と同様、相続には欠かせない系図を検めることもあった。
だが本職の「戸籍係」である分限帳改役とは異なり、家督方はあくまで、相続が適正に行われたかどうか、それを検めるのを職掌としていたので、「戸籍係」である分限帳改方の様に提出された系図が真正なものかどうか、それを徹底的に検めることまではせず、またその技術も持合わせてはいなかった。
それ故、その様な家督方であるので、石黒官次郎が一橋家老の林忠篤と実の兄弟であることは、その程度なら突止められたが、しかし、岩田平十郎が祖父を介して、或いは実妹を介して夫々、一橋家と所縁があったことまでは突止められなかった。
家治より岩田平十郎の「身許調査」をも命じられた家督方の表右筆はその様な、
「見落としある…」
調査報告をそのまま家治へと提出し、家治もそれが真正のものだと、つまりは岩田平十郎は治済との所縁はないと信じてしまった。
そこで家治もこれはと、首を傾げたものである。
家治はてっきり、岩田平十郎は治済と所縁があるに違いないと、そう信じて疑わなかったからだ。
それが岩田平十郎は治済とは所縁がないと、家治は家督方の表右筆よりその様な調査報告を受けてしまった為に、
「これは…」
稲葉正明は何ら邪な思惑なしに、岩田平十郎を湯殿掛に推薦したのやも知れぬと、家治はそう思い込んでしまい、結果、
「そういうことなれば…」
偶さかには正明の顔を立ててやるのも良かろうと、正明の推薦に従い、岩田平十郎を水谷彌之助の後任の湯殿掛に任じてしまったのだ。
だがそれも今となっては失敗であったと、家治は目の前に控える岩田平十郎を見るにつけ、そう思った。
重好と所縁のある、「戸籍係」となった分限帳改役の長野善三郎が岩田平十郎と治済との「所縁」を突止めてくれたからだ。
家治主従が御城に辿り着いたのは酉の中刻、即ち、暮の六つ半(午後7時頃)であった。
表向にてはまず玄関にて月番の留守居である高井土佐守直熈と太田駿河守資倍の二人が家治を出迎えた。
留守居には宿直、つまりは夜勤があり、毎日交代で宿直を勤める。
留守居は今はこの高井直熈を含めて4人おり、4人の留守居が毎日交代で宿直を勤める。
そしてこの時刻―、暮の六つ半(午後7時頃)まで高井直熈と太田資倍の二人の留守居が御城に残っているとなると、畢竟、今宵の宿直の当番は高井直熈と太田資倍の二人の様にも思われるがそうではなかった。
留守居においては宿直は1人であり、2人が勤めることはなく、今宵の宿直の当番は太田資倍一人であり、高井直熈は今宵は宿直の当番ではなかった。
にもかかわらず今時分まで高井直熈が御城に残っていたのは鷹狩りへと出向いた将軍・家治のその帰りを待っていたからだ。
留守居も月番ともなると、仮令、今日の様に宿直の当番ではない日であったとしても、その日に将軍が鷹狩りなどに出向けば、それまでその帰城を待っていなければならなかったのだ。
それは老中と若年寄にも当て嵌まる。
老中や若年寄は留守居とは異なり、宿直はなく、しかし月番はあるので、やはり月番の老中や若年寄も将軍の外出時にはその帰城を待たねばならなかった。
天明3(1783)年12月の今月は老中においては首座の松平周防守康福が、若年寄においては加納遠江守久堅が夫々、月番を勤めており、それ故、松平康福と加納久堅の二人もまた、今時分まで家治の帰城を待っていた。
尤も、松平康福と加納久堅の二人が家治を出迎えたのは玄関ではなく、御成廊下へと通ずる黒書院は囲炉裏之間に面した入側においてであった。
将軍が表向よりその居所である中奥へと戻る際には御成廊下が使われ、その廊下へと通ずるのが黒書院の、それも囲炉裏之間に面した入側であった。
これは老中や若年寄の方が留守居よりも格上であることに由来する。
つまりは留守居と共に、老中や若年寄までも玄関にて将軍を出迎えさせては老中や若年寄が留守居と同格と看做されるやも知れず、しかしそれでは、
「老中や若年寄の格が落ちる…」
というものであり、そこで老中と若年寄にはその「格」―、留守居よりも格上の立場に配慮して、玄関ではなく、より中奥に近い黒書院は囲炉裏之間に面した入側にて出迎えさせるのを仕来りとしていた。
こうして老中と若年寄からの出迎えをも受けた家治は御成廊下を伝って中奥へと足を踏み入れると、そこでは中奥の最高長官たる側用人の水野出羽守忠友とそれに平御側の津田日向守信之の出迎えを受けた。
側用人や側衆といった中奥役人には月番の制度はないが、しかし宿直はあった。
尤もその宿直にしても側用人や、それに側衆の中でも筆頭の御用取次は免除されていた。
それでも水野忠友だけは宿直の義務がないにもかかわらず、今日の様に将軍・家治が鷹狩りなどで外出した折には、家治の帰城を待つのを習わしとし、今日も勿論そうであった。
水野忠友は側用人として御側御用取次の上に位置する中奥の謂わば最高長官ではあるものの、忠友は老中格式としての顔も持合わせており、それ故、忠友は側用人として中奥の最高長官であり乍、表向にある老中の執務室である上御用部屋にて老中と執務に当たる時間が長く、裏を返すとそれだけ中奥にいる時間が短く、中奥の最高長官の地位を部下である御側御用取次に奪われがちであった。
そこで水野忠友としては、
「側用人たる己こそが中奥の本来の最高長官である…」
少しでもそう、側用人たる己の存在を中奥全体に再確認させるべく、今日の様に将軍・家治が鷹狩りに出向いた折には、中奥にて家治の帰城を待つのを習わしとしていたのだ。
「遅くまで勤め御苦労…」
家治は中奥に足を踏み入れるや、まずは忠友を労った。
「帰城が遅くなり、相済まぬな…」
家治は忠友にそう詫びもしたので、忠友を大いに恐縮させた。
「いや、今日は帰途、蠣殻町の清水屋形へと足を伸ばしてのう…、そこで重好と話が盛上がってのう…」
家治はいつもよりも帰りが遅くなった「言訳」をした。無論、その場に定信がいたことまでは打明けなかったが。
一方、忠友としては家治の帰城は遅ければ遅い程、大歓迎であった。
それだけ中奥にて家治の帰城を待っていられる、つまりは中奥に長くいられるからだ。
無論、忠友はその様な「本音」はまさかに、
「口が裂けても…」
家治には言えず、代わりに、「左様でござりましたか…」と応じた上で、
「清水宮内卿殿は今日は蠣殻町にある下屋敷へと偶々、お運びに?」
そう合いの手を入れた。
「左様…、簾中の貞子殿と舟遊びに…、そこで蠣殻町にある下屋敷へも足を、いや、船を向けたそうで、そこへ余が鷹狩りの帰途、蠣殻町にある下屋敷へと立寄るや、重好とそれに貞子殿と出くわしてのう…」
家治もまた、重好と逢えたのは「偶々」であることを強調した。
それに対して忠友も家治のその言葉をすっかり信じた様子で、やはり「左様でござりましたか…」とそう繰返すと、
「されば御湯殿へ…」
汗まみれの家治に入浴を勧めたのであった。
「うむ…」
家治も忠友の勧めに従い、忠友とそれに津田信之の案内にて湯殿へと足を向けた。
湯殿は中奥の中でも梅之間や囲炉裏之間とは廊下を挟んだ向かい側にあり、脱衣所である御上湯と板敷の風呂場からなっており、御上湯には小姓の新見大炊頭正徧とそれに相役の水野相模守貞利、それに湯殿掛の小納戸の石黒官次郎易明とその相役の岩田平十郎定功が夫々、控えていた。
脱衣所である御上湯にて将軍の服を脱がせ、また風呂上がりの将軍の身体を拭い、真新しい着物へと着替えさせるのは小姓、それも宿直の小姓が担当し、今宵は新見正徧と共に水野貞利が宿直を勤めるので、この二人の小姓が将軍・家治の入浴前と後の介助を担当する。
水野貞利は家治が愛息・家基の御伽、それも家基が生前、最期の伽を勤め、家基から大いに寵愛されていた。
一方、水野貞利も家基に良く仕えてくれた。
それ故、家治もこの水野貞利を大いに信頼し、家基が歿した後に小姓に取立て、今に至る。
家治は小姓の中では意次・意知父子の縁者である新見正徧と共に、この水野貞利をも信頼していた。
一方、湯殿掛の石黒官次郎はそうではなかった。
石黒官次郎は今から10年前の安永2(1773)年5月7日に小納戸を拝命し、それが湯殿掛を兼ねる様になったのは8年後―、一昨年の天明元(1781)年11月の末、それも29日のことであった。
その前日の28日、家治は己に湯殿掛の小納戸として良く仕えてくれた竹本九八郎正温を小姓へと昇進させ、そこで竹本九八郎の後任として―、後任の湯殿掛に小納戸の石黒官次郎を据えた次第であった。
尤も、それは「結果論」であり、家治としては別の小納戸に湯殿掛を兼ねさせるつもりであった。
だが「前任者」とも言うべき竹本九八郎が家治に対して、
「是非とも石黒官次郎めに…」
己の後任として湯殿掛を兼ねさせてやって欲しいと、そう陳情したのであった。
竹本九八郎が実の叔母は石黒官次郎が養父である書院番士の石黒四兵衛嵩易に嫁いでおり、そこで、石黒四兵衛は養嗣子である官次郎に竹本九八郎の後任として湯殿掛を兼ねさせるべく、縁者でもある竹本九八郎を頼ったに違いない。
即ち、それこそが竹本九八郎よりの将軍・家治への「陳情」、もとい石黒官次郎の「推挙」であった。
だが家治は最初はその「推挙」に難色を示した。
それと言うのも、石黒官次郎はこの時―、天明元(1781)年11月時点で既に一橋家老であった林肥後守忠篤の実弟であったからだ。
石黒官次郎は実は新番頭を勤めた林藤四郎忠久の五男であり、林藤四郎の嫡子である林忠篤にとっては実の弟に当たる。
その林忠篤が一橋家老を拝命したのはそれより半年前の天明元(1781)年6月のことであり、
「大過なく…」
浦賀奉行を勤めていた忠篤のその「手腕」に家治も期待して、つまりは、
「一橋治済の監視役…」
それを期待して、浦賀奉行より一橋家老へと抜擢した訳だが、しかし結果は家治の「期待」を裏切るものであった。
林忠篤は一橋家老を拝命してから半年、どころか更にその半分にも満たない2ヶ月歩程で、監視対象である筈の一橋治済に、
「すっかりと…」
取込まれてしまっていたのだ。
家治はそのことを相役―、もう一人の一橋家老である、且つ、家治の期待に応えて、
「治済とは決して狎れ合わず…」
あくまで治済の監視役に徹する水谷但馬守勝富より「耳打ち」された。
それ故、家治としてはその様な林忠篤の実弟である石黒官次郎に湯殿掛を兼ねさせることに難色を示したのであった。
否、家治もその当初は石黒官次郎が林忠篤の実弟であるとは気付かず、しかし、竹本九八郎の「推挙」を受けて改めて石黒官次郎の「身許調査」を命じて判明したことであり、その結果に家治は難色を示した訳だ。
だが結局は家治は、
「田安家との関係を悪化させたくはない…」
それが理由で竹本九八郎のその「推挙」を受容れたのであった。
竹本九八郎が大叔母―、九八郎が実父にして普請奉行を勤めたこともある竹本越前守正章が叔母は田安家の始祖である宗武の母堂の本徳院古牟、その人であった。
それ故、竹本家は田安家との所縁が深く、一族には田安家にて仕える者も多い。
その様な竹本一族の、それも始祖・宗武の実母である本徳院古牟の実の姪孫である竹本九八郎の「推挙」を無碍にしては最悪、田安家との関係にまで響いてくるやも知れず、そこで家治は正に、
「断腸の思い…」
竹本九八郎の後任として石黒官次郎に湯殿掛を兼ねさせたのであった。
一方、もう一人の湯殿掛を兼ねる小納戸の岩田平十郎であるが、これはやはり同じ年―、天明元(1781)年の師走は4日に湯殿掛に任じられた。
即ち、その前日の12月3日に湯殿掛を兼ねていた小納戸の水谷彌之助勝里が西之丸小納戸へと異動、横滑りを果たしたことにより、湯殿掛に「空き」が出来、そこに座ったのが岩田平十郎であった。
湯殿掛として将軍・家治に仕えていた本丸小納戸の水谷彌之助を西之丸へと送込んだのが家治当人だとすれば、その水谷彌之助の後任として、小納戸の岩田平十郎に湯殿掛を兼ねさせたのは御側御用取次の稲葉正明であった。
水谷彌之助もまた、竹本九八郎と同様、湯殿掛として家治に良く仕えてくれた。
その水谷彌之助を家治が敢えて西之丸へと送込んだのは、
「次期将軍たる家斉を掣肘する為…」
それが目的であった。
家治は一応、家斉を、
「将軍家御養君」
次期将軍として西之丸に迎え入れはしたものの、心の底から家斉を次期将軍として認知した訳ではなかった。
「家斉に隙あらば…」
家治はいつにても、家斉を次期将軍の座より引きずり下ろすつもりであり、そこで家斉の「監視役」として水谷彌之助を送込んだのであった。
水谷彌之助は実は一橋家老の、それも林忠篤とは異なり、治済の「監視役」に徹する水谷勝富の養嗣子であった。
養嗣子故、勝富と彌之助との間には血の繋がりはない。
だが、彌之助は勝富の謂わば、
「薫陶を受けて…」
育ったに違いなく、家治はその点を買って水谷彌之助を西之丸へと、家斉の「監視役」として送込んだのであった。
そして水谷彌之助の場合、林忠篤とは異なり、つまりは家治のその様な「期待」を裏切ることなく、家斉の「監視役」に徹している様で、家斉も随分と居心地の悪い思いをしていると聞く。
さて、その水谷彌之助の後任の湯殿掛として、御側御用取次の稲葉正明が推挙したのが岩田平十郎であった。
「されば岩田平十郎は水谷彌之助とは同期なれば…」
それが正明が家治に告げた推薦理由であった。
正明によれば岩田平十郎は水谷彌之助と同じく、安永2(1773)年5月7日に小納戸に取立てられ、更に、先に湯殿掛に任じられた石黒官次郎にしても同様に安永2(1773)年5月7日に小納戸に取立てられたので、それ故、石黒官次郎にとっても同期である岩田平十郎が新たに湯殿掛に加われば、石黒官次郎も心強いだろうと、正明はその意味でも岩田平十郎を推薦したそうな。
だが家治はその「推薦理由」が表向きのものに過ぎないと見切っていた。
この時点で家治は既に、稲葉正明と一橋治済とが通じていることに気付いており、
「その様な正明が岩田平十郎なる小納戸に余が湯殿掛を兼ねさせようと欲するからには、岩田平十郎なる者もきっと、治済めと所縁があるに相違あるまい…」
家治はそう直感し、そこで岩田平十郎の「身許調査」を命じた。
だがその結果は案に相違したもので、岩田平十郎と一橋家との、つまりは治済との「所縁」は見当たらなかった。
否、表右筆の中でも「戸籍係」の分限帳改役が深く、徹底的に調査していれば、岩田平十郎と一橋家との所縁について明らかにすることが出来たやも知れぬ。
だがこの時―、天明元(1781)年8月までの間にそれまで分限帳改役を兼ねていた表右筆が皆、退職した為に、家督方の表右筆が分限帳改役を兼ねており、そこで家治も石黒官次郎や岩田平十郎の「身許調査」については彼等、家督方の表右筆に頼むより外になかった。
家督方とは家督相続担当の表右筆であり、家督相続の謂わば「エキスパート」であり、「戸籍係」の分限帳改方と同様、相続には欠かせない系図を検めることもあった。
だが本職の「戸籍係」である分限帳改役とは異なり、家督方はあくまで、相続が適正に行われたかどうか、それを検めるのを職掌としていたので、「戸籍係」である分限帳改方の様に提出された系図が真正なものかどうか、それを徹底的に検めることまではせず、またその技術も持合わせてはいなかった。
それ故、その様な家督方であるので、石黒官次郎が一橋家老の林忠篤と実の兄弟であることは、その程度なら突止められたが、しかし、岩田平十郎が祖父を介して、或いは実妹を介して夫々、一橋家と所縁があったことまでは突止められなかった。
家治より岩田平十郎の「身許調査」をも命じられた家督方の表右筆はその様な、
「見落としある…」
調査報告をそのまま家治へと提出し、家治もそれが真正のものだと、つまりは岩田平十郎は治済との所縁はないと信じてしまった。
そこで家治もこれはと、首を傾げたものである。
家治はてっきり、岩田平十郎は治済と所縁があるに違いないと、そう信じて疑わなかったからだ。
それが岩田平十郎は治済とは所縁がないと、家治は家督方の表右筆よりその様な調査報告を受けてしまった為に、
「これは…」
稲葉正明は何ら邪な思惑なしに、岩田平十郎を湯殿掛に推薦したのやも知れぬと、家治はそう思い込んでしまい、結果、
「そういうことなれば…」
偶さかには正明の顔を立ててやるのも良かろうと、正明の推薦に従い、岩田平十郎を水谷彌之助の後任の湯殿掛に任じてしまったのだ。
だがそれも今となっては失敗であったと、家治は目の前に控える岩田平十郎を見るにつけ、そう思った。
重好と所縁のある、「戸籍係」となった分限帳改役の長野善三郎が岩田平十郎と治済との「所縁」を突止めてくれたからだ。
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