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佐野善左衛門は松平定信に扮した一橋治済の仕掛けた「ワナ」に更に嵌まる ~矢部主膳の「虚言」~

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 村上むらかみ半左衛門はんざえもん辞去じきょすると治済はるさだ岩本いわもと喜内きない下谷したや廣小路ひろこうじにある松平まつだいら忠香ただよし屋敷やしきへと差向さしむけた。「出来立できたて」の偽造ぎぞう受領書じゅりょうしょわたためであった。

 こうして岩本いわもと喜内きない偽造ぎぞう受領書じゅりょうしょたずさえ、忠香ただよしもとへとあしはこび、忠香ただよし偽造ぎぞう受領書じゅりょうしょ差出さしだした。

 忠香ただよしはその偽造ぎぞう受領書じゅりょうしょ押戴おしいただくと、喜内きない奥座敷おくざしき別間べつまへとひかえさせた。

 いまは昼八つ(午後2時頃)を四半刻しはんとき(約30分)ほどまわったころであり、さら四半刻しはんとき(約30分)ほどもすれば、すなわち、ひるの八つ半(午後3時頃)には佐野さの善左衛門ぜんざえもんおとずれる予定よていであったからだ。

 たしてそれから四半刻しはんとき(約30分)もたないうちに佐野さの善左衛門ぜんざえもんおとずれた。

 佐野さの善左衛門ぜんざえもん今日きょう元旦がんたんは暁八つ(午前2時頃)より朝五つ(午前8時頃)までの勤務シフトであり、朝番あさばん当番とうばんではなく、それゆえ生憎あいにく将軍しょうぐん家治いえはるへの拝謁はいえつかなわなかった。

 善左衛門ぜんざえもんあさの五つ半(午前9時頃)に屋敷やしきかえくと、それから朝風呂あさぶろかりとこいた。

 それが昼四つ(午前10時頃)であり、善左衛門ぜんざえもんはそれから二刻にとき(約4時間)ほど仮眠かみんり、昼八つ(午後2時頃)に屋敷やしきて、ここ下谷したや廣小路ひろこうじにある忠香ただよし屋敷やしき辿たどいた次第しだいであった。

 忠香ただよし善左衛門ぜんざえもん奥座敷おくざしきへと案内あんあいすると、そこでとなり別間べつまにていきころしている岩本いわもと喜内きないより受取うけとったばかりに偽造ぎぞう受領書じゅりょうしょ善左衛門ぜんざえもんへと「転送てんそう」したのであった。

 一方いっぽう善左衛門ぜんざえもんはそうともらずに、偽造ぎぞう受領書じゅりょうたりにしていきんだものである。

「これは…」

 善左衛門ぜんざえもんはどうやらそれが「真正しんせい」の受領書じゅりょうしょだとしんじた様子ようすであった。

 忠香ただよしもそうとさっすると、善左衛門ぜんざえもんさら誤解ごかい誤導ごどうさせるべく、

「されば山城殿やましろどのにおかれては、この忠香ただよしよりそなたがことを…、そなたを供弓ともゆみ推挙すいきょしてしいとたのむや、それを快諾かいだくなされてのう…、そのあかしとしてそれな、受領書じゅりょうしょまでしたためられたのだ…」

 そう畳掛たたみかけたのであった。

 すると善左衛門ぜんざえもん忠香ただよし期待きたいしたとおりの反応はんのうしめした。

 いや、それは忠香ただよしだけではない、いまとなり別間べつまにていきころ岩本いわもと喜内きないや、さらには治済はるさだにも共通きょうつうするものであろう。

 すなわち、善左衛門ぜんざえもんおのれ用立ようだてた50両ものまいない意知おきとも受取うけとってくれた、しかもその見返みかえりとして供弓ともゆみ推挙すいきょしてくれるものと、すっかりしんんだ様子ようすのぞかせたのであった。

 佐野さの善左衛門ぜんざえもん忠香ただよしもと辞去じきょしたあと岩本いわもと喜内きない辞去じきょした。

 岩本いわもと喜内きないはそれから一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしきかえくと、大奥おおおくにて主君しゅくん治済はるさだ今日きょうの「首尾しゅび」を、すなわち、佐野さの善左衛門ぜんざえもん様子ようすかたってかせたのだ。

 すると治済はるさだもその「首尾しゅび」にはおおいに満足まんぞくさせられた。

「これで善左衛門ぜんざえもんめが期待きたいはんして供弓ともゆみえらばれなかったとなれば、善左衛門ぜんざえもんめ、山城おきともめに裏切うらぎられたと、あるいはだまされたとおもい、山城おきともめへの殺意さつい芽生めばえさせるであろうぞ…」

 治済はるさだはそんな期待きたいくちにした。

 そして実際じっさい治済はるさだ期待きたいしたとおり、佐野さの善左衛門ぜんざえもん供弓ともゆみえらばれることはなかった。

 正月しょうがつ4日の鷹狩たかがりはじめにおいて佐野さの善左衛門ぜんざえもんぞくする新番しんばん3番組ばんぐみよりは前回ぜんかい―、木下川きねがわほとりにおける鷹狩たかがりにつづいて宮重みやしげ久右衛門ひさえもん河嶋かわしま八右衛門はちえもん矢部やべ主膳しゅぜんの3人にくわえて、あらたに佐々さっさ與右衛門よえもん政熊まさくま松崎まつざき熊五郎くまごろう俊俾としまさの2人のわせて5人が供弓ともゆみえらばれたのであった。

 そして佐野さの善左衛門ぜんざえもんはというと、

「その大勢おおぜい…」

 群衆モブともしょうせられる勢子せこであった。

 供弓ともゆみのメンバーが発表はっぴょうされたのは鷹狩たかがりはじめ前日ぜんじつの1月3日、さんにち最後さいごであり、新番しんばん場合ばあい、その詰所つめしょである新番所しんばんしょにおいて組頭くみがしらより居並いなら番士ばんしまえにして発表はっぴょうされる。

 無論むろん新番所しんばんしょには一時いちどきに120人にもおよ新番しんばん全員ぜんいん収容しゅうよう出来できほどのスペースはないので、まず1番組ばんぐみ20人、つづいて2番組ばんぐみ20人、それから3番組ばんぐみ20人といった具合ぐあい順番じゅんばん発表はっぴょうされる。

 佐野さの善左衛門ぜんざえもんはそのときまで当然とうぜん組頭くみがしらよりおのれ読上よみあげられるものと、つまりは供弓ともゆみのメンバーのなかふくまれているものとしんじてうたがわなかった。

 だが実際じっさいには組頭くみがしらより佐野さの善左衛門ぜんざえもん読上よみあげられることはなく、善左衛門ぜんざえもん一瞬いっしゅん

のがしたのか…」

 あるいは組頭くみがしらおのれわすれたのではあるまいかと、そうおもったほどであった。いや無理むりやりそうおももうとした。

 そこで善左衛門ぜんざえもんおもわず、

「あの…、この善左衛門ぜんざえもんは…」

 組頭くみがしらにそうたしかめたほどであった。

 それにたいして組頭くみがしらはと言うと、善左衛門ぜんざえもん質問しつもん趣旨しゅしからず、

「さればそなたは勢子せこぞ」

 さも当然とうぜんといった調子ちょうし斬捨きりすてた。

 いや組頭くみがしらにしてみれば斬捨きりすてる意思いしはなかったであろう。なにしろ鷹狩たかがりにおいて供弓ともゆみえらばれなかったもの勢子せこつとめるのが当然とうぜんであったからだ。

 だが佐野さの善左衛門ぜんざえもんにしてみれば斬捨きりすてられたも同然どうぜんであった。なにしろ意知おきともには新番頭しんばんがしら松平まつだいら忠香ただよしかいして50両ものまいないおくったのだ。

 おのれ供弓ともゆみ推挙すいきょしてくれることを条件じょうけんに50両ものまいないおくったにもかかわらず、ふたけてみれば勢子せことは、これでは斬捨きりすてられたも、いや詐欺さぎったも同然どうぜんであった。

意知おきともおれだましたのかっ!」

 善左衛門ぜんざえもんはそうさけびたい衝動しょうどうられ、それをおさえるのに苦労くろうした。

 そんな善左衛門ぜんざえもんこえけるものがあった。だれあろう、矢部やべ主膳しゅぜんであった。

善左衛門ぜんざえもん如何いかがいたした?」

 矢部やべ主膳しゅぜん如何いかにも親切しんせつそうにこえけてきた。

「あっ…、これは矢部やべ殿どの…」

顔色かおいろすぐれぬようだが…」

「いえ、その…」

「もしおれければはなしくぞ?」

 矢部やべ主膳しゅぜんはそう畳掛たたみかけると、善左衛門ぜんざえもん新番所前しんばんしょまえ廊下ろうかへといざなった。

 それにたいして善左衛門ぜんざえもん素直すなおにそれにしたがい、新番所しんばんしょた。

 どうせつぎは4番組ばんぐみ番士ばんしが3番組ばんぐみ番士ばんし入替いれかわりに、ここ新番所しんばんしょあつまり、供弓ともゆみのメンバーが発表はっぴょうされることになるので、善左衛門ぜんざえもんたち3番組ばんぐみ番士ばんしすみやかにここ新番所しんばんしょより退出たいしゅつしなければならなかったからだ。

 こうして善左衛門ぜんざえもん矢部やべ主膳しゅぜんあとつづいて新番所しんばんしょよりそのまえ廊下ろうかると、さらまえ廊下ろうかめんしたたまりへとあしはこんだ。

 そのたまりにおいて善左衛門ぜんざえもん矢部やべ主膳しゅぜんかいうと、これまでの経緯いきさつかたってかせた。

 矢部やべ主膳しゅぜん善左衛門ぜんざえもんはなしをすっかりえるや、まずは「成程なるほどのう…」と相槌あいづちったうえで、

「なれど…、50両では無理むりだったやもれぬな…」

 善左衛門ぜんざえもんにそうささやいたのであった。

「ともうされると?」

「うむ…、明日あす鷹狩たかがりにおける供弓ともゆみだがの、あらたに佐々さっさ與右衛門よえもん松崎まつざき熊五郎くまごろう二人ふたりえらばれたであろう?」

如何いかにも…」

「さればここだけのはなし明日あす鷹狩たかがりはじめにおける供弓ともゆみだが前回ぜんかい…、木下川きねがわにおける供弓ともゆみおな面子めんつでと…、一度いちどはそうまりかけたそうなのだが、なれどそこへ佐々さっさ與右衛門よえもん松崎まつざき熊五郎くまごろう二人ふたり割込わりこんでたそうな…」

割込わりこむ?」

左様さよう…、されば一昨日おととい…、元旦がんたんのことだが、佐々さっさ與右衛門よえもん松崎まつざき熊五郎くまごろう二人ふたりなん各々おのおの、百両もの金子きんす若年寄わかどしより田沼たぬま山城守やましろのかみさまおくったそうな…」

なんと…」

佐々さっさ與右衛門よえもんにしろ松崎まつざき熊五郎くまごろうにしろ、なんとしてでも供弓ともゆみえらばれたかったのであろうよ…、そこで若年寄わかどしより田沼たぬまさままいないおくったのであろうよ…、いや、それがためにその翌日よくじつ…、つまりは昨日きのうのことだが急遽きゅうきょ組頭くみがしらてんこえったそうな…」

てんこえ…、それはつまりは、佐々さっさ與右衛門よえもん松崎まつざき熊五郎くまごろう二人ふたり供弓ともゆみえらんでやれ、との田沼たぬまさまこえにて?」

 善左衛門ぜんざえもんたしかめるようたずねると、矢部やべ主膳しゅぜんうなずいた。

いや組頭くみがしらきゅうなことゆえおおいに困惑こんわくしたそうだが、なれどてんこえともなれば到底とうていいなやはあるまいて、そこで…」

「この善左衛門ぜんざえもんとそれに飯室いいむろ三郎兵衛さぶろうべえわりったと?」

 善左衛門ぜんざえもん同様どうよう前回ぜんかい木下川きねがわほとり鷹狩たかがりにおける供弓ともゆみであった飯室いいむろ三郎兵衛さぶろうべえ今回こんかい―、明日あす鷹狩たかがりはじめにおける供弓ともゆみのメンバーかられていた。

左様さよう…、いや、これは組頭くみがしらよりひそかにいたはなしなのだが…」

 矢部やべ主膳しゅぜんはそうこえひそませたものだが、しかし、事実じじつちがう。

 事実じじつ矢部やべ主膳しゅぜんこそが元凶げんきょうであった。

 すなわち、明日あす鷹狩たかがりはじめにおける供弓ともゆみのメンバーをめたのは矢部やべ主膳しゅぜんであり、組頭くみがしらはそれにしたがったにぎず、そこにてんこえなど、つまりは意知おきともの「横車よこぐるま」など存在そんざいしていなかった。

 だが善左衛門ぜんざえもんはそうともらずに矢部やべ主膳しゅぜんいま言葉ことば、それも虚言きょげんけた様子ようすであった。
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