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内通 ~西之丸目附・岩本内膳正正利を介しての一橋治済への内報(リーク)~
将軍・家治が西之丸にて愛息・家基の毒見の体制を「再確認」したその翌々日、西之丸目附の岩本内膳正正利が一橋家上屋敷を訪れた。
「実娘、於秀の方を見舞う為…」
それが岩本正利が一橋家|上屋敷》かみやしき》を訪れた、「名目」であり、事実、正利は於秀の方が住まう大奥へと―、一橋家上屋敷の中にある大奥、それも奥女中の空間である御殿向へと通され、そこで腹が膨らみ始めた於秀の方と面会を果たした。
だが岩本正利は態々、実の娘の顔を見る為だけにここ、一橋家上屋敷は大奥へと足を運んだ訳ではない。
岩本正利が一橋大奥へと足を運んだ「真の理由」だが、
「一昨日、将軍・家治が不意に西之丸を訪ねた…」
それを一橋治済に伝える為であった。
その為には一橋家上屋敷の表向、言うなれば男の空間では不適当であった。
それと言うのも、家老の目が光っているからだ。
御三卿家老は公儀より御三卿の屋敷へと派され、それ故にその顔は御三卿ではなく公儀に向いており、御三卿には尻を向けていた。
つまりは御三卿家老は御三卿の家臣に非ずして、それどころか御三卿を監視対象とし、公儀もそれを御三卿家老に期待していた。
それが証拠に御三卿家老の定員は2人であり、平日は御三卿家老は毎日、交代で登城する。
御三卿は平日登城が許されていた。
と言っても、「半役人」とも称される雁間詰衆の様に、登城が義務ではなかった。
要は登城してもしなくても良い、御三卿の自由であった。
それ故、御三卿は、
「その時の気分次第で…」
登城することもあれば、登城しないこともあり、そこで御三卿の監視役たる家老の定員は2人と定められたのであった。
仮に御三卿家老が1人であれば、御三卿が「悪さ」をするのも可能だからだ。
御三卿が御城へと登城せずに上屋敷にて大人しくしていれば良いが、しかしそうではなく、御城へと登城した場合、監視役たる家老も当然、御三卿に随い、御城へと登城することになるが、その時、家老が1人であれば、当たり前だが、上屋敷には家老が御三卿共々、不在となる。
その場合、御三卿の意を受けた御側御用人か番頭、或いは御用人辺りが御三卿に成代わり、「悪さ」をしないとも限らない。
御三卿の側用人や番頭、用人もまた、その身はあくまで、
「御三卿の監視役…」
それであり、公儀からもそれを期待されていた。
だが実際には家老とは異なり、彼等は御三卿に取込まれる例が多く、ここ一橋家においてもそうであった。
公儀もそれを予期し、そこで家老の定員を1人ではなく2人としたのだ。
仮に家老の内、1人が御城へと登城しても、もう1人の家老が上屋敷に残っておれば、
「監視役たる家老が御三卿に随い、御城へと登城、その隙に―、家老が御三卿と共に上屋敷を留守にした隙に御三卿の意を受けた側用人たちが御三卿に代わり悪だくみ…」
それを防ぐことが出来るからだ。
尤も、それにも例外はあり、
「如何に御三卿家老と雖も、大奥までは目を光らせられない」
というものであった。
御三卿家老も、大奥には足を踏み入れられず、それ故、その大奥にて御三卿に「悪だくみ」をされれば、家老も「お手上げ」であった。
岩本正利が大奥へと足を運んだのも正しくその為であり、それは即ち、「悪だくみ」に外ならない。
「一昨日、将軍・家治が不意に西之丸を訪ねた…」
正利がその事実を治済に伝えるのに態々、大奥を選んだのは、家老に聞かれては拙いからだ。
西之丸目附たる岩本正利が一橋治済に対して、将軍・家治の行動を内報している―、それ自体、家老に把握されては正利としては、それに治済にしても非常に困る。後暗いところがあるからだ。
西之丸目附たる岩本正利が将軍・家治の行動を一橋治済へと「内報」をするにつき、真実、正利に後暗いところがなければ、
「正々堂々…」
家老の目が光る表向にて治済の耳へと入れられる筈であった。
だがそうではなく大奥を選んだということは正利に、そして治済にとってもそうだろう、後暗いところがあるからで、ひいてはそれは「悪だくみ」であった。
さて、岩本正利は将軍・家治が不意に西之丸を訪れた一昨日のそれも日中、その日は本番、つまりは宿直の為にまだ西之丸に登城してはいなかった。
にもかかわらず、家治一行の登城を正利が把握しているのは外でもない、正利にこれまた「内報」する者があり、それはその時の西之丸当番を勤めていた平の奏者番の太田備後守資愛であった。
太田資愛は実は一橋治済に「内通」していた。
その原因は家基にあった。
家基は才覚のある者を好み、田沼意知もそんな家基の「お眼鏡」に適ったからこそ、西之丸中奥にて家基と談笑する機会に恵まれた。
尤も、それは周囲の「嫉み」を買うことともなった。
その一人が奏者番の太田資愛であった。
否、それでも太田資愛は意知を頼ろうとした。
それは意知が家基に西之丸へと招かれる様になってから随分と経った去年、安永元(1772)年の10月のことであった。
その当時、西之丸書院番の中でも1番組の番頭、小笠原越中守長恒は病気の為、辞任も秒読みの段階であった。
その為、10月の段階で「後任探し」が始まり、そこに割って入ろうとしたのが太田資愛の実の叔父であった。
太田資愛には茂幸なる実の叔父がおり、この茂幸はその当時から既に、家基に御側御用取次として仕えている佐野右兵衛尉茂承の養嗣子として迎えられており、且つ中奥小姓を勤めていた。
中奥小姓は従五位下諸太夫役であるので、茂幸は「日向守」の官職名を名乗っていた。
その佐野茂幸が小笠原長恒の後任の座を、つまりは西之丸書院番頭の座を狙っていた。
中奥小姓から書院番頭、或いは小姓組番頭、この両番頭への昇進は比較的、一般的と言えた。
それ故、佐野茂幸が西之丸書院番頭の座を狙ったのも頷けた。
だが佐野茂幸は未だ、部屋住の身であった。
これで新番頭や、或いは小十人頭であれば兎も角、両番頭に部屋住の者が昇進した例はない。
その為、中奥小姓とは申せ、未だ部屋住の佐野茂幸が西之丸書院番頭へと昇進を果たすのは極めて難しいと言わざるを得ない。
だが、それを可能ならしめる方法が一つだけあり、それはズバリ、
「西之丸の盟主、家基の信任…」
それであった。
佐野茂幸という男は才覚があり、未だ部屋住とは申せ、充分に書院番頭を勤め得る…」
家基にそう認められれば、道は開ける。
だがその為には御側御用取次たる養父、佐野茂承だけの口添え、家基への口添えだけでは足らず、佐野茂幸自身が家基に認められなければならない。
そこで実の甥である太田資愛が叔父、茂幸の為に一肌脱ぐことにした。
それこそが意知を頼ることであった。
意知はこの時、既に家基に認められ、西之丸中奥へと招かれては度々、家基と談笑していたので、そこで意知からも家基へと佐野茂幸を西之丸書院番頭へと推挙して貰えまいかと、資愛は意知に頼んだのであった。
これには意知も逡巡した。真実、佐野茂幸という男が才覚に溢れていれば良いが、しかし、そうではなかった場合、家基の不興を買う恐れがあった。
そこで意知は資愛に対して、家基と佐野茂幸との「面談」を用意することだけは約束した。
家基に実際に佐野茂幸を「面接」して貰うのである。
それは養父・佐野茂承も家基に望んだことであった。
「一度で良いので愚息、茂幸めに…」
逢って欲しいと、佐野茂承は家基の御側御用取次として再三、家基に願出たのだが、家基はこれを撥ね付けた。
だが家基は意知からもそう勧められたことで、佐野茂幸に逢うことにした。
だがその結果たるや、惨澹たるものであった。
家基は佐野茂幸に対して今の幕政について尋ねた。それも現状の問題点と、それに対する改善点を尋ねたのだ。「面接」である以上、それも当然であった。
が、佐野茂幸は家基からの「ご下問」に何一つとしてまともに答えられず、脂汗を浮かべるばかりであった。
事ここに至って、家基は何もかも悟った。
家基はまずは、佐野茂幸に対しては、
「もう良い、退がれっ!」
そう罵声を浴びせたかと思うと、続いてまだ当の茂幸の姿があると言うに、
「大方、意知に佐野茂幸めに逢ってくれる様、この家基に勧めて欲しいと、左様に強要せし者がいたのであろうが…、良いかっ!二度と意知を利用、強要せしこと許さんぞっ!ましてや佐野茂幸めの様な愚鈍な者を…、二度とこの家基が目に触れさせるでないっ!」
そう「癇癪弾」を破裂させたのであった。
この「癇癪弾」は主に、その場にて陪席していた佐野茂承に向けられたものであるが、かくしてこの一件により面子を潰された佐野茂承・茂幸の養親子と、それに太田資愛は大いに家基を逆怨みし、それは更に、家基に寵愛される意知への怨み、逆怨みへと転化した。
そして一橋治済はこの一件をキャッチするや、まずは太田資愛に近付き、続いて資愛を介して、その実の叔父である佐野茂幸、そしてその養父の佐野茂承にまで触手を伸ばし、今や彼等は治済の、
「忠実なる…」
下僕と化していた。
治済は彼等より愛妾、於秀の方の実父、岩本正利を介して、西之丸の情報を流して貰うという「ルート」をこの時、既に確立していたのだ。
家治一行が西之丸へと不意に訪れた際、西之丸当番として西之丸に詰めていた為に、家治一行を出迎えることが出来た奏当番の太田資愛がこのことを岩本正利に「内報」したのもその為、治済に伝えて貰う為であった。
また、佐野茂承もその為に岩本正利へと「内報」し、佐野茂承からの「内報」は太田資愛からのそれよりも更に中身が濃いものであった。
即ち、家治が家基の毒見役の再確認を行った、それを佐野茂承は治済への伝言として岩本正利に託したのであった。
「左様か…、されば…、毒見役の再確認に乗出したところを見るに、倫子や萬壽の死の裏にはこの治済がいると、あの鈍い、愚かなる家治めも漸くに気付いた様だの…」
治済はまるで独り言でも呟くかの様に正利にそう告げたかと思うと、クックッと嗤って見せた。
それに対して岩本正利は目を丸くした。
正しく、治済の言う通りであったからだ。
岩本正利の許へは更に、大奥よりも「内報」が齎されていた。
家治は西之丸大奥にて倫子や萬壽の死が治済による仕業ではないかと、家基の母堂の於千穂の方たちに打明けた訳だが、その大奥での「情報」もまた、岩本正利へと「内報」がなされたのだ。
そしてこの大奥よりの「内報」だが、西之丸小姓の中野備中守房彦からのそれである。
この中野房彦だが、初崎の実の甥であった。
「実娘、於秀の方を見舞う為…」
それが岩本正利が一橋家|上屋敷》かみやしき》を訪れた、「名目」であり、事実、正利は於秀の方が住まう大奥へと―、一橋家上屋敷の中にある大奥、それも奥女中の空間である御殿向へと通され、そこで腹が膨らみ始めた於秀の方と面会を果たした。
だが岩本正利は態々、実の娘の顔を見る為だけにここ、一橋家上屋敷は大奥へと足を運んだ訳ではない。
岩本正利が一橋大奥へと足を運んだ「真の理由」だが、
「一昨日、将軍・家治が不意に西之丸を訪ねた…」
それを一橋治済に伝える為であった。
その為には一橋家上屋敷の表向、言うなれば男の空間では不適当であった。
それと言うのも、家老の目が光っているからだ。
御三卿家老は公儀より御三卿の屋敷へと派され、それ故にその顔は御三卿ではなく公儀に向いており、御三卿には尻を向けていた。
つまりは御三卿家老は御三卿の家臣に非ずして、それどころか御三卿を監視対象とし、公儀もそれを御三卿家老に期待していた。
それが証拠に御三卿家老の定員は2人であり、平日は御三卿家老は毎日、交代で登城する。
御三卿は平日登城が許されていた。
と言っても、「半役人」とも称される雁間詰衆の様に、登城が義務ではなかった。
要は登城してもしなくても良い、御三卿の自由であった。
それ故、御三卿は、
「その時の気分次第で…」
登城することもあれば、登城しないこともあり、そこで御三卿の監視役たる家老の定員は2人と定められたのであった。
仮に御三卿家老が1人であれば、御三卿が「悪さ」をするのも可能だからだ。
御三卿が御城へと登城せずに上屋敷にて大人しくしていれば良いが、しかしそうではなく、御城へと登城した場合、監視役たる家老も当然、御三卿に随い、御城へと登城することになるが、その時、家老が1人であれば、当たり前だが、上屋敷には家老が御三卿共々、不在となる。
その場合、御三卿の意を受けた御側御用人か番頭、或いは御用人辺りが御三卿に成代わり、「悪さ」をしないとも限らない。
御三卿の側用人や番頭、用人もまた、その身はあくまで、
「御三卿の監視役…」
それであり、公儀からもそれを期待されていた。
だが実際には家老とは異なり、彼等は御三卿に取込まれる例が多く、ここ一橋家においてもそうであった。
公儀もそれを予期し、そこで家老の定員を1人ではなく2人としたのだ。
仮に家老の内、1人が御城へと登城しても、もう1人の家老が上屋敷に残っておれば、
「監視役たる家老が御三卿に随い、御城へと登城、その隙に―、家老が御三卿と共に上屋敷を留守にした隙に御三卿の意を受けた側用人たちが御三卿に代わり悪だくみ…」
それを防ぐことが出来るからだ。
尤も、それにも例外はあり、
「如何に御三卿家老と雖も、大奥までは目を光らせられない」
というものであった。
御三卿家老も、大奥には足を踏み入れられず、それ故、その大奥にて御三卿に「悪だくみ」をされれば、家老も「お手上げ」であった。
岩本正利が大奥へと足を運んだのも正しくその為であり、それは即ち、「悪だくみ」に外ならない。
「一昨日、将軍・家治が不意に西之丸を訪ねた…」
正利がその事実を治済に伝えるのに態々、大奥を選んだのは、家老に聞かれては拙いからだ。
西之丸目附たる岩本正利が一橋治済に対して、将軍・家治の行動を内報している―、それ自体、家老に把握されては正利としては、それに治済にしても非常に困る。後暗いところがあるからだ。
西之丸目附たる岩本正利が将軍・家治の行動を一橋治済へと「内報」をするにつき、真実、正利に後暗いところがなければ、
「正々堂々…」
家老の目が光る表向にて治済の耳へと入れられる筈であった。
だがそうではなく大奥を選んだということは正利に、そして治済にとってもそうだろう、後暗いところがあるからで、ひいてはそれは「悪だくみ」であった。
さて、岩本正利は将軍・家治が不意に西之丸を訪れた一昨日のそれも日中、その日は本番、つまりは宿直の為にまだ西之丸に登城してはいなかった。
にもかかわらず、家治一行の登城を正利が把握しているのは外でもない、正利にこれまた「内報」する者があり、それはその時の西之丸当番を勤めていた平の奏者番の太田備後守資愛であった。
太田資愛は実は一橋治済に「内通」していた。
その原因は家基にあった。
家基は才覚のある者を好み、田沼意知もそんな家基の「お眼鏡」に適ったからこそ、西之丸中奥にて家基と談笑する機会に恵まれた。
尤も、それは周囲の「嫉み」を買うことともなった。
その一人が奏者番の太田資愛であった。
否、それでも太田資愛は意知を頼ろうとした。
それは意知が家基に西之丸へと招かれる様になってから随分と経った去年、安永元(1772)年の10月のことであった。
その当時、西之丸書院番の中でも1番組の番頭、小笠原越中守長恒は病気の為、辞任も秒読みの段階であった。
その為、10月の段階で「後任探し」が始まり、そこに割って入ろうとしたのが太田資愛の実の叔父であった。
太田資愛には茂幸なる実の叔父がおり、この茂幸はその当時から既に、家基に御側御用取次として仕えている佐野右兵衛尉茂承の養嗣子として迎えられており、且つ中奥小姓を勤めていた。
中奥小姓は従五位下諸太夫役であるので、茂幸は「日向守」の官職名を名乗っていた。
その佐野茂幸が小笠原長恒の後任の座を、つまりは西之丸書院番頭の座を狙っていた。
中奥小姓から書院番頭、或いは小姓組番頭、この両番頭への昇進は比較的、一般的と言えた。
それ故、佐野茂幸が西之丸書院番頭の座を狙ったのも頷けた。
だが佐野茂幸は未だ、部屋住の身であった。
これで新番頭や、或いは小十人頭であれば兎も角、両番頭に部屋住の者が昇進した例はない。
その為、中奥小姓とは申せ、未だ部屋住の佐野茂幸が西之丸書院番頭へと昇進を果たすのは極めて難しいと言わざるを得ない。
だが、それを可能ならしめる方法が一つだけあり、それはズバリ、
「西之丸の盟主、家基の信任…」
それであった。
佐野茂幸という男は才覚があり、未だ部屋住とは申せ、充分に書院番頭を勤め得る…」
家基にそう認められれば、道は開ける。
だがその為には御側御用取次たる養父、佐野茂承だけの口添え、家基への口添えだけでは足らず、佐野茂幸自身が家基に認められなければならない。
そこで実の甥である太田資愛が叔父、茂幸の為に一肌脱ぐことにした。
それこそが意知を頼ることであった。
意知はこの時、既に家基に認められ、西之丸中奥へと招かれては度々、家基と談笑していたので、そこで意知からも家基へと佐野茂幸を西之丸書院番頭へと推挙して貰えまいかと、資愛は意知に頼んだのであった。
これには意知も逡巡した。真実、佐野茂幸という男が才覚に溢れていれば良いが、しかし、そうではなかった場合、家基の不興を買う恐れがあった。
そこで意知は資愛に対して、家基と佐野茂幸との「面談」を用意することだけは約束した。
家基に実際に佐野茂幸を「面接」して貰うのである。
それは養父・佐野茂承も家基に望んだことであった。
「一度で良いので愚息、茂幸めに…」
逢って欲しいと、佐野茂承は家基の御側御用取次として再三、家基に願出たのだが、家基はこれを撥ね付けた。
だが家基は意知からもそう勧められたことで、佐野茂幸に逢うことにした。
だがその結果たるや、惨澹たるものであった。
家基は佐野茂幸に対して今の幕政について尋ねた。それも現状の問題点と、それに対する改善点を尋ねたのだ。「面接」である以上、それも当然であった。
が、佐野茂幸は家基からの「ご下問」に何一つとしてまともに答えられず、脂汗を浮かべるばかりであった。
事ここに至って、家基は何もかも悟った。
家基はまずは、佐野茂幸に対しては、
「もう良い、退がれっ!」
そう罵声を浴びせたかと思うと、続いてまだ当の茂幸の姿があると言うに、
「大方、意知に佐野茂幸めに逢ってくれる様、この家基に勧めて欲しいと、左様に強要せし者がいたのであろうが…、良いかっ!二度と意知を利用、強要せしこと許さんぞっ!ましてや佐野茂幸めの様な愚鈍な者を…、二度とこの家基が目に触れさせるでないっ!」
そう「癇癪弾」を破裂させたのであった。
この「癇癪弾」は主に、その場にて陪席していた佐野茂承に向けられたものであるが、かくしてこの一件により面子を潰された佐野茂承・茂幸の養親子と、それに太田資愛は大いに家基を逆怨みし、それは更に、家基に寵愛される意知への怨み、逆怨みへと転化した。
そして一橋治済はこの一件をキャッチするや、まずは太田資愛に近付き、続いて資愛を介して、その実の叔父である佐野茂幸、そしてその養父の佐野茂承にまで触手を伸ばし、今や彼等は治済の、
「忠実なる…」
下僕と化していた。
治済は彼等より愛妾、於秀の方の実父、岩本正利を介して、西之丸の情報を流して貰うという「ルート」をこの時、既に確立していたのだ。
家治一行が西之丸へと不意に訪れた際、西之丸当番として西之丸に詰めていた為に、家治一行を出迎えることが出来た奏当番の太田資愛がこのことを岩本正利に「内報」したのもその為、治済に伝えて貰う為であった。
また、佐野茂承もその為に岩本正利へと「内報」し、佐野茂承からの「内報」は太田資愛からのそれよりも更に中身が濃いものであった。
即ち、家治が家基の毒見役の再確認を行った、それを佐野茂承は治済への伝言として岩本正利に託したのであった。
「左様か…、されば…、毒見役の再確認に乗出したところを見るに、倫子や萬壽の死の裏にはこの治済がいると、あの鈍い、愚かなる家治めも漸くに気付いた様だの…」
治済はまるで独り言でも呟くかの様に正利にそう告げたかと思うと、クックッと嗤って見せた。
それに対して岩本正利は目を丸くした。
正しく、治済の言う通りであったからだ。
岩本正利の許へは更に、大奥よりも「内報」が齎されていた。
家治は西之丸大奥にて倫子や萬壽の死が治済による仕業ではないかと、家基の母堂の於千穂の方たちに打明けた訳だが、その大奥での「情報」もまた、岩本正利へと「内報」がなされたのだ。
そしてこの大奥よりの「内報」だが、西之丸小姓の中野備中守房彦からのそれである。
この中野房彦だが、初崎の実の甥であった。
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ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。
そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。
娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。
さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱