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一橋治済の「天下獲り」の一環としての田安家における「反・田沼」の人脈(ネットワーク)作り。
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一橋治済が中田左兵衛や萬年七郎左衛門に語らせた、
「田沼の策謀…」
即ち、田安家を継ぐことが期待されていた賢丸定信が白河松平家へと追いやられるのは田沼意次の仕業である―、その効果は大きかった。
まず、物頭の金森五郎右衛門可言が真先に、それも激しく反応した。
金森五郎右衛門がここまで反応を示したのには理由がある。それと言うのも、
「金森本家が取潰されたのは田沼意次の所為である…」
その様な怨み、正確には逆怨みを抱いていたからだ。
所謂、郡上騒動により郡上藩を治めていた金森家は改易となった。
この一件により、改易の憂目を見た金森本家は元より、金森家の流を汲む旗本・金森家も意次を深く怨む様になった。
それと言うのも、郡上騒動は評定所で審理された訳だが、その評定所の審理を主導したのが当時は御側御用取次であった田沼意次であったのだ。
それ故、金森一党は皆、
「金森本家が取潰されたのは田沼意次の所為である…」
そう怨む様になったのだ。
尤も、金森家が改易されたのは謂わば自業自得であり、しかも改易の判決は意次が独断で下したものではない。意次にそこまでの権限は与えられていない。
にもかかわらず、金森一党の怨み、それも逆怨みが意次一人に集中したのは、郡上騒動の審理に関わった者の中でも一番の栄達を遂げたのが意次だからであろう。
そこに意次が逆怨みされる理由があり、田安物頭を勤める金森五郎右衛門もその一人であった。
このことは直ちに中田左兵衛より一橋治済へと内報された。
それに対して治済は「やはりな…」とほくそ笑んだものである。
金森一党が意次を逆怨みしていることも、その一人である五郎右衛門可言が田安家にて物頭として勤めていることも治済は予め承知していた。
実を言えば、金森一党の一人、重左衛門可久より聞及んでいたからだ。
金森重左衛門は何と、治済の近習番であり、意次への怨み、逆怨みという点では田安家臣の金森五郎右衛門よりもこの、一橋家臣である金森重左衛門の方が上回っていた。
金森重左衛門の方が金森五郎右衛門よりも取潰された金森本家の流れにより近かったらだ。
しかもこの金森重左衛門が実兄である彦四郎臺賢は今、西之丸にて家基に書院番士として仕えている。
その余りの「ベストタイミング」に治済は今にも躍り出したい程であった。
「されば金森五郎右衛門と申さば、内山七兵衛永貞が娘の子なれば…」
金森重左衛門は主君・治済より中田左兵衛よりの「内報」を知らされるや、そう補足した。
内山七兵衛永貞と言えば、安永2(1773)年5月の今、鷹匠頭を勤める内山七兵衛永清が曾祖父に当たる。
つまり金森五郎右衛門が実母はその内山七兵衛永清の曾祖父の娘という訳で、大叔母に当たる。
のみならず、内山七兵衛永清が実姉は金森五郎右衛門が実兄、主膳可道が妻であった。
生憎と、金森主膳は妻女である内山七兵衛永清の実姉との間には嫡子に恵まれぬまま歿した為に、その弟である五郎右衛門が兄・主膳の養嗣子となって金森家を継いだ訳だが、兎も角も金森家と内山家は太い絆で結ばれており、
「その金森家の一人である田安物頭の五郎右衛門を反・田沼に…、今まで以上に意次への怨みを募らせることが出来れば、その五郎右衛門を頼りに内山家にも触手を…」
つまりは内山家も「反・田沼」の色に染上げることが出来ると、金森重左衛門は主君・治済にそう示唆したのであった。
すると金森重左衛門のこの示唆に対しては、重左衛門の直ぐ真横にて控えていた内山傳内永富が、
「すかさず…」
金森主膳・五郎右衛門兄弟が実母を大叔母に持つ内山七兵衛永清について補足した。
即ち、内山七兵衛永清が妻女についてであり、内山七兵衛永清は田安家郡奉行を勤めていた上坂安左衛門政形が末娘を娶っていたのだ。
上坂安左衛門は既に亡いものの、しかしその孫娘、内山七兵衛永清が妻女にとっては姪は今、田安家にて用人を勤める嶋村惣左衛門俊久が嫡子、市三郎俊密の許へと嫁いでいたのだ。
御三卿用人と言えば従六位布衣役であり、その場合、成人嫡子は両番入、つまりは小姓組番か、或いは書院番、この両番の内、何れかの番に就職、所謂、番入出来る。
嶋村市三郎もその例に漏れずで、
「父の蔭により…」
本丸書院番士に取立てられた。
内山傳内は内山七兵衛永清の実弟である為に、
「ことほど左様に…」
内山家とその縁者について詳しかったのだ。
内山傳内は金森重左衛門への「対抗心」から更に補足を続けた。
それは田安家用人の嶋村惣左衛門についてであり、嶋村惣左衛門は実は大坂金奉行を勤めた設樂喜兵衛正篤が庶子、次男であった。
そして設樂家と言えば、今、ここ一橋家にて家老を勤める設樂兵庫頭貞好も列なる。
つまり、嶋村惣左衛門をも、まずは「反・田沼」の色に染上げ、次いで「親・一橋」の色にも染上げることが出来れば、その嶋村惣左衛門を介して、家老の設樂貞好までも、「親・一橋」の色に染上げることが出来るのではないかと、内山傳内は主君・治済にそう提案した。
成程、内山傳内のその提案は治済にとっては大変、魅力的であった。
それと言うのも、治済はこれから、
「次期将軍・家基の暗殺…」
所謂、謀叛、天下謀叛に着手しようとしていた。
その様な治済にとって家老の存在は何とも邪魔である。
公儀よりの附人、所謂、「監視役」である家老の目が光っていては、
「おちおち…」
家基の暗殺も企めまい。
だがその家老を、その一人である設樂貞好を取込められれば、治済としても家基の暗殺に、
「心置きなく…」
取組めるというものである。
内山傳内の「補足」は更に続く。
兄・内山七兵衛永清が妻には実姉がおり、その実姉は本丸小姓組番士を勤める坂部三郎兵衛廣昌の許へと嫁いでいるのだが、その坂部三郎兵衛廣昌が実兄、坂部三十郎廣保は何と本丸御膳奉行を勤めていたのだ。
御膳奉行と言えば毒見役であり、本丸ともなれば、将軍の毒見役に外ならない。
治済はまずは家基の暗殺、それも毒殺を目指していたが、家基の暗殺、毒殺に成功したならば、その上で、愛妾の秀が今、身篭っている治済の子が家基に代わる次期将軍に選ばれたならば、治済としては愈々、「メインデッシュ」とも言うべき将軍・家治の暗殺、それもやはり毒殺に着手するつもりでいた。
そのことは治済の近臣を自認する内山傳内であれば、それに金森重左衛門にしてもそうだろうが、良く心得ていた。
その際、本丸御膳奉行を今から取込んでおけば、将軍・家治の暗殺、毒殺もやり易くなるというものである。
内山傳内はその点を指摘し、坂部三十郎廣保の名を挙げたのだ。
治済も内山傳内のその抜目のない提案にはやはり舌を巻かされたが、同時に苦笑させられもした。
「まだ気が早いぞ…」
治済は苦笑しつつ、内山傳内にそう告げた。
成程、内山傳内のその提案は如何にも気が早いものでもあった。
ともあれ、物頭の金森五郎右衛門を明確に「反・田沼」の色に染上げることが出来たのは収穫と言えた。
否、それ以上に「大収穫」であったのは竹本要人正美であろうか。
田安家中でも家老に次ぐ要職の番頭にある竹本要人正美もまた、
「田沼の策謀…」
真赤な偽りであるそれを真に受け、「反・田沼」の旗幟を鮮明にした一人であった。
そこには「素地」があり、即ち、竹本要人もまた、金森五郎右衛門同様、元より田沼意次に対する悪感情を抱いていたのだ。
それもやはり、「逆怨み」であった。
竹本要人正美が実父、茂兵衛正堅も田安家にて番頭を勤めていた。
つまり父子二代に亘って、田安家番頭を勤めている訳で、そこには田安家の始祖、宗武との「所縁」があった。
今の田安家番頭である竹本要人が父、茂兵衛正堅には古牟なる実姉がおり、この古牟こそが誰あろう、宗武の母堂、実母であった。
それ故、竹本茂兵衛にとっては宗武は実姉である古牟の倅ということで、叔父と甥の関係に当たり、茂兵衛が倅の竹本《たけもと》要人とっては宗武は伯母の倅ということで、従兄弟同士の間柄であった。
これだけならば、「反・田沼」の素地は、つまりは意次への「逆怨み」は何処にも見受けられない。
だがそこに竹本越前守正章という登場人物が加わることで、竹本要人に、否、竹本茂兵衛・要人父子に、
「意次への逆怨み…」
反・田沼の素地となるその感情を掻き立てさせたのであった。
竹本正章とは古牟・竹本茂兵衛姉弟にとって、実兄に当たる竹本大膳亮正綱が嫡子であり、つまりは甥に当たる。
竹本要人が宗武とは従兄弟同士の間柄であるのと同様、この竹本正章もまた宗武とは従兄弟同士の間柄であり、竹本要人にしろ竹本正章にしろ、宗武より年下であるが、竹本正章は今から5年前の明和5(1768)年の7月に歿した。
竹本正章はその当時は下三奉行とも称される、その内の一つ、普請奉行の職にあり、普請奉行在職中に歿した。
だがその竹本正章は普請奉行の前職は何と、小姓組番頭格奥勤、つまりは御側御用取次見習の職にあったのだ。
竹本正章が御側御用取次見習に取立てられたのは宝暦8(1758)年10月のことであった。時は九代将軍・家重の治世である。
「御側御用取次の田沼意次と稲葉正明に副えて…」
田沼意次と稲葉正明の両名より良く学ぶ様にとの、将軍・家重よりの言葉であった。
本来ならばそのまま、御側御用取次へと昇格出来る位置であり、事実、田沼意次と稲葉正明の2人も共に、御側御用取次見習から御側御用取次へと昇格を果たしていた。
にもかかわらず、竹本正章一人、御側御用取次へと昇格を果たせなかったのは偏に、
「御側御用取次として失格…」
それに尽きた。
そもそも、竹本正章が御側御用取次見習に取立てられたのは御三卿筆頭の田安家の始祖、宗武との「所縁」による謂わば、「縁故」であった。
それでも御側御用取次見習として実力を発揮すれば、否、
「大過なく…」
それだけで良い、勤め上げれば御側御用取次へと昇格を果たせたことであろう。
だが実際には竹本正章は己が御側御用取次見習であることに加え、
「御三卿筆頭の田安家の始祖である宗武とは従兄弟同士である…」
その「威光」をひけらかし、或いは振り翳しては賄賂を貪ったのだ。
否、これが多少の賄賂ならば、時の将軍・家重も目を瞑ったであろうが、実際にはとても目を瞑れる程度のものではなく、目に余るものであった。
そこで家重は将軍職を辞するにあたり、まるで道連れの様に竹本正章をも御側御用取次見習の職を許したのだ。
それは実際には解任であり、但し、普請奉行へと異動を果たさせてやった。
これは竹本正章の面子を慮っての温情、家重の温情であったのだが、しかし竹本正章当人はそれに感謝するどころか、
「己を追落としたのは意次めに相違あるまい…」
意次をそう逆怨みする始末であった。
竹本正章が意次一人を逆怨みしたのは外でもない、御側御用取次の中でも意次が稲葉正明よりも将軍・家重の寵愛を得ていたからだ。
それ故、意次が将軍・家重に讒言したに相違あるまいと、竹本正章は死ぬまで周囲に意次への怨言を吐き続けた。
その周囲には従弟の竹本要人も含まれており、それも竹本正章が歿する前年の明和4(1767)年は酷いものであった。
その年の7月に意次は側用人に昇格し、のみならずその国許である相良の地に築城まで許されたのだ。
天下泰平のこの時代、築城などおよそ考えられないことである。
武士にとっては最大の名誉とも言うべき築城がこともあろうに、
「憎き…」
意次に許された為に、竹本正章の意次に対する怨言は益々、酷い有様となり、その翌年、竹本正章は無念の死を遂げたのであった。
斯かる次第で田安家番頭の竹本要人も元来、意次に対する悪感情、それも逆怨みを抱いており、そこへ、
「賢丸定信が田安家を追われ、それも白河松平家へと追いやられるのは田沼意次の仕業である…」
そのデマ、所謂、「田沼の策謀」なるものが加わったことから、竹本要人もまた、「反・田沼」の色に明確に染上げられたのだ。
また旗奉行の三賀監物長頼をも「反・田沼」の色に染上げることが出来た。
尤も、こちらは幸田友之助親平の「手柄」によるものであると、中田左兵衛よりの「内報」にはそうあった。
幸田友之助とは田安家の郡奉行であり、旗奉行の三賀監物とは親しくしていた。
その三賀監物だが、金森五郎右衛門や竹本要人とは異なり、
「田沼意次への悪感情…」
それを抱いてはいなかったので、「田沼の策謀」なる「デマ」に接しても直ぐには、
「ピンとこない…」
つまりは信じられなかった。
だがそこへ幸田友之助が三賀監物に対して、
「如何にも意次のやりそうなこと…、意次は賢丸君の英邁さ…、畏れ多くも宗武公譲りの英邁さを懼れていた為に…」
そう囁いたことから、三賀監物も遂にその「デマ」を真に受け、すると、
「義憤から…」
反・田沼の色に染まった。
三賀監物は実は嘗ては宗武の伽として仕えていた。
それがやがて小姓へと転じ、物頭や長柄奉行を経て、今の旗奉行へと辿り着いた。
三賀監物は今でも宗武を崇拝しており、その宗武の血を最も色濃く受継いでいる賢丸定信のことをも崇拝し、賢丸定信もそんな三賀監物に慕っていた。
その賢丸定信が田安家を相続出来ずに白河松平家へと追いやられる、しかもそれが田沼意次の仕業であると、三賀監物はそう「洗脳」されるや、
「義憤から…」
要は賢丸定信への忠誠心から、意次への怒りに包まれてしまい、結果、「反・田沼」に染上げられてしまった。
そして三賀監物を「反・田沼」に染上げたのが郡奉行の幸田友之助であり、三賀監物が宗武に伽、そして小姓として仕えている頃には幸田友之助は近習番としてやはり宗武の側近くに仕え、その頃より幸田友之助と三賀監物は親しくなった。
尤も、三賀監物は直情径行、典型的な猪武者であり、それ故、伽、そして小姓を経た後は物頭、長柄奉行と、
「一貫して…」
番方畑を歩いたのに対して幸田友之助はそれとは真逆の怜悧さで、近習番を経た後はやはり、
「一貫して…」
役方畑を歩き、それも勘定奉行、そして郡奉行に至った。
そして幸田友之助はその、
「持前の…」
怜悧さから、一橋治済とも通じていたのだ。
即ち、幸田友之助が実弟の孫十郎親房は一橋家臣、それも馬役として治済の側近くに仕えていたのだ。
そこで幸田友之助は田安家臣の身であり乍、密かに一橋家とも、それも当主の治済とも通じており、のみならず、治済の「天下獲り」にも協力する姿勢を見せていたのだ。
治済はその「天下獲り」の一環としての、
「田安家中を反・田沼の色に染上げる…」
その計画に幸田友之助にも協力を願っていたのだ。
「田沼の策謀…」
即ち、田安家を継ぐことが期待されていた賢丸定信が白河松平家へと追いやられるのは田沼意次の仕業である―、その効果は大きかった。
まず、物頭の金森五郎右衛門可言が真先に、それも激しく反応した。
金森五郎右衛門がここまで反応を示したのには理由がある。それと言うのも、
「金森本家が取潰されたのは田沼意次の所為である…」
その様な怨み、正確には逆怨みを抱いていたからだ。
所謂、郡上騒動により郡上藩を治めていた金森家は改易となった。
この一件により、改易の憂目を見た金森本家は元より、金森家の流を汲む旗本・金森家も意次を深く怨む様になった。
それと言うのも、郡上騒動は評定所で審理された訳だが、その評定所の審理を主導したのが当時は御側御用取次であった田沼意次であったのだ。
それ故、金森一党は皆、
「金森本家が取潰されたのは田沼意次の所為である…」
そう怨む様になったのだ。
尤も、金森家が改易されたのは謂わば自業自得であり、しかも改易の判決は意次が独断で下したものではない。意次にそこまでの権限は与えられていない。
にもかかわらず、金森一党の怨み、それも逆怨みが意次一人に集中したのは、郡上騒動の審理に関わった者の中でも一番の栄達を遂げたのが意次だからであろう。
そこに意次が逆怨みされる理由があり、田安物頭を勤める金森五郎右衛門もその一人であった。
このことは直ちに中田左兵衛より一橋治済へと内報された。
それに対して治済は「やはりな…」とほくそ笑んだものである。
金森一党が意次を逆怨みしていることも、その一人である五郎右衛門可言が田安家にて物頭として勤めていることも治済は予め承知していた。
実を言えば、金森一党の一人、重左衛門可久より聞及んでいたからだ。
金森重左衛門は何と、治済の近習番であり、意次への怨み、逆怨みという点では田安家臣の金森五郎右衛門よりもこの、一橋家臣である金森重左衛門の方が上回っていた。
金森重左衛門の方が金森五郎右衛門よりも取潰された金森本家の流れにより近かったらだ。
しかもこの金森重左衛門が実兄である彦四郎臺賢は今、西之丸にて家基に書院番士として仕えている。
その余りの「ベストタイミング」に治済は今にも躍り出したい程であった。
「されば金森五郎右衛門と申さば、内山七兵衛永貞が娘の子なれば…」
金森重左衛門は主君・治済より中田左兵衛よりの「内報」を知らされるや、そう補足した。
内山七兵衛永貞と言えば、安永2(1773)年5月の今、鷹匠頭を勤める内山七兵衛永清が曾祖父に当たる。
つまり金森五郎右衛門が実母はその内山七兵衛永清の曾祖父の娘という訳で、大叔母に当たる。
のみならず、内山七兵衛永清が実姉は金森五郎右衛門が実兄、主膳可道が妻であった。
生憎と、金森主膳は妻女である内山七兵衛永清の実姉との間には嫡子に恵まれぬまま歿した為に、その弟である五郎右衛門が兄・主膳の養嗣子となって金森家を継いだ訳だが、兎も角も金森家と内山家は太い絆で結ばれており、
「その金森家の一人である田安物頭の五郎右衛門を反・田沼に…、今まで以上に意次への怨みを募らせることが出来れば、その五郎右衛門を頼りに内山家にも触手を…」
つまりは内山家も「反・田沼」の色に染上げることが出来ると、金森重左衛門は主君・治済にそう示唆したのであった。
すると金森重左衛門のこの示唆に対しては、重左衛門の直ぐ真横にて控えていた内山傳内永富が、
「すかさず…」
金森主膳・五郎右衛門兄弟が実母を大叔母に持つ内山七兵衛永清について補足した。
即ち、内山七兵衛永清が妻女についてであり、内山七兵衛永清は田安家郡奉行を勤めていた上坂安左衛門政形が末娘を娶っていたのだ。
上坂安左衛門は既に亡いものの、しかしその孫娘、内山七兵衛永清が妻女にとっては姪は今、田安家にて用人を勤める嶋村惣左衛門俊久が嫡子、市三郎俊密の許へと嫁いでいたのだ。
御三卿用人と言えば従六位布衣役であり、その場合、成人嫡子は両番入、つまりは小姓組番か、或いは書院番、この両番の内、何れかの番に就職、所謂、番入出来る。
嶋村市三郎もその例に漏れずで、
「父の蔭により…」
本丸書院番士に取立てられた。
内山傳内は内山七兵衛永清の実弟である為に、
「ことほど左様に…」
内山家とその縁者について詳しかったのだ。
内山傳内は金森重左衛門への「対抗心」から更に補足を続けた。
それは田安家用人の嶋村惣左衛門についてであり、嶋村惣左衛門は実は大坂金奉行を勤めた設樂喜兵衛正篤が庶子、次男であった。
そして設樂家と言えば、今、ここ一橋家にて家老を勤める設樂兵庫頭貞好も列なる。
つまり、嶋村惣左衛門をも、まずは「反・田沼」の色に染上げ、次いで「親・一橋」の色にも染上げることが出来れば、その嶋村惣左衛門を介して、家老の設樂貞好までも、「親・一橋」の色に染上げることが出来るのではないかと、内山傳内は主君・治済にそう提案した。
成程、内山傳内のその提案は治済にとっては大変、魅力的であった。
それと言うのも、治済はこれから、
「次期将軍・家基の暗殺…」
所謂、謀叛、天下謀叛に着手しようとしていた。
その様な治済にとって家老の存在は何とも邪魔である。
公儀よりの附人、所謂、「監視役」である家老の目が光っていては、
「おちおち…」
家基の暗殺も企めまい。
だがその家老を、その一人である設樂貞好を取込められれば、治済としても家基の暗殺に、
「心置きなく…」
取組めるというものである。
内山傳内の「補足」は更に続く。
兄・内山七兵衛永清が妻には実姉がおり、その実姉は本丸小姓組番士を勤める坂部三郎兵衛廣昌の許へと嫁いでいるのだが、その坂部三郎兵衛廣昌が実兄、坂部三十郎廣保は何と本丸御膳奉行を勤めていたのだ。
御膳奉行と言えば毒見役であり、本丸ともなれば、将軍の毒見役に外ならない。
治済はまずは家基の暗殺、それも毒殺を目指していたが、家基の暗殺、毒殺に成功したならば、その上で、愛妾の秀が今、身篭っている治済の子が家基に代わる次期将軍に選ばれたならば、治済としては愈々、「メインデッシュ」とも言うべき将軍・家治の暗殺、それもやはり毒殺に着手するつもりでいた。
そのことは治済の近臣を自認する内山傳内であれば、それに金森重左衛門にしてもそうだろうが、良く心得ていた。
その際、本丸御膳奉行を今から取込んでおけば、将軍・家治の暗殺、毒殺もやり易くなるというものである。
内山傳内はその点を指摘し、坂部三十郎廣保の名を挙げたのだ。
治済も内山傳内のその抜目のない提案にはやはり舌を巻かされたが、同時に苦笑させられもした。
「まだ気が早いぞ…」
治済は苦笑しつつ、内山傳内にそう告げた。
成程、内山傳内のその提案は如何にも気が早いものでもあった。
ともあれ、物頭の金森五郎右衛門を明確に「反・田沼」の色に染上げることが出来たのは収穫と言えた。
否、それ以上に「大収穫」であったのは竹本要人正美であろうか。
田安家中でも家老に次ぐ要職の番頭にある竹本要人正美もまた、
「田沼の策謀…」
真赤な偽りであるそれを真に受け、「反・田沼」の旗幟を鮮明にした一人であった。
そこには「素地」があり、即ち、竹本要人もまた、金森五郎右衛門同様、元より田沼意次に対する悪感情を抱いていたのだ。
それもやはり、「逆怨み」であった。
竹本要人正美が実父、茂兵衛正堅も田安家にて番頭を勤めていた。
つまり父子二代に亘って、田安家番頭を勤めている訳で、そこには田安家の始祖、宗武との「所縁」があった。
今の田安家番頭である竹本要人が父、茂兵衛正堅には古牟なる実姉がおり、この古牟こそが誰あろう、宗武の母堂、実母であった。
それ故、竹本茂兵衛にとっては宗武は実姉である古牟の倅ということで、叔父と甥の関係に当たり、茂兵衛が倅の竹本《たけもと》要人とっては宗武は伯母の倅ということで、従兄弟同士の間柄であった。
これだけならば、「反・田沼」の素地は、つまりは意次への「逆怨み」は何処にも見受けられない。
だがそこに竹本越前守正章という登場人物が加わることで、竹本要人に、否、竹本茂兵衛・要人父子に、
「意次への逆怨み…」
反・田沼の素地となるその感情を掻き立てさせたのであった。
竹本正章とは古牟・竹本茂兵衛姉弟にとって、実兄に当たる竹本大膳亮正綱が嫡子であり、つまりは甥に当たる。
竹本要人が宗武とは従兄弟同士の間柄であるのと同様、この竹本正章もまた宗武とは従兄弟同士の間柄であり、竹本要人にしろ竹本正章にしろ、宗武より年下であるが、竹本正章は今から5年前の明和5(1768)年の7月に歿した。
竹本正章はその当時は下三奉行とも称される、その内の一つ、普請奉行の職にあり、普請奉行在職中に歿した。
だがその竹本正章は普請奉行の前職は何と、小姓組番頭格奥勤、つまりは御側御用取次見習の職にあったのだ。
竹本正章が御側御用取次見習に取立てられたのは宝暦8(1758)年10月のことであった。時は九代将軍・家重の治世である。
「御側御用取次の田沼意次と稲葉正明に副えて…」
田沼意次と稲葉正明の両名より良く学ぶ様にとの、将軍・家重よりの言葉であった。
本来ならばそのまま、御側御用取次へと昇格出来る位置であり、事実、田沼意次と稲葉正明の2人も共に、御側御用取次見習から御側御用取次へと昇格を果たしていた。
にもかかわらず、竹本正章一人、御側御用取次へと昇格を果たせなかったのは偏に、
「御側御用取次として失格…」
それに尽きた。
そもそも、竹本正章が御側御用取次見習に取立てられたのは御三卿筆頭の田安家の始祖、宗武との「所縁」による謂わば、「縁故」であった。
それでも御側御用取次見習として実力を発揮すれば、否、
「大過なく…」
それだけで良い、勤め上げれば御側御用取次へと昇格を果たせたことであろう。
だが実際には竹本正章は己が御側御用取次見習であることに加え、
「御三卿筆頭の田安家の始祖である宗武とは従兄弟同士である…」
その「威光」をひけらかし、或いは振り翳しては賄賂を貪ったのだ。
否、これが多少の賄賂ならば、時の将軍・家重も目を瞑ったであろうが、実際にはとても目を瞑れる程度のものではなく、目に余るものであった。
そこで家重は将軍職を辞するにあたり、まるで道連れの様に竹本正章をも御側御用取次見習の職を許したのだ。
それは実際には解任であり、但し、普請奉行へと異動を果たさせてやった。
これは竹本正章の面子を慮っての温情、家重の温情であったのだが、しかし竹本正章当人はそれに感謝するどころか、
「己を追落としたのは意次めに相違あるまい…」
意次をそう逆怨みする始末であった。
竹本正章が意次一人を逆怨みしたのは外でもない、御側御用取次の中でも意次が稲葉正明よりも将軍・家重の寵愛を得ていたからだ。
それ故、意次が将軍・家重に讒言したに相違あるまいと、竹本正章は死ぬまで周囲に意次への怨言を吐き続けた。
その周囲には従弟の竹本要人も含まれており、それも竹本正章が歿する前年の明和4(1767)年は酷いものであった。
その年の7月に意次は側用人に昇格し、のみならずその国許である相良の地に築城まで許されたのだ。
天下泰平のこの時代、築城などおよそ考えられないことである。
武士にとっては最大の名誉とも言うべき築城がこともあろうに、
「憎き…」
意次に許された為に、竹本正章の意次に対する怨言は益々、酷い有様となり、その翌年、竹本正章は無念の死を遂げたのであった。
斯かる次第で田安家番頭の竹本要人も元来、意次に対する悪感情、それも逆怨みを抱いており、そこへ、
「賢丸定信が田安家を追われ、それも白河松平家へと追いやられるのは田沼意次の仕業である…」
そのデマ、所謂、「田沼の策謀」なるものが加わったことから、竹本要人もまた、「反・田沼」の色に明確に染上げられたのだ。
また旗奉行の三賀監物長頼をも「反・田沼」の色に染上げることが出来た。
尤も、こちらは幸田友之助親平の「手柄」によるものであると、中田左兵衛よりの「内報」にはそうあった。
幸田友之助とは田安家の郡奉行であり、旗奉行の三賀監物とは親しくしていた。
その三賀監物だが、金森五郎右衛門や竹本要人とは異なり、
「田沼意次への悪感情…」
それを抱いてはいなかったので、「田沼の策謀」なる「デマ」に接しても直ぐには、
「ピンとこない…」
つまりは信じられなかった。
だがそこへ幸田友之助が三賀監物に対して、
「如何にも意次のやりそうなこと…、意次は賢丸君の英邁さ…、畏れ多くも宗武公譲りの英邁さを懼れていた為に…」
そう囁いたことから、三賀監物も遂にその「デマ」を真に受け、すると、
「義憤から…」
反・田沼の色に染まった。
三賀監物は実は嘗ては宗武の伽として仕えていた。
それがやがて小姓へと転じ、物頭や長柄奉行を経て、今の旗奉行へと辿り着いた。
三賀監物は今でも宗武を崇拝しており、その宗武の血を最も色濃く受継いでいる賢丸定信のことをも崇拝し、賢丸定信もそんな三賀監物に慕っていた。
その賢丸定信が田安家を相続出来ずに白河松平家へと追いやられる、しかもそれが田沼意次の仕業であると、三賀監物はそう「洗脳」されるや、
「義憤から…」
要は賢丸定信への忠誠心から、意次への怒りに包まれてしまい、結果、「反・田沼」に染上げられてしまった。
そして三賀監物を「反・田沼」に染上げたのが郡奉行の幸田友之助であり、三賀監物が宗武に伽、そして小姓として仕えている頃には幸田友之助は近習番としてやはり宗武の側近くに仕え、その頃より幸田友之助と三賀監物は親しくなった。
尤も、三賀監物は直情径行、典型的な猪武者であり、それ故、伽、そして小姓を経た後は物頭、長柄奉行と、
「一貫して…」
番方畑を歩いたのに対して幸田友之助はそれとは真逆の怜悧さで、近習番を経た後はやはり、
「一貫して…」
役方畑を歩き、それも勘定奉行、そして郡奉行に至った。
そして幸田友之助はその、
「持前の…」
怜悧さから、一橋治済とも通じていたのだ。
即ち、幸田友之助が実弟の孫十郎親房は一橋家臣、それも馬役として治済の側近くに仕えていたのだ。
そこで幸田友之助は田安家臣の身であり乍、密かに一橋家とも、それも当主の治済とも通じており、のみならず、治済の「天下獲り」にも協力する姿勢を見せていたのだ。
治済はその「天下獲り」の一環としての、
「田安家中を反・田沼の色に染上げる…」
その計画に幸田友之助にも協力を願っていたのだ。
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