若君様の御側御料人 ~俺の大嫌いな若君様~

ご隠居

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宗介が「そうすけ」を開店した経緯と武士の客を嫌う理由 4

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 爾来じらい宗介そうすけは寛政2(1790)年の12月までの4年以上ねんいじょうわたって、めいである田鶴だつるため手料理てりょうり振舞ふるまったものである。

 いや、田鶴たづるばかりではない。あに意致おきむねあによめ美津みつたいしてもそうであった。

 意致おきむねはそれまでも宗介そうすけ弁当べんとうあじわっていたが、それは、

宗介そうすけ手料理てりょうりべたくて…」

 というわけではなく、あくまでおのれ影響力えいきょうりょくたしかめたくて宗介そうすけ弁当べんとうつくらせていた側面そくめんがあった。

 だが今度こんどちがう。意致おきむね心底しんそこおとうと料理りょうりべたいと、そのおもいで宗介そうすけ手料理てりょうりあじわうようになった。それはほかでもない、愛娘まなむすめ田鶴たづるおとうと宗介そうすけ料理りょうりすくわれたからだ。

 それゆえ、このときになって意致おきむねはじめておとうと宗介そうすけ料理りょうりをすること心底認しんそこみとめたと言えるだろう。

 そしてそれはあによめ美津みつにしても同様どうようで、美津みつおっと意致おきむね以上いじょう宗介そうすけ包丁ほうちょうにぎこときらった。

 だが宗介そうすけ手料理てりょうり憔悴しょうすいしきった、いや実際じっさいには衰弱すいじゃくしきった愛娘まなむすめ田鶴たづる快復かいふくするさまたりにして、美津みつもこのとき宗介そうすけ包丁ほうちょうにぎことをやはりようやくにみとめたのであった。

 こうして元気げんき快復かいふくした田鶴たづるだが、寛政2(1790)年の12月に伊勢いせ菰野こもの藩主はんしゅ土方ひじかた義苗よしたね再婚さいこんたしたのだ。

 田鶴たづる元気げんき取戻とりもどしたとは言え、再婚さいこんあきらめており、それはちち意致おきむねはは美津みつにしても同様どうようであった。

 それが寛政2(1790)年にはいって菰野こもの藩主はんしゅ土方ひじかた義苗よしたね名乗なのりをげたのであった。

田鶴たづる殿どの是非ぜひ、この義苗よしたねつまむかたく…」

 義苗よしたね意致おきむね美津みつ夫妻ふさいにそう申込もうしこんだのであった。

 これにはさしもの意致おきむね美津みつも、なにより田鶴たづる当人とうにん心底しんそこおどろかされたものである。

 だが同時どうじ合点がてんもいった。

 それと言うのも伊勢いせ菰野こものはん土方ひじかた田沼たぬまとは代々縁だいだいえんがあり、先々代せんせんだい近江守おうみのかみ雄年かつなが意次おきつぐ養女ようじょめとっており、先代せんだい丹後守たんごのかみ雄貞かつさだいたっては意次おきつぐ三男さんなんであった。

 先々代せんせんだい雄年かつなが子宝こだからめぐまれず、そこで意次おきつぐ三男さんなん養嗣子ようししむかえ、これが先代せんだい雄貞かつさだであった。

 そして先代せんだい土方ひじかた雄貞かつさだもまた子宝こだからめぐまれず、また健康けんこうにもめぐまれずで、天明2(1782)年の11月に臨終りんじゅうさいして5千石せんごく大身たいしん木下きのした縫殿助ぬいのすけ俊直としなお次男じなんである義苗よしたね養嗣子ようししさだめた。所謂いわゆる末期まつご養子ようしであり、ちなみにこの義苗よしたね実父じっぷである木下きのした縫殿助ぬいのすけだが、じつ雄貞かつさだ義理ぎり叔父おじたる。

 すなわち、意次おきつぐ三男さんなんでもある雄貞かつさだ養父ようふ土方ひじかた雄年かつなが実弟じっていこそが木下きのした縫殿助ぬいのすけであり、縫殿助ぬいのすけ菰野こものはん土方ひじかた三男さんなんとしてまれたために、そこで5千石せんごく大身たいしんである木下きのした養嗣子ようししされた次第しだいであった。

 ともあれそのよう経緯いきさつから、雄貞かつさだ今際いまわきわ土方ひじかた受継うけつ義苗よしたね養嗣子ようししとしたのだ。

 その義苗よしたねわずかなあいだだけだが養父ようふとなった土方ひじかた雄貞かつさだのその配慮はいりょおおいに感謝かんしゃしたものであり、

土方ひじかたがせてくれた養父ようふ恩返おんがえしせねば…」

 義苗よしたねはそのようおもい、そこで田沼たぬまよりつまむかえることとしたのだ。

 いや、これで義苗よしたね田沼たぬまよりつまむかえるのをおもったのが所謂いわゆる田沼たぬま時代じだい田沼たぬま政権せいけん絶頂期ぜっちょうきであったならばけっして「恩返おんがえし」とは言切いいきれないであろう。そこには「打算ださん」も当然含とうぜんふくまれていたに相違そういない。

 だが実際じっさいには義苗よしたねが「恩返おんがえし」として田沼たぬまよりつまむかえることおもったときにはすで元号げんごう天明てんめいから寛政かんせいへとわっており、つまりは田沼たぬま時代じだいすで過去すぎさったあとであった。

 田沼たぬま時代じだいに「打算ださん」から意次おきつぐとのえんもとめて、田沼たぬまより養嗣子ようししむかえたり、あるいはつまむかえたりといったそんな連中れんちゅう今度こんど一転いってん落目おちめ田沼たぬまとのえん断切たちきろうとしていた、いや、すで断切たちきったあと寛政かんせい時代じだい義苗よしたね態々わざわざ、その田沼たぬまよりつまむかようとしているのだから、これはもう純粋じゅんすいに、「恩返おんがえし」と言えた。そこに「打算ださん」はありなかった。

 だが生憎あいにくと言うべきか、田沼たぬま本家ほんけには女子おなご一人ひとりもおらず、そこで次善じぜんさくとして義苗よしたね分家ぶんけよりつまむかえることとし、そこで白羽しらはてたのが田鶴たづると言うわけだ。

 それにたいして田鶴たづる両親りょうしんである意致おきむね美津みつ夫妻ふさいはと言うと、義苗よしたねのその気持きもちは心底有難しんそこありがたかったが、しかし、反面はんめん躊躇ちゅうちょもした。

 それと言うのも田鶴たづる出戻でもどりのである。かつては大名だいみょう嫡子ちゃくしつまであった田鶴たづる今度こんどれきとした大名だいみょうとつがせられることに、田鶴たづる両親りょうしんである意致おきむね美津みつ夫妻ふさいうれしい反面はんめん

一度いちどほかおとこのついた田鶴たづる義苗よしたね殿どの結婚けっこん相手あいてでは如何いかにも義苗よしたね殿どの申訳もうしわけない…」

 そのおもいから、むすめ田鶴たづる義苗よしたね添遂そいとげさせること躊躇ためらいをおぼえたのであった。

 そのうえ義苗よしたねはこのころ―、義苗よしたね田鶴たづる両親りょうしんである意致おきむね美津みつ夫妻ふさいかいして田鶴たづる求婚プロポーズをした寛政2(1790)年、いまだ12、かぞえでも13にぎず、それにたいして田鶴たづるはと言うと18、かぞえで19にたっしており、これでは完全かんぜんに、

あねさん女房にょうぼう…」

 であった。これもまた意致おきむね美津みつ夫妻ふさいむすめ田鶴たづる義苗よしたね添遂そいとげさせること躊躇ためらいをおぼえる理由りゆうひとつであった。

 いや、とう本人ほんにんである田鶴たづるはそれ以上いじょう義苗よしたねとの結婚けっこん、それも再婚さいこん躊躇ちゅうちょしたものである。

 田鶴たづるにしても両親りょうしんまったおなおもいから義苗よしたねからの求婚プロポーズ躊躇ためらいをおぼえた。

 いや、それ以上いじょうに、

義苗よしたね殿どのてられしこの田鶴たづるあわれと思召おぼしめされて…」

 それで求婚プロポーズをしているのではないかと、田鶴たづるはそのおもいから義苗よしたねとの再婚さいこん躊躇ためらわせた。

 すると義苗よしたねは、

如何いかにも稲葉いなば本三郎もとさぶろうてられし田鶴たづる殿どのあわれとおもうておりますれば、まこと…、こころそこから田鶴たづる殿どのあいしているとはもうせず…」

 まずはそうあけすけに田鶴たづる不安ふあんみとめたうえで、

「なれど田鶴たづる殿どの添遂そいとげられることで、この身共みども土方ひじかた跡目あとめがせてくれましたる養父ようふ雄貞かつさだへの…、田沼たぬまへの恩返おんがえしとなれば、すくなくともこの義苗よしたねおおいに満足まんぞくにて、されば田鶴たづる殿どの出戻でもどりであろうとも、またとしあわせても瑣末さまつぎず…」

 田鶴たづるとの結婚けっこん自分じぶん自己じこ満足まんぞくであることみとめたのだ。

 義苗よしたねのこの率直そっちょくさに田鶴たづるおおいに心打こころうたれ、田鶴たづる義苗よしたねとの再婚さいこん決意けついしたものである。
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