紀州太平記 ~徳川綱教、天下を獲る~

ご隠居

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元禄11(1698)年3月18日、五代将軍・綱吉の麹町にある尾張藩中屋敷への御成 1

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「おかえりなさいませ」

 鶴姫つるひめは夫としゅうと帰還きかんするや、ゆびいてそれを出迎でむかえた。

 すると夫にしろ、しゅうとにしろおおいに恐縮きょうしゅくしたものである。

 よめが夫や、しゅうと帰還きかんに対していて出迎でむかえたところで、それで一々いちいち恐縮きょうしゅくするような夫やしゅうとはいないであろう。それどころか至極しごくたりまえのこととしてめるにちがいない。

 だが鶴姫つるひめはただのよめではなかった。

 鶴姫つるひめ徳川とくがわ御三家ごさんけの一つ、紀州きしゅう徳川とくがわ家の世子せいしたる綱教つなのりよめにして、時の将軍である綱吉つなよし愛娘まなむすめであったのだ。

 鶴姫つるひめは将軍家の家族、それも時の将軍の一人娘ひとりむすめであり、そうであれば紀州きしゅう徳川とくがわ家の世子せいし立場たちばである夫・綱教つなのりもとより、その当主とうしゅであるしゅうと光貞みつさだよりも立場たちばは上であった。

 それゆえ鶴姫つるひめはここ、麹町こうじまちにある紀州きしゅう徳川とくがわ家の上屋敷かみやしきにおいて紀州きしゅう江戸えどづめ家臣かしんからは、

姫君ひめぎみ様…」

 そうしょうされてうやまわれていた。姫君ひめぎみ様とは、将軍家の娘にのみゆるされた称号しょうごうである。

 また夫の綱教つなのりや、しゅうと光貞みつさだからも婚姻こんいん当初とうしょは、

鶴姫つるひめ様…」

 鶴姫つるひめはそうばれ、これには流石さすが鶴姫つるひめ居心地いごこちわるく、

つるとおくださりませ…」

 てにしてくれるよう、綱教つなのり光貞みつさだ懇願こんがんしたものである。とりわけ綱教つなのりは夫であるのだから、様などと他人たにん行儀ぎょうぎ尊称そんしょうけてしくはなかった。

 だが鶴姫つるひめは時の将軍の愛娘まなむすめである。そうである以上、如何いか御三家ごさんけ当主とうしゅとその世子せいしいえどてにすることははばかられ、結局けっきょく

鶴姫つるひめ殿…」

 様よりもワンランク、格下かくしたの殿という敬称けいしょういたのであった。

 その鶴姫つるひめみずから、夫である綱教つなのりしゅうとである光貞みつさだ帰還きかん出迎でむかえたのであった。

 光貞みつさだ綱教つなのり父子ふしはやはりここ、麹町こうじまちにある紀州きしゅう上屋敷かみやしきとははすかいにある尾張おわり中屋敷なかやしきよりの帰還きかんであった。

 今日…、元禄11(1698)年3月18日、麹町こうじまちにある中屋敷なかやしきを将軍・綱吉つなよしおとずれた。所謂いわゆる、「御成おなり」であり、綱吉つなよしたつの刻、それも朝の五つ半(午前9時頃)に到着とうちゃくしたのだが、光貞みつさだ綱教つなのり父子ふしはそれよりも前に中屋敷なかやしきおとずれては、尾張おわり徳川とくがわ家の当主とうしゅたる綱誠つななりとその世子せいしである吉通よしみちと共に、綱吉つなよし出迎でむかえたのであった。

 また、同じく御三家ごさんけ水戸みと徳川とくがわ家の当主とうしゅである綱條つなえだもまた、光貞みつさだ綱教つなのり父子ふし同様どうよう綱吉つなよしよりも先に尾張おわり藩の中屋敷なかやしきおとずれては、綱吉つなよし出迎でむかえたのであった。
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