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町奉行職を離れる金四郎に対する将軍・家慶の厚遇、そして、矢部定謙を見殺しにしてしまったことへの金四郎の悔恨
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さて、忠邦(ただくに)は御側(おそば)御用人(ごようにん)、通称、側用人(そばようにん)である堀(ほり)大和守(やまとのかみ)親繁(ちかしげ)に対して、
「北町奉行・遠山(とおやま)左衛門尉(さえもんのじょう)の大目付への転任の人事案につき、上様に伝えてもらいたい」
そう頼んだのであった。忠邦(ただくに)が直接、将軍・家慶(いえよし)に対して景元(かげもと)の左遷人事案をぶつけるという手もなくはなかったものの、将軍の居所とも言うべき中奥の最高長官として将軍の日常生活を支える側用人(そばようにん)が置かれている以上、側用人(そばようにん)の顔を立てる意味でも側用人(そばようにん)を通した方が無難であった。そうしないと…、側用人(そばようにん)を無視して将軍に直接何か提案しようものなら、側用人(そばようにん)は必ずや己が、
「蔑(ないがし)ろにされた…」
そう思うに違いなく、そうなれば側用人(そばようにん)は意地でもその提案を通すまい、必ずや潰(つぶ)してみせると意気込み、側用人(そばようにん)には将軍に対して直に自分の意見を伝えることが許されているのを良いことに、その提案には反対である旨(むね)、自分の意見として将軍に伝える筈(はず)であった。そうなれば将軍も側用人(そばようにん)の申すことならばと、提案に反対するに違いなく、それを避(さ)けるためにも側用人(そばようにん)を通すのが無難であった。
それに今の側用人(そばようにん)の堀(ほり)親繁(ちかしげ)は、その嫡男(ちゃくなん)の左近将監(さこんのしょうげん)親義(ちかよし)の正室に忠邦(ただくに)の実妹を迎えていたので、忠邦(ただくに)と親繁(ちかしげ)は縁戚関係で結ばれていた。それゆえ親繁(ちかしげ)は縁戚関係にある忠邦(ただくに)の進める「改革」には賛成の立場であり、忠邦(ただくに)も何かと話し易(やす)い相手であった。
だがその親繁(ちかしげ)ですら、景元(かげもと)の左遷人事案を耳にするや、表情を曇(くも)らせたものである。無論、最終的には賛成したものの、それでもやはり他の幕閣(ばっかく)諸侯らと同様に、消極的賛意しか示さなかったことに、忠邦(ただくに)はこの時、最大級のショックを受けたものである。せめて親繁(ちかしげ)ぐらいは積極的に賛成してくれるに相違あるまい…、忠邦(ただくに)はそう信じていただけに親繁(ちかしげ)のこの反応は正直、大ショックであった。
それでも消極的であろうと積極的であろうと、賛成には違いあるまいと、忠邦(ただくに)は気を取り直すと、景元(かげもと)は「改革」の最大の障碍(しょうがい)物であり、それを取り除くためにも景元(かげもと)の大目付への左遷が欠かせないとも付け加えて、親繁(ちかしげ)に対して将軍・家慶(いえよし)にその左遷人事案を伝えてくれるよう頼んだ。
そうして親繁(ちかしげ)は将軍・家慶(いえよし)の下へと足を運ぶと、忠邦(ただくに)より承(うけたまわ)ったその景元(かげもと)の大目付への左遷人事案と共にその理由を、忠邦(ただくに)より承(うけたまわ)った伝言として、それをそのまま将軍・家慶(いえよし)に伝えたのであった。
だが家慶(いえよし)にしても、幕閣(ばっかく)諸侯と同様に、いや、それ以上に景元(かげもと)のことを買っていたので、如何(いか)に将軍たる己が支持している忠邦(ただくに)の「改革」を進める上で景元(かげもと)の大目付への左遷が必要であるとは言え、さすがに容易にはうなずけなかった。
そこで家慶(いえよし)は側用人(そばようにん)の親繁(ちかしげ)と共にもう一人の中奥の最高長官である御側(おそば)御用取次(ごようとりつぎ)の新見(しんみ)伊賀守(いがのかみ)正路(まさみち)を呼び寄せて、その意見を訊(き)いた。
御側御用取次は御側衆の筆頭であり…、それゆえ御用取次以外の御側衆は平御側(ひらおそば)とも呼ばれていた…、側用人同様、将軍の日常生活を支え、将軍と老中や若年寄など諸役人との間に立って、御用を伝えるのがその仕事であり、そして老中や若年寄より託(たく)された御用…、提案につき自分の意見を将軍に対して直に伝えることが許されていた。
御側御用取次は現在、4人おり、その中でも新見(しんみ)正路(まさみち)は西城にて暮らす、次期将軍である家定の御用取次をも兼ねており、その威勢(いせい)たるや、側用人(そばようにん)の親繁(ちかしげ)と双璧(そうへき)を成しており、尚(なお)且(か)つ、この二人は激しいライバル関係にあった。
現在、中奥においては忠邦(ただくに)の「改革」を支持する「改革派」と、逆に猛反対する「抵抗勢力」の二派に分かれて相(あい)争い、「改革派」の旗頭が親繁(ちかしげ)であり、「抵抗勢力」の旗頭が正路(まさみち)であった。ちなみに忠邦(ただくに)の推し進める「改革」には大奥もターゲットとされており…、主に大奥の予算削減など…、それゆえ「抵抗勢力」の背後には大奥もついていた。
親繁(ちかしげ)と正路(まさみち)はそのような間柄であるので、親繁(ちかしげ)が右と言えば正路(まさみち)は左と答え、その逆に正路(まさみち)が右と言えば親繁(ちかしげ)は左と答える具合であった。
家慶(いえよし)は正路(まさみち)に対して、親繁(ちかしげ)より伝え聞いた話として、その上で、忠邦(ただくに)の提案である旨(むね)、前置きしてから景元(かげもと)の大目付への左遷人事案を伝えた上で、正路(まさみち)の意見を尋ねた。
それに対して正路(まさみち)はやはり景元(かげもと)のことを買っており、その上、左遷人事案の出処(でどころ)が忠邦(ただくに)だと知るや、当然の如(ごと)く猛反対した。
家慶(いえよし)はうなずくと、次に親繁(ちかしげ)に対してその意見を求めた。正路(まさみち)が猛反対した以上は親繁(ちかしげ)はきっと逆に積極的に賛意を示すに違いない…、家慶(いえよし)はそう思い、またとうの本人とも言うべき正路(まさみち)もそう信じて疑わなかった。
だが案に相違して親繁(ちかしげ)は、
「勝手掛老中が左様に申しておりますれば…」
と消極的な賛意しか示さなかったのだ。これには家慶(いえよし)も正路(まさみち)も大いに驚かされたものである。とりわけ正路(まさみち)は大いに驚いた。それだけ景元(かげもと)のことを買っていた証(あかし)とも言えた。
さて二人の意見を聞いた家慶(いえよし)は決断を迫られた。ここは景元(かげもと)の左遷人事案に反対するか、それとももう少しだけ忠邦(ただくに)の推し進める「改革」を信じて、それこそ断腸の思いで景元(かげもと)の左遷人事案に賛成するか…、家慶(いえよし)が選んだのは後者であった。
但し、家慶(いえよし)はせめてもの「餞(はなむけ)」として、
「人事の申し渡しにつき、余(よ)が遠山に直々に申し渡す」
そう断を下して、二人を驚かせた。それと言うのも、将軍から直々に人事を申し渡すのは大名役に限られており、旗本役は老中より申し渡すのが決まりであったからだ。さすがに親繁(ちかしげ)も、
「それは…」
と言って制止しようとしたものの、
「余(よ)の命が聞けぬと申すか?」
家慶(いえよし)からそう返されて、親繁(ちかしげ)は震え上がると同時に、即座に「ははぁっ」と平伏(へいふく)してみせた。一方、元より景元(かげもと)の左遷人事案に反対であった正路(まさみち)は親繁(ちかしげ)のその「ザマ」に大いに溜飲が下がると共に、やはり「ははぁっ」と平伏(へいふく)した。
こうして極めて異例のことではあるが、景元(かげもと)の左遷人事案は大名役と同様、将軍・家慶(いえよし)より直々に申し渡されることになったのである。これはひとえに景元(かげもと)を大名として扱うことに他ならず、異例の厚遇と言えた。
景元(かげもと)に対する異例の厚遇はこれだけにとどまらなかった。御座之間(ござのま)における人事などの申し渡しにつき、旗本は例え、無位無官の一般大名と同じクラスの従五位下(じゅごいのげ)に叙(じょ)されていようとも、下段(げだん)の入側(いりがわ)、すなわち廊下に控(ひか)えねばならないところ、景元(かげもと)は大名と同じく、下段の中に入ることが許されたのであった。それもただ、下段の中に入ることが許されたのみならず、何と将軍・家慶(いえよし)の御座(おわ)す上段と下段との閾(しきい)まで進むことが許されたのであった。これは例え、大名でも許されないことであった。さすがに上段にまで立ち入ることこそ許されなかったものの…、家慶(いえよし)個人としては別に許してやっても良かったのだが、そうしてやりたいと側用人(そばようにん)の親繁(ちかしげ)と御側御用取次の正路(まさみち)の両名に打診するや、両名は普段の激しいライバル関係をも忘れたかのように、「その儀(ぎ)ばかりは何卒(なにとぞ)…」と再考を促(うなが)したのであった…、それでも異例の厚遇と言え、家慶(いえよし)と景元(かげもと)の距離は正に、
「目と鼻の先」
であった。家慶(いえよし)は自ら景元(かげもと)に対して大目付の人事を発令するや、月番老中の眞田(さなだ)幸貫(ゆきつら)より、「結構、仰(おお)せ付けられ、ありがたき旨(むね)」と景元(かげもと)に代わってお礼の言葉が返ってきた。将軍への直答が許されていなかったためであり、それは例え、大名でも同様であった。
だが家慶(いえよし)はそんな規則を打ち破るかのように、「遠山」と声をかけるや、
「直答許す」
そう告げて、畳と睨(にら)めっこしていた景元(かげもと)を驚かせた。いや、景元(かげもと)のみならず、その場にいた誰もが驚いたものである。
だが家慶(いえよし)はそんなことにはお構いなしとばかり、「されば面(おもて)を上げよ」と景元(かげもと)に命じた。景元(かげもと)はさすがに逡巡(しゅんじゅん)した。果たして顔を上げても良いものかどうか、景元(かげもと)は大いに逡巡(しゅんじゅん)した。すると家慶(いえよし)はそんな景元(かげもと)の胸中を察したのかもう一度、「面(おもて)を上げよ」と命じたのであった。さすがに二度も命じられれば顔を上げないわけにはゆかず、さりとて本当にあっさりと頭を上げても良いものか、景元(かげもと)は逡巡(しゅんじゅん)の末、頭を少しだけ上げると、チラリとすぐ真横にいた月番老中の幸貫(ゆきつら)を見やった。すると幸貫(さちつら)は景元(かげもと)の視線に気付くとうなずいてみせた。それで景元(かげもと)も漸(ようや)く決心がつき、顔を上げたのであった。すると家慶(いえよし)は、「遠山よ」と改めて景元(かげもと)に声をかけた。景元(かげもと)は両手を突(つ)くと、平伏(へいふく)こそしなかったものの、それでも「ははっ」と軽く頭を下げた。
「此度(こたび)の人事、申し訳なく思うておる。許せよ」
将軍が謝罪の言葉を口にするなど、絶対にあってはならないことであった。忠邦(ただくに)がすかさず、「上様っ」と声を上げたが、家慶(いえよし)はそれには構わずに続けた。
「だが水野の改革を進める上では致し方なかったのだ。許せよ」
家慶(いえよし)が忠邦(ただくに)の推し進める「改革」を認めることを前提に、念押しするようにそう告げると、忠邦(ただくに)も黙るより他になかった。
一方、景元(かげもと)はよもや将軍・家慶(いえよし)から声をかけられるとは…、その上、直答まで許され、のみならず、家慶(いえよし)から謝罪の言葉まで聞かれるとは思ってもみなかったので、それゆえ感動のあまり打ち震えた。
それにしても家慶(いえよし)がどうして謝罪の言葉を口にしたのか、それは定謙(さだかた)のことを思い出したからである。定謙(さだかた)もまた、忠邦(ただくに)の推し進める「改革」の邪魔になったからこそ「処分」されたクチであり、それも無実の罪に堕(お)とされてしまったのである。家慶(いえよし)も内心では薄々(うすうす)、冤罪であることに勘付いていたものの、それでも、
「忠邦(ただくに)の推し進める改革の障碍(しょうがい)となるのであれば…」
とやはり断腸の思いで、評定所において定謙(さだかた)に下された処分につき、家慶(いえよし)は最終的な決裁権者としてこれに…、みすみす定謙(さだかた)に無実の罪を着せる処分に許可を与えたのであった。家慶(いえよし)はそのことを時が経つに連れて後悔の念を深くし、しかし、今また定謙(さだかた)と同様、景元(かげもと)を「処分」することを許してしまった。定謙(さだかた)のように無実の罪を着せるわけではなかったものの、しかし、家慶(いえよし)は激しく後悔し、それが極めて異例とも言える謝罪の言葉につながったのである。
「遠山よ、これからはそなたの信念に従い、生きるが良いぞ」
家慶(いえよし)は景元(かげもと)に対してそう「餞(はなむけ)」の言葉をかけた。半分は己に対して…、忠邦(ただくに)の推し進める「改革」のため、という名目に負けて理不尽(りふじん)な処分を黙認してしまった己に対して向けられたものであった。
だがその家慶(いえよし)の「餞(はなむけ)」は景元(かげもと)の心を突き刺した。それというのも景元(かげもと)もまた、定謙(さだかた)のことについて大いに後悔していたからだ。
景元(かげもと)はその当時、既に北町奉行であり、それゆえ北町奉行として定謙(さだかた)の裁きに…、正確には定謙(さだかた)を罪に堕(お)とす裁きにかかわってしまったのだ。
江戸町奉行職は寺社奉行、公事方勘定奉行と並んで評定所の正式なメンバーであるので、何か大事件が起これば当然、その審理に当たることになる。忠邦(ただくに)が主導した定謙(さだかた)の裁きにも勿論、かかわった。だが景元(かげもと)は家慶(いえよし)と同様、いや、誰よりもと言うべきであろう、定謙(さだかた)が無実であることを承知していたにもかかわらず、定謙(さだかた)の無実を叫ぶことで忠邦(ただくに)の不興を買い、結果、
「己まで町奉行の職を奪われることになっては堪(たま)らぬ…」
と口を噤(つぐ)んでいた。それも、
「それに己一人が矢部殿の無実を叫びしところで、何も変わらぬ…」
そんな言い訳を楯(たて)にして、である。そうして景元(かげもと)は定謙(さだかた)の無実を誰よりも分かっていながら、定謙(さだかた)を有罪とする判決書に己も北町奉行として署名してしまったのである。だが、己も連署してしまったその判決書が実際に審理を主導した目付の榊原(さかきばら)主計頭(かずえのかみ)忠職(ただもと)より定謙(さだかた)に掲げられた際、定謙(さだかた)が己に対して向けた目が景元(かげもと)は今でも忘れられなかった。定謙(さだかた)はそれで良い、と言わんばかりの目を景元(かげもと)に向けてきたのであった。実は定謙(さだかた)はいよいよ己の命運が尽(つ)き果(は)てるに違いないと、そう確信すると、盟友であった景元(かげもと)に対して、
「大勢順応で構わぬ。わしを救おうなどと、ゆめ思うてはなりませぬぞ」
そうすすめていたのだ。景元(かげもと)が大勢順応、定謙(さだかた)は無実であると分かっていながら、定謙(さだかた)無実の声を上げなかったのはそれも…、定謙(さだかた)がそうすすめたから、という格好の言い訳もあったからである。
実際、定謙(さだかた)はそんな景元(かげもと)にうなずいてみせたものの、実に寂(さび)しげな表情をしていたのが今でも思いだされる。定謙(さだかた)は無理して作り笑いを浮かべてそんな実に寂(さび)しげな表情を押し隠そうとしていたものの、隠しきれず、それが余計に景元(かげもと)の心に突き刺さった。
「やはり…、矢部殿は無実であると、あの時、声を上げるべきであった…」
そう後悔しない日はなかった。定謙(さだかた)より言い含められていた、
「わしを救おうなどと、ゆめ思うてはなりませぬぞ」
との言葉を最大の楯(たて)にして…、それこそ免罪符のようにして、定謙(さだかた)の無実を訴えなかった己が景元(かげもと)は今でも許せずにいた。
そのような背景があったので、
「遠山よ、これからはそなたの信念に従い、生きるが良いぞ」
という家慶(いえよし)の言葉が景元(かげもと)の心に突(つ)き刺さったのである。己の信念…、
「矢部殿は無実である」
その信念を通すことなく、大勢順応、わが身可愛さから定謙(さだかた)を見殺しにしてしまったのだと…。これでは、
「巧言令色鮮やかなりし仁」
そう評されても仕方ないだろう。
「北町奉行・遠山(とおやま)左衛門尉(さえもんのじょう)の大目付への転任の人事案につき、上様に伝えてもらいたい」
そう頼んだのであった。忠邦(ただくに)が直接、将軍・家慶(いえよし)に対して景元(かげもと)の左遷人事案をぶつけるという手もなくはなかったものの、将軍の居所とも言うべき中奥の最高長官として将軍の日常生活を支える側用人(そばようにん)が置かれている以上、側用人(そばようにん)の顔を立てる意味でも側用人(そばようにん)を通した方が無難であった。そうしないと…、側用人(そばようにん)を無視して将軍に直接何か提案しようものなら、側用人(そばようにん)は必ずや己が、
「蔑(ないがし)ろにされた…」
そう思うに違いなく、そうなれば側用人(そばようにん)は意地でもその提案を通すまい、必ずや潰(つぶ)してみせると意気込み、側用人(そばようにん)には将軍に対して直に自分の意見を伝えることが許されているのを良いことに、その提案には反対である旨(むね)、自分の意見として将軍に伝える筈(はず)であった。そうなれば将軍も側用人(そばようにん)の申すことならばと、提案に反対するに違いなく、それを避(さ)けるためにも側用人(そばようにん)を通すのが無難であった。
それに今の側用人(そばようにん)の堀(ほり)親繁(ちかしげ)は、その嫡男(ちゃくなん)の左近将監(さこんのしょうげん)親義(ちかよし)の正室に忠邦(ただくに)の実妹を迎えていたので、忠邦(ただくに)と親繁(ちかしげ)は縁戚関係で結ばれていた。それゆえ親繁(ちかしげ)は縁戚関係にある忠邦(ただくに)の進める「改革」には賛成の立場であり、忠邦(ただくに)も何かと話し易(やす)い相手であった。
だがその親繁(ちかしげ)ですら、景元(かげもと)の左遷人事案を耳にするや、表情を曇(くも)らせたものである。無論、最終的には賛成したものの、それでもやはり他の幕閣(ばっかく)諸侯らと同様に、消極的賛意しか示さなかったことに、忠邦(ただくに)はこの時、最大級のショックを受けたものである。せめて親繁(ちかしげ)ぐらいは積極的に賛成してくれるに相違あるまい…、忠邦(ただくに)はそう信じていただけに親繁(ちかしげ)のこの反応は正直、大ショックであった。
それでも消極的であろうと積極的であろうと、賛成には違いあるまいと、忠邦(ただくに)は気を取り直すと、景元(かげもと)は「改革」の最大の障碍(しょうがい)物であり、それを取り除くためにも景元(かげもと)の大目付への左遷が欠かせないとも付け加えて、親繁(ちかしげ)に対して将軍・家慶(いえよし)にその左遷人事案を伝えてくれるよう頼んだ。
そうして親繁(ちかしげ)は将軍・家慶(いえよし)の下へと足を運ぶと、忠邦(ただくに)より承(うけたまわ)ったその景元(かげもと)の大目付への左遷人事案と共にその理由を、忠邦(ただくに)より承(うけたまわ)った伝言として、それをそのまま将軍・家慶(いえよし)に伝えたのであった。
だが家慶(いえよし)にしても、幕閣(ばっかく)諸侯と同様に、いや、それ以上に景元(かげもと)のことを買っていたので、如何(いか)に将軍たる己が支持している忠邦(ただくに)の「改革」を進める上で景元(かげもと)の大目付への左遷が必要であるとは言え、さすがに容易にはうなずけなかった。
そこで家慶(いえよし)は側用人(そばようにん)の親繁(ちかしげ)と共にもう一人の中奥の最高長官である御側(おそば)御用取次(ごようとりつぎ)の新見(しんみ)伊賀守(いがのかみ)正路(まさみち)を呼び寄せて、その意見を訊(き)いた。
御側御用取次は御側衆の筆頭であり…、それゆえ御用取次以外の御側衆は平御側(ひらおそば)とも呼ばれていた…、側用人同様、将軍の日常生活を支え、将軍と老中や若年寄など諸役人との間に立って、御用を伝えるのがその仕事であり、そして老中や若年寄より託(たく)された御用…、提案につき自分の意見を将軍に対して直に伝えることが許されていた。
御側御用取次は現在、4人おり、その中でも新見(しんみ)正路(まさみち)は西城にて暮らす、次期将軍である家定の御用取次をも兼ねており、その威勢(いせい)たるや、側用人(そばようにん)の親繁(ちかしげ)と双璧(そうへき)を成しており、尚(なお)且(か)つ、この二人は激しいライバル関係にあった。
現在、中奥においては忠邦(ただくに)の「改革」を支持する「改革派」と、逆に猛反対する「抵抗勢力」の二派に分かれて相(あい)争い、「改革派」の旗頭が親繁(ちかしげ)であり、「抵抗勢力」の旗頭が正路(まさみち)であった。ちなみに忠邦(ただくに)の推し進める「改革」には大奥もターゲットとされており…、主に大奥の予算削減など…、それゆえ「抵抗勢力」の背後には大奥もついていた。
親繁(ちかしげ)と正路(まさみち)はそのような間柄であるので、親繁(ちかしげ)が右と言えば正路(まさみち)は左と答え、その逆に正路(まさみち)が右と言えば親繁(ちかしげ)は左と答える具合であった。
家慶(いえよし)は正路(まさみち)に対して、親繁(ちかしげ)より伝え聞いた話として、その上で、忠邦(ただくに)の提案である旨(むね)、前置きしてから景元(かげもと)の大目付への左遷人事案を伝えた上で、正路(まさみち)の意見を尋ねた。
それに対して正路(まさみち)はやはり景元(かげもと)のことを買っており、その上、左遷人事案の出処(でどころ)が忠邦(ただくに)だと知るや、当然の如(ごと)く猛反対した。
家慶(いえよし)はうなずくと、次に親繁(ちかしげ)に対してその意見を求めた。正路(まさみち)が猛反対した以上は親繁(ちかしげ)はきっと逆に積極的に賛意を示すに違いない…、家慶(いえよし)はそう思い、またとうの本人とも言うべき正路(まさみち)もそう信じて疑わなかった。
だが案に相違して親繁(ちかしげ)は、
「勝手掛老中が左様に申しておりますれば…」
と消極的な賛意しか示さなかったのだ。これには家慶(いえよし)も正路(まさみち)も大いに驚かされたものである。とりわけ正路(まさみち)は大いに驚いた。それだけ景元(かげもと)のことを買っていた証(あかし)とも言えた。
さて二人の意見を聞いた家慶(いえよし)は決断を迫られた。ここは景元(かげもと)の左遷人事案に反対するか、それとももう少しだけ忠邦(ただくに)の推し進める「改革」を信じて、それこそ断腸の思いで景元(かげもと)の左遷人事案に賛成するか…、家慶(いえよし)が選んだのは後者であった。
但し、家慶(いえよし)はせめてもの「餞(はなむけ)」として、
「人事の申し渡しにつき、余(よ)が遠山に直々に申し渡す」
そう断を下して、二人を驚かせた。それと言うのも、将軍から直々に人事を申し渡すのは大名役に限られており、旗本役は老中より申し渡すのが決まりであったからだ。さすがに親繁(ちかしげ)も、
「それは…」
と言って制止しようとしたものの、
「余(よ)の命が聞けぬと申すか?」
家慶(いえよし)からそう返されて、親繁(ちかしげ)は震え上がると同時に、即座に「ははぁっ」と平伏(へいふく)してみせた。一方、元より景元(かげもと)の左遷人事案に反対であった正路(まさみち)は親繁(ちかしげ)のその「ザマ」に大いに溜飲が下がると共に、やはり「ははぁっ」と平伏(へいふく)した。
こうして極めて異例のことではあるが、景元(かげもと)の左遷人事案は大名役と同様、将軍・家慶(いえよし)より直々に申し渡されることになったのである。これはひとえに景元(かげもと)を大名として扱うことに他ならず、異例の厚遇と言えた。
景元(かげもと)に対する異例の厚遇はこれだけにとどまらなかった。御座之間(ござのま)における人事などの申し渡しにつき、旗本は例え、無位無官の一般大名と同じクラスの従五位下(じゅごいのげ)に叙(じょ)されていようとも、下段(げだん)の入側(いりがわ)、すなわち廊下に控(ひか)えねばならないところ、景元(かげもと)は大名と同じく、下段の中に入ることが許されたのであった。それもただ、下段の中に入ることが許されたのみならず、何と将軍・家慶(いえよし)の御座(おわ)す上段と下段との閾(しきい)まで進むことが許されたのであった。これは例え、大名でも許されないことであった。さすがに上段にまで立ち入ることこそ許されなかったものの…、家慶(いえよし)個人としては別に許してやっても良かったのだが、そうしてやりたいと側用人(そばようにん)の親繁(ちかしげ)と御側御用取次の正路(まさみち)の両名に打診するや、両名は普段の激しいライバル関係をも忘れたかのように、「その儀(ぎ)ばかりは何卒(なにとぞ)…」と再考を促(うなが)したのであった…、それでも異例の厚遇と言え、家慶(いえよし)と景元(かげもと)の距離は正に、
「目と鼻の先」
であった。家慶(いえよし)は自ら景元(かげもと)に対して大目付の人事を発令するや、月番老中の眞田(さなだ)幸貫(ゆきつら)より、「結構、仰(おお)せ付けられ、ありがたき旨(むね)」と景元(かげもと)に代わってお礼の言葉が返ってきた。将軍への直答が許されていなかったためであり、それは例え、大名でも同様であった。
だが家慶(いえよし)はそんな規則を打ち破るかのように、「遠山」と声をかけるや、
「直答許す」
そう告げて、畳と睨(にら)めっこしていた景元(かげもと)を驚かせた。いや、景元(かげもと)のみならず、その場にいた誰もが驚いたものである。
だが家慶(いえよし)はそんなことにはお構いなしとばかり、「されば面(おもて)を上げよ」と景元(かげもと)に命じた。景元(かげもと)はさすがに逡巡(しゅんじゅん)した。果たして顔を上げても良いものかどうか、景元(かげもと)は大いに逡巡(しゅんじゅん)した。すると家慶(いえよし)はそんな景元(かげもと)の胸中を察したのかもう一度、「面(おもて)を上げよ」と命じたのであった。さすがに二度も命じられれば顔を上げないわけにはゆかず、さりとて本当にあっさりと頭を上げても良いものか、景元(かげもと)は逡巡(しゅんじゅん)の末、頭を少しだけ上げると、チラリとすぐ真横にいた月番老中の幸貫(ゆきつら)を見やった。すると幸貫(さちつら)は景元(かげもと)の視線に気付くとうなずいてみせた。それで景元(かげもと)も漸(ようや)く決心がつき、顔を上げたのであった。すると家慶(いえよし)は、「遠山よ」と改めて景元(かげもと)に声をかけた。景元(かげもと)は両手を突(つ)くと、平伏(へいふく)こそしなかったものの、それでも「ははっ」と軽く頭を下げた。
「此度(こたび)の人事、申し訳なく思うておる。許せよ」
将軍が謝罪の言葉を口にするなど、絶対にあってはならないことであった。忠邦(ただくに)がすかさず、「上様っ」と声を上げたが、家慶(いえよし)はそれには構わずに続けた。
「だが水野の改革を進める上では致し方なかったのだ。許せよ」
家慶(いえよし)が忠邦(ただくに)の推し進める「改革」を認めることを前提に、念押しするようにそう告げると、忠邦(ただくに)も黙るより他になかった。
一方、景元(かげもと)はよもや将軍・家慶(いえよし)から声をかけられるとは…、その上、直答まで許され、のみならず、家慶(いえよし)から謝罪の言葉まで聞かれるとは思ってもみなかったので、それゆえ感動のあまり打ち震えた。
それにしても家慶(いえよし)がどうして謝罪の言葉を口にしたのか、それは定謙(さだかた)のことを思い出したからである。定謙(さだかた)もまた、忠邦(ただくに)の推し進める「改革」の邪魔になったからこそ「処分」されたクチであり、それも無実の罪に堕(お)とされてしまったのである。家慶(いえよし)も内心では薄々(うすうす)、冤罪であることに勘付いていたものの、それでも、
「忠邦(ただくに)の推し進める改革の障碍(しょうがい)となるのであれば…」
とやはり断腸の思いで、評定所において定謙(さだかた)に下された処分につき、家慶(いえよし)は最終的な決裁権者としてこれに…、みすみす定謙(さだかた)に無実の罪を着せる処分に許可を与えたのであった。家慶(いえよし)はそのことを時が経つに連れて後悔の念を深くし、しかし、今また定謙(さだかた)と同様、景元(かげもと)を「処分」することを許してしまった。定謙(さだかた)のように無実の罪を着せるわけではなかったものの、しかし、家慶(いえよし)は激しく後悔し、それが極めて異例とも言える謝罪の言葉につながったのである。
「遠山よ、これからはそなたの信念に従い、生きるが良いぞ」
家慶(いえよし)は景元(かげもと)に対してそう「餞(はなむけ)」の言葉をかけた。半分は己に対して…、忠邦(ただくに)の推し進める「改革」のため、という名目に負けて理不尽(りふじん)な処分を黙認してしまった己に対して向けられたものであった。
だがその家慶(いえよし)の「餞(はなむけ)」は景元(かげもと)の心を突き刺した。それというのも景元(かげもと)もまた、定謙(さだかた)のことについて大いに後悔していたからだ。
景元(かげもと)はその当時、既に北町奉行であり、それゆえ北町奉行として定謙(さだかた)の裁きに…、正確には定謙(さだかた)を罪に堕(お)とす裁きにかかわってしまったのだ。
江戸町奉行職は寺社奉行、公事方勘定奉行と並んで評定所の正式なメンバーであるので、何か大事件が起これば当然、その審理に当たることになる。忠邦(ただくに)が主導した定謙(さだかた)の裁きにも勿論、かかわった。だが景元(かげもと)は家慶(いえよし)と同様、いや、誰よりもと言うべきであろう、定謙(さだかた)が無実であることを承知していたにもかかわらず、定謙(さだかた)の無実を叫ぶことで忠邦(ただくに)の不興を買い、結果、
「己まで町奉行の職を奪われることになっては堪(たま)らぬ…」
と口を噤(つぐ)んでいた。それも、
「それに己一人が矢部殿の無実を叫びしところで、何も変わらぬ…」
そんな言い訳を楯(たて)にして、である。そうして景元(かげもと)は定謙(さだかた)の無実を誰よりも分かっていながら、定謙(さだかた)を有罪とする判決書に己も北町奉行として署名してしまったのである。だが、己も連署してしまったその判決書が実際に審理を主導した目付の榊原(さかきばら)主計頭(かずえのかみ)忠職(ただもと)より定謙(さだかた)に掲げられた際、定謙(さだかた)が己に対して向けた目が景元(かげもと)は今でも忘れられなかった。定謙(さだかた)はそれで良い、と言わんばかりの目を景元(かげもと)に向けてきたのであった。実は定謙(さだかた)はいよいよ己の命運が尽(つ)き果(は)てるに違いないと、そう確信すると、盟友であった景元(かげもと)に対して、
「大勢順応で構わぬ。わしを救おうなどと、ゆめ思うてはなりませぬぞ」
そうすすめていたのだ。景元(かげもと)が大勢順応、定謙(さだかた)は無実であると分かっていながら、定謙(さだかた)無実の声を上げなかったのはそれも…、定謙(さだかた)がそうすすめたから、という格好の言い訳もあったからである。
実際、定謙(さだかた)はそんな景元(かげもと)にうなずいてみせたものの、実に寂(さび)しげな表情をしていたのが今でも思いだされる。定謙(さだかた)は無理して作り笑いを浮かべてそんな実に寂(さび)しげな表情を押し隠そうとしていたものの、隠しきれず、それが余計に景元(かげもと)の心に突き刺さった。
「やはり…、矢部殿は無実であると、あの時、声を上げるべきであった…」
そう後悔しない日はなかった。定謙(さだかた)より言い含められていた、
「わしを救おうなどと、ゆめ思うてはなりませぬぞ」
との言葉を最大の楯(たて)にして…、それこそ免罪符のようにして、定謙(さだかた)の無実を訴えなかった己が景元(かげもと)は今でも許せずにいた。
そのような背景があったので、
「遠山よ、これからはそなたの信念に従い、生きるが良いぞ」
という家慶(いえよし)の言葉が景元(かげもと)の心に突(つ)き刺さったのである。己の信念…、
「矢部殿は無実である」
その信念を通すことなく、大勢順応、わが身可愛さから定謙(さだかた)を見殺しにしてしまったのだと…。これでは、
「巧言令色鮮やかなりし仁」
そう評されても仕方ないだろう。
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