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正教と静子の結婚宣言、そして忍び寄る特高課刑事・大石良次の魔の手。

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 それから静子は正教の案内により大広間へと向かった。結婚を発表するためである。大広間においてはきっと、越山が客に対して、義意・静絵夫妻のことを紹介している頃に違いなかった。

「ご令嬢の静子さんを愚息に娶わせようかと思っとりますわっ!」

 そう紹介している頃に違いなく、そんな中、二人が結婚を決めたとあらば、越山はさぞかし驚くに違いなかった。いや、義意と静絵にしても同様であろう。

 実際、その通りで、大広間においては越山はまず、妻女の櫻を義意と静絵に引き合わせた。越山の妻女の櫻は普段は娘の真樹子の下宿先にて暮らしていた。下宿先と言ってもやはり邸宅であり、女中もいた。

 だが今日は正月元旦ということもあり、櫻は娘の真樹子ともども、この本宅へと帰省してはホスト役を務めていた。

 その櫻を越山は義意と静絵夫妻に紹介し、次いで娘の真樹子も紹介したのであった。

 それから越山は客に義意と静絵を紹介したのであった。無論、義意と静絵が貴族院議員とその妻であることは客も承知していた。何しろ客の大半が同じく貴族院議員だからだ。越山が紹介したのは義意と静絵が将来の倅の義父母になるやも知れぬということであった。客が皆、驚いたことはいうまでもなく、

「まだ、正式に決まったわけではありませんが…」

 義意がそう予防線を張ったほどである。

 するとそこへ正教と静子が大広間に姿を見せると、越山が目敏く見つけ、「おやっ」という顔をよこし、客の相手をしていたにもかかわらず、それを中断して近付いて来た。

「どうしたい?」

 そう尋ねる越山に対して正教は「静子さんと結婚することにします」と宣言するように答えたのであった。客は元より、義意と静絵が驚いたのは言うまでもない。

「そんなに簡単に決めてしまっていいのか?」

 経済的見地から娘の結婚に賛成であったはずの義意は思わずそう尋ねた。無論、結婚することに賛成であることは今でも変わりないが、それでももう少し、互いに理解を深めてから結婚宣言しても遅くはないだろう。

 それに比して何事にもせっかちな越山は大いに喜んだものである。

「そうかっ!それじゃあ、早速、披露宴の準備をせにゃいかんなっ!いや、華燭の典といこうじゃないかっ!ああ、その時は皆さんっ!是非ともお運びのほどをっ!」

 越山は客に頭を下げると、客もそれに応える格好で内心、鼻白みつつも拍手してやった。そしてその中には特高課の大石良次刑事も含まれていた。

 良次はある貴族院議員の秘書としてこの宴に潜り込んだのであった。田丸邸で正月元旦、宴が開かれることは有名であり、その田丸家の当主である越山が男爵になりたいとの野望から、侯爵議員である吉良義意の一人娘の静子に目をつけたこともまた、良次は把握していた。

 特高課にとって悲願とも言うべき治安維持法案、それに反対する恐れがある吉良義意と伊澤多喜男の両名は特高課によって極秘にだが、

「特別要視察人甲号」

 及び、

「特別要視察人乙号」

 にそれぞれ指定されていた。すなわち、義意は「特別要視察人甲号」に、伊澤多喜男は「特別要視察人乙号」にそれぞれ特高課は指定し、その動静監視に当たっていた。具体的には良次が義意の、伊澤多喜男には別の特高課の刑事がそれぞれ動静監視に当たっていた。本来ならば…、例えばこれが一般的な刑事部主導による捜査であれば、複数の刑事が動静監視に当たるものだが、こと特高課主導による捜査…、果たして捜査と呼べる代物か、甚だ疑問ではあったが、ともああれ特高課主導による捜査の場合は特に秘匿が要求されるため、動静監視にしても一人の刑事が当たるのが通常であり、だからといって一人の刑事で動静監視に当たるなど、物理的に不可能であり、それゆえ特高課刑事には皆、非公式の、それこそ岡っ引き的な存在の「密偵」がおり、良次も勿論、この「密偵」を抱えており、その密偵たちを自在に動かして、義意の動静監視に当たらせていた。

 結果、義意が田丸邸に出入りし、さらに田丸越山の跡取り息子である正教と義意の一人娘である静子の縁談を突き止めたのであった。

 越山が何ゆえに倅の正教を義意の一人娘である静子と娶わせようとしているのか、それを突き止めるのは比較的、容易であったが、問題は義意の反応であった。田丸邸には大勢の女中が立ち働いており、密偵はそのうちの女中の何人かと誼を通じて、話を聞きだすことができたのであった。主の越山が金にものを言わせるおとこであり、そうなると家臣とも言うべき女中にしてもその傾向が見て取れた。すなわち、密偵は良次より受け取っている「小遣い」を元手にその女中から話を聞きだすことができたのであった。

 だがそれに比して義意から情報を吸い上げることは中々に難しかった。果たして義意はこの縁談にどのような反応を示しているのか、特高課としては是非とも知りたいところであった。その反応如何によっては義意を揺さぶれるネタになる可能性を孕んでいた。揺さぶれるとは他でもない、義意を治安維持法案反対から賛成へと転じさせる、そのためのネタという意味である。

 だが吉良家においては田丸邸に比べて、それほど女中がいるわけではない。と言うよりは女中一人に執事が一人という有様で、書生さえ置いていない。またこの女中にしても、また執事にしても口が堅そうであり、下手に接触すれば警戒される恐れがあり、それゆえ義意から情報を吸い上げることは諦めざるを得なかった。

 だがそれでも田丸サイドから今日、正月元旦に越山が吉良一家をこの屋敷に招いたこと、その情報を吸い上げることに密偵は成功し、良次に報告したのであった。

 そこで良次はかねて温めていたある貴族院議員の不祥事の「ネタ」を使うことにした。少女買春が趣味の貴族院議員であり、その証拠ともなる「ネタ」を良次は握っていたのだ。良次はその「ネタ」を貴族院議員にぶつけた。それというのもその貴族院議員も田丸邸の新年会に呼ばれていたからだ。

 すなわち、自分を先生の秘書として新年会に連れて行って下さいと、その「ネタ」を引き渡すことを条件に議員に頼んだのであった。それに対して議員が応じざるを得なかったのは言うまでもない。

 そうして良次は田丸邸の新年会に潜り込み、義意の反応をしかと見届けることにしたのであった。

 結果、正教と静子の結婚宣言であり、これには良次も驚かされたが、ともあれ、それに対する義意の反応をしかと確かめた。

 結果、義意は一応、「そんなに簡単に決めてしまっていいのか」などと慎重な口ぶりであったが、しかしその様子は明らかに歓迎している様子が伺えた。

 良次はそれを見届けると、秘かに田丸邸をあとにし、そして特高課へと戻ると、大野課長に報告したのであった。

「娘…、妹の真樹子はこの結婚をどう思っているんだ?」

 報告を聞き終えた大野課長はそう切り出した。

 妹の真樹子は兄、正教を愛しており、それゆえ兄の結婚を祝福していないのではないか…、そうであれば真樹子をとっかかりとして、義意の弱味を作れないか…、良次は大野課長の真意を直ちに脳内変換してみせた。この程度の上司の真意を汲み取れぬようでは特高課の刑事は務まらない。

「真樹子はそれほど頭が良い方ではなく、兄弟仲も普通です。ですから結婚については特に何も思うところがないとの情報があります…」

「そうか…」

「ここはやはり手っ取り早く、静子をとっかかりにすべきかと…」

 良次の提言に対して大野課長は「どうする?」と尋ねた。

「古典的ですが、あの手を使います…」

「あの手か…」

 上司にしてもこの程度の部下の真意が読み取れぬようではやはり、特高課刑事は務まらない。

「何が欲しい?」

「帝大生の身分を…」
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