野獣 横田源太郎

ご隠居

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意知遭難 ~横田源太郎、友のために瞑目す~

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少老しょうろう田沼たぬま山城守やましろのかみ様が営中えいちゅうにてられたぞ…」

 西之丸にしのまる目付めつけ横田よこた源太郎げんたろう松房としふさがそれを耳にしたのはうまこく、それも昼の九つ半(午後1時頃)を四半しはんとき(約30分)もぎようかという頃、つとさきである西之丸にしのまるにおいてであった。

 情報じょうほう発信源はっしんげん小納戸こなんど頭取とうどり水谷みずのや伊豆守いずのかみ勝禰かつね小姓こしょう細井ほそい出雲守いずものかみ正房まさふさの二人であった。

 水谷みずのや勝禰かつね細井ほそい正房まさふさの二人は来月らいげつ17日におこなわれていることが予定よていされている家斉いえなり紅葉山もみじやまへの参詣さんけいわせのために本丸ほんまるへと出向でむいていたのだ。

 すなわち、来月らいげつの4月17日は東照とうしょう神君しんくん家康いえやす公の命日めいにちたり、それゆえこの日は歴代れきだいの将軍はかならず、みずからその霊廟れいびょうまつられている紅葉山もみじやまへとあしはこんではもうでる仕来しきたりであり、天明4(1784)年の今年ことし勿論もちろんその予定よていであった。

 その上で今年ことしはここ西之丸にしのまるにて次期じき将軍として君臨くんりんする家斉いえなり紅葉山もみじやまへともうでる予定よていであった。家斉いえなりにとっては次期じき将軍になってからはじめての参詣さんけいたり、その家斉いえなりしたがうのが小納戸こなんど頭取とうどり水谷みずのや勝禰かつね小姓こしょう細井ほそい正房まさふさであった。

 家斉いえなり参詣さんけいおりかせない御刀おかたな…、太刀持たちもちの役が水谷みずのや勝禰かつね御沓おくつ…、輿こしへのりや建物たてものへの出入でいりなどのさいにその履物はきもの脱着だっちゃく保管ほかんたる役が細井ほそい正房まさふさ各々おのおのおおけられており、そこで御刀おかたな役の水谷みずのや勝禰かつね御沓おくつ役の細井ほそい正房まさふさの二人はそのための礼儀れいぎ作法さほう高家こうけ肝煎きもいり中條ちゅうじょう大和守やまとのかみ信復のぶとき指南しなんしてもらうべく本丸ほんまるへとあしはこんだのであった。

 高家こうけ肝煎きもいり中條ちゅうじょう信復のぶときもまた家斉いえなりにとってはじめてとなる紅葉山もみじやまへの参詣さんけいおり御太刀おたちの役、つまりは太刀たちびてともをする役をおおかっており、つ、御刀おかたな役の水谷みずのや勝禰かつね御沓おくつ役の細井ほそい正房まさふさ両名りょうめいへの礼儀れいぎ作法さほう指南しなんをもおおけられていたので、そこで中條ちゅうじょう信復のぶとき高家こうけ肝煎きもいりたるおのれ勤務きんむ先とも言うべき詰所つめしょである雁之間がんのまにて水谷みずのや勝禰かつね細井ほそい正房まさふさの二人にその礼儀れいぎ作法さほう指南しなんすべく、二人を雁之間がんのまへとまねいたのであった。

 水谷みずのや勝禰かつね細井ほそい正房まさふさの二人への指南しなんは昼の九つ半(午後1時頃)を予定よていしていたので、水谷みずのや勝禰かつね細井ほそい正房まさふさの二人はそれによう、昼の九つ半(午後1時頃)よりも前、昼九つ(正午頃)の終わり頃には雁之間がんのまへといた。

 指南しなん刻限こくげんを昼の九つ半(午後1時頃)とさだめたのはほかでもない、そのころにはちょうど、老中の「ひるまわり」が終わるころであったからだ。

 すなわち、昼九つ(正午頃)になると老中が表向おもてむきにある各部屋かくへや見廻みまわる、「まわり」なる恒例こうれい行事ぎょうじがあり、そのころになると雁之間がんのまめる高家こうけしゅう雁之間がんのまづめ諸侯しょこうとも雁之間がんのまわき廊下ろうかへとうつっては一列いちれつになってひかえ、老中を出迎でむかえることになる。

 その老中による「ひるまわり」が終わるのが昼の九つ半(午後1時頃)であり、それゆえ中條ちゅうじょう信復のぶときはその刻限こくげん指南しなん刻限こくげんさだめ、あらかじ水谷みずのや勝禰かつね細井ほそい正房まさふさの二人にそのむねつたえてあったのだ。

 一方いっぽう水谷みずのや勝禰かつね細井ほそい正房まさふさの二人にしてもその老中による「ひるまわり」は承知しょうちしており、そこでもうもなくで約束やくそくの昼の九つ半(午後1時頃)になろうかというギリギリの頃合ころあい見計みはからって雁之間がんのまいたのであった。老中による「ひるまわり」の最中さなか表向おもてむきをうろついては老中に対して失礼しつれいというものであり、それをはばかったためである。

 そしてそれは意知おきともたち少老しょうろう…、若年寄にも同じことが言えた。

 すなわち、若年寄は昼ともなると昼食ちゅうしょくを取るべく、若年寄専用せんよう下部屋したべやへとおもむく。

 本来ほんらいならば若年寄の執務室しつむしつであるつぎ御用ごよう部屋べやにて昼食ちゅうしょくれればそれにしたことはないのだが、生憎あいにくと若年寄の執務室しつむしつであるつぎ御用ごよう部屋べやは老中のそれであるうえ御用ごよう部屋べやくらべて非常ひじょうにせせこましく、とてもゆったりと昼食ちゅうしょくを取れるような雰囲気ふんいきではなく、そこで殿中でんちゅうへとつうずる通用門つうようもんである中之口なかのぐちくぐってぐのところにある若年寄専用せんようの「ロッカールーム」とも言うべき下部屋したべやにて昼食ちゅうしょくるのが日課にっかであった。「ロッカールーム」とは言え、若年寄の下部屋したべやともなると、その執務室しつむしつであるつぎ御用ごよう部屋べや同程度どうていどかややひろく、何より執務室しつむしつよりもいて昼食ちゅうしょくれるというものである。

 だがその場合にもやはりと言うべきか、老中による「ひるまわり」の最中さなか下部屋したべやへとあしばしては老中に対して失礼しつれいというものであり、そこで若年寄もまた老中にはばかり、その「ひるまわり」をえようかという昼の九つ半(午後1時頃)になろうかという頃、昼九つ(正午頃)の終わり頃につぎ御用ごよう部屋べや退出たいしゅつし、下部屋したべやへとかう。

 意知おきとも遭難そうなんしたのはまさにその時であった。

 意知おきとも相役あいやく…、同僚どうりょうの若年寄ととも下部屋したべやへとかうべく、新番所しんばんしょまえ廊下ろうかとおって中之間なかのまへとあしれ、さら中之間なかのまからとなり桔梗之間ききょうのまへとあしれようとしたところで新番士しんばんし佐野さの善左衛門ぜんざえもん政言まさことなる者にいきなりかたけられたらしい。

 意知おきとも勿論もちろん武士ぶしである以上いじょう応戦おうせんする義務ぎむがあり、しかし殿中でんちゅうでの抜刀ばっとう御法度ごはっとであったので、そこで意知おきともさやにて応戦おうせんしつつ、中之間なかのまへとあとずさり、しかし羽目之間はめのまにてついとどめをされた…、水谷みずのや勝禰かつね細井ほそい正房まさふさの二人はまるでその現場げんばを「リアルタイム」で目撃もくげきしたかのようにその意知おきとも遭難そうなんのあらましを小姓こしょう小納戸こなんどかたってかせた。

 そしてその場には目付めつけ横田よこた源太郎げんたろう松房としふさもおり、源太郎げんたろうは思わず目をつぶった。それは友のための瞑目めいもくであった。
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