野獣 横田源太郎

ご隠居

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源太郎と意知の友情 1

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 源太郎げんたろう意知おきともとのいはふるく、今から15年前の明和6(1769)年にさかのぼる。

 その年の8月に父・三四郎さんしろう松春としはる遺跡いせきいだ源太郎げんたろうはそれから二月ふたつき後の10月に本丸ほんまる書院番しょいんばん番士ばんしとして番入ばんいり就職しゅうしょくたした。

 書院番しょいんばんとは小姓組番こしょうぐみばん新番しんばん小十人組番こじゅうにんぐみばんならんで殿中でんちゅう警衛けいえいや将軍の警衛けいえい、つまりは「SP役」がその職掌しょくしょうであり、番方ばんかたしょうされる武官ぶかんであった。

 ちなみに番方ばんかたにはもう一つ、大番おおばんがあり、おもに江戸城の西之丸にしのまる二ノ丸にのまるにて勤番きんばんし、その警衛けいえいたるとともに、江戸市中を巡回じゅんかいして非常ひじょう警戒けいかいにも当たるのを職掌しょくしょうとし、この大番おおばんを加えた五つのばんは、

五番方ごばんかた…」

 そうばれていた。

 このうち書院番しょいんばん小姓組番こしょうぐみばんもっと格式かくしきたかく、この両方りょうほうばん総称そうしょうして、

両番りょうばん…」

 そうばれていた。

 この所謂いわゆる、「両番りょうばん」は旗本はたもとにとってはわば出世しゅっせ登竜門とうりゅうもん的ポストであり、この「両番りょうばん」の番士ばんし皮切かわきりに従六位じゅろくい布衣ほい役や、さらにその上の従五位下じゅごいのげ諸大夫しょだいぶ役へと昇進しょうしんするケースが多かった。

 それゆえ出世しゅっせのぞ旗本はたもとであればだれしもまずはこの「両番りょうばん」の番士ばんしとして番入ばんいり就職しゅうしょくのぞむものであるが、しかしだれもが番入ばんいりできるわけではなかった。

 すなわち、両番りょうばん番士ばんしとして番入ばんいりできるのは基本的きほんてきには代々だいだい両番りょうばん番士ばんしとして番入ばんいりする資格しかくのある家柄いえがら所謂いわゆる

両番りょうばん家筋いえすじ…」

 その出自しゅつじ旗本はたもとかぎられていた。

 それゆえ大番おおばん番士ばんしとして番入ばんいりできるのは大番おおばん家筋いえすじの、小十人組番こじゅうにんぐみばん番士ばんしとして番入ばんいりできるのは小十人こじゅうにん家筋いえすじの、それぞれ旗本はたもとかぎられていた。ちなみに新番しんばん番士ばんし大抵たいてい大番おおばん番士ばんしか、あるいは小十人組番こじゅうにんぐみばん番士ばんしからの異動いどうほとんどであり、それゆえ新番しんばん家筋いえすじなるものはそんしなかった。

 ともあれ基本的きほんてきには両番りょうばん家筋いえすじ旗本はたもとまれなければ両番りょうばん番士ばんしとして番入ばんいりすることはかなわず、例外的に父が従六位じゅろくい布衣ほい役へと取り立てられるとその嫡子ちゃくしは、

「父の御蔭おかげにより…」

 例え大番おおばん家筋いえすじであろうが、小十人こじゅうにん家筋いえすじであろうが両番りょうばん番士ばんしとしててられ、さらにその上の従五位下じゅごいのげ諸大夫しょだいぶ役にてられた場合にはその旗本はたもと大番おおばん家筋いえすじあるいは小十人こじゅうにん家筋いえすじであったとしても、その旗本はたもと家格かかく両番りょうばん家筋いえすじへと上昇じょうしょうし、それゆえ子孫しそん代々だいだいわたって両番りょうばん番士ばんしとして番入ばんいりたすことができる。

 ちなみに大番おおばん家筋いえすじあるいは小十人こじゅうにん家筋いえすじ旗本はたもとまれながらも父が従六位じゅろくい布衣ほい役にてられたために両番りょうばん番士ばんしとして番入ばんいりたすことができた者はその者も父・同様どうよう従六位じゅろくい布衣ほい役へと昇進しょうしんたすことができればさらにその者の子にも両番りょうばん番士ばんしとして番入ばんいりたさせることができるものの、しかしそうではなく、一介いっかい番士ばんしとしてわったならば、わば、

「父の遺産いさんつぶしただけならば…」

 その者の子はやはり自動的じどうてき両番りょうばん番士ばんしとして番入ばんいりすることはかなわずふたたび、大番おおばんあるいは小十人組番こじゅうにんぐみばん番士ばんしとして番入ばんいりするよりほかになかった。そこが従五位下じゅごいのげ諸大夫しょだいぶ役にまでてられた場合のちがい、それも最大さいだいちがいであり、それゆえ出世しゅっせのぞむ、それも大番おおばん家筋いえすじ小十人こじゅうにん家筋いえすじまれた旗本はたもとであれば、

子孫しそんには自動的じどうてき両番りょうばんりをたさせてやりたい…」

 その一念いちねんから従五位下じゅごいのげ諸大夫しょだいぶ役にまで出世しゅっせたすのをだれしも夢見ゆめみるものである。

 さて、源太郎げんたろう両番りょうばん家筋いえすじ旗本はたもととしてまれたために、それゆえ自動的じどうてき両番りょうばんのうちの書院番しょいんばん番士ばんしとして番入ばんいりたすことができたわけだが、しかし、遺跡いせき家督かとくいでからたった二月ふたつきでの番入ばんいり異例いれいと言えた。何しろこの頃はたとえ、両番りょうばん家筋いえすじ旗本はたもとまれようとも両番りょうばんいりたすのに2年から3年かかるのもめずらしくなく、中には10年や15年もかけた者もおり、あるいは一生いっしょう番入ばんいりたせずに家督かとくゆずった者もいた。

 そんな中、源太郎げんたろうがたった二月ふたつき書院番しょいんばん番士ばんしとして番入ばんいりたすことができたのはひとえに源太郎げんたろう本家ほんけすじたる横田よこた準松のりとしの「御蔭おかげ」によるものであった。

 すなわち、その当時とうじ小姓こしょう頭取とうどりであった横田よこた準松のりとしがやはりその当時とうじはまだ、老中格式かくしき御側御用人おそばごようにんであった田沼たぬま意次おきつぐ源太郎げんたろう番入ばんいりたのんだのであった。

 その頃より、意次おきつぐ準松のりとしはそれぞれ側用人そばようにん小姓こしょう頭取とうどりとしてがっちりと、

「タッグをんで…」

 二人は中奥なかおく支配しはいしていた。

 その準松のりとしなやみのたねであったのがほかならぬ源太郎げんたろうであり、源太郎げんたろうは父・三四郎さんしろう松春としはる生前せいぜんころより江戸市中をあばまわってはならず者との喧嘩けんかれ、父の遺跡いせきいでからもそれがおさまる気配けはい一向いっこう見受みうけられず、このままでは源太郎げんたろう本家ほんけすじたるおのれあやういと、準松のりとし常々つねづねそうあんじていた。

 何しろ準松のりとし意次おきつぐと「タッグ」をんでは中奥なかおく支配しはいしていたので、それゆえにてきも多く、そのようなてきにとってみれば源太郎げんたろう存在そんざい準松のりとしを引きずりおろす格好かっこう獲物えものに見えたであろうし、ぎゃく準松のりとしにとってはアキレス腱であった。

 そこで準松のりとし源太郎げんたろう一刻いっこくはやくに番入ばんいりさせることでこの問題に決着けっちゃくはかろうとした。

源太郎げんたろう番入ばんいりいたさばすこしくは身持みもちおさまるであろう…」

 準松のりとしはそう思えばこそ、意次おきつぐ源太郎げんたろう番入ばんいりたのんだのであった。つまりは準松のりとし自身じしんのためであり、そしてそれは意次おきつぐのためでもあった。何しろ意次おきつぐ準松のりとしとタッグをんで中奥なかおく支配しはいしており、準松のりとしとはわば、

一蓮托生いちれんたくしょう…」

 その関係かんけいにあり、準松のりとしが落ちる時はすなわち、意次おきつぐちる時であり、そのぎゃくもまたしかりであった。

 そこで意次おきつぐ準松のりとしのこの陳情ちんじょうを、

わがこととして…」

 け、結果けっか源太郎げんたろう書院番しょいんばんんだわけであった。

 ともあれ準松のりとしとしてはただちに陳情ちんじょう処理しょりしてくれた意次おきつぐに対してれいを言うべく、源太郎げんたろうともない、神田橋かんだばし御門内ごもんないにある意次おきつぐ上屋敷かみやしきおとずれることにした。

 そこで準松のりとし新大橋しんおおはしにある自邸じていへと源太郎げんたろうせた上で、源太郎げんたろうともない、神田橋かんだばし御門内ごもんないにある上屋敷かみやしきおとずれるつもりでいた。

 これで分別ふんべつのある者なれば「現地げんち集合しゅうごう」でもかまわなかったのだが、いや、それ以前いぜん自主的じしゅてき意次おきつぐ屋敷やしきおとずれたであろうが、生憎あいにく源太郎げんたろうにその手の分別ふんべつもとめるのは八百屋やおやさかなをくれと言うにひとしい。

 それゆえ準松のりとし源太郎げんたろうに対してまえもって約束やくそく日時にちじをそれこそ、

くちっぱくして…」

 もうかせていたにもかかわらず、約束やくそく刻限こくげんちかづいても源太郎げんたろう準松のりとし屋敷やしきおとずれることはなく、その後も、約束やくそく刻限こくげんぎても、

てどらせど…」

 源太郎げんたろうが姿を見せることはなく、そこで準松のりとし単身たんしん意次おきつぐ屋敷やしきおとずれることにした。
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