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勝田光寛が若君様こと勝田麟太郎を引き取った理由 2
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麟太郎がこの世に生を享けたのは今から17年前の享保6(1721)年3月のことであった。
江戸城西之丸のそのまた西側には吹上御庭があり、その吹上御庭の南部には吹上御殿が設けられており、そこで麟太郎は出生した。
麟太郎を産んだのはこの御殿の主…、さしずめ女主とも言うべき月光院であった。
月光院は六代将軍・家宣の側妾であり、ゆえに麟太郎の父も当然に家宣かと、そう連想しがちだが、然に非ず。
麟太郎の父は誰あろう、時の将軍である吉宗であったのだ。
月光院は正徳2(1712)年10月に家宣に先立たれてからというもの、体が空いていた。
いや、それよりも前、家宣との間に家継をもうけて以来であろう。月光院の体が空くこととなったのは。
家宣は生来、淡白な質であり、ゆえに月光院が家継という立派な跡取りをもうけてくれるや、家宣は爾来、月光院に手をつけようとはしなかった。
家宣としては将軍として、あくまで、
「義務的に…」
月光院を抱いていたに過ぎなかったからだ。将軍の一番大事な仕事は次期将軍をもうけることにあるからだ。
そのため家継という立派な跡取り、つまりは次期将軍に恵まれた以上は家宣としては最早、月光院を抱くべき理由はどこにもなく、月光院を抱くことはなくなった。
だがそれは月光院には拷問にも等しいものであった。俗に言う、
「蛇の生殺し…」
そのものであった。それと言うのも月光院は家宣とは正反対の質であったからだ。即ち、好色であったのだ。
月光院はその好色が昂じて、家宣亡き後、間部詮房に「アプローチ」をかけたこともあった程であり、しかし、間部詮房も家宣に負けず劣らず淡白な質であり、いや、それ以上に、
「石部金吉…」
そのものであり、月光院の「アプローチ」にも目もくれなかった。
だが吉宗は違った。
吉宗は月光院と同様、好色であり、その吉宗が月光院に豪奢な生活を許すや、月光院もその「お返し」というわけでもないが、吹上御殿に訪れた吉宗に「アプローチ」をかけたのであった。
吉宗は流石に峻拒してみせた。何しろ月光院は前将軍・家継の生母なのである。その家継の跡を継ぐ格好で八代将軍の座に就いた吉宗からすれば月光院は形の上では義理とは言え、祖母に当たる。
その祖母に当たる月光院を抱くことには如何に好色な吉宗と雖も、流石に躊躇した。
だが吉宗のその峻拒が決して、
「本心からのものでない…」
月光院はその「好色ぶり」から本能的に、それも瞬間的に察するや、更に吉宗に「アプローチ」をかけ、それで吉宗も遂に陥落ちた。
こうして吉宗と月光院との間にできた子こそが麟太郎であったのだ。
麟太郎は5歳になるまで、所謂、
「袴着…」
初めて袴に袖を通すまで、吹上御殿にて大切に育てられた。
だが麟太郎をいつまでも吹上御殿にて育てるわけにはゆかなかった。
麟太郎の存在はあくまで、
「秘中の秘…」
それに属するからだ。
既に吉宗と月光院の「間柄」については城の内外を問わず噂になり始めていた。それと言うのも吉宗が頻繁に月光院が住まう吹上御殿へと足を運ぶからだ。
そこへ麟太郎という存在が世に知られればそれこそ「大スキャンダル」となる。
麟太郎を吹上御殿にて育てるのも5歳までが、
「限度…」
というものであり、そこで麟太郎が5歳の「袴着」を迎えるや、その「引取り先」を見つけることが急務となった。
尤もそれ自体はあまり頭を悩まさずに済んだ。と言うのも、麟太郎の「引取り先」は月光院の実家である3千石もの大身である旗本の勝田家が
「うってつけであろう…」
吉宗と月光院は早々とそう結論に至ったからだ。
都合の良いことにその当時…、麟太郎が5歳の「袴着」を迎えた享保11(1726)年、この年の5月に勝田家は月光院の実弟である喜八郎光寛が相続していた。
これはその前の勝田家の当主であった帯刀愛通がそれより一月程前の4月29日に僅か17歳で卒したことによる。
勝田帯刀愛通は備後守典愛の嫡男として宝永6(1709)年に生まれた。
この帯刀愛通の父である典愛こそ、月光院・光寛姉弟の兄に当たる。
そして典愛が享保元(1716)年8月に卒するや、三月後の11月にその跡目を嫡男である帯刀愛通が継いだわけである。愛通7歳の時であった。
だがそれから10年後の享保11(1726)年、帯刀愛通もまた父、典愛の後を追うようにして、それも嫡男を遺さずして卒したために、典愛の弟である、愛通にとっては叔父に当たる光寛が急遽、担ぎ出される格好で3千石もの大身である勝田家を相続したわけである。
光寛は享保11(1726)年5月に勝田家を相続するや、通称をそれまでの喜八郎から今の帯刀へと改めた。
と同時に、智慧を妻女に迎えたのであった。
光寛は享保11(1726)年5月に3千石もの勝田家を相続するや、直ちに寄合入りを果たした。
寄合とは家禄3千石以上の無役、つまりは「ニート」の旗本が入るべき場であり、ゆえに家禄3千石の勝田家を継いだばかりで「ニート」である光寛も当然に寄合入りを果たした。
光寛がその寄合にて直ぐに親しくなったのが先に寄合入りを果たしていた家禄4500石もの大身である本多家の当主の帯刀政淳であった。
この時、本多帯刀政淳は42歳、それに比して勝田帯刀光寛は32歳と、10歳もの年齢差があったものの、それでも直ぐに|親しくなったのは通称が同じ、
「帯刀」
ということもあったが、それ以上に「お隣同士」であったためである。
今でこそ光寛はここ永田馬場の屋敷にて暮らしていたが、その当時…、勝田家を相続したばかりの享保11(1726)年、その当時の勝田家の屋敷は本郷弓町にあり、そこで「お隣さん」であったのが本多政淳であったのだ。
その縁で、光寛が寄合入りを果たすや、政淳はその「お隣さん」の縁から寄合における「先輩」としてそれこそ、
「何くれとなく…」
光寛の相談相手になってくれた。
そこで光寛はこの政淳に「結婚相談」を持ちかけたのであった。光寛は齢32になるというのに未だに独身であった。
一生、部屋住の身のままというのであればそれも良いであろうが、しかし光寛は3千石もの勝田家を相続したのである。そうである以上、いつまでも独身というわけにもゆくまい。
そこで光寛は政淳に「結婚相談」を持ちかけたわけである。
すると元より世話好きの政淳である、その「血」が騒いだらしく、早速、伝手を頼って光寛の「嫁探し」に乗り出した。
と言っても、同じく寄合にて待命中の本多一族に大号令を発したと言えば聞こえは良いが、その実、声をかけたに過ぎないわけだが、ともあれその結果、本多作次郎親成の次女・智慧が浮かんだ。
智慧はこの時、御齢24、弟にして作次郎親成の嫡男である吉三郎重延とはちょうど一回り年上であり、ちなみに智慧の姉、つまりは作次郎親成の長女はこの時、既に亡かった。
江戸城西之丸のそのまた西側には吹上御庭があり、その吹上御庭の南部には吹上御殿が設けられており、そこで麟太郎は出生した。
麟太郎を産んだのはこの御殿の主…、さしずめ女主とも言うべき月光院であった。
月光院は六代将軍・家宣の側妾であり、ゆえに麟太郎の父も当然に家宣かと、そう連想しがちだが、然に非ず。
麟太郎の父は誰あろう、時の将軍である吉宗であったのだ。
月光院は正徳2(1712)年10月に家宣に先立たれてからというもの、体が空いていた。
いや、それよりも前、家宣との間に家継をもうけて以来であろう。月光院の体が空くこととなったのは。
家宣は生来、淡白な質であり、ゆえに月光院が家継という立派な跡取りをもうけてくれるや、家宣は爾来、月光院に手をつけようとはしなかった。
家宣としては将軍として、あくまで、
「義務的に…」
月光院を抱いていたに過ぎなかったからだ。将軍の一番大事な仕事は次期将軍をもうけることにあるからだ。
そのため家継という立派な跡取り、つまりは次期将軍に恵まれた以上は家宣としては最早、月光院を抱くべき理由はどこにもなく、月光院を抱くことはなくなった。
だがそれは月光院には拷問にも等しいものであった。俗に言う、
「蛇の生殺し…」
そのものであった。それと言うのも月光院は家宣とは正反対の質であったからだ。即ち、好色であったのだ。
月光院はその好色が昂じて、家宣亡き後、間部詮房に「アプローチ」をかけたこともあった程であり、しかし、間部詮房も家宣に負けず劣らず淡白な質であり、いや、それ以上に、
「石部金吉…」
そのものであり、月光院の「アプローチ」にも目もくれなかった。
だが吉宗は違った。
吉宗は月光院と同様、好色であり、その吉宗が月光院に豪奢な生活を許すや、月光院もその「お返し」というわけでもないが、吹上御殿に訪れた吉宗に「アプローチ」をかけたのであった。
吉宗は流石に峻拒してみせた。何しろ月光院は前将軍・家継の生母なのである。その家継の跡を継ぐ格好で八代将軍の座に就いた吉宗からすれば月光院は形の上では義理とは言え、祖母に当たる。
その祖母に当たる月光院を抱くことには如何に好色な吉宗と雖も、流石に躊躇した。
だが吉宗のその峻拒が決して、
「本心からのものでない…」
月光院はその「好色ぶり」から本能的に、それも瞬間的に察するや、更に吉宗に「アプローチ」をかけ、それで吉宗も遂に陥落ちた。
こうして吉宗と月光院との間にできた子こそが麟太郎であったのだ。
麟太郎は5歳になるまで、所謂、
「袴着…」
初めて袴に袖を通すまで、吹上御殿にて大切に育てられた。
だが麟太郎をいつまでも吹上御殿にて育てるわけにはゆかなかった。
麟太郎の存在はあくまで、
「秘中の秘…」
それに属するからだ。
既に吉宗と月光院の「間柄」については城の内外を問わず噂になり始めていた。それと言うのも吉宗が頻繁に月光院が住まう吹上御殿へと足を運ぶからだ。
そこへ麟太郎という存在が世に知られればそれこそ「大スキャンダル」となる。
麟太郎を吹上御殿にて育てるのも5歳までが、
「限度…」
というものであり、そこで麟太郎が5歳の「袴着」を迎えるや、その「引取り先」を見つけることが急務となった。
尤もそれ自体はあまり頭を悩まさずに済んだ。と言うのも、麟太郎の「引取り先」は月光院の実家である3千石もの大身である旗本の勝田家が
「うってつけであろう…」
吉宗と月光院は早々とそう結論に至ったからだ。
都合の良いことにその当時…、麟太郎が5歳の「袴着」を迎えた享保11(1726)年、この年の5月に勝田家は月光院の実弟である喜八郎光寛が相続していた。
これはその前の勝田家の当主であった帯刀愛通がそれより一月程前の4月29日に僅か17歳で卒したことによる。
勝田帯刀愛通は備後守典愛の嫡男として宝永6(1709)年に生まれた。
この帯刀愛通の父である典愛こそ、月光院・光寛姉弟の兄に当たる。
そして典愛が享保元(1716)年8月に卒するや、三月後の11月にその跡目を嫡男である帯刀愛通が継いだわけである。愛通7歳の時であった。
だがそれから10年後の享保11(1726)年、帯刀愛通もまた父、典愛の後を追うようにして、それも嫡男を遺さずして卒したために、典愛の弟である、愛通にとっては叔父に当たる光寛が急遽、担ぎ出される格好で3千石もの大身である勝田家を相続したわけである。
光寛は享保11(1726)年5月に勝田家を相続するや、通称をそれまでの喜八郎から今の帯刀へと改めた。
と同時に、智慧を妻女に迎えたのであった。
光寛は享保11(1726)年5月に3千石もの勝田家を相続するや、直ちに寄合入りを果たした。
寄合とは家禄3千石以上の無役、つまりは「ニート」の旗本が入るべき場であり、ゆえに家禄3千石の勝田家を継いだばかりで「ニート」である光寛も当然に寄合入りを果たした。
光寛がその寄合にて直ぐに親しくなったのが先に寄合入りを果たしていた家禄4500石もの大身である本多家の当主の帯刀政淳であった。
この時、本多帯刀政淳は42歳、それに比して勝田帯刀光寛は32歳と、10歳もの年齢差があったものの、それでも直ぐに|親しくなったのは通称が同じ、
「帯刀」
ということもあったが、それ以上に「お隣同士」であったためである。
今でこそ光寛はここ永田馬場の屋敷にて暮らしていたが、その当時…、勝田家を相続したばかりの享保11(1726)年、その当時の勝田家の屋敷は本郷弓町にあり、そこで「お隣さん」であったのが本多政淳であったのだ。
その縁で、光寛が寄合入りを果たすや、政淳はその「お隣さん」の縁から寄合における「先輩」としてそれこそ、
「何くれとなく…」
光寛の相談相手になってくれた。
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一生、部屋住の身のままというのであればそれも良いであろうが、しかし光寛は3千石もの勝田家を相続したのである。そうである以上、いつまでも独身というわけにもゆくまい。
そこで光寛は政淳に「結婚相談」を持ちかけたわけである。
すると元より世話好きの政淳である、その「血」が騒いだらしく、早速、伝手を頼って光寛の「嫁探し」に乗り出した。
と言っても、同じく寄合にて待命中の本多一族に大号令を発したと言えば聞こえは良いが、その実、声をかけたに過ぎないわけだが、ともあれその結果、本多作次郎親成の次女・智慧が浮かんだ。
智慧はこの時、御齢24、弟にして作次郎親成の嫡男である吉三郎重延とはちょうど一回り年上であり、ちなみに智慧の姉、つまりは作次郎親成の長女はこの時、既に亡かった。
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