天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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横田源太郎松房 2

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 江戸城は表向おもてむき中奥なかおく、そして大奥という3つのエリアに仕切られており、そのうち将軍の居所とも言うべき中奥なかおくはちょうど真ん中、表向おもてむきと大奥との間に挟まれており、その中奥なかおくを支配していたのが将軍の側近集団である御側衆おそばしゅうであり、その御側衆おそばしゅうの中でも筆頭に当たるのが御側おそば御用ごよう取次とりつぎであり、この御側おそば御用ごよう取次とりつぎは将軍の側近中の側近であった。

 御側衆おそばしゅうは旗本役ではあるものの、しかし、将軍の側近役ということもあり、その権勢けんせいたるや表向おもてむきのトップである老中や若年寄と同等であった。いや、その御側衆おそばしゅうの中でも筆頭とも言うべき、将軍から寵愛ちょうあいもっとあつ御側おそば御用ごよう取次とりつぎともなると、老中や若年寄ですら、

「一歩を譲る…」

 といった具合に権勢けんせい高かった。いや、それはもうすさまじいの一語にきた。

 御側おそば御用ごよう取次とりつぎはその名の通り、将軍と表向おもてむきの老中や若年寄などの幕閣ばっかくとの間に立ち、御用ごようを取り次ぐのが主な役目であり、ただの御用聞きのようにも思えるが、さにあらず。御側おそば御用ごよう取次とりつぎは老中や若年寄から、

「かくかくしかじか、上様に取り次いでもらいたい…」

 そう頼まれたとして、気に入らなければ何と、その老中や若年寄を相手に将軍に取り次ぐことを拒否できるのであった。

「そのようなことは上様に取り次ぐことはできませぬので、ご自分でどうぞ…」

 御側おそば御用ごよう取次とりつぎは老中や若年寄を相手にそう告げて将軍に取り次ぐことを拒否することもあった。

 もっともそれならそれで、老中や若年寄としては御側おそば御用ごよう取次とりつぎに将軍へと取り次いでもらおうと思っていた用件を自ら、将軍に伝えれば事足ことたりるようにも思えるが、やはり、

「さにあらず」

 であった。

 御側おそば御用ごよう取次とりつぎは例えば、老中や若年寄から将軍に対して何か取り次いでもらいたいと頼まれたことを拒否したとして、御側おそば御用ごよう取次とりつぎはその足で直ちに将軍の下へと向かい、そして将軍に対して今しがた、老中や若年寄から将軍に取り次いでもらいたいと頼まれたその用件を伝えた上で、

何卒なにとぞ、お採り上げになられませぬように…」

 御側おそば御用ごよう取次とりつぎは将軍にそうアドバイスをするのであった。御側おそば御用ごよう取次とりつぎは自らの考えを将軍に申し述べることが差し許されていた。

 元より御側おそば御用ごよう取次とりつぎは将軍のお気に入りの者が選ばれていたので、その御側おそば御用ごよう取次とりつぎからのアドバイスともなれば当然、将軍もうなずき、そして将軍は用件を伝えるべく面会を求めてきた老中や若年寄に対してその用件に対して、「ノー」をきつけるのであった。いや、そもそも面会を拒絶することさえあった。

 つまり御側おそば御用ごよう取次とりつぎが「ノー」といった用件は、それはもう事実上の「ノー」であったのだ。それゆえいかに表向おもてむきのトップである老中や若年寄といった幕閣ばっかくであろうとも、将軍の最側近さいそっきんとも言うべきこの御側おそば御用ごよう取次とりつぎには遠慮がちであり、まして怒らせることなど絶対的なタブーと言えた。

 また御側おそば御用ごよう取次とりつぎ未決みけつの政策・人事案件も取り扱い、これも「力の源泉げんせん」の一つと言えた。

 例えば人事案件ならば老中支配の役職と若年寄支配の役職とを一括いっかつして老中が御側おそば御用ごよう取次とりつぎを通じて将軍に上申じょうしんし、その決裁けっさいあおぐことになる。その際、御側おそば御用ごよう取次とりつぎは老中より預かったその人事案件について、己の意に沿えばその通りに将軍に上申じょうしんし、逆に己の意に沿わなければ将軍に上申じょうしんする際、

「この人事はいかがなものかと思われます…」

 やはりそう将軍にアドバイスをして老中より預かったその人事案件をにぎつぶすこともあったのだ。

 さて、そこで横田よこた源太郎げんたろうの出番である。源太郎げんたろう家督かとくいだのは明和6(1769)年の8月のことであり、それから2ヶ月後に源太郎げんたろう書院しょいん番士ばんしとして番入ばんいり、すなわち、就職を果たすことができた。

 源太郎げんたろうが当主を勤める横田家は両番りょうばん家筋いえすじ、つまり書院番しょいんばん小姓組こしょうぐみ両番りょうばん番入ばんいり…、就職できる家柄いえがらであり、源太郎げんたろう家督かとくいでから2ヵ月後にそのうちの書院番しょいんばん番入ばんいり…、書院しょいん番士ばんしとして就職を果たしたのであった。

 両番りょうばん家筋いえすじの旗本としては標準的な出世コースといえようか。ところで源太郎げんたろう書院しょいん番士ばんしとして就職を果たしたこの時、横田よこた準松のりとしはまだ御側おそば御用ごよう取次とりつぎではなく、源太郎げんたろう準松のりとしという後ろだてがない中で書院しょいん番士ばんしとして就職を果たしたのであり、つまりこの就職は源太郎げんたろう自身の実力によるものであった。

 だがそれから源太郎げんたろうの出世は頭打あたまうちとなる。生来せいらい矯激きょうげきさ、過激さがその原因であった。源太郎げんたろう布衣ほい役である組頭くみがしらのお声もかからず、爾来じらい、5年以上もの間、一介いっかい書院しょん番士ばんしとしてくすぶることとなる。

 源太郎げんたろうの運命が転変したのは安永2(1773)年のことであった。この年の7月に小姓組こしょうぐみ番頭格ばんがしらかく奥勤おくづとめすなわち、御側おそば御用ごよう取次とりつぎ見習いであった準松のりとしが正式に御側おそば御用ごよう取次とりつぎへと昇進を果たしたのであった。

 もっともそれですぐに準松のりとし遠縁とおえんに当たる源太郎げんたろうが引き立てられるはずもなかった。それというのも御側おそば御用ごよう取次とりつぎというポストは町奉行や勘定奉行などと同じく相役あいやく、つまり同僚がおり、その時には既に「先輩」の御側おそば御用ごよう取次とりつぎとして稲葉いなば越中守えっちゅうのかみ正明まさあきらひかえていた。

 それゆえ準松のりとしもこの「先輩」である稲葉いなば正明まさあきらには当然、遠慮しなければならず、軽々けいけい源太郎げんたろう遠縁とおえんよしみで引き立てるわけにもゆかなかった。

 だがそれでも安永4(1775)年を迎える頃には準松のりとしは将軍より…、十代将軍・徳川家治より正明まさあきらと同等の寵愛ちょうあいを受けるようになった。いや、寵愛ちょうあいという点では若干じゃっかんだが、準松のりとしの方が正明まさあきらをリードするようになった。

 そうなればもう、先輩・後輩の関係から脱せられるというもので、準松のりとしは「先輩」の正明まさあきらに何ら遠慮することなく、それどころか正明まさあきら圧倒あっとうして御側おそば御用ごよう取次とりつぎとしての権勢けんせいを大いに振るい始めたもので、そのうちの一つこそが源太郎げんたろう中奥なかおく番士ばんしへの栄転えいてんであった。

 源太郎げんたろう矯激きょうげきさ、過激かげきさは正明まさあきらの耳にも当然、届いており、それゆえ準松のりとしが将軍・家治に対して源太郎げんたろう中奥なかおく番士ばんしへと推挙すいきょした時には流石さすが源太郎げんたろう正明まさあきらとの間で口論こうろんになったものである。正明まさあきらいわく、

遠縁とおえんよしみにて源太郎げんたろうのような矯激きょうげきな者をおそれ多くも上様の御側おそば近侍きんじせし中奥なかおく番士ばんしに取り立てるはいかがなものか存ずる…」

 というものであり、それは確かに正論であったが、結局、準松のりとし軍配ぐんばいが上がった。家治いわく、源太郎げんたろうのような矯激きょうげき、過激な者が一人ぐらいそばにいても良いだろうと、家治はそう判断して、源太郎げんたろう中奥なかおく番士ばんしとして取り立てることとしたのであった。
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