天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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横田源太郎松房

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 益五郎ますごろうがボロボロになった体を引きずりながら小川丁にある屋敷やしきへと辿たどり着いたのはくれの六つ半(午後7時頃)であった。出迎えた家老の上野うえの左大夫さだゆうは「当主」のその姿を、いや惨状さんじょうの当たりにしてさすがに驚いた様子であった。いや、心底、あきれ果てたと言うべきか。

 だがそれから左大夫さだゆうはいつまでもあきれていたわけではなく、すぐに怒りの感情が込み上げてきて、それを「当主」たる益五郎ますごろうにぶつけた。

「今までどこをほっつき歩いていなされたっ!」

 別段べつだん益五郎ますごろうを心配してしかり付けたわけではない。これが普段であれば左大夫さだゆうもただあきれ果てて終わりであり、せいぜい、益五郎ますごろうに向かって深い溜息ためいきをつく程度であった。

 だが今日は特別な日であった。それというのも益五郎ますごろうにとっては将来のしゅうととなるべき男が将来の婿むことなるやも知れぬ男、こと益五郎ますごろう見定みさだめにこの屋敷を訪れる日であったのだ。

 益五郎ますごろうがまだ、定火消じょうびけし役屋敷やくやしきにてあらくれ者のガエンどもと生活を共にしていた頃より、益五郎ますごろうの縁談が持ち上がっていたのだ。

 縁談のお相手は鷲巣わしのす家の家禄かろくと同じく千石取の旗本、横田よこた源太郎げんたろう松房としふさの四女である。横田よこた源太郎げんたろう益五郎ますごろうの父、銕三郎てつさぶろうが生前の頃より今に至るまで、中奥なかおく番士ばんしを務めていた。

 中奥なかおく番士ばんしとは将軍の居所とも言うべき中奥なかおく警衛けいえいする武官であり、将軍に近侍きんじするお役目であるので、将軍の目に留まりやすく、すなわち出世の機会に恵まれていたポストであった。

 それが証拠に他ならぬ銕三郎てつさぶろうもまた、この中奥なかおく番士ばんしのポストを務めたことがある。

 宝暦8(1758)年12月から安永2(1773)年正月までの15年、いや、14年間、銕三郎てつさぶろう中奥なかおく番士ばんしのポストにあり、そしてそのポストを経た後、従六位じゅろくいに相当する布衣ほい役である小十人こじゅうにんがしらへと栄転えいてんを果たしたのであった。

 幕府には主な武官として大番組おおばんぐみ書院番組しょいんばんぐみ小姓組こしょうぐみ新番組しんばんぐみ、そして小十人組こじゅうにんぐみのいわゆる、

「武官五番方」

 を置いており、そのうち小十人組こじゅうにんぐみとは将軍外出時、その先駆さきがけを勤める。銕三郎てつさぶろういた小十人頭こじゅうにんがしらとはこの小十人組こじゅうにんぐみのトップであり、いわば隊長であった。

 それゆえ源太郎げんたろうもその中奥なかおく番士ばんしを勤めている以上、

「近々、昇進のお声がかかるに違いない…」

 というのが下馬評げばひょうであった。源太郎げんたろうがこの中奥なかおく番士ばんしのポストにいたのは安永4(1775)年のうるう12月のことであり、銕三郎てつさぶろう中奥なかおく番士ばんしから小十人こじゅうにんがしらへと転任、それも栄転を果たしてから2年、いや3年が経とうとしている頃であった。

 源太郎げんたろうはとても千石取の旗本とは思えぬほどに矯激きょうげき、過激な性分しょうぶんであった。これで源太郎げんたろうが千石取の旗本でなければ、とてもではないが将軍に近侍する中奥なかおく番士ばんしとしてし出されることはなかったであろう。

 いや、例え千石取の旗本であったとしても、本来ならばそのような矯激きょうげき、過激な男が中奥なかおく番士ばんしし出されるはずがなかった。

 にもかかわらず源太郎げんたろうがその中奥なかおく番士ばんしとしてし出されたのはひとえに本家筋に当たる横田よこた筑後守ちくごのかみ準松のりとしの「ヒキ」によるものであった。

 源太郎げんたろうが当主を務める横田家は家禄かろくが千石と大身たいしん旗本の部類にギリギリ属するが、横田本家の家禄かろくはそれ以上であり、何と6500石で、筑後守ちくごのかみ準松のりとしはその当主であった。

 だがそれでもやはり本来なればそのような、大身たいしん旗本の準松のりとしをしても将軍に近侍きんじする中奥なかおく番士ばんしにそのような矯激きょうげき、過激な性分しょうぶんの持ち主である源太郎げんたろうを押し込むことなど到底、不可能な芸当と言えよう。一介いっかい大身たいしん旗本ではそこまでの権限はなかったからだ。

 にもかかわらずそれを可能たらしめたのは他でもない、準松のりとし一介いっかい大身たいしん旗本ではなかったからだ。それというのも準松のりとしはいまをときめく御側衆おそばしゅう、それも筆頭である御用ごよう取次とりつぎを兼ねていたのだ。
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