天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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餞と卒業

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 だが益五郎ますごろう窮地きゅうちを救ってくれたのは他ならぬガエンたちであった。ガエンたちは益五郎ますごろうを追い出そうとする登助のぼりのすけに対して、

益五郎ますごろうを追い出すんなら、俺たちもこっから出て行くぜ」

 そう啖呵たんかを切ってみせたのであった。ガエンたちに一斉いっせいに辞められてはそれこそ、出世のさまたげ…、どころか最悪、御役おやく御免ごめんの可能性すらあり得た。

 少なくとも、そのような人望じんぼうのない男を…、ガエンもロクに掌握しょうあくできないような男を出世させるわけにはゆかないと、幕府上層部は間違いなくそう判断するに違いないからだ。

 結局、登助のぼりのすけはガエンたちの脅迫きょうはくくっする形で益五郎ますごろうをこれまで通り、居候いそうろうさせることとし、この一件は益五郎ますごろうを大いに感動させたものである。

 その近藤こんどう登助のぼりのすけも4年後の安永7年(1778)年の8月6日にやはり病のために職を辞してしまった。たった1年しか在任しなかった秋元あきもと一學いちがくよりは長かったものの、しかし、病のために職を辞したためにそれ以上、出世することはなかった。

 さて、近藤こんどう登助のぼりのすけが職を辞すると、その後任として小川丁の定火消じょうびけし役屋敷やくやしき差配さはいするようになったのが、三枝さえぐさ宗四郎そうしろうであり、宗四郎そうしろう益五郎ますごろうが小川丁にある定火消じょうびけし役屋敷やくやしきで迎えた最後の定火消じょうびけしとなった。

 三枝さえぐさ宗四郎そうしろう近藤こんどう登助のぼりのすけの後任の定火消じょうびけしとして、小川丁の定火消じょうびけし役屋敷やくやしきに着任したのは安永7(1778)年の8月15日のことであった。

 宗四郎そうしろうもまた、登助のぼりのすけより益五郎ますごろうの存在を申し送りとして伝えられており、宗四郎そうしろう登助のぼりのすけのように小うるさいことは一切、言わずに益五郎ますごろう居候いそうろう黙認もくにんした。この時、益五郎ますごろうは既に15歳であり、ガエンの一人として火事場に出動し、ガエンに混じって消火作業にも従事していた。

 だが益五郎ますごろうのそんな生活も間もなく終止符しゅうしふが打たれることとなる。天明元(1781)年3月23日、父・銕三郎てつさぶろうが職務中に急病死してしまったのだ。まだ働き盛りの50歳であり、心の臓の発作であった。

 そうなると、必然的に益五郎ますごろう鷲巣わしのす家の家督かとくがねばならず、家督かとくぐまでとの条件で、「期間限定」で定火消じょうびけし役屋敷やくやしきにて暮らすことを許された益五郎ますごろうとしては当然、約束の期限がきてしまったわけで、屋敷に帰らねばならなかった。冷たいようだが、益五郎ますごろうとしては父・銕三郎てつさぶろううしなった悲しみよりも、ガエンたちと別れる方がつらかった。

 そんな益五郎ますごろうに対してガエンたちは口をそろえて、「もう帰れ…」とすすめたものだった。いや、それも、

「どうか、お帰りを…」

 ガエンたちの口調はまるで他人たにん行儀ぎょうぎであり、益五郎ますごろうは殴られたような衝撃を受けた。

「俺たちとは住む世界が違うのです…、あなた様がいるべき場所はここではない…」

 なるほど、確かにガエンたちの言う通りであった。仮にも千石取の旗本家の当主の座に座ろうという者がいるべき場所ではないのかも知れない。だが、益五郎ますごろうにしてみれば手酷てひどく裏切られた思いであった。

 益五郎ますごろうは気付いたときにはガエンたちを殴りつけていた。殴り返されるのを期待してのことであったが、しかし、その時はもう、誰一人だれひとりとして殴り返す者は…、殴り返してくれるガエンはおらず、既にガエンたちが己を仲間ではなく一人の旗本としてみなしていることを益五郎ますごろう否応いやおうなく思い知らされたものである。

 いや、ガエンたちとて、心底からそう言っているわけではなかった。本当はいつまでも益五郎ますごろうにはここで、この場所でガエンの一人として暮らして欲しいとの思いがあった。

 だが益五郎ますごろうの置かれた立場がそれを許さなかった。そんなわがままを許せば、主不在となる鷲巣わしのす家は必然的に改易かいえきき目にあう。そうなれば益五郎ますごろうはともかく、多くの家臣が路頭ろとうに迷うこととなる。無論、養嗣子ようししを立てるという手もあるだろうが、しかし、益五郎ますごろうという鷲巣わしのす家をぐべき立派な嫡男ちゃくなんがいるにもかかわらず、ガエンになりたいからとの身勝手な理由から嫡子ちゃくしの座をてて、その代わりに養嗣子ようししを立てるなど、そのようなわがままを幕府が許すはずもなかった。よしんば幕府が許してくれたとしても大幅おおはば減知げんち…、千石もの家禄かろく大幅おおはばに減らされるに違いなかった。

 それに何より、益五郎ますごろう当人にとってその方が…、旗本として生きる方が良いに違いないとの判断がガエンたちには働いた。やはり旗本は旗本らしく暮らす方が幸せである…、ガエンたちは皆、そう考え、そこであえて他人たにん行儀ぎょうぎなふりをして、益五郎ますごろうを見送ろうとしたのだ。

 一方、益五郎ますごろうにしても地頭ぢあたまは悪くない。そんなガエンたちの気持ちに気付かなかったわけではなく、無論、益五郎ますごろうは頭ではそうと理解していても、しかし、

「裏切られた…」

 そんな負の感情の方がまさってしまい、殴り返されるのを期待してガエンたちを殴りつけるという何とも子供じみた真似をしてしまった。

 だが既に、益五郎ますごろうには旗本として幸せになってもらいたいと、そう願うガエンたちが益五郎ますごろうのそんな子供じみた挑発に乗ることは勿論もちろんなく、益五郎ますごろうの気の済むまで殴られてやることにした。ガエンなりの「はなむけ」であった。

 一方、益五郎ますごろうもそんなガエンたちの覚悟かくごに気付き、すると益五郎ますごろうも殴るのを止めた。そんなガエンたちを殴り続けたところで己がむなしくなるだけであったからだ。

 こうして今年、天明元(1781)年3月23日、桜が咲く頃に益五郎ますごろうはガエンたちとの生活に別れを告げたのであった。それは正しく、「卒業」であった。
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