天明繚乱 ~次期将軍の座~

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波乱の月次御礼 ~承前~

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 さて翌日は4月の朔日さくじつ、つまりは1日であり、毎月の1日は恒例こうれいとも言える月次つきなみ御礼おんれいであった。

 在府ざいふ中…、この江戸にいる大名や、あるいは旗本が江戸城に総登城して、将軍に拝謁はいえつする日であった。旗本は勿論のこと、大名でさえ滅多めったにお目にかかれない将軍に拝謁はいえつさせることで、将軍と大名、旗本との間で主従しゅじゅうきずなを再確認させようというのがこの月次つきなみ御礼おんれいの「コンセプト」であった。

 もっとも源太郎げんたろうのように普段から将軍と接することの多い御役目おやくめの者はその対象外であった。普段から将軍と接することが多いので、改めて将軍との間で主従しゅじゅうきずなを再確認するまでもない、というのがその理由であった。

 具体的には中奥なかおく役人が正にそうであり、中奥なかおくという将軍のプライベートエリアで日常、将軍に近侍きんじする小姓や小納戸こなんどがそうで、彼らは月次つきなみ御礼おんれいの際にはホスト役に回るのであった。

 また、表向おもてむきの役人であっても、老中や若年寄はやはり小姓や小納戸こなんどといった中奥なかおく役人と同じぐらい、とまでは言えないにしても、それでも比較的、将軍に接する機会に恵まれており、それゆえ老中や若年寄も同様にホスト役に回る。

 例えば、将軍が御三家の当主に拝謁はいえつする折には老中や若年寄が立ち会い、老中が御三家当主の官職名を披露ひろうしたりするのだ。

 そしてそれは中奥なかおく番士ばんし源太郎げんたろうにも言えることであった。

 中奥なかおく番士ばんし中奥なかおくという文字こそかんせられているものの、しかし、実際には書院しょいん番士ばんし小姓組こしょうぐみ番士ばんしと同じく、若年寄支配下のお役目であり、すなわ表向おもてむきの役人であった。

 それでも中奥なかおくという文字がかんせられていることからも分かる通り、実際には中奥なかおくにて将軍の警護を務めたり、あるいは大奥との連絡役をになったりするのだ。

 もっとも、源太郎げんたろうの場合、その矯激きょうげき、過激な性分しょうぶんが大奥にまで鳴り響いており、それゆえ大奥からも嫌われており、大奥との連絡役にはしないで欲しいと、大奥サイドから中奥なかおくへと固い要請ようせいがあり、ゆえに源太郎げんたろうもっぱら、将軍の警護役にてっしていた。

 ともあれ、源太郎げんたろう中奥なかおくにて将軍の警護役を務めているので、それだけに将軍と…、将軍・家治と接する機会が多く、ゆえに源太郎げんたろうも今さら、将軍・家治との間でわざわざ主従しゅじゅうきずなを再確認するまでもないということで、今日も通常通り、将軍・家治の警護役にてっすることになっていた。

 源太郎げんたろうが己の勤務先である中奥なかおくに足を踏み入れると、御側おそば御用ごよう取次とりつぎ横田よこた筑後守ちくごのかみ準松のりとしと出くわした。本家筋の横田よこた準松のりとしである。

「おお、松房としふさ殿…」

 準松のりとし源太郎げんたろうにそう声をかけた。それにしても矯激きょうげき、過激で知られる源太郎げんたろういみなを口にすることができるのはこの準松のりとしぐらいのものであろう。御側おそば御用ごよう取次とりつぎとしての威勢いせいからであろうか。いや、同じく御側おそば御用ごよう取次とりつぎ稲葉いなば越中守えっちゅうのかみ正明まさあきらでさえ、源太郎げんたろういみなを口にするだけの度胸どきょうはなく、してみると準松のりとし自身の威勢いせい…、要するに準松のりとし自身が強いからであろう。

 そして源太郎げんたろうも負けじと、

準松のりとし殿、おはようござる」

 そう返した。御側おそば御用ごよう取次とりつぎと言えば老中や若年寄からも恐れられている存在であり、そんな御側おそば御用ごよう取次とりつぎ横田よこた準松のりとしのことを、

準松のりとし

 呼ばわりすることができるのもまた、この源太郎げんたろうぐらいのものであろう。いや、源太郎げんたろう唯一人ただひとりと断言できよう。何しろ今を時めく老中・田沼意次さえも準松のりとしに対しては遠慮えんりょして、

筑後守ちくごのかみ殿」

 とその官職名でもって、しかも殿という敬称を付けて呼んでいたからだ。

 意次ですらそうなのだから、ほかの者は正に、

して知るべし…」

 であろう。実際、「筑後守ちくごのかみ様」と最高敬称である様を付けて呼ぶやからまでいるほどであった。

 ともあれ源太郎げんたろう矯激きょうげき、過激な性分しょうぶんゆえ、それらのやからとは一線いっせんかくしており、例え相手が誰もが恐れる準松のりとしであろうとも、恐れるところを見せなかった。

 準松のりとしはそんな源太郎げんたろう性分しょうぶんを親類のよしみで勿論、そして誰よりも把握はあくしていたが、それでも己を「準松のりとし」とそのいみなで呼んだことで、改めて源太郎げんたろう矯激きょうげきさ、過激さを思い知らされ、準松のりとしは思わず苦笑したものである。

「少し、話せるか?」

 準松のりとしは苦笑しつつ、源太郎げんたろうにそう声をかけた。

 今は朝の六つ半(午前7時頃)を回った頃であり、月次つきなみ御礼おんれいにはまだ大分だいぶ早く、そのための準備をするにもまだ余裕よゆうがあり、それゆえ源太郎げんたろうは「はい」と素直すなおに答えた。

 すると準松のりとし源太郎げんたろう御側衆おそばしゅう御談おだん部屋べやへと案内した。いや、実際には準松のりとしのすぐそばで影のようにひかえていた時斗之間とけいのま肝煎きもいり坊主が案内したのであった。

 時斗之間とけいのま肝煎きもいり坊主とは御側おそば御用ごよう取次とりつぎ附属ふぞくする坊主であり、今のように御側おそば御用ごよう取次とりつぎである準松のりとしの案内、先立さきだちを務めることもあれば、御側おそば御用ごよう取次とりつぎ表向おもてむきの役人との間で連絡役を務めることもあった。それと言うのも中奥なかおく表向おもてむきとの間は時斗之間といけいのまという部屋で厳格げんかく仕切しきられており、表向おもてむきの役人は不用意ふようい中奥なかおくへと立ち入ることが許されてはいなかったからだ。

 ともあれ御側おそば御用ごよう取次とりつぎ附属ふぞくする時斗之間とけいのま肝煎きもいり坊主はさしずめ、御側おそば御用ごよう取次とりつぎ御側おそば御用ごよう取次とりつぎと言えた。

 ちなみに時斗之間とけいのまとは表向おもてむきの役人や、あるいは無役むやくの者など中奥なかおく役人でない者が将軍のプライベートエリアとも言うべきその中奥なかおくへと立ち入らぬよう、さしずめ関所せきしょの役目を果たしており、その時斗之間とけいのまにて、坊主衆が表向おもてむきから中奥なかおくへと、中奥なかおく役人でもないのに不用意ふよういに立ち入ろうとする不埒ふらちなる者がいないかどうか、それに目を光らせていた。

 そしてその坊主衆の中からこれはと思われる坊主が御側おそば御用ごよう取次とりつぎ附属ふぞくする肝煎きもいり坊主に取り立てられるわけだが、しかし、肝煎きもいり坊主と坊主衆との間には上下関係はなく、共に御側おそば御用ごよう取次とりつぎの支配下にあり、肝煎きもいり坊主と坊主衆の両者を総称して、

口奥くちおく坊主」

 と呼ばれることもあった。

 そんな中で源太郎げんたろうが務める中奥なかおく番士ばんし表向おもてむきの役人でありながら、中奥なかおくへと自由に立ち入ることができる数少ない、例外的な役職であり、それがために今日のような月次つきなみ御礼おんれいにおいては普段と変わらず、その職務にはげむことになっていたのだ。
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