天明繚乱 ~次期将軍の座~

横田夫妻 2

　鷲巣わしのす家はそれほど由緒ゆいしょ正しい家柄いえがらというわけではなく、それこそ、いまをときめく田沼家よりも遥はるかに劣おとる家柄いえがらであり、それが静榮しずえの気に入らぬところであった。今日、「見合い」とも言うべき席に妻女さいじょの静榮しずえが同席しなかったのもそのためである。

　いや、これで例えば、同じく決して、由緒ゆいしょ正しい家柄いえがらではない、それこそどこぞの馬の骨とも分からぬ田沼家なれば、静榮しずえもその家柄いえがらには目を瞑つぶって娘をやることに賛成したであろう。

　それは他でもない、田沼家の当主たる意次おきつぐが将軍・家治の寵愛ちょうあいを受けているからであり、その田沼家に娘を嫁とつがせれば、御家おいえは安泰あんたい、それどころか、同じく将軍・家治の寵愛ちょうあいを受ける横田よこた準松のりとしとの縁とも相俟あいまって、いよいよ御家おいえは繁栄はんえい、それこそ栄誉えいよ栄華えいがが約束されるというものであった。

　それに比して鷲巣わしのす家は由緒ゆいしょ正しい家柄いえがらでもなければ、当主が意次おきつぐや準松のりとしのように将軍からの寵愛ちょうあいを受けているわけでもなく、つまり大事な娘を嫁とつがせるメリットがどこにもないというわけである。そのような益五郎ますごろうの許もとへと大事な娘をやることに静榮しずえが母として、また横田家の嫁として反対するのは当然と言えば当然であった。

　だが源太郎げんたろうはそんな妻・静榮しずえの態度に興醒きょうざめを覚えた。源太郎げんたろうとしては何となればこの横田家が潰つぶれても構わぬと、本気でそう思っているほどであった。無論、御家おいえの安泰あんたい、繁栄はんえいを願う静榮しずえの手前、そのようなことは如何いかに矯激きょうげき、過激な性分しょうぶんの持ち主である源太郎げんたろうと言えどもそれこそ、

「口が裂さけても…」

　言えなかったが、それでも御家おいえが潰つぶれても構かまわないとの思いは本当であり、源太郎げんたろうの言わば、

「偽いつわらざる心情しんじょう」

　というやつであった。

　そのような矯激きょうげき、過激な性分しょうぶんに加えて、破天荒はてんこうですらある…、悪く言えば破滅はめつ願望のある源太郎げんたろうゆえ、いよいよもって、己と同じ香りのする、いや、己以上に破天荒はてんこうな益五郎ますごろうが欲しくて堪たまらず、仮にその益五郎ますごろうの元へと娘を嫁とつがせたがために、御家おいえが潰つぶれるようなことと相成あいなろうとも、それはそれで大いに歓迎すべきところであった。無論、やはりこんなことは妻女さいじょの静榮しずえの手前、源太郎げんたろうは口にはせず、

「いや、そんな荒あらくれぶりが気に入ったのだ。冬の嫁とつぎ先ぐらい、俺の好きにさせてくれ…」

　そう頼むに留めた。

　一方、静榮しずえもそう言われると弱かった。それと言うのも、横田本家より四男坊の鶴松つるまつを養嗣子ようししとして迎むかえたのを始めとし、次女の夏、三女の秋のそれぞれの嫁とつぎ先についてもすべて、静榮しずえが取りまとめたものであり、源太郎げんたろうは夫としてそれを黙認もくにんするだけであった。

　そのような経緯があるので、四女の冬の嫁とつぎ先ぐらい、己が決めたいと、夫・源太郎げんたろうにそう言われれば、静榮しずえとしてもこれを認めるより他になく、「かしこまりました…」と静榮しずえは如何いかにも不承ふしょう不承ぶしょうといった口調で応じた。

　それでも静榮しずえは最後の抵抗とばかり、

「なれどその、鷲巣わしのす益五郎ますごろうなる者、この縁談えんだんには乗り気ではないとのお話ではありませぬか…、何しろ不逞ふてい無頼ぶらいの徒ととの喧嘩けんかに明け暮れ、約束の刻限こくげんをすっぽかしたとのお話ですから…」

　そう反論したのであった。源太郎げんたろうは今日のことについて静榮しずえに何もかも正直に打ち明けていた。ただ一点、益五郎ますごろう自身がこの縁談えんだんにまったく興味がないという事実を除いては。

　だがそれを馬鹿正直に静榮しずえに打ち明けてしまえば、元よりこの縁談えんだんに反対の静榮《しずえ》をいよいよ勢いづかせてしまうので、そこで源太郎げんたろうは、

「乗り気でない…」

　と表現を和やわらげたのであった。

　ともあれ、源太郎げんたろうとしては、「いや、何としてでも益五郎ますごろうを頷うなずかせてみせる…」と己に言い聞かせるようにそう宣した。

「左様でござりますか…、まぁ、殿様がそう仰おおせなれば、私としても最早もはや、何も申しますまいが…、それでもそのような、当家との縁談えんだんに乗り気でない者の許もとへとわざわざ娘をやらずとも宜よろしかろうに…」

　静榮しずえはそう吐はき捨てた。どうやら黙認もくにんの境地きょうちに至いたったようだ。いや、諦あきらめの境地きょうちと言うべきか。ともあれこれで源太郎げんたろうとしては心置きなく、縁談えんだんに向けて突き進めるというものである。

「どれどれ…、松茂とししげの顔でも拝おがむとするかの…」

　源太郎げんたろうはこれでこの話は終わりだと言わんばかりにそう告げると、腰を上げて実際、養嗣子ようししの松茂とししげが眠る部屋へと足を向け、そっと障子しょうじを開けると松茂とししげと、それに松茂とししげの妻女さいじょにして源太郎げんたろうの長女の春の寝顔ねがおを拝おがんだ。寝ているといっても勿論もちろん、同衾どうきんなどではなく、別々の蒲団ふとんで眠っており、夫婦というよりそれは姉弟に近かった。

　それから源太郎げんたろうは冬の部屋も覗のぞいた。やはり冬ももう、眠りについていた。本来ならば益五郎ますごろうの許もとへと嫁とつぐことになる冬の意向を何よりも優先すべきなのやも知れなかったが、しかし、源太郎げんたろうにしろ、何より妻女さいじょの静榮しずえにしろ、ついぞ冬の意向を気にしたことはなく…、いや、妻女さいじょの静榮しずえは娘のこれまでのすべての縁談えんだんにおいて当人とも言うべき娘の意向を気にしたことはなく、ともあれ源太郎げんたろうは今さらながらそのことに気付かされた。

　いや、一々、娘の意向を確かめるような、そのような真似をする親はおらず、ゆえに静榮しずえのその対応は極めて自然なことであり、それ自体、何ら咎とがめられることはなかった。

　だがそれでも源太郎げんたろうとしては不意ふいに、冬の意向だけは確かめてやりたいと、冬の寝顔を見るうちに、そんな極めて「イレギュラー」なことを思ったりした。