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将軍の秘密部屋である御用之間に招かれた意知、そこで将軍・家治より愛息・家基の死の真相を探るよう命ぜられたのではないかと準松はそう睨む
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さて、御側御用取次の横田準松はと言うと、恐らくは御用之間には立ち入ることが許されておらず、それゆえ御側御用取次として将軍・家治の最側近を自認する己でさえも近付くことすら許されていないその御用之間へと、中奥役人ですらない意知がいともあっさりと招かれたので、準松は大いに悔しがったに相違なく、その悔しさが再びぶり返して、今の口惜しそうな表情となってあらわれたのであろう。源太郎はやはりそう見当をつけた。
「しかも上様は御自ら、大和殿を御用之間へと案内されたのだ…」
準松はさらに口惜しげにそう言った。
「御自ら…」
裏を返せば、準松には御用之間へと案内させたくなかった…、つまりは御用之間に近付けさせたくなかったということであり、いよいよ準松は御用之間に立ち入ることまでは許されていないのだろうと、源太郎のその見当の正しさを裏付けていた。
「されば準松殿はその時は…」
「御座之間にて控えているよりほかになかったわ…」
準松はそう吐き捨てた。
「されば何ゆえに上様が田沼殿を…、意知殿を御座之間へと案内されたと分かるので?」
「上様が仰せになられたのだ…、上様が御座之間にていったんは大和殿と向かい合われし折に、これより先は込み入った話となるゆえに、御用之間にて…、とな」
「成程…、いや、意知殿も流石に戸惑われたのではござるまいか?」
源太郎がそう水を向けると、準松は「当然だ」と即答した。
「お人払御用で十分ではござりませぬかと…、大和殿はまぁ、当然と言えば当然なのだが、斯様に上様に対して言上されたのだが…」
お人払御用とはその名からも察せられる通り、将軍と召人の二人きりで会うことを指しており、その場合は御側御用取次の準松と言えども勿論、遠ざけられ、この場合には将軍・家治と召人である意知の二人きりで言葉を交わすことになる。
ゆえにお人払御用の場合には上段に鎮座する将軍は御座之間の下段の中ほどまで進み、一方、下段面した入側…、廊下側の中ほどにて控える召人は入側の中でも最も下段に近い、下段と入側との閾側まで進み、将軍と召人は正しく、
「向かい合う…」
ことになるわけだ。
「されど上様は大和殿の進言にも耳を傾けられずに…」
「御用之間にて話そうと、上様は左様、仰せになられて意知殿をその御用之間へと御自ら案内されたと?」
源太郎が言葉を継ぐと、準松は頷いた。
「いや、上様が身共に大和殿を連れて来るようにとお命じあそばされし時点で、身共が取り持ちをしたも同然にて…」
準松がさらにそう不満げに告げたので、源太郎も「そうであった…」とあることを失念していたことに気付いた。
源太郎が失念していたこととは他でもない、準松のような御側御用取次が将軍との面会の取り持ちをした場合には将軍は上段ではなく、下段の中ほどまで進み、一方、召人にしても入側…、廊下側の中でも特に下段に近い、入側と下段との間の閾側まで進んでの面会となる。そしてそれはちょうど、お人払御用における面会と同じ位置であった。
「されば…、上様におかせられては、意知殿の進言を容れて、お人払御用に致すと、左様に宣されるだけで良く…、座を移られる必要もなかった…、無論、その場合には準松殿も、準松殿に命じられて実際に御座之間へと意知殿を連れて参った肝煎坊主にしても、御座之間より退出せねばならぬが…」
源太郎のその言葉に準松はその通りだと言わんばかりに頷いてみせた。
「いや、実際、上様におかせられては大和殿を目の当たりにされて…、されば大和殿に対して御用之間にて話そうと、左様に直々に語りかけられたわけだが…」
準松はその時の様子を思い出したらしく、実に忌々しげにそう告げた。
「それだけ大事な話であったのでござろう…」
特に準松には聞かれたくない話なのであろう…、源太郎はその言葉は心の中で呟くにとどめた。
「左様…、なればこそ、大納言様の死の真相を探るようにと…」
「上様が左様なことを意知殿に命じられたと?」
「そうでなくば、わざわざ御用之間に大和殿を招いた理由の説明がつかぬではないか…」
準松のその主張は源太郎としては些か論理が飛躍しているようにも思えたが、しかし、完全に否定することもできなかった。
「なれど…、仮にそうだとして、上様は何ゆえ今になって左様なことを…、いや、もそっと早うにお命じあそばされることもできたであろうに…」
それが源太郎には分からなかった。愛息の死が病死などではなく不審死、それももっと言えば誰かに殺された疑いがあるというならば、愛息、即ち、家基が亡くなった3年前の安永8(1779)年の時点で家基の死の真相について探索を命じるべきであろう。少なくとも源太郎が将軍・家治の立場だったならばそうする。
「それとも…、今になって大納言様の死について不審なところがあると…、もそっと申さば誰かに殺された疑いがあると、上様はそのことに気付かれて、意知殿に探索を命じられたと?」
源太郎はそう尋ねた。そうとしか考えられなかったからだ。
「そこまでは分からぬが…、いや、この際、左様なことは瑣末な問題よ…、我ら横田一族にとってはもっと大事な問題があるのだ…」
準松は深刻そうな表情でそう告げた。しかもどこか急いている様子もあった。
「大事な問題とは?」
「仮に…、仮にだが…」
準松は、「仮に」という副詞を二度も前置きしてから本題へと入った。
「豊千代君が西之丸入り…、それが沙汰止みとなりし場合のことぞ…」
準松は声を潜ませてそう告げた。
「そは…、大納言様を殺めしが一橋卿…、治済卿だと?そのことが探索の末、判明した場合?」
源太郎も準松に倣い、声を潜ませながらもストレートにそう尋ねた。それに対して準松は、「だから仮にだ…」と呻くようにそう答えるのが精一杯な様子であった。
源太郎も如何に矯激、過激な性分とは言え、準松の気持ちも十分に理解できたので、それ以上、突っ込むことはせず、
「なれど仮にそうだとして、それが横田一族に一体、如何な関わりがあると?」
源太郎にはそれが分からず、その点を問い質した。
「いや…、実は鶴松がことぞ…」
準松は源太郎の元へと養嗣子として出した実子の、それも鶴松という幼名を口にした。鶴松には既に、養父となった源太郎から、
「松茂」
という諱を付けられていたものの、しかし、準松は源太郎に対しては養父・源太郎が名付けたその、
「松茂」
という諱は口にせず、相変わらず、
「鶴松」
という幼名を口にした。いや、養父の源太郎とて鶴松に対して、
「松茂」
という諱こそ付けてやったものの、しかし、日常生活においては、
「鶴松」
と実父・準松が名付けたその幼名で呼んでいたので、それゆえ準松が、
「鶴松」
という幼名を口にしたところで、とりたてておかしいわけではなかった。いや、むしろそれが普通であった。何しろ諱というものは日常生活において軽々しく口にして良いものではなかったからだ。
しかし、準松の場合にはそのような慣例以上の何かを感じさせた。即ち、
「松房が名付けし諱なぞ、口にしてなるものか…」
そのような意地が感じられたのであった。さしずめ、横田本家の当主としての意地、あるいは強烈な自尊心であろうか。
尤も、その準松にしても横田本家の生まれではなく、源太郎と同様、もう一つの横田分家の生まれであり、普請奉行まで務めた横田壱岐守榮松の三男として生まれたのが、横田本家の当主であった備中守清松の養嗣子として迎えられたクチであり、そうであれば準松と源太郎との間には実はそれほど立場に開きがあるわけではなかった。
それでも準松は今や横田本家の当主として、相変わらず分家の当主に過ぎない源太郎に対して優越感でも持っているのであろう。尤も、源太郎にはどうでも良い、それこそ、
「瑣末…」
そのような問題に過ぎなかった。
それよりも源太郎としては実父である準松よりも養父である己の方が今の鶴松のまことの意味での父親なのだぞと、そう念押しせんばかりに、
「して、鶴松が如何に?」
あえて実父である準松が付けたその幼名を臆することなく口にして、今は己こそが鶴松のまことの意味での父親であることを源太郎は準松に対して示してみせたのであった。
準松もそうと気付いて、流石に臆した様子を覗かせたものの、それも束の間、すぐに態勢を立て直すと、続けた。
「されば、実は身共は豊千代君が西之丸に入られし時に備えて、工作していたのだ…」
「工作?」
「左様…、鶴松が豊千代君の御伽衆に召し加えられるよう、そのための工作をしていたのだ」
準松からそう打ち明けられて、さしもの源太郎も驚いた。
「鶴松を豊千代君の御伽衆に?」
源太郎は思わず聞き返した。
「左様…、将軍家御養君の御伽衆に召し加えられれば、その後の栄達は約束されたも同然にて」
確かに準松の言う通りであった。
「しかも上様は御自ら、大和殿を御用之間へと案内されたのだ…」
準松はさらに口惜しげにそう言った。
「御自ら…」
裏を返せば、準松には御用之間へと案内させたくなかった…、つまりは御用之間に近付けさせたくなかったということであり、いよいよ準松は御用之間に立ち入ることまでは許されていないのだろうと、源太郎のその見当の正しさを裏付けていた。
「されば準松殿はその時は…」
「御座之間にて控えているよりほかになかったわ…」
準松はそう吐き捨てた。
「されば何ゆえに上様が田沼殿を…、意知殿を御座之間へと案内されたと分かるので?」
「上様が仰せになられたのだ…、上様が御座之間にていったんは大和殿と向かい合われし折に、これより先は込み入った話となるゆえに、御用之間にて…、とな」
「成程…、いや、意知殿も流石に戸惑われたのではござるまいか?」
源太郎がそう水を向けると、準松は「当然だ」と即答した。
「お人払御用で十分ではござりませぬかと…、大和殿はまぁ、当然と言えば当然なのだが、斯様に上様に対して言上されたのだが…」
お人払御用とはその名からも察せられる通り、将軍と召人の二人きりで会うことを指しており、その場合は御側御用取次の準松と言えども勿論、遠ざけられ、この場合には将軍・家治と召人である意知の二人きりで言葉を交わすことになる。
ゆえにお人払御用の場合には上段に鎮座する将軍は御座之間の下段の中ほどまで進み、一方、下段面した入側…、廊下側の中ほどにて控える召人は入側の中でも最も下段に近い、下段と入側との閾側まで進み、将軍と召人は正しく、
「向かい合う…」
ことになるわけだ。
「されど上様は大和殿の進言にも耳を傾けられずに…」
「御用之間にて話そうと、上様は左様、仰せになられて意知殿をその御用之間へと御自ら案内されたと?」
源太郎が言葉を継ぐと、準松は頷いた。
「いや、上様が身共に大和殿を連れて来るようにとお命じあそばされし時点で、身共が取り持ちをしたも同然にて…」
準松がさらにそう不満げに告げたので、源太郎も「そうであった…」とあることを失念していたことに気付いた。
源太郎が失念していたこととは他でもない、準松のような御側御用取次が将軍との面会の取り持ちをした場合には将軍は上段ではなく、下段の中ほどまで進み、一方、召人にしても入側…、廊下側の中でも特に下段に近い、入側と下段との間の閾側まで進んでの面会となる。そしてそれはちょうど、お人払御用における面会と同じ位置であった。
「されば…、上様におかせられては、意知殿の進言を容れて、お人払御用に致すと、左様に宣されるだけで良く…、座を移られる必要もなかった…、無論、その場合には準松殿も、準松殿に命じられて実際に御座之間へと意知殿を連れて参った肝煎坊主にしても、御座之間より退出せねばならぬが…」
源太郎のその言葉に準松はその通りだと言わんばかりに頷いてみせた。
「いや、実際、上様におかせられては大和殿を目の当たりにされて…、されば大和殿に対して御用之間にて話そうと、左様に直々に語りかけられたわけだが…」
準松はその時の様子を思い出したらしく、実に忌々しげにそう告げた。
「それだけ大事な話であったのでござろう…」
特に準松には聞かれたくない話なのであろう…、源太郎はその言葉は心の中で呟くにとどめた。
「左様…、なればこそ、大納言様の死の真相を探るようにと…」
「上様が左様なことを意知殿に命じられたと?」
「そうでなくば、わざわざ御用之間に大和殿を招いた理由の説明がつかぬではないか…」
準松のその主張は源太郎としては些か論理が飛躍しているようにも思えたが、しかし、完全に否定することもできなかった。
「なれど…、仮にそうだとして、上様は何ゆえ今になって左様なことを…、いや、もそっと早うにお命じあそばされることもできたであろうに…」
それが源太郎には分からなかった。愛息の死が病死などではなく不審死、それももっと言えば誰かに殺された疑いがあるというならば、愛息、即ち、家基が亡くなった3年前の安永8(1779)年の時点で家基の死の真相について探索を命じるべきであろう。少なくとも源太郎が将軍・家治の立場だったならばそうする。
「それとも…、今になって大納言様の死について不審なところがあると…、もそっと申さば誰かに殺された疑いがあると、上様はそのことに気付かれて、意知殿に探索を命じられたと?」
源太郎はそう尋ねた。そうとしか考えられなかったからだ。
「そこまでは分からぬが…、いや、この際、左様なことは瑣末な問題よ…、我ら横田一族にとってはもっと大事な問題があるのだ…」
準松は深刻そうな表情でそう告げた。しかもどこか急いている様子もあった。
「大事な問題とは?」
「仮に…、仮にだが…」
準松は、「仮に」という副詞を二度も前置きしてから本題へと入った。
「豊千代君が西之丸入り…、それが沙汰止みとなりし場合のことぞ…」
準松は声を潜ませてそう告げた。
「そは…、大納言様を殺めしが一橋卿…、治済卿だと?そのことが探索の末、判明した場合?」
源太郎も準松に倣い、声を潜ませながらもストレートにそう尋ねた。それに対して準松は、「だから仮にだ…」と呻くようにそう答えるのが精一杯な様子であった。
源太郎も如何に矯激、過激な性分とは言え、準松の気持ちも十分に理解できたので、それ以上、突っ込むことはせず、
「なれど仮にそうだとして、それが横田一族に一体、如何な関わりがあると?」
源太郎にはそれが分からず、その点を問い質した。
「いや…、実は鶴松がことぞ…」
準松は源太郎の元へと養嗣子として出した実子の、それも鶴松という幼名を口にした。鶴松には既に、養父となった源太郎から、
「松茂」
という諱を付けられていたものの、しかし、準松は源太郎に対しては養父・源太郎が名付けたその、
「松茂」
という諱は口にせず、相変わらず、
「鶴松」
という幼名を口にした。いや、養父の源太郎とて鶴松に対して、
「松茂」
という諱こそ付けてやったものの、しかし、日常生活においては、
「鶴松」
と実父・準松が名付けたその幼名で呼んでいたので、それゆえ準松が、
「鶴松」
という幼名を口にしたところで、とりたてておかしいわけではなかった。いや、むしろそれが普通であった。何しろ諱というものは日常生活において軽々しく口にして良いものではなかったからだ。
しかし、準松の場合にはそのような慣例以上の何かを感じさせた。即ち、
「松房が名付けし諱なぞ、口にしてなるものか…」
そのような意地が感じられたのであった。さしずめ、横田本家の当主としての意地、あるいは強烈な自尊心であろうか。
尤も、その準松にしても横田本家の生まれではなく、源太郎と同様、もう一つの横田分家の生まれであり、普請奉行まで務めた横田壱岐守榮松の三男として生まれたのが、横田本家の当主であった備中守清松の養嗣子として迎えられたクチであり、そうであれば準松と源太郎との間には実はそれほど立場に開きがあるわけではなかった。
それでも準松は今や横田本家の当主として、相変わらず分家の当主に過ぎない源太郎に対して優越感でも持っているのであろう。尤も、源太郎にはどうでも良い、それこそ、
「瑣末…」
そのような問題に過ぎなかった。
それよりも源太郎としては実父である準松よりも養父である己の方が今の鶴松のまことの意味での父親なのだぞと、そう念押しせんばかりに、
「して、鶴松が如何に?」
あえて実父である準松が付けたその幼名を臆することなく口にして、今は己こそが鶴松のまことの意味での父親であることを源太郎は準松に対して示してみせたのであった。
準松もそうと気付いて、流石に臆した様子を覗かせたものの、それも束の間、すぐに態勢を立て直すと、続けた。
「されば、実は身共は豊千代君が西之丸に入られし時に備えて、工作していたのだ…」
「工作?」
「左様…、鶴松が豊千代君の御伽衆に召し加えられるよう、そのための工作をしていたのだ」
準松からそう打ち明けられて、さしもの源太郎も驚いた。
「鶴松を豊千代君の御伽衆に?」
源太郎は思わず聞き返した。
「左様…、将軍家御養君の御伽衆に召し加えられれば、その後の栄達は約束されたも同然にて」
確かに準松の言う通りであった。
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