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崩れ始める偽証
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ともあれ家治は機嫌の良い声のまま、
「いや、大変に貴重なる証言であった。忙しい最中に済まなんだのう。もう退がって良いぞ…」
善左衛門を送り出したのであった。それで善左衛門も意気揚々、その場をあとにしたのであった。家治はそんな善左衛門の後姿を目の当たりにして、
「こやつとは永遠に信頼関係を築くことはあるまい…」
そう確信したものである。
そうして善左衛門が姿を消すや、家治は今しがたまでの機嫌の良い様子が嘘のようであったかのように顔から笑みを消すとさしずめ、能面を髣髴とさせた。
家治のその余りの変貌ぶりに意知や、それに準松と正明を除いた全ての者が驚いた。益五郎は勿論のこと、御側御用取次見習いの泰行でさえ、驚いている様子であった。どうやら泰行も善左衛門と同様、
「上様は心底、ご機嫌麗しく…」
すっかりそう信じていたようで、まだまだ修行が足りないと言えた。
ともあれ家治は能面顔になるや、
「末吉善左衛門めが家基が最期の放鷹時に何ゆえに、供番を兼務するようになったか、その理由を徹底的に調べる必要があるのう…」
そう告げて、正明を震え上らせたものである。
一方、事情を知らぬ益五郎は家治に対してまで、
「それなら今さっき、末吉善左衛門が話してくれたじゃありませんか…」
そう砕けた調子でしかも反論してみせたので、やはり隣に座る意知が堪えられずに、「これっ、控えぬか」と叱声を浴びせたものである。
それに対して家治は、「良い、良い」と能面に僅かだが微笑を浮かべたものであった。その微笑は心底からのそれであると、意知やそれに準松、正明までもそうと気付いたものであった。
だがそれも束の間、家治は再び、微笑を消すと正真正銘、能面になった。
「確かに、益五郎が申す通り、今しがた、末吉善左衛門めは己が供番を兼務せし経緯について語ったが、なれどそれは表面的なことに過ぎぬような気がするのだ…」
「それじゃあ、他にも何か裏の事情があるってことですか?末吉の野郎が供番を兼務した理由、それに何か…」
益五郎がそう尋ねると、家治はいよいよ、今度は心底、機嫌が良くなった。それと言うのも益五郎が善左衛門のことを、
「末吉の野郎…」
そう口汚く呼んでくれたからだ。いや、家治としても出来ることなら気に入らぬ相手に対してそのように口汚く呼んでみたいものだが、しかし、征夷大将軍という立場がそれを許さず、そこで家治は己の代わりに口汚く罵ってくれた益五郎に対して感謝すると同時に、その機嫌が良くなったのである。
それでも家治は三度、能面に戻ると、それから暫くの間、笑みは勿論のこと、微笑さえ浮かべることはなかった。
「されば末吉善左衛門めが供番を兼務するに至りしその背景につきて、徹底的に調べる必要があるな…」
家治が改めてそう口にすると御側御用取次見習いの泰行がまるで己の存在をアピールするかの如く、
「されば若年寄に…、当時の若年寄にお糺しあそばされては如何でござりましょうや…」
そう提案したのであった。尤もな提案と言えた。それと言うのも目付は若年寄支配のお役だからだ。
目付はその執務部屋である「御目付部屋」に直属の上司とも言うべき若年寄の入室さえ禁じ、いや、老中の入室さえも禁じていた。
のみならず、例えば相手が若年寄やさらに老中であろうとも、彼らに非違のある時には遠慮なく将軍に対してその非違を上申することさえ出来たのであった。
目付は事程左様に独立性が高いお役ではあるものの、しかし、当然と言うべきか、完全に独立性が保障されているわけではなかった。
例えば、目付には出張がつきものであり、その際、その目付が兼務する掛なり番なりを何れの目付に…、相役の目付に割り振るか、それを決めるのは若年寄であった。
無論、実際にはその程度のことであれば一々、若年寄が口を挟むとは考えられず、目付が相談の上、割り振りを決めた上で、直属の上司である若年寄に承諾を求めるというのが一般的である。
それでも若年寄が目付の直属の上司であることに変わりはなく、それゆえ目付が兼務する掛なり番なりの割り振りを目付同士、言ってみれば、
「仲間内」
それで決めたとしても、直属の上司である若年寄には事後承諾になろうとも、必ず承諾を取らなければならなかった。
そうであれば末吉善左衛門が供番をも兼務するようになった経緯についても当時の若年寄に聞けば何か分かるかも知れない。
泰行の提案に対して御側御用取次の横田準松が真っ先に賛同した。
「それは上策…、されば当時の若年寄…、本丸の若年寄は今でもそのままその役にあるゆえ…」
準松の言う通りであった。即ち、安永8(1779)年の時点で本丸の若年寄であった松平伊賀守忠順酒井石見守忠休、加納遠江守久堅、そして米倉丹後守昌晴の4人は今、天明元(1781)年4月2日現在もその職にあるからだ。2年前のことではあるが、それでも何か覚えているに違いなかった。
するともう一人の御側御用取次である稲葉正明の様子がおかしくなった。
それに気付いた将軍・家治は正明に対して、「如何致した?」と気遣ってみせた。
それに対して正明は、「いえ、別に…」とそう答えるのが精一杯な様子であった。
「いや、とても別にで片付けられるとは思えんのだがのう…、とても顔色が悪いぞ?」
家治は正明の顔を覗き込むようにしてそう尋ねた。実際、正明の今の顔色は家治が言う通り、悪いものであった。それも正しく、
「顔面蒼白…」
その体であった。そして家治にはその理由に察しがついていた。
「のう、正明よ…」
家治は柔らかな口調で語りかけた。やはり家治の性分を良く知る準松や意知、そしてとうの本人とも言うべき正明はその家治の柔らかな口調に思わず身震いしたものである。それと言うのも家治の今の心底たるや、その柔らかなる口調とは裏腹に、
「夜叉に近いもの…」
そう本能的に嗅ぎ分けられたからだ。
ともあれ正明は、「恐る恐る」といった体で、「ははっ」と応じた。
「されば家基が最期の放鷹の前、既にそなたは今の御側御用取次であったのう…」
家治は相変わらず柔らかな口調のまま、そう尋ねた。但し、案の定と言うべきか、その目は笑っていなかった。
それに対して正明はと言うと、家治の言う通りであったので、「御意」と認めた。
「ふむ。されば未決の人事案件につきても、当然、口を出せるわけだのう…」
これも正しく家治の言う通りであり、未決の人事を扱う、それこそが御側御用取次の正しく、
「力の源泉」
それであったのだ。
「いや、大変に貴重なる証言であった。忙しい最中に済まなんだのう。もう退がって良いぞ…」
善左衛門を送り出したのであった。それで善左衛門も意気揚々、その場をあとにしたのであった。家治はそんな善左衛門の後姿を目の当たりにして、
「こやつとは永遠に信頼関係を築くことはあるまい…」
そう確信したものである。
そうして善左衛門が姿を消すや、家治は今しがたまでの機嫌の良い様子が嘘のようであったかのように顔から笑みを消すとさしずめ、能面を髣髴とさせた。
家治のその余りの変貌ぶりに意知や、それに準松と正明を除いた全ての者が驚いた。益五郎は勿論のこと、御側御用取次見習いの泰行でさえ、驚いている様子であった。どうやら泰行も善左衛門と同様、
「上様は心底、ご機嫌麗しく…」
すっかりそう信じていたようで、まだまだ修行が足りないと言えた。
ともあれ家治は能面顔になるや、
「末吉善左衛門めが家基が最期の放鷹時に何ゆえに、供番を兼務するようになったか、その理由を徹底的に調べる必要があるのう…」
そう告げて、正明を震え上らせたものである。
一方、事情を知らぬ益五郎は家治に対してまで、
「それなら今さっき、末吉善左衛門が話してくれたじゃありませんか…」
そう砕けた調子でしかも反論してみせたので、やはり隣に座る意知が堪えられずに、「これっ、控えぬか」と叱声を浴びせたものである。
それに対して家治は、「良い、良い」と能面に僅かだが微笑を浮かべたものであった。その微笑は心底からのそれであると、意知やそれに準松、正明までもそうと気付いたものであった。
だがそれも束の間、家治は再び、微笑を消すと正真正銘、能面になった。
「確かに、益五郎が申す通り、今しがた、末吉善左衛門めは己が供番を兼務せし経緯について語ったが、なれどそれは表面的なことに過ぎぬような気がするのだ…」
「それじゃあ、他にも何か裏の事情があるってことですか?末吉の野郎が供番を兼務した理由、それに何か…」
益五郎がそう尋ねると、家治はいよいよ、今度は心底、機嫌が良くなった。それと言うのも益五郎が善左衛門のことを、
「末吉の野郎…」
そう口汚く呼んでくれたからだ。いや、家治としても出来ることなら気に入らぬ相手に対してそのように口汚く呼んでみたいものだが、しかし、征夷大将軍という立場がそれを許さず、そこで家治は己の代わりに口汚く罵ってくれた益五郎に対して感謝すると同時に、その機嫌が良くなったのである。
それでも家治は三度、能面に戻ると、それから暫くの間、笑みは勿論のこと、微笑さえ浮かべることはなかった。
「されば末吉善左衛門めが供番を兼務するに至りしその背景につきて、徹底的に調べる必要があるな…」
家治が改めてそう口にすると御側御用取次見習いの泰行がまるで己の存在をアピールするかの如く、
「されば若年寄に…、当時の若年寄にお糺しあそばされては如何でござりましょうや…」
そう提案したのであった。尤もな提案と言えた。それと言うのも目付は若年寄支配のお役だからだ。
目付はその執務部屋である「御目付部屋」に直属の上司とも言うべき若年寄の入室さえ禁じ、いや、老中の入室さえも禁じていた。
のみならず、例えば相手が若年寄やさらに老中であろうとも、彼らに非違のある時には遠慮なく将軍に対してその非違を上申することさえ出来たのであった。
目付は事程左様に独立性が高いお役ではあるものの、しかし、当然と言うべきか、完全に独立性が保障されているわけではなかった。
例えば、目付には出張がつきものであり、その際、その目付が兼務する掛なり番なりを何れの目付に…、相役の目付に割り振るか、それを決めるのは若年寄であった。
無論、実際にはその程度のことであれば一々、若年寄が口を挟むとは考えられず、目付が相談の上、割り振りを決めた上で、直属の上司である若年寄に承諾を求めるというのが一般的である。
それでも若年寄が目付の直属の上司であることに変わりはなく、それゆえ目付が兼務する掛なり番なりの割り振りを目付同士、言ってみれば、
「仲間内」
それで決めたとしても、直属の上司である若年寄には事後承諾になろうとも、必ず承諾を取らなければならなかった。
そうであれば末吉善左衛門が供番をも兼務するようになった経緯についても当時の若年寄に聞けば何か分かるかも知れない。
泰行の提案に対して御側御用取次の横田準松が真っ先に賛同した。
「それは上策…、されば当時の若年寄…、本丸の若年寄は今でもそのままその役にあるゆえ…」
準松の言う通りであった。即ち、安永8(1779)年の時点で本丸の若年寄であった松平伊賀守忠順酒井石見守忠休、加納遠江守久堅、そして米倉丹後守昌晴の4人は今、天明元(1781)年4月2日現在もその職にあるからだ。2年前のことではあるが、それでも何か覚えているに違いなかった。
するともう一人の御側御用取次である稲葉正明の様子がおかしくなった。
それに気付いた将軍・家治は正明に対して、「如何致した?」と気遣ってみせた。
それに対して正明は、「いえ、別に…」とそう答えるのが精一杯な様子であった。
「いや、とても別にで片付けられるとは思えんのだがのう…、とても顔色が悪いぞ?」
家治は正明の顔を覗き込むようにしてそう尋ねた。実際、正明の今の顔色は家治が言う通り、悪いものであった。それも正しく、
「顔面蒼白…」
その体であった。そして家治にはその理由に察しがついていた。
「のう、正明よ…」
家治は柔らかな口調で語りかけた。やはり家治の性分を良く知る準松や意知、そしてとうの本人とも言うべき正明はその家治の柔らかな口調に思わず身震いしたものである。それと言うのも家治の今の心底たるや、その柔らかなる口調とは裏腹に、
「夜叉に近いもの…」
そう本能的に嗅ぎ分けられたからだ。
ともあれ正明は、「恐る恐る」といった体で、「ははっ」と応じた。
「されば家基が最期の放鷹の前、既にそなたは今の御側御用取次であったのう…」
家治は相変わらず柔らかな口調のまま、そう尋ねた。但し、案の定と言うべきか、その目は笑っていなかった。
それに対して正明はと言うと、家治の言う通りであったので、「御意」と認めた。
「ふむ。されば未決の人事案件につきても、当然、口を出せるわけだのう…」
これも正しく家治の言う通りであり、未決の人事を扱う、それこそが御側御用取次の正しく、
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