天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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大詰め ~千穂と種姫の食膳担当の奥御膳所台所頭の重田彦大夫師美は調理の過程で毒茸を混入するも、向坂に見破られる~

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 夕七つ(午後4時頃)になり、大奥の男子役人のスペースである廣敷ひろしきにあるおもてぜんしょに今夜、千穂ちほ種姫たねひめが食する夕食の材料が届けられた。

 まかないがしら森山もりやま忠三郎ちゅうざぶろう義立よしたつはいまかないがたを従えて、おもてぜんしょへと食材を届けに来たのであった。

 これを受け取ったのが膳所ぜんしょだい所頭どころがしら重田しげた彦大夫ひこだゆう師美もろよしであった。

 重田しげた彦大夫ひこだゆう膳所ぜんしょだい所頭どころかしらとして大奥における食事をつかさどっており、しかも安永6(1777)年よりは千穂ちほの食事を専門につかさどり、さらに安永8(1779)年、家基いえもとの婚約者であった種姫たねひめ家基いえもとの死後に西之丸にしのまるの大奥よりここ、本丸の大奥へと移って来ると、種姫たねひめの食事をもつかさどるようになった。

 その重田しげた彦大夫ひこだゆう森山もりやま忠三郎ちゅうざぶろうより食材を受け取るや、目礼もくれいわした。言葉は必要ない。

 そうして森山もりやま忠三郎ちゅうざぶろうはいまかないがたを従えて立ち去るなり、重田しげた彦大夫ひこだゆうはやはりはいくみがしら台所人だいどころにんと共に調理場に立った。かしらとは言え、自らも包丁ほうちょうを振るう。ましてや今夜の食事は特別である。

 彦大夫ひこだゆうは食材の中からきのこを取り出した。今夜の食事…、千穂ちほ種姫たねひめし上がる夕食はきのこ料理であり、さしずめ「メインディッシュ」とも言うべききのこ料理の食材であるきのこだけは他の者の手にれさせたくはなかった。

 そうして半刻はんとき(約1時間)ほどが経過した夕の七つ半(午後5時頃)を過ぎた頃に料理を…、千穂ちほ種姫たねひめが口にする夕食を作り終えると、重田しげた彦大夫ひこだゆうはまずは廣敷ひろしきばんかしらによるどくを受けるべく、今夜の宿直とのいにな廣敷ひろしきばんかしら竹村たけむら忠次郎ちゅうじろう嘉教よしのりの元へと料理を運んだ。

 竹村たけむら忠次郎ちゅうじろう重田しげた彦大夫ひこだゆうはいくみがしららと共に己の目の前に運んできたその食事に躊躇ちゅうちょなくはしをつけようとした。

 何しろ竹村たけむら忠次郎ちゅうじろう重田しげた彦大夫ひこだゆうらが調理するその一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくにも目を光らせていたのだ。その結果、重田しげた彦大夫ひこだゆうらにあやしげな動きはなく、それゆえ毒など混入こんにゅうされてはいまいと、竹村たけむら忠次郎ちゅうじろうはそう確信かくしんしており、そうであればこのどくは、

たんなるセレモニー…」

 それが竹村たけむら忠次郎ちゅうじろうの意識であった。

 だが竹村たけむら忠次郎ちゅうじろうが目の前にならべられた食事にはしをつけようとしたところで、

「待ちや」

 そう女の声がした。竹村たけむら忠次郎ちゅうじろうはその女の声ではしを止めると、声のぬしである女の方へと振り向いた。

「これはこれは向坂さきさか様…」

 向坂さきさか様もとい、種姫たねひめづき年寄としより向坂さきさかこそが声のぬしであった。

 竹村たけむら忠次郎ちゅうじろう向坂さきさかを前にして、威儀いぎただした。

 向坂さきさかはそんな竹村たけむら忠次郎ちゅうじろうの元へとゆっくりと近付くや、

竹村たけむら殿」

 そう声をかけた。

「ははっ」

「これは今宵こよい、お千穂ちほ方様かたさま種姫たねひめ様がおし上がりになられしぜんかえ?」

 向坂さきさかがそう当たり前のことをたずねたので、竹村たけむら忠次郎ちゅうじろう流石さすが困惑こんわくしたものの、それでその通りであったので、「如何いかにも」と律儀りちぎに答えた。

左様さようか…」

 向坂さきさかはそう応ずると、膳台ぜんだいに乗せられたわんを一つ一つ、吟味ぎんみするようにながめ、その中からきのこが入ったわんを見つけると、そのわんを手に取った。

「されば…、今宵こよいきのこ料理のようだの…」

 向坂さきさかはそのきのこの入ったわんを手に取りながらひとごとのようにそうつぶやいた。

 それに対して竹村たけむら忠次郎ちゅうじろう向坂さきさかの行動がいまひとつめずそれでもやはりその通りであったので、「如何いかにも…」とまたしても律儀りちぎに答えた。

左様さようか…」

 向坂さきさかはそれからそのわんを持ったまま、平伏へいふくしている重田しげた彦大夫ひこだゆうの元へと近付いた。重田しげた彦大夫ひこだゆうを始めとする台所人だいどころにんは皆、向坂さきさか突然とつぜんの登場に驚くと同時に平伏へいふくしてひかえていたのだ。

 さて、向坂さきさか重田しげた彦大夫ひこだゆうの前で立ち止まるや、「彦大夫ひこだゆう」と彦大夫ひこだゆうのその後頭部を見下ろしながらそう声をかけた。

「ははっ」

おもてを上げられよ…」

「ははっ…」

 重田しげた彦大夫ひこだゆうは小声でそう答えるとゆっくりと頭を上げたので、向坂さきさかも身をかがめて彦大夫ひこだゆうと向き合った。彦大夫ひこだゆう顔面がんめんまさに、

蒼白そうはく…」

 それであった。どうやら竹村たけむら忠次郎ちゅうじろうとは違い、向坂さきさかの行動を理解していたためと思われる。

 ともあれ向坂さきさか顔面がんめん蒼白そうはく重田しげた彦大夫ひこだゆうに対してきのこ料理がり付けられたそのわんを差し出したのであった。

彦大夫ひこだゆう、食してみよ」

 向坂さきさかにそう言われた重田しげた彦大夫ひこだゆうは「えっ?」と声をふるわせた。

「食してみよと申したのだ」

 向坂さきさかはそうり返した。

どくはそれがしの仕事では…」

 重田しげた彦大夫ひこだゆう一層いっそう、声をふるわせた。

「確かに…、なれど己が作りしきのこ料理に何ら問題がなければ食せるであろう?仮にこれが毒きのこであらば、話は別だがの…」

 向坂さきさかついに「爆弾ばくだん」をとうしたことから、竹村たけむら忠次郎ちゅうじろうにもようやくに向坂さきさかの行動がめた。

 竹村たけむら忠次郎ちゅうじろう向坂さきさかうしろにて向坂さきさか重田しげた彦大夫ひこだゆうとのやり取りを注視ちゅうし、それも向坂さきさかの背中ごしに注視ちゅうししていたので、向坂さきさかと向かい合う重田しげた彦大夫ひこだゆうの顔色が…、顔面がんめん蒼白そうはくにさせた彦大夫ひこだゆうのその様子が良くうかがえた。

 やがて重田しげた彦大夫ひこだゆうたまらずその場から逃げ出そうとしたので、

竹村たけむら殿っ」

 向坂さきさかうしろにてひかえる忠次郎ちゅうじろうに声をかけた。もっと忠次郎ちゅうじろうもそうと察してか、向坂さきさかより声をかけられる前に立ち上がっており、それゆえ向坂さきさかより声をかけられた頃には向坂さきさか退ける格好で重田しげた彦大夫ひこだゆうを取り押さえた。

「ゆっ、許してくれぇっっっっ」

 竹村たけむら忠次郎ちゅうじろうによってせられた重田しげた彦大夫ひこだゆうは両足をバタつかせながらそうさけんだ。

神妙しんみょうにせいっ!」

 竹村たけむら忠次郎ちゅうじろう重田しげた彦大夫ひこだゆうのその往生際おうじょうぎわの悪さに対して一喝いっかつして重田しげた彦大夫ひこだゆうしずめようとしたものの、しかし、重田しげた彦大夫ひこだゆうしずまるどころか益々ますます、「ヒートアップ」した。

「やだぁっっっっ、死にたくねぇよぉっっっっ」

 重田しげた彦大夫ひこだゆうはそうたけびを上げた。

 重田しげた彦大夫ひこだゆうは料理人とは言え、れきとした幕臣ばくしんである。にもかかわらず、足をバタつかせたあげ、死にたくないとさけび声を上げるとは、ぐるしいことこの上ないが、しかし、重田しげた彦大夫ひこだゆうのその気持ちは自業自得じごうじとくとは言え、向坂さきさかにしろ竹村たけむら忠次郎ちゅうじろうにしろ分からぬでもなかった。

 何しろ、将軍・家治の愛妾あいしょうである千穂ちほ養女ようじょ種姫たねひめの二人に一服いっぷくろうとしたのも同然であり、それだけで重田しげた彦大夫ひこだゆうは死罪は免れ得ぬであろう。

 勿論もちろんいえ断絶だんぜつさらちゃくである重田しげた又兵衛またべえ信征のぶゆきにもるいおよぶであろう。一橋ひとつばし家にてつかえる平田ひらた重右衛門じゅうえもん正好まさよしの娘をめとっている又兵衛またべえ信征のぶゆきにも…。

一体いったい、何のさわぎぞ…」

 そこでやはり今夜の宿直とのいにな留守居るすい依田よだ政次まさつぎが姿を見せた。

「これはこれは依田よだ様…」

 向坂さきさかは冷たい声を上げると、いや、声だけではない、政次まさつぐそそぐ視線もまた冷たく、それでも一応、相手は留守居るすいであり平伏へいふくした。

 竹村たけむら忠次郎ちゅうじろうにしてもまた平伏へいふくしたいのは山々やまやまであったが、しかし、重田しげた彦大夫ひこだゆうせている現状、そうもいかなかった。

一体いったい、何のさわぎぞ…」

 政次まさつぐ重田しげた彦大夫ひこだゆうせる竹村たけむら忠次郎ちゅうじろう見下みおろしつつ、そうり返した。

「さればそれな重田しげた彦大夫ひこだゆうが役目を…、お千穂ちほ方様かたさま種姫たねひめ様のぜんうけたまわりしその役目を利用して、毒きのこを…」

「何と…、お千穂ちほ方様かたさま種姫たねひめ様のお命をうばおうとしたと?」

 そう驚いてみせる政次まさつぐに対して向坂さきさかはいよいよもって冷たい視線を政次まさつぐそそいだものだが、事情を知らぬ竹村たけむら忠次郎ちゅうじろう重田しげた彦大夫ひこだゆうせつつ、顔を上げて政次まさつぐを見上げると、「その通りでござります」と答えた。

左様さようか…、さればこの場にてわしが成敗せいばいしてくれる…」

 政次まさつぐはそう言うと、脇差わきざしに手をかけたので、向坂さきさかは思わず「依田よだ様っ」と悲鳴ひめいを上げるかのようにその名を呼んだ。

「何だ?」

「この場にて成敗せいばいとはせませぬな。きちんとせんすべきでござりましょうぞ…、何ゆえにお千穂ちほ方様かたさま種姫たねひめ様のお命をうばおうとしたのか、その背後関係についても…」

 背後関係…、向坂さきさかはその部分にアクセントを置いた。

 だがそれに対して政次まさつぐは「くだらぬ…」と一蹴いっしゅうしてみせるや、

大方おおかた乱心らんしんいたしたのであろう。そうに違いあるまいて、されば一々いちいちせんするにもおよばぬ…」

 そう答えてみせ、そして政次まさつぐは再び脇差わきざしに手をかけると、今度こそ本当に重田しげた彦大夫ひこだゆうの息の根を止めようと…、その首をっ切ろうとした。

「待たれぃ」

 そこでまたしても別の声が割り込んだ。

 出鼻でばなくじかれた格好かっこう政次まさつぐ不快ふかいな表情を浮かべると、声のぬしの方へと振り返り、すると政次まさつぐ不快ふかいな表情から一転いってん驚愕きょうがくのそれへと変わった。

高井たかい土佐とさ…」

 政次まさつぐは声のぬしの名をうめくようにして口にした。
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