天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

文字の大きさ
上 下
195 / 197

次期将軍に内定していた一橋豊千代の実母・富も将軍・家治の御台所であった倫子に対する殺人の疑いで目付の堀帯刀によって遂に逮捕さる。

しおりを挟む
 それから治済はるさだ鼻血はなぢらしながら辰ノ口たつのぐち評定所ひょうじょうしょへと連行され、そして評定所ひょうじょうしょない仮牢かりろう収監しゅうかん…、ぶちまれたのであった。

 同時に、御膳ごぜん奉行の高尾たかお惣十郎そうじゅうろうとその相役あいやく…、同僚どうりょうである山木やまき次郎八じろはちの二人もふたたび、仮牢かりろうへと移送いそうされたのであった。

 その仮牢かりろうにはすでに、「先客せんきゃく」とも言うべき留守居るすい依田よだ政次まさつぐと、それにおく御膳ごぜんしょ台所だいどころがしら重田しげた彦大夫ひこだゆうまかないがしら森山もりやま忠三郎ちゅうざぶろうの姿があり、そこへあらたに治済はるさだまでが加わったことで、とりわけ依田よだ政次まさつぐ愕然がくぜんとしたものであった。

 それもそのはず政次まさつぐにしてみれば、

ぐにはなちになるはず…」

 その自信があったからだ。

 すなわち、将軍・家治が毒殺どくさつされればぐにはなちになるはず…、新たに将軍となる一橋ひとつばし豊千代とよちよ実父じっぷである治済はるさだによってはなちになるはずと、政次まさつぐにはその自信があればこそ、己の身柄みがら拘束こうそくした高井たかい直熙なおひろに対して泰然自若たいぜんじじゃくとしていられたのであった。

 それが治済はるさだまでがここ、辰ノ口たつのぐち評定所ひょうじょうしょない仮牢かりろうへと「ご招待しょうたい」されたとあっては、将軍・家治の毒殺どくさつが失敗に終わったことを物語ものがたっていた。

 のみならず、己の命運めいうんきたことをも物語ものがたっており、政次まさつぐはそうとさとったゆえに愕然がくぜんとしたのであった。

 同じ頃、一橋ひとつばし邸にもいったんは引きげたはず大番組おおばんぐみ…、本堂ほんどう親房ちかふさかしらとしてたばねる三番組が将軍・家治の命によりふたたび、つかわされ、邸内ていないを取り囲んだのであった。

 のみならず、先手さきて鉄砲てっぽうがしらである杉浦すぎうら長門守ながとのかみ勝興かつおきとその配下はいか與力よりき10騎に同心どうしん50人、同じく先手さきて鉄砲てっぽうがしら大久保おおくぼ彌三郎やさぶろう忠厚ただあつとその配下はいか與力よりき5騎に同心どうしん30人をも一橋ひとつばし邸へとけたのであった。勿論もちろん本堂ほんどう親房ちかふさとその配下はいか番士ばんし與力よりき同心どうしんらを援護えんごさせるべく、であった。

 すなわち、一橋ひとつばし邸内にて捕物とりものを行わせるとなれば、当然とうぜん不測ふそく事態じたい予測よそくされ、そこで家治はその不測ふそく事態じたいそなえて番方ばんかた…、軍事部門のそれも鉄砲隊である先手さきて鉄砲てっぽうがしらとその配下はいか與力よりき同心どうしんらに大番組おおばんぐみ援護えんごさせることにし、そこで今宵こよい宿直とのいであった杉浦すぎうら勝興かつおき大久保おおくぼ彌三郎やさぶろうの二人をその各々おのおの與力よりき同心どうしんらと共に、一橋ひとつばし邸へとつかわしたわけである。

 そうしてまずは大番組おおばんぐみが…、三番組の番士ばんしとそれに與力よりき同心どうしんらが組頭くみがしら差配さはいにより一橋ひとつばし邸を取りかこませるや、用意しておいた龕灯がんどうでもって一橋ひとつばし邸をらしたのであった。

 これには邸内ていないにいた一橋ひとつばし家の臣たちも驚いた。

 とりわけ屋敷やしきあるじである治済はるさだ股肱ここうの臣とも言うべき岩本いわもと喜内きないがそうであった。

一体いったい何事なにごとぞっ!」

 喜内きないは未だに、目付めつけ末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんらと祝宴しゅくえん…、将軍・家治が死に、そして晴れて主君しゅくん治済はるさだ嫡子ちゃくし豊千代とよちよが将軍として本丸ほんまる入りをたすであろうその前祝まえいわい最中さなかであり、そこへ外部から龕灯がんどうでもって屋敷やしき内をらされたわけだから、驚きのあまり、思わずそう怒鳴り声を上げたのも当然とうぜんと言えた。

 いや、驚いたのは何も岩本いわもと喜内きないだけではない。その場にいた皆が驚き、そんな中、目付めつけ末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんさきに立ち上がるや、それこそ、

「おっとり刀で…」

 光源こうげんへとけ出して行ったものである。

 そうして末吉すえよし善左衛門ぜんざえもん脇門わきもんより邸外ていがいへと出てみると、いや、出ようとしたが、脇門わきもんの前にもすでに人が…、大番組おおばんぐみ同心どうしんの姿があり、善左衛門ぜんざえもんを改めて驚かせたものである。

 それでも善左衛門ぜんざえもんは、「一体いったい何事なにごとぞっ」と精一杯せいいっぱいの声をり上げたものであった。

 だがそんな善左衛門ぜんざえもんに対して、相役あいやく…、同僚どうりょうほり帯刀たてわきが冷たく応じた。ほり帯刀たてわきもまた、将軍・家治の命によりここ一橋ひとつばし邸へとつかわされたのであった。

 精一杯せいいっぱいの声を張り上げてみせる、と言うよりは虚勢きょせいを張ってみせる善左衛門ぜんざえもんの前へとほり帯刀たてわきが進み出るや、

随分ずいぶんと顔が赤いようだの…」

 ほり帯刀たてわきはまずはそう言い放った。

 目付めつけたる者が役目も忘れて酒にうつつをかすとは何事なにごとぞ…、ほり帯刀たてわきは暗にそう非難ひなんしていたのだ。

 それに対して善左衛門ぜんざえもん流石さすがにバツが悪くなったようで決まりの悪い顔をしたものの、それでもぐに持ち前の「厚顔こうがん無恥むち」ぶりを発揮はっきして態勢たいせいを立て直すや、

「それよりおそれ多くも一橋ひとつばしきょう様のお屋敷やしきを取りかこむとは何事なにごとぞっ!」

 そう反論してみせた。どうやらそれで皆が退くに相違そういあるまいと、善左衛門ぜんざえもんはそう信じて疑わない様子であった。

 そんな善左衛門ぜんざえもんの様子を見せ付けられたほり帯刀たてわきは思わず噴出ふきだしそうになった。善左衛門ぜんざえもんのその様子がほり帯刀たてわきひとみには滑稽こっけいうつったからだ。

 それでもほり帯刀たてわきは何とか噴出ふきだすのをこらえるや、善左衛門ぜんざえもん平伏ひれふさせるに十分過ぎる書状しょじょうをその懐中かいちゅうより取り出したのであった。

 言うまでもなく、それは「上意じょうい」であり、ほり帯刀たてわきは将軍・家治の命によりここ一橋ひとつばし邸へとつかわされるに当たり、家治よりその直筆じきひつの「上意じょうい」をあずかっていたのだ。

 その「上意じょうい」の中身なかみたるや、今、ほり帯刀たてわきの目の前に立つ、いや、「上意じょうい」を前にして今や、地面に平伏ひれふした善左衛門ぜんざえもんを始めとする、将軍・家治の毒殺どくさつ未遂みすい、それに次期将軍・家基いえもと毒殺どくさつ関与かんよした者たちを捕縛ほばくせよとの、わば、

「逮捕状…」

 であったのだ。

 ほり帯刀たてわきはその上意じょうい、もとい「逮捕状」を目の前にて平伏ひれふ末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんに対して読み聞かせるや、ぐに大番組おおばんぐみ同心どうしんに命じてまずは一匹いっぴき…、奸臣かんしんとも言うべき善左衛門ぜんざえもんらせたのであった。

 と同時に、善左衛門ぜんざえもんの手によってはなたれたままの脇門わきもんより邸内ていないへとドッと、大番組おおばんぐみ與力よりき同心どうしんらが雪崩なだむと、中から大門おおもんを開け、そうして残る大番組おおばんぐみ番士ばんし與力よりき同心どうしんら、それに鉄砲てっぽうかまえた先手さきて鉄砲てっぽう組の與力よりきらも邸内ていないへと雪崩なだんだのであった。

 そのさまはまるで、の有名なる「赤穂あこう義士ぎし」を髣髴ほうふつとさせた。いや、家基いえもとかたきつという側面そくめんがあるので、その点、赤穂あこう義士ぎしに似ているやも知れなかった。

 ともあれそうして一斉いっせい吉良きら邸ならぬ一橋ひとつばし邸へと雪崩なだんだ大番組おおばんぐみ番士ばんしらは土足どそく屋敷やしきの中へと侵入しんにゅうして行った。ほり帯刀たてわき勿論もちろん、その中の一人であった。

慮外りょがいものめがっ!一体いったい、ここをどこと心得こころえておるっ!」

 善左衛門ぜんざえもん同様どうよう治済はるさだ股肱ここうしんである岩本いわもと喜内きないもまた、土足どそく侵入しんにゅうした大番組おおばんぐみ番士ばんしらに対してそう精一杯せいいっぱいの声を張り上げた。

 もっとも、岩本いわもと喜内きないは声を張り上げただけで、その腰のものには手をかけようとはしなかった。それは「数の力」によるところもあろうが、それ以上に大番組おおばんぐみ番士ばんしらの背後はいごひかえる「鉄砲隊」の威力いりょくによるところ大であった。

 ようは下手に腰のものに手をかけて、

射掛いかけられてはかなわぬ…」

 つまりは我が身可愛かわいさから、もっと言うなら命惜しさから岩本いわもと喜内きないは腰のものには手をかけなかったというわけだ。これで自爆じばく覚悟かくご応戦おうせんしたならば、

「敵ながら天晴あっぱれ…」

 というものであろうが、生憎あいにくほり帯刀たてわきらが相手にする敵、もとい岩本いわもと喜内きないはそれとは正反対せいはんたいの、何よりも己の命がしい臆病おくびょう者であった。治済はるさだ股肱ここうしん自認じにんしながらも、所詮しょせんはこの程度ていどであった。

 ともあれほり帯刀たてわきはやはりこの岩本いわもと喜内きないに対しても、善左衛門ぜんざえもんの時と同様どうよう上意じょういもとい「逮捕状」を示して岩本いわもと喜内きないをもやはり平伏ひれふさせると、大番組おおばんぐみ同心どうしんに命じてこの岩本いわもと喜内きないをも捕縛ほばく、逮捕させたのであった。

 ほり帯刀たてわきはそういった要領ようりょうで次々とその上意じょういもとい「逮捕状」にしたためられていた「被疑者」らを大番組おおばんぐみ同心どうしんらにらせたのであった。

 そしてその中には次期将軍に内定ないていしていた豊千代とよちよ実母じつぼであるとみふくまれていた。被疑ひぎ事実は勿論もちろん

「将軍・家治の御台所みだいどころであった倫子ともこに対する殺人の疑い」

 であった。
しおりを挟む

処理中です...