天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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一橋家にて侍女として仕える岡村の供述に基づき、岡村の養子にして表番医師の遊佐卜庵信庭と、それに小児科医の小野西育章以が捕縛、逮捕さる。

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 将軍・家治が目付めつけほり帯刀たてわきたくした上意じょういもとい「逮捕状」には己の毒殺どくさつ未遂みすい愛息あいそく家基いえもと毒殺どくさつ事件の被疑者ひぎしゃ捕縛ほばくに加えて、愛妻あいさい倫子ともこ愛娘まなむすめ萬壽ますひめ毒殺どくさつ事件の被疑者ひぎしゃ捕縛ほばくをも命じるものであった。

 そして愛妻あいさい倫子ともこ毒殺どくさつしたその被疑者ひぎしゃとして、かつて御台所みだいどころづきであった、つまりは倫子ともこづきであったちゅう年寄どしより岩田いわたこととみの名がしたためられていたのだ。

 岩田いわたこととみ倫子ともこづきちゅう年寄どしよりとして、本来ほんらいならば倫子ともこが食するぜん毒見どくみつかさどるべきところ、こともあろうに治済はるさだに命じられるままに、いや、

「己の側妾そくしょうにしてやろうぞ…」

 大奥おおおくへと足を運んだ治済はるさだからそうあまささやきを受け、その代わりにと、倫子ともこ毒殺どくさつに手を貸したのであった。とんでもない毒婦どくふ姦婦かんぷであった。

 ともあれとみもまた、ほり帯刀たてわきの命を受けた大番組おおばんぐみ同心どうしんの手によりられたわけだが、流石さすがに次期将軍に内定ないていしていた豊千代とよちよ実母じつぼだけに、中々なかなか往生際おうじょうぎわわるさを見せ付けてくれた。

おそれ多くも次の上様うえさま内定ないていせし豊千代とよちよ実母じつぼなるぞっ!そのろうと申すのかっ!」

 皆が皆、平伏ひれふした将軍・家治の直筆じきひつによる上意じょういもとい逮捕状を前にしてもとみはそう言いつのり、あまつさえその上意じょういを引きこうとする始末しまつであり、これにはほり帯刀たてわき心底しんそこ閉口へいこうさせられたものである。

 いや、閉口へいこうさせられたと言えばいま一人、ここ一橋ひとつばし家につかえる侍女じじょ岡村おかむらであり、とみに命じられるままにほり帯刀たてわきの手からその上意じょういうばい取ろうとしたのであった。

 無論むろんほり帯刀たてわきぐにそれをかわしたものの、しかし、こんなことは前代未聞ぜんだいみもんであった。まったく、世の中には常識の通用しない御仁ごじんがいるというもので、とみ岡村おかむらがそうであった。

 いや、笑ってばかりもいられなかった。なぜなら岡村おかむらの名もまた、その上意じょういもとい|逮捕状に被疑者ひぎしゃの一人としてしたためられていたからだ。

 すなわち、岡村おかむらは将軍・家治毒殺どくさつ未遂みすい、次期将軍・家基いえもと毒殺どくさつは元より、御台所みだいどころ倫子ともこ、及び息女そくじょ萬壽ますひめ、この両名の毒殺どくさつにも関与かんよしていたからだ。つまりはすべての事件に関与していた。

 何しろ倫子ともこ萬壽ますひめ、そして家基いえもとの命をうばった遅効性ちこうせいどくであるシロタマゴテングタケを用意したのは岡村おかむらと言っても過言かごんではないからだ。

 すなわち、岡村おかむらそだてた表番おもてばん医師いし遊佐ゆさ卜庵ぼくあん信庭のぶにわに対して毒物どくぶつを、それも遅効性ちこうせい毒物どくぶつはないかと、相談を持ちかけたことがすべての発端ほったんと言っても過言かごんではないからだ。

 無論むろん、相談を持ちかけられた遊佐ゆさ卜庵ぼくあんにしても何ゆえに養母ようぼたる岡村おかむらがそのようなことをたずねるのかと、問い返したそうな。

 それに対して岡村おかむら治済はるさだに命じられてたずねていることを、つまりは、

「まずは将軍・家治の御台所みだいどころ倫子ともこ、次いで萬壽ますひめ、そして家基いえもと、最後に将軍・家治を毒殺どくさつして天下てんがつかえし一橋ひとつばし家に…」

 それを遊佐ゆさ卜庵ぼくあんに打ち明けたそうな。

 無論むろん、それを聞いた遊佐ゆさ卜庵ぼくあん大層たいそう、驚いたそうな。けだしまともな反応はんのうと言えようが、しかしその後の反応はんのうたるや、生憎あいにく、まともとはかけ離れていた。

 すなわち、遊佐ゆさ卜庵ぼくあんはその計画が見事みごと、成功したあかつきには、つまりは天下てんがが…、将軍職が一橋ひとつばし家にころがりんだあかつきには、

「己を奥医師おくいしに取り立てて欲しい…」

 そう交換こうかん条件を持ち出したのであった。

 遊佐ゆさ卜庵ぼくあんという男は表番おもてばん医師いしにはらず、かねてより、

上様うえさま御側おそば近くにつかえるおく医師いしになりたい…」

 その野望やぼうめていたのだが、生憎あいにく、家治政権下においてはそのもなさそうだと、遊佐ゆさ卜庵ぼくあん半分はんぶんあきらめていた頃にこの話であった。

 そこで遊佐ゆさ卜庵ぼくあん半分はんぶんあきらめかけていたその野望やぼうかなえる絶好ぜっこう機会きかいとらえてそのような交換こうかん条件を持ち出したらしい。

 それに対して岡村おかむら遊佐ゆさ卜庵ぼくあんが、

「己が手塩てしおにかけてそだてた…」

 とは言え、その遊佐ゆさ卜庵ぼくあんに対してこのような計画に協力を求める以上、遊佐ゆさ卜庵ぼくあん如何いか大恩だいおんある養母ようぼからの頼みとは言え、

「ただで引き受けてくれることはあるまいて…」

 そう予想していたのだ。もっとも、そう予想よそうしていたのは他ならぬ治済はるさだであった。

 遅効性ちこうせいどくでもって将軍・家治の家族を根絶ねだやしにする…、治済はるさだがそう思いついたのも第一義的には、

「病死に見せかけるため…」

 であり、万が一、毒殺と見破みやぶられた場合でも、

「己は…、一橋ひとつばし家は容疑者圏外けんがいに置くため…」

 であった。さらに欲を言えば、

田沼たぬま意次おきつぐあるいは清水しみず重好しげよし犯行はんこうに見せかけるため…」

 であった。

 ともあれそのためにも遅効性ちこうせいどくが欠かせず、どくと言えばやはり医師いしくのが一番であり、しかし、一橋ひとつばし家につかえる医師いしには絶対にけないことであった。

 御三卿ごさんきょうには幕府より医師いしまで派遣はけんされており、一橋ひとつばし家の場合は北島きたじま玄二げんじ玄川げんせん親子がそうであった。

 だが北島きたじま玄二げんじにしろ玄川げんせんにしろ、それこそ、

いたような…」

 清廉せいれん人士じんしであり、そのような二人に対して、

遅効性ちこうせい毒物どくぶつを知らぬか…」

 などとよこしまなる目的があるのは明らかな質問をぶつけてみたところで、二人が答えてくれるはずもなく、下手へたをすれば、いや、間違いなく派遣はけん元とも言うべきご公儀こうぎ…、幕府に対して赫々かくかく然々しかじかと、治済はるさだから持ちかけられたその、よこしまなる目的をもった質問を受けたことを通報される恐れがあり得た。

 無論、その場合には…、二人が質問に答えなかった時点で口をふさげば良いとの選択肢せんたくしもあったが、治済はるさだとしては二人が質問に答えないであろうことが明らかであるにもかかわらず、えてそのような疑問をぶつけて、結果として予想通り、二人の口をふさがざるを得なくなるという、とんだ無駄足むだあしむよりは、よこしまなる目的をもった質問であるのを承知の上でその質問に答えてくれることが確実な人間にたずねる方が合理的ということで、かねて一橋ひとつばし家の侍女じじょとしてつかえていた岡村おかむら白羽しらはの矢を立てたのであった。

 岡村おかむらが今はご公儀こうぎ…、幕府の表番おもてばん医師いしとしてつとめる遊佐ゆさ卜庵ぼくあん養母ようぼであることは治済はるさだ承知しょうちしていた。

 そしてその遊佐ゆさ卜庵ぼくあんはきっと、

「将軍の御側おそばちかくにつかえる奥医師おくいしになりたいはず…」

 そのことにも治済はるさだは当たりをつけており、そこで治済はるさだ岡村おかむらに対して赫々かくかく然々しかじかと、そのよこしまなる計画を打ち明け、その計画を実現するためにも遅効性ちこうせい毒物どくぶつがどうしても必要なので、

「そなたが手塩てしおにかけてそだてし遊佐ゆさ卜庵ぼくあんいてはもらえまいか…、無論、事情を打ち明けてもらって一向いっこうかまわないゆえ…」

 そうたのんだそうで、その際、治済はるさだは、

「されば遊佐ゆさ卜庵ぼくあんはきっと、奥医師おくいしになりたいとの望みを持っているはずにて、さればこの計画に協力してくれるのであらば、仮に一橋ひとつばし家の天下てんがとなりしあかつきには遊佐ゆさ卜庵ぼくあんおく医師いしに取り立ててつかわそうぞ…、そう遊佐ゆさ卜庵ぼくあんに申しえてもかまわぬゆえ…、おそれ多くも一橋ひとつばしきょう様よりのお言伝ことづてとでもしょうしての…」

 臆面おくめんもなくそう付け加えたそうな。

 そのような事情があったために、岡村おかむら遊佐ゆさ卜庵ぼくあんより、

おく医師いしに取り立ててくれるなら…」

 とその交換こうかん条件を持ち出されても一向いっこうに驚かず、それどころか治済はるさだよりおおせつかった通り、

おそれ多くも一橋ひとつばしきょう様よりお言伝ことづてあずかっておる…」

 そう切り出しては、その治済はるさだからの言伝ことづてすなわち、

一橋ひとつばし家の天下てんがとなりしあかつきには遊佐ゆさ卜庵ぼくあんおく医師いしに取り立ててつかわそうぞ…」

 その言伝ことづてを伝えたそうで、それに対して遊佐ゆさ卜庵ぼくあんもそれで決心がついたそうな。

 とは言え、遊佐ゆさ卜庵ぼくあんにも毒物どくぶつの知識があるわけではない。いや、通り一遍いっぺんの知識なればあるものの、

遅効性ちこうせい毒物どくぶつ…」

 そのような「リクエスト」ともなると、早々そうそう、思いつかず、そこでとりあえず調べてみることにしたわけだ。それが明和5(1768)年の初めのことであった。

 だが調べると言っても、毒物どくぶつ図鑑ずかんがそうあるものでもなかった。

 いや、医学館いがくかんならばあるやも知れぬが、生憎あいにく遊佐ゆさ卜庵ぼくあん医学館いがくかんとは関係なく、そこで医学館いがくかんに通う医師いしを仲間に引き入れることにし、岡村おかむらを通じて治済はるさだにその了承りょうしょうを求めたのであった。

 それに対して治済はるさだ内心ないしんでは乗り気ではなかった。なぜなら声をかけるべき相手を間違えたならば大変なことになるからだ。

 しかしだからと言ってこのままではらちがあかないのも事実であり、そこで仮に遊佐ゆさ卜庵ぼくあん白羽しらはの矢を立てた相手が難色なんしょくを示すようであれば…、遊佐ゆさ卜庵ぼくあんから話を聞くだけ聞いて断ろうものなら、その時にはその相手である医師いしの口をふさぐことを条件に、治済はるさだ遊佐ゆさ卜庵ぼくあんに対してこれを許したのであった。

 そうして遊佐ゆさ卜庵ぼくあん白羽しらはの矢を立てた相手こそが小児科医の小野おの西育さいいく章以あきしげであり、小野おの西育さいいく章以あきしげは小児科医としては大変、腕が良いものの、

金満家きんまんかであるのがたまきず…」

 とのもっぱらの評判を聞きつけ、そこでその評判を聞きつけた遊佐ゆさ卜庵ぼくあんはこの小野おの西育さいいく章以あきしげに声をかけることにしたわけだ。

 金で何とかなる相手…、つまりは金さえ積めば協力してくれるに違いないというわけで、よこしまなる計画に誘うには格好かっこう御仁ごじんと言えた。

 そしてそれが見事みごとに当たった。

 すなわち、小野おの西育さいいく巨額きょがく報酬ほうしゅうと引きえにそのよこしまなる計画に一枚むことを約束したのだ。

 つまりはそのよこしまなる計画に絶対に欠かせない遅効性ちこうせい毒物どくぶつを見つけ出すを約束したのであった。

 そして小野おの西育さいいく見事みごとにその遅効性ちこうせい毒物どくぶつを…、正確せいかくには遅効性ちこうせいどくを持ち合わせているシロタマゴテングタケなる毒キノコを見つけ出したそうな…。

 これは岩田いわたこととみと共に捕縛ほばくされた岡村おかむら供述きょうじゅつによるものであり、また既に捕縛ほばくされ、供述きょうじゅつを始めた治済はるさだのその供述きょうじゅつとも重なり合うことから、岡村おかむら供述きょうじゅつうらが取れた格好かっこうであった。

 そこでこの岡村おかむら供述きょうじゅつもとづき、翌日、表番おもてばん医師いし遊佐ゆさ卜庵ぼくあん小野おの西育さいいく捕縛ほばく、逮捕されたのであった。
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