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承前 夏の人事 ~御三卿家老を巡る人事・清水家老の岡部河内守一徳の降格人事 3~
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こうして清水家老の吉川従弼と同家勘定奉行の長尾幸兵衛による巨額横領事件は3万両もの使途不明金の行方については掴めぬまま、正寔の探索は幕を閉じた。いや、閉じさせられたと言うべきか。
ともあれ残るは長尾幸兵衛とそれに、吉川従弼の相役…、同僚であった岡部一徳の処分であった。
既に一足先に事件の主犯格とも言うべき吉川従弼は家老職を免じられており、それゆえ従犯に過ぎない幸兵衛を従弼よりも重く罰するわけにはゆかず、やはり免職、クビで片がつき、幸兵衛は清水屋形よりそれこそ誇張ではなしに、
「身一つで…」
追い出されたものであった。
問題は岡部一徳であった。
岡部一徳は従弼の相役でありながら、従弼の横領に気づかずにこれを見過ごした。
いや、薄々は気づきながらも従弼より幸兵衛を通じて、少なくない額の「口止め料」を受領していたのだ。
これではこのまま、岡部一徳を家老職に留まらせておくわけにはゆかず、そこで一徳の人事が、それも降格人事が議題となった。
ちなみに岡部一徳の人事については小普請組支配の人事とは違い、昨日、式日の評定所にて話し合われることはなかった。
それと言うのも御三卿家老は激職である町奉行や勘定奉行と較べれば閑職とは申せ、それでも幕府内の序列で言えば、御三卿家老は町奉行や勘定奉行は元よりその上に位置する大目付よりも更に格上であった。
そうであれば、町奉行や勘定奉行も出座する評定所式日にて御三卿家老の人事を話し合うなど、
「僭越の極み…」
というものであった。言うなれば、部下が上司の人事を話し合うといったところであろうか。
それゆえ昨日、式日の評定所では御三卿家老の人事が、それが例え、降格人事であったとしても話し合われることはなく、将軍・家斉の御前にて話し合われることになったのだ。
それでも岡部一徳の「落ち着き先」は話し合うまでもなく目鼻が付いていた。
「されば岡部河内につきましては西之丸の留守居に遷しましては…」
勝手掛若年寄の京極備前守高久が西之丸留守居への異動を提案し、そしてこれこそが皆が思い描いていた「落ち着き先」であり、皆は京極高久のその提案に対して頷いた。
岡部一徳の「落ち着き先」としては旗奉行、西之丸留守居、そして槍奉行が考えられた。
これは皆、完全に閑職と断言出来、それゆえ「落ち着き先」、即ち、「左遷先」としては正に、
「うってつけ…」
そう断言出来たものの、しかしこのうち旗奉行は閑職とは言え、幕府内の序列で言えば町奉行や勘定奉行よりは下位に位置するものの、しかし、作事・普請・小普請の俗に「下三奉行」よりは上位に位置しており、それゆえ如何に閑職とは言え、そのような旗奉行を左遷先とするには躊躇せざるを得ず、何より寛政元(1789)年8月の今、旗奉行は既に3人も存していた。
旗奉行は、いや、旗奉行に限らず、西之丸留守居や槍奉行にしてもそうだが、閑職であるがゆえに厳密な意味での定員はないものの、それでも旗奉行の場合は大抵2人が定員であり、多くても3人であった。これは西之丸に主が、つまりは次期将軍がいる場合は本丸の旗奉行が2人であるのに対して西之丸のそれは1人という構成である。
今は西之丸は当主不在であり、それゆえ旗奉行は槍奉行共々置かれずここ本丸に収斂され、それゆえ今、この本丸における旗奉行は3人が存しており、そこへ新たに岡部一徳を加えるのは憚かられた。
槍奉行も同じ理由から一徳の「落ち着き先」としては憚かられた。
即ち、槍奉行は旗奉行とは違い、下三奉行よりも下位、いや、それどころか遠国奉行よりも下位であり、その点では一徳の「落ち着き先」としては相応しかったが、しかし生憎と旗奉行と同じく定員一杯であった。
槍奉行は西之丸に次期将軍が控えている時分には本丸4人、西之丸1人という構成であり、一方、今のように西之丸に次期将軍がいない場合は槍奉行はここ本丸に収斂され、槍奉行は5人が定員となり、そして今、本丸の槍奉行は正に5人も存しており、そこへ岡部一徳が割り込む余地はなかった。
こうして一徳の落ち着く先は畢竟、西之丸の留守居に収斂される。
西之丸の留守居は旗奉行や槍奉行とは違い、西之丸に次期将軍がいようがいまいが必ず置かれ、その定員は5人というのが不文律であった。
そして今、西之丸の留守居が都合が良いことに4人であり、あと1人、受け入れる余地があった。これはそれまで西之丸の留守居を勤めていた村上甲斐守正清が今年、寛政元(1789)年5月に死去したことで欠員が生じたことによる。
村上正清が卒去以後、今に至るまで西之丸の留守居が補充されることはなく4人のままであった。これは偏に、
「西之丸の留守居が閑職だから…」
それに尽きた。閑職であるがゆえに、態々補充するまでもないというわけで、それゆえ村上正清が卒去以来、3ヶ月も経過した今でも補充されなかったわけだが、それが役に立った格好であった。
そしてこの西之丸留守居は若年寄支配の御役であり、しかし、評定所式日には若年寄は出座することは出来ず、それゆえこれもまた、昨日の式日、評定所にて岡部一徳の降格人事が、それも西之丸の留守居へと左遷させる人事が話し合われなかった理由であった。西之丸の留守居は若年寄支配であるにもかかわらず、その若年寄を差し置いて、一徳を西之丸の留守居へと異動、左遷することを話し合うのはやはり憚かられたからだ。
そこで今、将軍家斉の御前にて、且つ老中に混じって若年寄も列座するこの場において岡部一徳の人事が話し合われることになり、そして、一徳の左遷先として誰もが既に思い描いていた西之丸の留守居を支配する若年寄、それも筆頭である上席に次ぐ、財政を担う勝手掛の京極高久が一徳の左遷先として西之丸留守居を提案したというわけだ。
これには定信ら老中一党、異存はなく、また将軍・家斉の側近である側用人の本多忠籌は元より、御側御用取次の加納久周と小笠原信喜、そして奥詰の津田信久ら一党にも異存はなかった。
それでも最終決裁権者は将軍・家斉であり、しかし家斉は一人では判断出来ず、そこで側近の中でも特に信頼する加納久周と津田信久を交互に見比べ、それに対して久周と信久は同時に家斉の視線に気づくや頷いてみせたので、それで家斉も決心がついたようで、
「京極高久が提案通りに取り計らおうぞ…」
そう決裁したのであった。
それに対してやはりと言うべきか、家斉の側近でありながら、蚊帳の外に置かれたも同然の本多忠籌と小笠原信喜の二人は大いに忌々しく思ったものである。
ともあれ残るは長尾幸兵衛とそれに、吉川従弼の相役…、同僚であった岡部一徳の処分であった。
既に一足先に事件の主犯格とも言うべき吉川従弼は家老職を免じられており、それゆえ従犯に過ぎない幸兵衛を従弼よりも重く罰するわけにはゆかず、やはり免職、クビで片がつき、幸兵衛は清水屋形よりそれこそ誇張ではなしに、
「身一つで…」
追い出されたものであった。
問題は岡部一徳であった。
岡部一徳は従弼の相役でありながら、従弼の横領に気づかずにこれを見過ごした。
いや、薄々は気づきながらも従弼より幸兵衛を通じて、少なくない額の「口止め料」を受領していたのだ。
これではこのまま、岡部一徳を家老職に留まらせておくわけにはゆかず、そこで一徳の人事が、それも降格人事が議題となった。
ちなみに岡部一徳の人事については小普請組支配の人事とは違い、昨日、式日の評定所にて話し合われることはなかった。
それと言うのも御三卿家老は激職である町奉行や勘定奉行と較べれば閑職とは申せ、それでも幕府内の序列で言えば、御三卿家老は町奉行や勘定奉行は元よりその上に位置する大目付よりも更に格上であった。
そうであれば、町奉行や勘定奉行も出座する評定所式日にて御三卿家老の人事を話し合うなど、
「僭越の極み…」
というものであった。言うなれば、部下が上司の人事を話し合うといったところであろうか。
それゆえ昨日、式日の評定所では御三卿家老の人事が、それが例え、降格人事であったとしても話し合われることはなく、将軍・家斉の御前にて話し合われることになったのだ。
それでも岡部一徳の「落ち着き先」は話し合うまでもなく目鼻が付いていた。
「されば岡部河内につきましては西之丸の留守居に遷しましては…」
勝手掛若年寄の京極備前守高久が西之丸留守居への異動を提案し、そしてこれこそが皆が思い描いていた「落ち着き先」であり、皆は京極高久のその提案に対して頷いた。
岡部一徳の「落ち着き先」としては旗奉行、西之丸留守居、そして槍奉行が考えられた。
これは皆、完全に閑職と断言出来、それゆえ「落ち着き先」、即ち、「左遷先」としては正に、
「うってつけ…」
そう断言出来たものの、しかしこのうち旗奉行は閑職とは言え、幕府内の序列で言えば町奉行や勘定奉行よりは下位に位置するものの、しかし、作事・普請・小普請の俗に「下三奉行」よりは上位に位置しており、それゆえ如何に閑職とは言え、そのような旗奉行を左遷先とするには躊躇せざるを得ず、何より寛政元(1789)年8月の今、旗奉行は既に3人も存していた。
旗奉行は、いや、旗奉行に限らず、西之丸留守居や槍奉行にしてもそうだが、閑職であるがゆえに厳密な意味での定員はないものの、それでも旗奉行の場合は大抵2人が定員であり、多くても3人であった。これは西之丸に主が、つまりは次期将軍がいる場合は本丸の旗奉行が2人であるのに対して西之丸のそれは1人という構成である。
今は西之丸は当主不在であり、それゆえ旗奉行は槍奉行共々置かれずここ本丸に収斂され、それゆえ今、この本丸における旗奉行は3人が存しており、そこへ新たに岡部一徳を加えるのは憚かられた。
槍奉行も同じ理由から一徳の「落ち着き先」としては憚かられた。
即ち、槍奉行は旗奉行とは違い、下三奉行よりも下位、いや、それどころか遠国奉行よりも下位であり、その点では一徳の「落ち着き先」としては相応しかったが、しかし生憎と旗奉行と同じく定員一杯であった。
槍奉行は西之丸に次期将軍が控えている時分には本丸4人、西之丸1人という構成であり、一方、今のように西之丸に次期将軍がいない場合は槍奉行はここ本丸に収斂され、槍奉行は5人が定員となり、そして今、本丸の槍奉行は正に5人も存しており、そこへ岡部一徳が割り込む余地はなかった。
こうして一徳の落ち着く先は畢竟、西之丸の留守居に収斂される。
西之丸の留守居は旗奉行や槍奉行とは違い、西之丸に次期将軍がいようがいまいが必ず置かれ、その定員は5人というのが不文律であった。
そして今、西之丸の留守居が都合が良いことに4人であり、あと1人、受け入れる余地があった。これはそれまで西之丸の留守居を勤めていた村上甲斐守正清が今年、寛政元(1789)年5月に死去したことで欠員が生じたことによる。
村上正清が卒去以後、今に至るまで西之丸の留守居が補充されることはなく4人のままであった。これは偏に、
「西之丸の留守居が閑職だから…」
それに尽きた。閑職であるがゆえに、態々補充するまでもないというわけで、それゆえ村上正清が卒去以来、3ヶ月も経過した今でも補充されなかったわけだが、それが役に立った格好であった。
そしてこの西之丸留守居は若年寄支配の御役であり、しかし、評定所式日には若年寄は出座することは出来ず、それゆえこれもまた、昨日の式日、評定所にて岡部一徳の降格人事が、それも西之丸の留守居へと左遷させる人事が話し合われなかった理由であった。西之丸の留守居は若年寄支配であるにもかかわらず、その若年寄を差し置いて、一徳を西之丸の留守居へと異動、左遷することを話し合うのはやはり憚かられたからだ。
そこで今、将軍家斉の御前にて、且つ老中に混じって若年寄も列座するこの場において岡部一徳の人事が話し合われることになり、そして、一徳の左遷先として誰もが既に思い描いていた西之丸の留守居を支配する若年寄、それも筆頭である上席に次ぐ、財政を担う勝手掛の京極高久が一徳の左遷先として西之丸留守居を提案したというわけだ。
これには定信ら老中一党、異存はなく、また将軍・家斉の側近である側用人の本多忠籌は元より、御側御用取次の加納久周と小笠原信喜、そして奥詰の津田信久ら一党にも異存はなかった。
それでも最終決裁権者は将軍・家斉であり、しかし家斉は一人では判断出来ず、そこで側近の中でも特に信頼する加納久周と津田信久を交互に見比べ、それに対して久周と信久は同時に家斉の視線に気づくや頷いてみせたので、それで家斉も決心がついたようで、
「京極高久が提案通りに取り計らおうぞ…」
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