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承前 夏の人事 ~御三卿家老を巡る人事・岡部一徳の後任の清水家老として側用人の本多忠籌は北町奉行の初鹿野河内守信興を推挙す 6~
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さて、月日は流れ、それから1年後の天明8(1788)年9月に入ると、浦賀奉行であった初鹿野信興は江戸町奉行、それも北の町奉行として「凱旋帰国」を果たしたのであった。
その時もまだ、曲淵勝次郎は目付の職にあり、ここで初鹿野信興と曲淵勝次郎の立場は完全に逆転した。
いや、初鹿野信興が曲淵勝次郎よりも先に遠国奉行である浦賀奉行へと栄転を果たした時点で二人の立場は逆転した。
だがそれでも初鹿野信興は浦賀奉行として現地に赴任したので、江戸城から姿を消し、それゆえ曲淵勝次郎はそれ程、「立場の逆転」を意識せずに済んだ。
しかしその初鹿野信興は今度は江戸町奉行として「凱旋帰国」を果たしたので、そうなると当然、「本社」である江戸城に登城することになり、
「嫌でも…」
曲淵勝次郎の視界に入るというものである。
いや、曲淵勝次郎としては初鹿野信興の出世など元より眼中になく、完全無視、関わりたくもなかったのだが、しかし、初鹿野信興の方がそれを許さなかったのだ。
即ち、初鹿野信興は目付時代には何かと「先輩風」を吹かすことの多かった曲淵勝次郎に対して、
「今は町奉行たる俺の方が未だ目付に過ぎぬお前より立場が上なのだぞ…」
そのような「立場の違い」というものを分からせてやろうと、勝次郎を苛め倒したのであった。
その一例として欠座が挙げられよう。
目付には評定番という仕事があった。これは評定所での審理に監察官として出廷することであり、当番制であった。
評定所では毎月、老中が出座する2日、11日、21日の式日には大目付と目付が、寺社・江戸町・公事方勘定の三奉行のみで審理を行う4日、13日、25日の立合には目付がそれぞれ、審理の内容をチェックする監察官として出廷し、目付においてはこれを「評定番」という。
そのうち目付にとって大事なのは立合における出廷、評定番であった。
老中も出座する式日においては目付と共に大目付も監察官として出廷するのに対して、三奉行のみで審理が行われる立合においては目付のみが監察官として出廷することになるので、いきおい、その責任は重大であった。
殊に、評定番の目付のその三奉行のみで審理が行われる立合における出廷には、審理が適正に行われているかどうかのチェックという目的と同時に、その審理の内容を老中へと報告するという目的があった。
無論、三奉行からも老中へと、立合における審理の内容が伝えられるのだが、それが果たして真正なものか否か、老中はそれを確かめるべく、目付からも報告をさせるのだ。両者の報告に食い違いがあれば、何れかの報告が偽りということになる。
その点、式日は老中も審理に加わるので、態々目付が老中に報告するまでもなかった。
いや、老中が出座するのは式日のうちでも11日か21日の何れか一日だけで、あとの二日は出廷しないのが通例であり、そうであれば式日でも老中が出廷しない二日に限ってはやはり、老中への報告が必要となるが、それでも目付と共に大目付も監察官として出廷するので、目付にしてみれば立合における評定番よりはその式日における評定番の方が責任が軽いと言えた。
そして初鹿野信興はこの、式日や立合における評定所での審理を利用して曲淵勝次郎をそれも、
「事ある毎…」
苛め倒したのであった。
即ち、曲淵勝次郎もまた目付の一人である以上、評定番を勤めることがあるのだが、その際、初鹿野信興は決まって、勝次郎に欠座を命じるのであった。欠座とは読んで字の如く、
「席を外せ」
つまりは出て行けということであった。
例えば、三奉行のみで審理が行われる立合においては、
「三奉行のみの評議があるゆえに…」
初鹿野信興はそれを「決まり文句」として、曲淵勝次郎に対して欠座を命じるのであった。
無論、曲淵勝次郎とてそれで、「畏まりました」と素直に座を外すことはなく、当然、拒絶した。三奉行のみで評議をやられては老中への報告が出来なくなるからだ。
すると初鹿野信興は冷笑を浮かべたかと思うと、
「未だ部屋住のひよっこにまともな報告が出来るとも思えぬがの…」
そう曲淵勝次郎を冷罵するのを常とした。
いや、初鹿野信興とて本気で曲淵勝次郎に欠座を求めたわけではなく、ただ勝次郎をそのように冷罵、嘲笑したくて欠座を求めたに違いなく、それが証に信興が勝次郎に欠座を求めてそのように冷罵、嘲笑し終えると、
「まぁまぁ…」
南町奉行にして義兄の山村良旺が苦笑まじりに割って入り、それで信興も義兄の言葉に素直に従い、引いてみせるのが常であり、勝次郎にしてみれば、いや、勝次郎のみならず、その場に居合わせた寺社奉行や公事方勘定奉行ら一党は下手な三文芝居を見せられるような感覚に襲われたものである。
そして大目付も監察官として出廷する式日ともなると、信興の「苛め」は更に執拗であった。
即ち、
「大目付殿も監察官として陪席しておられるゆえ、部屋住のひよっこのそなたが態々出る幕もなかろう…」
信興はその理論でもって、勝次郎に欠座を求めるのであった。
成程、大目付も監察官として出廷していれば、目付の出番はないであろう。
仮に式日であっても老中が出座しない2日と11日、或いは2日と21日の何れかにおいてはやはり三奉行による評議の内容を老中へと報告する必要があるが、その場合にも式日であるので、目付に加えて大目付も監察官として出廷することになり、それゆえ三奉行による評議において目付が欠座、座を外しても大目付が残っていれば、大目付が三奉行による評議の内容を把握することが出来るので、老中への報告には支障はない。
それゆえ老中が出座しない式日ともなると、初鹿野信興の「苛め」、つまりは勝次郎に対する欠座の要求たるや、立合におけるそれよりも執拗となる。
その時もまだ、曲淵勝次郎は目付の職にあり、ここで初鹿野信興と曲淵勝次郎の立場は完全に逆転した。
いや、初鹿野信興が曲淵勝次郎よりも先に遠国奉行である浦賀奉行へと栄転を果たした時点で二人の立場は逆転した。
だがそれでも初鹿野信興は浦賀奉行として現地に赴任したので、江戸城から姿を消し、それゆえ曲淵勝次郎はそれ程、「立場の逆転」を意識せずに済んだ。
しかしその初鹿野信興は今度は江戸町奉行として「凱旋帰国」を果たしたので、そうなると当然、「本社」である江戸城に登城することになり、
「嫌でも…」
曲淵勝次郎の視界に入るというものである。
いや、曲淵勝次郎としては初鹿野信興の出世など元より眼中になく、完全無視、関わりたくもなかったのだが、しかし、初鹿野信興の方がそれを許さなかったのだ。
即ち、初鹿野信興は目付時代には何かと「先輩風」を吹かすことの多かった曲淵勝次郎に対して、
「今は町奉行たる俺の方が未だ目付に過ぎぬお前より立場が上なのだぞ…」
そのような「立場の違い」というものを分からせてやろうと、勝次郎を苛め倒したのであった。
その一例として欠座が挙げられよう。
目付には評定番という仕事があった。これは評定所での審理に監察官として出廷することであり、当番制であった。
評定所では毎月、老中が出座する2日、11日、21日の式日には大目付と目付が、寺社・江戸町・公事方勘定の三奉行のみで審理を行う4日、13日、25日の立合には目付がそれぞれ、審理の内容をチェックする監察官として出廷し、目付においてはこれを「評定番」という。
そのうち目付にとって大事なのは立合における出廷、評定番であった。
老中も出座する式日においては目付と共に大目付も監察官として出廷するのに対して、三奉行のみで審理が行われる立合においては目付のみが監察官として出廷することになるので、いきおい、その責任は重大であった。
殊に、評定番の目付のその三奉行のみで審理が行われる立合における出廷には、審理が適正に行われているかどうかのチェックという目的と同時に、その審理の内容を老中へと報告するという目的があった。
無論、三奉行からも老中へと、立合における審理の内容が伝えられるのだが、それが果たして真正なものか否か、老中はそれを確かめるべく、目付からも報告をさせるのだ。両者の報告に食い違いがあれば、何れかの報告が偽りということになる。
その点、式日は老中も審理に加わるので、態々目付が老中に報告するまでもなかった。
いや、老中が出座するのは式日のうちでも11日か21日の何れか一日だけで、あとの二日は出廷しないのが通例であり、そうであれば式日でも老中が出廷しない二日に限ってはやはり、老中への報告が必要となるが、それでも目付と共に大目付も監察官として出廷するので、目付にしてみれば立合における評定番よりはその式日における評定番の方が責任が軽いと言えた。
そして初鹿野信興はこの、式日や立合における評定所での審理を利用して曲淵勝次郎をそれも、
「事ある毎…」
苛め倒したのであった。
即ち、曲淵勝次郎もまた目付の一人である以上、評定番を勤めることがあるのだが、その際、初鹿野信興は決まって、勝次郎に欠座を命じるのであった。欠座とは読んで字の如く、
「席を外せ」
つまりは出て行けということであった。
例えば、三奉行のみで審理が行われる立合においては、
「三奉行のみの評議があるゆえに…」
初鹿野信興はそれを「決まり文句」として、曲淵勝次郎に対して欠座を命じるのであった。
無論、曲淵勝次郎とてそれで、「畏まりました」と素直に座を外すことはなく、当然、拒絶した。三奉行のみで評議をやられては老中への報告が出来なくなるからだ。
すると初鹿野信興は冷笑を浮かべたかと思うと、
「未だ部屋住のひよっこにまともな報告が出来るとも思えぬがの…」
そう曲淵勝次郎を冷罵するのを常とした。
いや、初鹿野信興とて本気で曲淵勝次郎に欠座を求めたわけではなく、ただ勝次郎をそのように冷罵、嘲笑したくて欠座を求めたに違いなく、それが証に信興が勝次郎に欠座を求めてそのように冷罵、嘲笑し終えると、
「まぁまぁ…」
南町奉行にして義兄の山村良旺が苦笑まじりに割って入り、それで信興も義兄の言葉に素直に従い、引いてみせるのが常であり、勝次郎にしてみれば、いや、勝次郎のみならず、その場に居合わせた寺社奉行や公事方勘定奉行ら一党は下手な三文芝居を見せられるような感覚に襲われたものである。
そして大目付も監察官として出廷する式日ともなると、信興の「苛め」は更に執拗であった。
即ち、
「大目付殿も監察官として陪席しておられるゆえ、部屋住のひよっこのそなたが態々出る幕もなかろう…」
信興はその理論でもって、勝次郎に欠座を求めるのであった。
成程、大目付も監察官として出廷していれば、目付の出番はないであろう。
仮に式日であっても老中が出座しない2日と11日、或いは2日と21日の何れかにおいてはやはり三奉行による評議の内容を老中へと報告する必要があるが、その場合にも式日であるので、目付に加えて大目付も監察官として出廷することになり、それゆえ三奉行による評議において目付が欠座、座を外しても大目付が残っていれば、大目付が三奉行による評議の内容を把握することが出来るので、老中への報告には支障はない。
それゆえ老中が出座しない式日ともなると、初鹿野信興の「苛め」、つまりは勝次郎に対する欠座の要求たるや、立合におけるそれよりも執拗となる。
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