元気出せ、金太郎

ご隠居

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承前 夏の人事 ~御三卿家老を巡る人事・岡部一徳の後任の清水家老として側用人の本多忠籌は北町奉行の初鹿野河内守信興を推挙す 5~

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 かくして初鹿野はじかの信興のぶおき曲淵まがりぶち勝次郎かつじろうたち…、安藤あんどう郷右衛門ごうえもん末吉すえよし善左衛門ぜんざえもん牧野まきの織部おりべらと一触いっしょく即発そくはつ状態じょうたいとなった。

 本来ほんらいならば目付めつけ筆頭ひっとうである山川やまかわ貞幹さだもとか、あるいは柳生やぎゅう主膳正しゅぜんのかみ久通ひさみちか、しくは伊藤いとう伊勢守いせのかみ忠移ただのぶ野一色のいっしき頼母たのも義恭よしやす仲裁ちゅうさいすべきであった。

 だが誰一人だれひとりとしてその役目やくめたそうとはしなかった。

 筆頭ひっとうである山川やまかわ貞幹さだもと最早もはや、お手上てあげとわんばかりにこの事態じたい座視ざしした。

 また、山川やまかわ貞幹さだもと安藤あんどう郷右衛門ごうえもんいで古株ふるかぶ柳生やぎゅう久通ひさみちはと言うと、こまかい性格せいかくであり、それゆえ荒事あらごと苦手にがてであり、この仲裁ちゅうさいなどのぞむべくもなかった。

 それは伊藤いとう忠移ただのぶ野一色のいっしき頼母たのもにしてもおなじであった。いや、初鹿野はじかの信興のぶおきよりも年下としした野一色のいっしき頼母たのもいたかたないとしても、伊藤いとう忠移ただのぶ初鹿野はじかの信興のぶおきとはおなどし所謂いわゆる

「タメ」

 であり、しかも家督かとくすでいでいる、目付めつけとしては「先輩せんぱい」であるので、そうであれば「後輩こうはい」の初鹿野はじかの信興のぶおき遠慮えんりょ無用むようはずであったが、しかし伊藤いとう忠移ただのぶもまた、柳生やぎゅう久通ひさみち野一色のいっしき頼母たのも同様どうよう

せんほそい…」

 気質タイプであり、それゆえ初鹿野はじかの信興のぶおきのような押出おしだしのつよい、所謂いわゆる

いのしし武者むしゃ…」

 それを苦手にがてとし、それゆえ柳生やぎゅう久通ひさみち野一色のいっしき頼母たのもらと同様どうようぬフリをんだ。

 あとは曲淵まがりぶち勝次郎かつじろううえの「先輩せんぱい」にたる池田いけだ修理しゅり長惠ながしげと、曲淵まがりぶち勝次郎かつじろうとは「同期どうきさくら」、それも同日どうじつ目付めつけにんじられた神保じんぼう喜内きない長光ながみつのこすのみであった。

 このうち、池田いけだ修理しゅりが「仲裁ちゅうさいやく」をってたのであった。

「もう、おまえ仲良なかようしようや…」

 池田いけだ修理しゅりはそのふと両腕りょううで曲淵まがりぶち勝次郎かつじろう初鹿野はじかの信興のぶおき両者りょうしゃかたまわしたかとおもうと、そのたがいのかお近付ちかづけさせたのであった。

 これにはさしもの初鹿野はじかの信興のぶおき毒気どくけかれた様子ようすせ、曲淵まがりぶち勝次郎かつじろうにしても同様どうようであった。

 やがて初鹿野はじかの信興のぶおき曲淵まがりぶち勝次郎かつじろう馬鹿馬鹿ばかばかしくなったのか、たがいにバツのわる表情ひょうじょうかべたかとおもうと視線しせんらした。

 そしてそれは曲淵まがりぶち勝次郎かつじろうおなじく、初鹿野はじかの信興のぶおきと「一触いっしょく即発そくはつ」をえんじようとしていた安藤あんどう郷右衛門ごうえもんらにしても同様どうようで、郷右衛門ごうえもんらもまた馬鹿馬鹿ばかばかしくなったようで表情ひょうじょうやわらげた。

 こうして池田いけだ修理しゅり御蔭おかげで「一触いっしょく即発そくはつ」の事態じたい回避かいひされ、山川やまかわ貞幹さだもとらは心底しんそこホッとしたものである。

 池田いけだ修理しゅりもとりあえず「一触いっしょく即発そくはつ」の事態じたい回避かいひされたとさとるや、曲淵まがりぶち勝次郎かつじろう初鹿野はじかの信興のぶおきを「解放かいほう」したのであった。

 だがそれはあくまで「とりあえず」にぎず、こののち池田いけだ修理しゅり仲裁ちゅうさいにもかかわらず、初鹿野はじかの信興のぶおき曲淵まがりぶち勝次郎かつじろうらとの対立たいりつ、とりわけ曲淵まがりぶち勝次郎かつじろうとの対立たいりつひろげられ、ついに2年後の天明7(1787)年8月に初鹿野はじかの信興のぶおき遠国おんごく奉行ぶぎょうである浦賀うらが奉行ぶぎょうへと転出てんしゅつ栄転えいてんたすことで決着けっちゃくた。

 本来ほんらいならば、初鹿野はじかの信興のぶおきよりもさき目付めつけ着任ちゃくにんした曲淵まがりぶち勝次郎かつじろう遠国おんごく奉行ぶぎょう転出てんしゅつ栄転えいてんたすべきであったが、しかしやはりいま家督かとくいではいないことが「ネック」であった。家督かとく相続そうぞくまえ段階だんかいでの遠国おんごく奉行ぶぎょうへの転出てんしゅつ栄転えいてん前例ぜんれいがなかった。

 だが作事さくじ普請ふしん小普請こぶしん所謂いわゆる、「下三したさん奉行ぶぎょう」への転出てんしゅつ栄転えいてんならば問題もんだいはないはずであった。下三したさん奉行ぶぎょうなれば家督かとく相続そうぞくまえもの着任ちゃくにんした前例ぜんれいがあり、初鹿野はじかの信興のぶおき浦賀うらが奉行ぶぎょうへと転出てんしゅつ栄転えいてんたすより半年はんとし程前ほどまえの2月には安藤あんどう郷右衛門ごうえもん下三したさん奉行ぶぎょうなかでも筆頭ひっとうである作事さくじ奉行ぶぎょうへと転出てんしゅつ栄転えいてんたしていたからだ。

 だがこれもそのとしが「ネック」となった。すなわち、天明7(1787)年の時点じてんでも曲淵まがりぶち勝次郎かつじろうはまだ、30歳にぎなかった。如何いか下三したさん奉行ぶぎょうなれば家督かとく相続そうぞくまえものでも就任しゅうにん可能かのうとは言え、30歳では若過わかすぎた。これで曲淵まがりぶち勝次郎かつじろう家督かとくいでいればはなしべつだったやもれぬが、家督かとく相続そうぞくまえの30歳では、遠国おんごく奉行ぶぎょうよりも格上かくうえ下三したさん奉行ぶぎょうへと栄転えいてんたさせるのは無理むりがあった。

 そこで曲淵まがりぶち勝次郎かつじろうよりも14も年上としうえの、無論むろんすで家督かとくいでいる初鹿野はじかの信興のぶおき浦賀うらが奉行ぶぎょうへと栄転えいてんたさせることでこの問題もんだい決着けっちゃくをつけたのであった。

 曲淵まがりぶち勝次郎かつじろう初鹿野はじかの信興のぶおきとの対立たいりつ幕閣ばっかく放置ほうち出来できほどあまるものがあったからだ。

 このかん池田いけだ修理しゅり勿論もちろん両者りょうしゃ仲裁ちゅうさいつとめ、その御蔭おかげなんとか刃傷にんじょう沙汰ざた回避かいひされたものの、そこまでが限界げんかい精一杯せいいっぱいであった。とても仲良なかよくさせるまでにはいたらなかった。

 そこで幕閣ばっかく初鹿野はじかの信興のぶおき目付めつけから異動いどうさせることにしたわけだ。

 曲淵まがりぶち勝次郎かつじろうとしては「後輩こうはい」に、

さきされた…」

 格好かっこうではあったが、家督かとく相続そうぞくまえであり、しかも初鹿野はじかの信興のぶおきより一回ひとまわ以上いじょう年下とししたとあらば、出世しゅっせにおいては曲淵まがりぶち勝次郎かつじろうもとより初鹿野はじかの信興のぶおきにはかなわず、勝次郎かつじろうもそのてん十分じゅうぶん心得こころえており、それゆえ初鹿野はじかの信興のぶおきさきされてもなん感慨かんがいかなかった。いや、それどころか目付めつけから初鹿野はじかの信興のぶおきえてくれたことでよろこびががったほどである。

 ちなみに初鹿野はじかの信興のぶおき目付めつけしょくからはなれて2ヶ月後の10月には今度こんど池田いけだ修理しゅり遠国おんごく奉行ぶぎょうへと、それも長崎ながさき奉行ぶぎょういでかくたか京都きょうと町奉行まちぶぎょうへと転出てんしゅつ栄転えいてんたした。

 そのさい曲淵まがりぶち勝次郎かつじろうとは初鹿野はじかの信興のぶおき離任りにんしたときとは正反対せいはんたいに、池田いけだ修理しゅり離任りにん心底しんそこ残念ざんねんがったものである。

 曲淵まがりぶち勝次郎かつじろう池田いけだ修理しゅりじつあにのようにしたい、それに対して池田いけだ修理しゅり曲淵まがりぶち勝次郎かつじろうじつおとうとのように可愛かわいがったものである。
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