元気出せ、金太郎

ご隠居

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承前 夏の人事 ~御三卿家老を巡る人事・岡部一徳の後任の清水家老として側用人の本多忠籌は北町奉行の初鹿野河内守信興を推挙す 4~

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 こうして事件じけん高力こうりき修理しゅりよりじか聴取ちょうしゅした井上いのうえ図書ずしょらの報告ほうこくつうじて、すべての使番つかいばんるところとなり、使番つかいばん一党いっとうおおいに憤激ふんげきした。

 そこで使番つかいばんなかでも一番いちばん古株ふるかぶとして筆頭ひっとう位置いちにいる向坂さきさか藤十郎とうじゅうろう政興まさおき直属ちょくぞく上司じょうしたる若年寄わかどしよりにして勝手かってがかりねる京極きょうごく高久たかひさに対してこのことを報告ほうこくし、一方、目付めつけ永井ながい伊織いおり直廉なおかどに対して火事場かじば見廻みまわりねる土岐とき主税ちから頼香よりかから報告ほうこくがなされた。

 こと町方まちかた…、きた町奉行所まちぶぎょうしょによる犯罪はんざい、つまりは御家人ごけにんによる犯罪はんざいであり、そうであれば旗本はたもと御家人ごけにん監察かんさつする目付めつけ出番でばんである。

 目付めつけ本丸ほんまる西之丸にしのまるかれており、無論むろん、「花形はながた」は将軍の居城きょじょうである本丸ほんまるにてつかえる目付めつけであり、本丸ほんまる目付めつけである彼等かれらは10人おり、それゆえぞくに、

十人じゅうにん目付めつけ

 ともしょうされる。

 その「十人じゅうにん目付めつけ」のなかでも一番いちばん若手わかてである永井ながい伊織いおりはその前職ぜんしょく使番つかいばんであったのだ。

 すなわち、永井ながい伊織いおり去年きょねん、天明8(1788)年6月までは使番つかいばんつとめていたのだ。

 その永井ながい伊織いおり一番いちばんしたしかったのが「同期どうきさくら」である土岐とき主税ちからであったのだ。

 永井ながい伊織いおり土岐とき主税ちからともに天明6(1786)年の正月しょうがつ11日に使番つかいばんにんじられた「同期どうきさくら」であった。

 いや、「同期どうきさくら」はほかにも大久保おおくぼ忠兵衛ちゅうべえ忠章ただあき丹羽にわ五左衛門ござえもん長裕ながとみがおり、彼等かれら4人は、

はなの天明6年正月しょうがつぐみ

 ともしょうされるほど使番つかいばんなかでもとりわけ出色しゅっしょく存在そんざいであった。

 その4人のなかでもこと永井ながい伊織いおり土岐とき主税ちからしたしく、その「友情ゆうじょう」は永井ながい伊織いおりが、

一足先ひとあしさきに…」

 旗本はたもとにとっての出世しゅっせ登竜門とうりゅうもんとも言うべき目付めつけへと昇進しょうしんたしたその当時とうじつづいていた。

 いや、旗本はたもと御家人ごけにん監察かんさつをその職掌しょくしょうとする以上いじょう表立おもてだっての交流こうりゅうこそなかったものの、それでもひそかに交流こうりゅうがあった。

 それゆえ土岐とき主税ちからはその「友情ゆうじょう」を伝手つてに、永井ながい伊織いおりたより、伊織いおりに対して大事だいじ使番つかいばん仲間なかまである高力こうりき修理しゅりけた理不尽りふじんなる仕打しうちについてけたうえで、

公明正大こうめいせいだいなる監察かんさつを…」

 それをねがったのだ。

 一方いっぽう永井ながい伊織いおりはと言うと、勿論もちろん土岐とき主税ちからのそのねがいをとどけた。いや、かり土岐とき主税ちからとのあいだに「友情ゆうじょう」がそんしていなかったとしてもとどけたであろう。かりにも江戸えど治安ちあんあずかるべき町方まちかた与力よりき同心どうしんらが理不尽りふじんにも使番つかいばんとその足軽あしがるに対して乱暴らんぼう狼藉ろうぜきはたらいたとなると、とてもほうってはおけぬ。

 だが、だからと言って、永井ながい伊織いおり目付めつけになってからまだ1年とってはおらず、一人ひとり監察かんさつたるには重過おもすぎる事案じあんであった。

 そこで永井ながい伊織いおりは「先輩せんぱい」の菅沼すがぬま新三郎しんざぶろう定喜さだよしたよることにした。

 目付めつけなかでも一番いちばん若手わかてである永井ながい伊織いおりには9人もの「先輩せんぱい」がそんしていたわけだが、そのなかでも菅沼すがぬま新三郎しんざぶろうを「すけ」にえらんだのは菅沼すがぬま新三郎しんざぶろうが、

親切者しんせつもの

 としてられていたということもあるが、それ以上いじょう永井ながい伊織いおり縁者えんじゃたるゆえ、であった。

 すなわち、永井ながい伊織いおりちち筑前守ちくぜんのかみ直令なおよし実兄じっけい伊織いおりにとっては伯父おじたる永井ながい采女うねめ直丘なおたけ次男じなん伊織いおりちち直令なおよしにとってはおい伊織いおりにとっては従兄いとこにそれぞれたる十兵衛じゅうべえ定堅さだかた菅沼すがぬま下野守しもつけのかみ定秀さだひで養嗣子ようししとしてむかえられ、その菅沼すがぬま十兵衛じゅうべえがもうけた嫡子ちゃくしこそ、目付めつけ菅沼すがぬま新三郎しんざぶろう定喜さだよしであり、それゆえ永井ながい伊織いおりにとっては菅沼すがぬま新三郎しんざぶろう従甥じゅうせいたる。

 とし永井ながい伊織いおりほう菅沼すがぬま新三郎しんざぶろうよりも11もうえであったが、目付めつけいたのは菅沼すがぬま新三郎しんざぶろうほうが1年はやかった。

 こうして永井ながい伊織いおり目付めつけなかでも唯一ゆいいつ縁者えんじゃにして「親切者しんせつもの」である菅沼すがぬま新三郎しんざぶろうに対して事情じじょうけたうえ監察かんさつへの協力きょうりょくもとめたのであった。

 それに対して菅沼すがぬま新三郎しんざぶろうもやはりと言うべきか、

ことこと…」

 それゆえに即答そくとう出来できかね、そのわりに直属ちょくぞく上司じょうしである若年寄わかどしより判断はんだんあおぐことにした。

 かりに、きた与力よりき同心どうしんらを徹底的てっていてき監察かんさつ糾問きゅうもんするとして、そのさいには町方まちかたと、それもきたのみならずみなみとも「全面ぜんめん戦争せんそう」が予期よきされ、そこでまずは直属ちょくぞく上司じょうしたる若年寄わかどしより判断はんだんあおぐことにし、勝手かってがかりねる京極きょうごく高久たかひさ判断はんだんあおぐことにしたのだ。

 若年寄わかどしよりもまた、目付めつけおなじく複数ふくすうおり、そのなかでも京極きょうごく高久たかひさをその判断はんだんあお相手あいてとしてえらんだのはひとえに、

京極きょうごく高久たかひさ一番いちばんしんける…」

 それにきた。

 こうして菅沼すがぬま新三郎しんざぶろう永井ながい伊織いおり二人ふたり若年寄わかどしより京極きょうごく高久たかひさに対して、使番つかいばん高力こうりき修理しゅりの「遭難そうなん」のけん報告ほうこくし、その判断はんだんあおいだ。

 すると、それに対して京極きょうごく高久たかひさようやくに合点がてんがいった。

 それと言うのも高久たかひさ高力こうりき修理しゅりに対して、長谷川はせがわ平蔵へいぞうてたその「手柄てがら」について、平蔵へいぞう当人とうにんより録取ろくしゅするようめいじ、その上で修理しゅりに対してその録取ろくしゅ内容ないようめさせるべく注進状ちゅうしんじょう発行はっこうし、修理しゅりに対してその注進状ちゅうしんじょう手交しゅこうしたにもかかわらず、実際じっさいには若年寄わかどしより筆頭ひっとうである上席じょうせき安藤あんどう信成のぶなりから平蔵へいぞう手柄てがらしたためられた、しかし高久たかひさ修理しゅり手交しゅこうした注進状ちゅうしんじょうとは、

てもつかぬ…」

 ただの書付かきつけ手渡てわたされたものだから、

「これは一体いったい如何いかなる仕儀しぎにて…」

 高久たかひさ当然とうぜん、そうさわいだものの、しかしそれに対する安藤あんどう信成のぶなり返答へんとうたるや、まったくもって要領ようりょうないものであった。いや、はぐらかそうとする意図いとれた。

 高久たかひさ無論むろん信成のぶなり追及ついきゅうしたものの、しかしそれに対して信成のぶなりは、

げん左右さゆうにして…」

 のらりくらりとかわすばかりであり、こうなってはさしもの高久たかひさもお手上てあげであり、つい高久たかひさ信成のぶなり追及ついきゅうあきらめたのであった。

 だが菅沼すがぬま新三郎しんざぶろう永井ながい伊織いおり二人ふたりはなしいて、高久たかひさようやくに合点がてんがいくと同時どうじに、徹底的てっていてき監察かんさつ糾問きゅうもんめいじたのであった。

 こうして勝手かってがかり若年寄わかどしより京極きょうごく高久たかひさから「御墨付おすみつき」をられた菅沼すがぬま新三郎しんざぶろう永井ながい伊織いおりほか目付めつけにも協力きょうりょくもとめてきた町奉行所まちぶぎょうしょ与力よりき同心どうしんらの監察かんさつたることにした。

 とりわけ目付めつけなかでも一番いちばん古株ふるかぶである曲淵まがりぶち勝次郎かつじろう景露かげみち熱心ねっしんであった。

 それと言うのも目付めつけ曲淵まがりぶち勝次郎かつじろうきた町奉行まちぶぎょう初鹿野はじかの信興のぶおき犬猿けんえんなかであったからだ。

 初鹿野はじかの信興のぶおきは天明5(1785)年9月まで使番つかいばんつとめたのち目付めつけ異動いどう昇進しょうしんたしたのだが、そのときにはもう、曲淵まがりぶち勝次郎かつじろう目付めつけとしてひかえていた。

 曲淵まがりぶち勝次郎かつじろう初鹿野はじかの信興のぶおき異動いどう昇進しょうしんたす1年前の天明4(1784)年4月に小十人こじゅうにんがしらより異動いどう昇進しょうしんたしており、それゆえ曲淵まがりぶち勝次郎かつじろう初鹿野はじかの信興のぶおきの「一年いちねん先輩せんぱい」にたる。

 ただし、とし初鹿野はじかの信興のぶおきほう曲淵まがりぶち勝次郎かつじろうよりもうえであり、そのは14と一回ひとまわり以上いじょう年上としうえであった。

 それゆえ初鹿野はじかの信興のぶおき曲淵まがりぶち勝次郎かつじろうをまるで子供こどものようにあつかったものである。実際じっさい曲淵まがりぶち勝次郎かつじろうはその当時とうじは、そしていまもって、部屋住へやずみであった。

 すなわち、曲淵まがりぶち甲斐守かいのかみ景漸かげつぐ嫡子ちゃくしであり、初鹿野はじかの信興のぶおき勿論もちろん、それを把握はあくしていたので、それゆえ初鹿野はじかの信興のぶおき曲淵まがりぶち勝次郎かつじろうの「一年いちねん後輩こうはい」であるにもかかわらず、

いまだ、曲淵まがりぶち景漸かげつぐ嫡子ちゃくしぎぬ…」

 そのてんとらえて、勝次郎かつじろうを「子供こどもあつかい」したのであった。

 だがこれは絶対ぜったいの「タブー」と言えた。それと言うのもこれは目付めつけかぎらずすべての役目やくめに言えることだが、年齢としより職歴しょくれき優先ゆうせんされるのだ。

 そうであれば曲淵まがりぶち勝次郎かつじろう初鹿野はじかの信興のぶおきよりも、

「たったの一年いちねん…」

 先輩せんぱいであるにぎないとは言え、しかし先輩せんぱいであることにわりはなく、目付めつけとしては後輩こうはいたる初鹿野はじかの信興のぶおきはこの先輩せんぱいである曲淵まがりぶち勝次郎かつじろう先輩せんぱいとしててねばならなかった。永井ながい伊織いおりとてそうであり、おのれよりも年下とししたである菅沼すがぬま新三郎しんざぶろう先輩せんぱいとしててていた。

 だが初鹿野はじかの信興のぶおき曲淵まがりぶち勝次郎かつじろうてるどころか子供こどもあつかいいする始末しまつであり、当然とうぜん勝次郎かつじろう激昂げっこうした。

 普段ふだん曲淵まがりぶち勝次郎かつじろうけっして「先輩風せんぱいかぜ」をかせることはしなかったが、しかし、おのれ子供こどもあつかいする初鹿野はじかの信興のぶおきに対しては例外的れいがいてきに「先輩風せんぱいかぜ」をかせることにした。そうでないとこのさき、ずっとめられることになるからだ。

 しかし、勝次郎かつじろうがどんなに「先輩風せんぱいかぜ」をかせてみたところで、14も年嵩としかさ初鹿野はじかの信興のぶおきには、

「てんで…」

 通用つうようしなかった。それどころか信興のぶおき勝次郎かつじろうをまるで赤子あかご駄々だだをこねているかのようにあつか始末しまつであり、ひと小馬鹿こばかにするとはまさにこのことで、勝次郎かつじろう愈愈いよいよもって、激昂げっこうした。

 するとこの当時とうじ…、初鹿野はじかの信興のぶおき使番つかいばんから目付めつけへとてんじた天明5(1785)年9月の時点じてん目付めつけ筆頭ひっとうであった山川やまかわ下総守しもうさのかみ貞幹さだもと次席じせき安藤あんどう郷右衛門ごうえもん惟徳これのり二人ふたり初鹿野はじかの信興のぶおきのその、

先輩せんぱい先輩せんぱいともおもわぬ…」

 傍若無人ぼうじゃくぶじんなる態度たいどかねたらしく、信興のぶおきいさめた。

仮令たとえ年下とししたであろうとも、曲淵まがりぶち勝次郎かつじろうはそこもとにとっては先輩せんぱいたるのだから、いますこてるように…」

 目付めつけ筆頭ひっとう山川やまかわ貞幹さだもと次席じせき安藤あんどう郷右衛門ごうえもん二人ふたりがかりでそう初鹿野はじかの信興のぶおきいさめたものである。

 それに対して信興のぶおきはと言うと、流石さすが筆頭ひっとうである山川やまかわ貞幹さだもとに対しては殊勝しゅしょうなる態度たいどのぞかせたものの、安藤あんどう郷右衛門ごうえもんに対してはひるがえって不遜ふそんなる態度たいど終始しゅうしした。山川やまかわ貞幹さだもとにしろ、安藤あんどう郷右衛門ごうえもんにしろとも初鹿野はじかの信興のぶおきよりも年嵩としかさであるにもかかわらず、である。

 それでは信興のぶおき何故なにゆえ態度たいど使つかけたのかと言うと、それはやはり、

家督かとくいでいるかいなか…」

 そのてんもとめられた。

 すなわち、その時点じてんでは山川やまかわ貞幹さだもとすで家督かとくいでいたのに対して、安藤あんどう郷右衛門ごうえもん曲淵まがりぶち勝次郎かつじろうおなじく家督かとくいではおらず、それゆえ信興のぶおき安藤あんどう郷右衛門ごうえもんをも「子供こどもあつかい」する始末しまつであった。のみならず、

新番士しんばんし一人ひとりせることも出来でき腰抜こしぬけが一人前いちにんまえ説教せっきょうとは…、いや、それ以前いぜん目付めつけしょくにあるとは片腹痛かたはらいたし」

 信興のぶおき郷右衛門ごうえもんに対してそう暴言ぼうげん始末しまつであった。

 この信興のぶおきくちにした、

新番士しんばんし一人ひとりせることも出来でき腰抜こしぬけ…」

 云々うんぬんはその前年ぜんねんすなわち、曲淵まがりぶち勝次郎かつじろう小十人こじゅうにんがしらから目付めつけへとてんじた天明4(1784)年3月に発生はっせいした若年寄わかどしより田沼たぬま山城守やましろのかみ意知おきとも殿中でんちゅうにて新番士しんばんし佐野さの善左衛門ぜんざえもん政言まさこと刺殺しさつされた一件いっけんしてのものであった。

 田沼たぬま意知おきとも佐野さの善左衛門ぜんざえもん脇差わきざしにてけられたその現場げんばには目付めつけ安藤あんどう郷右衛門ごうえもんはじめとし、おなじく目付めつけ井上いのうえ図書頭ずしょのかみ正在まさあり末吉すえよし善左衛門ぜんざえもん利隆としたか、それに大目付おおめつけ久松ひさまつ筑前守ちくぜんのかみ定愷さだたか牧野まきの大隅守おおすみのかみ成賢しげかたらが居合いあわせたものの、しかし、誰一人だれひとりとして佐野さの善左衛門ぜんざえもんさえるものはなく、結局けっきょく佐野さの善左衛門ぜんざえもん意知おきともとどめをしたあとようやくに大目付おおめつけであった松平まつだいら對馬守つしまのかみ忠郷たださと佐野さの善左衛門ぜんざえもんさえたのであった。

 いや、このときすでに、佐野さの善左衛門ぜんざえもん意知おきともとどめをした達成感たっせいかんから茫然ぼうぜん自失じしつていであり、これではそれこそ子供こどもでも容易よういさえられるというものであるが、それでも幕府ばくふ松平まつだいら忠郷たださとに対して200石もの加増かぞうというご褒美ほうびあたえたのであった。

 それはかく、もうすこはやくに安藤あんどう郷右衛門ごうえもんらが佐野さの善左衛門ぜんざえもんさえていたならば意知おきともなずにんだやもれず、初鹿野はじかの信興のぶおきはそのてんとらえて安藤あんどう郷右衛門ごうえもんなじった、いや、嘲笑ちょうしょうしたのであった。

 たしかにそのてんかんしては安藤あんどう郷右衛門ごうえもんとしても一言ひとこと弁解べんかいもなかったが、しかし、それを信興のぶおきにとやかくわれる筋合すじあいはなく、安藤あんどう郷右衛門ごうえもん当然とうぜん激昂げっこうした。

 いや、安藤あんどう郷右衛門ごうえもんばかりではない。おなじく佐野さの善左衛門ぜんざえもんさえなかった末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんにしてもそうであり、かり井上いのうえ正在まさあり目付めつけとしてこのにいたならばやはり激昂げっこうしたにちがいない。しかし、さいわいと言うべきか、井上いのうえ正在まさあり意知おきともさえられなかったにもかかわらず、その翌年よくねんの天明5(1785)年9月には普請ふしん奉行ぶぎょう栄転えいてんたし、それゆえそのにはいなかった。ちなみに初鹿野はじかの信興のぶおきはその井上いのうえ正在まさあり後任こうにんであった。

 ともあれ、初鹿野はじかの信興のぶおき曲淵まがりぶち勝次郎かつじろうつづいて安藤あんどう郷右衛門ごうえもん末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんまでもてきまわした。

 いや、てきまわしたのは彼等かれらばかりではない、牧野まきの織部おりべ成知しげともにしてもそうであった。

 牧野まきの織部おりべ成知しげとも初鹿野はじかの信興のぶおきよりも一月ひとつきほどはやくに徒頭かちがしらから目付めつけへとてんじ、それゆえ初鹿野はじかの信興のぶおきの「先輩せんぱい」にたるものの、しかし年下とししたであることにくわえて、いま家督かとくいではいないという事情じじょう相俟あいまって、やはり初鹿野はじかの信興のぶおきから「子供こどもあつかい」されている一人ひとりであった。

 その牧野まきの織部おりべくだん意知おきともさえられなかった一人ひとり大目付おおめつけ牧野まきの成賢しげかた養嗣子ようししであったのだ。

 それゆえ牧野まきの織部おりべにしてみれば、初鹿野はじかの信興のぶおき安藤あんどう郷右衛門ごうえもんに対するその「嘲笑ちょうしょう」は大事だいじ養父ようふ成賢しげかたに対して嘲笑ちょうしょうされたも同然どうぜんであり、それゆえ初鹿野はじかの信興のぶおき牧野まきの織部おりべまでてきまわしてしまったわけである。

成程なるほど…、新番士しんばんし一人ひとりせられないもの腰抜こしぬけなれば、山村やまむら信濃しなのとて腰抜こしぬけになろうぞ…」

 牧野まきの織部おりべはそう逆襲ぎゃくしゅうしたものだから、初鹿野はじかの信興のぶおき面目めんぼくうしなった。

 初鹿野はじかの信興のぶおき義兄ぎけいたるみなみ町奉行まちぶぎょう山村やまむら信濃守しなののかみ良旺たかあきらもまた、佐野さの善左衛門ぜんざえもん田沼たぬま意知おきともおそったその居合いあわせながらも、佐野さの善左衛門ぜんざえもんさえられなかった一人ひとりであり、牧野まきの織部おりべはそのてんいたのであった。
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