元気出せ、金太郎

御側御用取次の加納久周は南町奉行の山村良旺を清水家老へと異動、「棚上げ」する人事案を提案し、大目付の桑原盛員に胸を撫で下ろさせる。

　一方いっぽう、久周ひさのりは忠籌ただかずと信喜のぶよしの両名りょうめいが己おのれの仲裁ちゅうさい案あんに難色なんしょくを示しめすであろうことを予期よきしていたので、それゆえ予期よきした通とおりの反応はんのうを示しめしてくれた忠籌ただかずと信喜のぶよしの両名りょうめいに対して久周ひさのりは冷つめたい一瞥いちべつをくれたかと思おもうと、

「さればやはり、京極きょうごく備前びぜんが提案ていあんせし通とおり、そしてそれに津田つだ山城やましろや奥右筆おくゆうひつの近藤こんどう六右衛門ろくえもんが賛成さんせいせし通とおり、大目付おおめつけの桑原くわばら伊豫いよか、若もしくは公事くじ方がた勘定かんじょう奉行ぶぎょうの根岸ねぎし肥前ひぜんの何いずれかを清水しみず家老かろうに据すえるしかあるまいて…」

　久周ひさのりは忠籌ただかずと信喜のぶよしに対して、それも主おもに忠籌ただかずを斬きり捨すてるかのようにそう告つげた。

　すると忠籌ただかずはこれまた、久周ひさのりが予期よきした通とおりの反応はんのうを示しめした。即すなわち、

「大目付おおめつけの桑原くわばら盛員もりかずか、或あるいは公事くじ方がた勘定かんじょう奉行ぶぎょうの根岸ねぎし鎮衛やすもりのどちらかが清水しみず家老かろうへと棚上たなあげされるよりはマシ…」

　忠籌ただかずは如何いかにもそう思おもっている様子ようすが、

「ありあり…」

　であり、それが証拠しょうこに黙だまり込こんでしまい、「金魚きんぎょの糞ふん」の信喜のぶよしも久周ひさのり同様どうよう、「親分おやぶん」である忠籌ただかずの胸中きょうちゅうをその様子ようすから悟さとったようで、そうなると信喜のぶよしとて反論はんろんするわけにもゆかず、やはり「親分おやぶん」である忠籌ただかずに倣ならって黙だまり込こんだ。

　久周ひさのりは忠籌ただかずが何故なにゆえにそこまで桑原くわばら盛員もりかずと根岸ねぎし鎮衛やすもりのことを庇かばうのか不思議ふしぎでならなかった。

　いや、根岸ねぎし鎮衛やすもりもまた、信喜のぶよし同様どうよう…、いやいや、単たんなる「金魚きんぎょの糞ふん」と断言だんげん出来できる信喜のぶよしと一緒いっしょくたにしたら流石さすがに鎮衛やすもりも憤慨ふんがいするやも知しれぬが、それは兎とも角かく、鎮衛やすもりも信喜のぶよし同様どうよう、忠籌ただかずの子分こぶんであり、そして桑原くわばら盛員もりかずはその鎮衛やすもりの縁者えんじゃであり、のみならず盛員もりかずもまた鎮衛やすもり同様どうよう、忠籌ただかずの子分こぶんであり、それゆえ忠籌ただかずがその鎮衛やすもりと盛員もりかずを庇かばうのは理解りかい出来できなくもなかったが、しかし、それでも忠籌ただかずのその、鎮衛やすもりと盛員もりかず両名りょうめいに対する庇かばいぶりたるや、久周ひさのりには些いささか度どが過すぎているように感かんじられてならず、その点てん、久周ひさのりは内心ないしん首くびを傾かしげつつ、

「さればそれにて如何いかがでござりましょうや…」

　家斉いえなりの方ほうを向むいてそう畳たたみ掛かけたのであった。

　それに対して家斉いえなりはと言うと、己おのれの分身ぶんしんとも言うべき久周ひさのりの提案ていあんなればと、大目付おおめつけの桑原くわばら盛員もりかずか、或あるいは公事くじ方がた勘定かんじょう奉行ぶぎょうの根岸ねぎし鎮衛やすもりのうちのどちらかを清水しみず家老かろうへと「棚上たなあげ」する姿勢しせいを見みせたので、これには北きた町奉行まちぶぎょうの初鹿野はじかの信興のぶおきを清水しみず家老かろうへと「棚上たなあげ」する気きでいた忠籌ただかずを慌あわてさせたものである。

　いや、それ以上いじょうに、当人とうにんとも呼よぶべき大目付おおめつけの桑原くわばら盛員もりかずが慌あわてた。まさかに己おのれが清水しみず家老かろうへと「棚上たなあげ」されようとは、予想よそうだにしていなかったからだ。

　今、将軍・家斉いえなりの御前ごぜんにおいては表向おもてむきから老中ろうじゅう、若年寄わかどしより、寺社じしゃ奉行ぶぎょう、それに奥右筆おくゆうひつ組頭くみがしらとその配下はいかにして人事じんじを担になう奥右筆おくゆうひつの外ほかに4人の大目付おおめつけが列座れつざしていた。

　清水しみず家老かろうという、御三卿ごさんきょう家老かろうの人事じんじともなると、畢竟ひっきょう、小納戸こなんど頭取とうどりからの異動いどうか、或あるいは町奉行まちぶぎょうか勘定かんじょう奉行ぶぎょうからの異動いどうか、若もしくは作事さくじ・普請ふしん・小普請こぶしんの下した三奉行さんぶぎょうよりの異動いどうに限かぎられ、それゆえ昨日きのう、式日しきじつにおける評定所ひょうじょうしょにおいて御三卿ごさんきょう家老かろうである清水しみず家老かろうの人事じんじだけは話はなし合あわれることはなかったのである。それと言うのも評定所ひょうじょうしょには町奉行まちぶぎょうと公事くじ方がた勘定かんじょう奉行ぶぎょうが列座れつざしていたからだ。

　人事じんじの対象たいしょうとなる町奉行まちぶぎょうや公事くじ方がた勘定かんじょう奉行ぶぎょうが列座れつざする場ばにおいて、その人事じんじを話はなし合あうわけにはゆかなかった。

　そこで評定所ひょうじょうしょ式日しきじつの翌日よくじつに当あたる今日きょう、8月22日にここ中奥なかおくの御座之間ござのまにおいて将軍・家斉いえなりの御前ごぜんにて清水しみず家老かろうの人事じんじが話はなし合あわれることになったわけだが、しかしやはりこの場ばにも当然とうぜん、町奉行まちぶぎょうと公事くじ方がた勘定かんじょう奉行ぶぎょうの姿すがたはなかった。

　だがその代かわり、町奉行まちぶぎょうと公事くじ方がた勘定かんじょう奉行ぶぎょうを除のぞいた評定所ひょうじょうしょを構成こうせいする者ものが今いま、将軍・家斉いえなりの御前ごぜんに参集さんしゅうした。

　そしてその中なかには大目付おおめつけも含ふくまれていた。いや、評定所ひょうじょうしょを構成こうせいする者ものと言えば目付めつけもそうであったが、しかし、目付めつけの場合ばあいは専もっぱら、評定所ひょうじょうしょにおける評議ひょうぎの行方ゆくえの監視役かんしやくに徹てっし、しかも大目付おおめつけのように全すべて、10人いる目付めつけが列座れつざするわけではなく、評定ひょうじょう番ばんが一人ひとり、陪席ばいせきするのみであったので、それゆえ目付めつけも呼よばれてはいなかった。

　その点てん、大目付おおめつけは目付めつけと共ともに、殊ことに評定所ひょうじょうしょの式日しきじつにおいて目付めつけと共ともにその評議ひょうぎの行方ゆくえを監視かんしすることになっていたのだが、しかし今いまはもうそれは建前たてまえであり、実際じっさいには大目付おおめつけもまた評議ひょうぎに加くわわることがあり、目付めつけとは違ちがって大目付おおめつけは全員ぜんいんが揃そろって評定所ひょうじょうしょの式日しきじつに臨のぞむのはそのためであった。

　ともあれそのようなわけで大目付おおめつけもまたこの場ばに列座れつざしており、当然とうぜん、今いま、眼前がんぜんにて繰くり広ひろげられている清水しみず家老かろうを巡めぐる人事じんじの話はなし合あいにも参加さんかすることが出来でき、つまりは政務せいむに参画さんかくすることが出来できるというわけで、そこが大目付おおめつけが完全かんぜんには閑職かんしょくとは言いい切きれない所以ゆえんであった。

　だが、「矛先ほこさき」が、即すなわち、清水しみず家老かろうへと「棚上たなあげ」されるべき対象たいしょうが大目付おおめつけの桑原くわばら盛員もりかずへと向むけられたので、桑原くわばら盛員もりかずとしても人事じんじの当事者とうじしゃとなってしまい、それゆえ発言はつげんを控ひかえ、事態じたいの行方ゆくえを見守みまもっていたのだ。

　それが「流ながれ」が南みなみ町奉行まちぶぎょうの山村やまむら良旺たかあきらを清水しみず家老かろうへと「棚上たなあげ」する方向ほうこうへと向むかいつつあったので、桑原くわばら盛員もりかずは大おおいに胸むねを撫なで下おろしたものである。