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大目付の松浦信桯が清水家老への降格を望んだ理由 ~信桯は道中奉行を兼務する大目付筆頭の桑原盛員らにいじめられていた~ 1
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信桯は大目付の中でも分限帳改及び服忌令改を兼務しており、分限帳改とは大名や旗本ら幕臣の名簿の管理であり、一方、服忌令改とは大名や旗本らからの服喪に関する問合せに答えることをその職掌としていた。
それゆえ分限帳改にしろ服忌令改にしろ、とりわけ服忌令改はそう難易度の高い仕事ではないものの、しかし正確性が要求されるために、大目付の中でも一番若手に振向けられる。
そして今は大目付の中で一番若手に属するのが松浦信桯とそれに山田肥後守利壽の二人であり、共に54であった。
尤も、大目付に就いたのは山田利壽の方が信桯よりも1年早く、それゆえ信桯が分限帳改及び服忌令改を兼務していた
ちなみに山田利壽は宗門改を兼務しており、4人いる大目付の中では「ナンバー3」に位置していた。
大目付は厳密に定員があるわけではないものの、それでも大抵は4人であり、現に今もそうであった。
そして一番の若手が分限帳改及び服忌令改を兼務するのが不文律であった。
無論、年次と年齢が常に一致するとは限らない。
若くして大目付に就くこともあり、そうなれば年齢では上だが、大目付としての年次では下になるという逆転現象も起こり得るが、その場合でも余程のことがない限りは、年次が優先され、大目付は本来、完全なる年功序列の世界であった。
それゆえ本来ならば松浦信桯は今、山田利壽が兼務している宗門改を兼務するべきところであった。
宗門改とは禁教である切支丹を取締るのがその職掌であり、作事奉行との相役制であった。作事奉行は定員が厳格に二人と定められており、そのうちの一人が宗門改を兼務し、大目付と共に勤めることになっており、今は作事奉行の松平織部正乗尹が宗門改を兼務しており、大目付の山田利壽と共に勤めていた。
分限帳改及び服忌令改は大目付の中でも一番の新人、つまりは四番手に位置する末席の者が兼務する「ポスト」であるのに対して、この宗門改は三番手に位置する者が兼務する「ポスト」であり、年功序列に従うならば、山田利壽は二番手に位置するので、指物帳改及び十里四方鉄砲改を兼務するべきところであった。
指物帳改とは幕府が保管している旗指物の帳簿の管理であり、十里四方鉄砲改とはその名からも察せられる通り、江戸十里四方における鉄砲の統制にあった。
尤も、指物帳改は実際には旗奉行の職掌であるので、それゆえ実際には十里四方鉄砲改が「メイン」とも言え、ともあれ大目付としての年次が二番手の者が兼務する「ポスト」であり、それゆえ本来ならば山田利壽が兼務する筈であった。
いや、実際、去年の天明8(1788)年の11月のそれも15日にそれまで大目付の筆頭として道中奉行を兼務していた大屋遠江守明薫が留守居へと栄進したので、それゆえ本来ならば、大屋明薫に次ぐ年次を誇る牧野大隅守成賢が筆頭に躍り出て、道中奉行を兼務する筈であった。
牧野成賢は大屋明薫の下では二番手として指物帳改及び十里四方鉄砲改を兼務しており、それが大屋明薫が留守居へと栄進したことから、牧野成賢が大目付の中では一番の古株となり、その成賢が大目付の筆頭として道中奉行を兼務することとなり、そうなれば謂わば、
「玉突き式で…」
宗門改を兼務していた山田利壽がそれまで牧野成賢が兼務していた指物帳改及び十里四方鉄砲改を兼務することとなり、そして分限帳改及び服忌令改を兼務していた信桯がそれまで利壽が兼務していた宗門改を兼務することとなり、そして、大屋明薫が留守居へと栄進したことに伴い、同日、その後任として勘定奉行より大目付に任じられた桑原盛員こそが一番の新人として、それまで信桯が兼務していた分限帳改及び服忌令改を兼務する筈であった。
だが蓋を開けてみれば驚くべきことに、その「ルーキー」である桑原盛員が道中奉行を兼務することになったのだ。
即ち、大目付としては、
「ピカピカの一年生…」
それに過ぎない盛員がそれまで筆頭であった大屋明薫の後を襲う格好にて、
「いきなり…」
大目付の筆頭に躍り出たのであった。
そのためそれまで大目付であった牧野成賢らは割を食うこととなった。
成賢とそれに山田利壽とそして松浦信桯はその兼務ポストは据置き、つまりは三人が期待していた序列の変化、それも上昇は起こらなかった。
当然と言うべきか、成賢らはこの人事に大いに不満であり、余り人事には頓着しない性質の信桯ですら、この人事には不満、とまでは言わないにしても大いに首を傾げたものである。
信桯ですらそうであったのだから、その信桯とは正反対に、大いに人事、序列といったものに頓着する性質の成賢と利壽の両名は大いに不満を覚えたものだった。
とりわけ成賢がそうであった。何しろ成賢は大屋明薫が道中奉行として大目付の筆頭であった時分には指物帳改及び十里四方鉄砲改として、明薫に次ぐ、
「ナンバーツー」
その地位にあったのだ。それゆえ大屋明薫が留守居へと栄進を果たしたために、兼務ポストである道中奉行が空席となるや、即ち、大目付の筆頭の地位が空席となるや、成賢としては当然、
「次こそは…」
己が道中奉行を兼務出来る、つまりは大目付の筆頭になれると、そう信じて疑わなかった。
それが実際には「新人」である桑原盛員にその地位を掻っ攫われてしまったわけだから、成賢が大いに不満を覚えたのも当然であった。
いや、これで例えば桑原盛員が成賢よりも遥かに年上であり、それもかなりの高齢であったと言うならば、成賢としても多少の不満は残るものの、それでも諦めがついたであろう。
だが実際には盛員は成賢よりも7歳も年下であるのだ。
これでは成賢としても諦めなどつけられようがなかった。
それゆえ分限帳改にしろ服忌令改にしろ、とりわけ服忌令改はそう難易度の高い仕事ではないものの、しかし正確性が要求されるために、大目付の中でも一番若手に振向けられる。
そして今は大目付の中で一番若手に属するのが松浦信桯とそれに山田肥後守利壽の二人であり、共に54であった。
尤も、大目付に就いたのは山田利壽の方が信桯よりも1年早く、それゆえ信桯が分限帳改及び服忌令改を兼務していた
ちなみに山田利壽は宗門改を兼務しており、4人いる大目付の中では「ナンバー3」に位置していた。
大目付は厳密に定員があるわけではないものの、それでも大抵は4人であり、現に今もそうであった。
そして一番の若手が分限帳改及び服忌令改を兼務するのが不文律であった。
無論、年次と年齢が常に一致するとは限らない。
若くして大目付に就くこともあり、そうなれば年齢では上だが、大目付としての年次では下になるという逆転現象も起こり得るが、その場合でも余程のことがない限りは、年次が優先され、大目付は本来、完全なる年功序列の世界であった。
それゆえ本来ならば松浦信桯は今、山田利壽が兼務している宗門改を兼務するべきところであった。
宗門改とは禁教である切支丹を取締るのがその職掌であり、作事奉行との相役制であった。作事奉行は定員が厳格に二人と定められており、そのうちの一人が宗門改を兼務し、大目付と共に勤めることになっており、今は作事奉行の松平織部正乗尹が宗門改を兼務しており、大目付の山田利壽と共に勤めていた。
分限帳改及び服忌令改は大目付の中でも一番の新人、つまりは四番手に位置する末席の者が兼務する「ポスト」であるのに対して、この宗門改は三番手に位置する者が兼務する「ポスト」であり、年功序列に従うならば、山田利壽は二番手に位置するので、指物帳改及び十里四方鉄砲改を兼務するべきところであった。
指物帳改とは幕府が保管している旗指物の帳簿の管理であり、十里四方鉄砲改とはその名からも察せられる通り、江戸十里四方における鉄砲の統制にあった。
尤も、指物帳改は実際には旗奉行の職掌であるので、それゆえ実際には十里四方鉄砲改が「メイン」とも言え、ともあれ大目付としての年次が二番手の者が兼務する「ポスト」であり、それゆえ本来ならば山田利壽が兼務する筈であった。
いや、実際、去年の天明8(1788)年の11月のそれも15日にそれまで大目付の筆頭として道中奉行を兼務していた大屋遠江守明薫が留守居へと栄進したので、それゆえ本来ならば、大屋明薫に次ぐ年次を誇る牧野大隅守成賢が筆頭に躍り出て、道中奉行を兼務する筈であった。
牧野成賢は大屋明薫の下では二番手として指物帳改及び十里四方鉄砲改を兼務しており、それが大屋明薫が留守居へと栄進したことから、牧野成賢が大目付の中では一番の古株となり、その成賢が大目付の筆頭として道中奉行を兼務することとなり、そうなれば謂わば、
「玉突き式で…」
宗門改を兼務していた山田利壽がそれまで牧野成賢が兼務していた指物帳改及び十里四方鉄砲改を兼務することとなり、そして分限帳改及び服忌令改を兼務していた信桯がそれまで利壽が兼務していた宗門改を兼務することとなり、そして、大屋明薫が留守居へと栄進したことに伴い、同日、その後任として勘定奉行より大目付に任じられた桑原盛員こそが一番の新人として、それまで信桯が兼務していた分限帳改及び服忌令改を兼務する筈であった。
だが蓋を開けてみれば驚くべきことに、その「ルーキー」である桑原盛員が道中奉行を兼務することになったのだ。
即ち、大目付としては、
「ピカピカの一年生…」
それに過ぎない盛員がそれまで筆頭であった大屋明薫の後を襲う格好にて、
「いきなり…」
大目付の筆頭に躍り出たのであった。
そのためそれまで大目付であった牧野成賢らは割を食うこととなった。
成賢とそれに山田利壽とそして松浦信桯はその兼務ポストは据置き、つまりは三人が期待していた序列の変化、それも上昇は起こらなかった。
当然と言うべきか、成賢らはこの人事に大いに不満であり、余り人事には頓着しない性質の信桯ですら、この人事には不満、とまでは言わないにしても大いに首を傾げたものである。
信桯ですらそうであったのだから、その信桯とは正反対に、大いに人事、序列といったものに頓着する性質の成賢と利壽の両名は大いに不満を覚えたものだった。
とりわけ成賢がそうであった。何しろ成賢は大屋明薫が道中奉行として大目付の筆頭であった時分には指物帳改及び十里四方鉄砲改として、明薫に次ぐ、
「ナンバーツー」
その地位にあったのだ。それゆえ大屋明薫が留守居へと栄進を果たしたために、兼務ポストである道中奉行が空席となるや、即ち、大目付の筆頭の地位が空席となるや、成賢としては当然、
「次こそは…」
己が道中奉行を兼務出来る、つまりは大目付の筆頭になれると、そう信じて疑わなかった。
それが実際には「新人」である桑原盛員にその地位を掻っ攫われてしまったわけだから、成賢が大いに不満を覚えたのも当然であった。
いや、これで例えば桑原盛員が成賢よりも遥かに年上であり、それもかなりの高齢であったと言うならば、成賢としても多少の不満は残るものの、それでも諦めがついたであろう。
だが実際には盛員は成賢よりも7歳も年下であるのだ。
これでは成賢としても諦めなどつけられようがなかった。
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