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吉良士郎という少年
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4月、俺は今日でピカピカの高校1年生だ。とは言え、高校受験を勝ち抜いたわけではなく、中学からの内部進学である。そう。俺は中高一貫校である私立、大塚学院の生徒であり、既に中学受験を勝ち抜いていた。高校受験が免除されているのはその恩恵であった。
だが俺が勝ち組だったのは、中学受験を勝ち抜いた3年前、ちょうど今時分(いまじぶん)の桜が満開の季節までだった。
俺が通う大塚学院は偏差値50の中堅どころの私立であった。別名、開文中のすべり止め校である。開文中は偏差値65もあり、開文中を第一志望とする受験生は大抵、すべり止め校として大塚学院を選ぶ傾向にあった。ちなみに俺は第一志望が大塚学院であった。元々、偏差値65もある私立中学を狙えるほどの頭の持ち主ではなかったからだ。
掲示板に貼り出されたクラス表、高等部1年1組の欄に俺の名前、吉良(きら)士郎(しろう)を見つけた。中等部もそうだが、1組は特進クラスである。つまりは成績優秀者の集団ということである。そして中等部も高等部も全学年、1組から7組まであり、2組の生徒から徐々に成績が落ちてゆき、最後の7組は成績最下位の集団であった。
俺は中等部時代はずっと1組で通してきた。だがそれは決して俺が頭が良いからというわけではなく、中等部の試験は教科書の丸暗記で事足りたからだ。だが、高等部ともなるとそうはいくまい。今から2ヶ月ほどまでの2月、大塚学院では高等部に進学するための内部試験が行われた。確かに受験こそないもの、内部試験はあった。無論、それはあくまでどこのクラスに割り振るか、その選別の試験であり、落とすのが目的ではない。期末試験の延長線上であった。ただし、期末試験と違うところもあった。それは教科書の丸暗記では到底、対応できない問題ばかりということであった。これまでは中間試験、期末試験共に、教科書の丸暗記で対応できたが、しかし、内部試験ともなると、教科書の丸暗記では到底、対応できない問題ばかりであった。高等部ともなると、いよいよ大学受験を控えることもあってか、それに備えて教科書の丸暗記では対応できない問題を出すことで、生徒の実力を測ろうとの意図であった。大塚学院は中高一貫校ではあるが、大学までは併設されておらず、それゆえ大学受験という関門が待ち受けていた。
当然、これまで教科書の丸暗記でしのいできた俺が解けるような問題ではなかった。だがそれでも俺は1組に紛れ込むことができたことから察するに、どうやら好成績をおさめてしまったようだ。いや、試験問題を目にした時から、これは良い点数が取れるかも、という自信が俺にはあった。それと言うのも、試験前に俺が張ったヤマがことごとく当たってしまったからだ。内部試験はこれまでの中間試験や期末試験のように教科書の丸暗記では対応できない…、そのことをホームルームなどの折に担任より聞かされていた俺は、これはもうどうあがいても駄目だなと諦めの境地であったが、それなら宝くじ気分で適当にヤマを張り、その部分だけ勉強してやれ…、そう思って勉強した部分がすべて的中してしまったのだ。だから俺本来の実力ではなかった。これから大いに苦しむことに違いないと、俺は内心、覚悟した。
1組に入ると、教壇の上に座席表があった。そこにクラスメイトが群がっており、俺もその一群に加わり、自分の席を確認した。1組は48人、縦8列、横6列という配置であり、俺は横2列目、縦2列目であった。
俺が席につくと、俺の前に座っていたクラスメイトが振り向いた。
「よっ」
そう声をかけてきたのは中等部時代はずっと学年2位の成績をおさめてきた新聞部員の梶川(かじかわ)照雄(てるお)であった。この大塚学院にもスクールカーストなるものが存在しており、その頂点に位置する一人であった。何しろ成績が良いのに加えて、顔の方もジャニーズ系ときた日には、カースト最上位に祭り上げられるのも当然と言えば当然ではあった。
そして俺はと言えば、中等部時代はこの梶川(かじかわ)と同様、ずっと1組で通してきたものの、とりたてて美男子というわけでもなく…、それどころかハッキリ言ってブ男の部類に入り、部活もスポーツ系ではなく、図書部というパットしない部活であり、畢竟(ひっきょう)、スクールカースト最下層をねぐらとしていた。
そんなスクールカースト最下層をねぐらとするこの俺に、梶川(かじかわ)が何ゆえ、声をかけてくれるのかと言えば、それは趣味が同じだからだ。
梶川(かじかわ)と俺に共通する趣味…、それはズバリ、時代小説が好き、という点であった。俺は図書部の部員として、放課後は図書館で好きなだけ、時代小説を読み漁り、そんな中、ジャーナリズム関係の本を借りにきた梶川(かじかわ)の目に止まったようだ。梶川(かじかわ)は小声で俺に声をかけてきた。そして俺が読んでいた時代小説…、火附盗賊改方長官の長谷川平蔵が主人公の時代小説のタイトルを感慨深そうに口にすると、「俺も好きなんだ」と言った。それまで梶川(かじかわ)とはクラスが同じだけでまったくと言って良いほどに接点がなかったが、それ以来、急速に仲が縮まった。もっとも俺はそれほど梶川(かじかわ)と親しくしたいと思ったわけではなかったが、梶川(かじかわ)の方が一方的に俺と親しく交わろうとした。恐らく、貴族が乞食(こじき)に気まぐれで施しをするような、そんな深層心理からに違いなかった。勿論、貴族が梶川(かじかわ)で、乞食(こじき)が俺である。だが俺はそれでも構わなかった。俺と親しくしたいという人間であれば、例え、動機がどうであれ、来る者拒まず、というのが俺のポリシーだからだ。
「また、お前と同じクラスになれて嬉しいよ」
「ああ。俺もだよ」
俺が梶川(かじかわ)にそう返すと、他のクラスメイトから刺すような視線を頂戴した。こともあろうにスクールカースト最下位にお前が何で梶川(かじかわ)と親しげに会話をしているんだ…、今にもそんな声が聞こえそうな視線であった。やれやれと、俺は思わずにはいられなかった。
「よぉっ」
俺は背中を強く叩かれた。背中を叩いたのは横1列目の一番後ろに座っていた大石(おおいし)冠(かん)であった。学年2位が梶川(かじかわ)ならば、1位はこの大石(おおいし)であった。大石(おおいし)もまた、歌舞伎役者を思わせる男ぶりであり、その上、空手部であった。当然、梶川(かじかわ)と並んでスクールカースト最上位であった。その大石(おおいし)とは梶川(かじかわ)に引き合わされる格好で、俺は付き合うようになった。大石(おおいし)と梶川(かじかわ)は大の親友、そしてどうやら梶川(かじかわ)が物珍しい生き物でも見つけたと、そんな風に俺のことを大石(おおいし)に紹介し、それに対して大石(おおいし)もきっと、もの珍しさから俺と付き合うようになったのかも知れない…、俺はそう確信していたが、例えそうだとしても、やはり俺にとってはどうでも良いことであった。俺と親しく付き合いたいと言うのであれば、勝手にしやがれ、である。
「また、お前らと同じクラスになれて嬉しいぜ」
大石(おおいし)も梶川(かじかわ)と同じようなことを言い、俺も「そうだな」と答えておいた。この大石(おおいし)と梶川(かじかわ)…、学年1位と2位のコンビは校内試験のみならず、全国共通の実力試験でも上位に食い込んでおり、本来ならば開文中にも入れるほどの実力の持ち主であった。それが今では開文中のすべり止め校として知られる我が大塚学院の生徒である。してみると、開文中に落ちたのかも知れなかったが、例えそうだとしても大石(おおいし)にしろ、梶川(かじかわ)にしろ、卑屈(ひくつ)なところはまったく見受けられなかった。大抵の場合、卑屈(ひくつ)になるケースが散見され、実際、俺の目から見てもこいつは開文中を落ちてやむなくここに通っているんだなと、そうと分かる生徒が散見されるが、こと大石(おおいし)と梶川(かじかわ)の場合はまったくそうしたところが見受けられず、スクールライフをエンジョイしていた。大変、結構なことである。
高校生活初日は授業もなく、ホームルームで終わりを告げた。掃除当番もなく、クラスメイトは皆、寄り道しようとはしゃいでいた。その輪の中心にいるのはやはり、大石(おおいし)と梶川(かじかわ)であった。クラスメイトは皆、大石(おおいし)や梶川(かじかわ)を誘って、やれファストフード店だ、やれカラオケだとはしゃいでいた。俺はそんなクラスメイトの喧騒(けんそう)から逃れるようにそっと教室を出ようとしたものの、あいにく大石(おおいし)の目に止まってしまった。
「士郎(しろう)、お前も行くだろ?」
大石(おおいし)は俺のことをファーストネームで呼ぶ。俺は大石(おおいし)の方へと振り返った。すると同時に、大石(おおいし)や梶川(かじかわ)を取り巻く連中の顔までも、嫌でも俺の視界に入ったが、それ以上に嫌な思いをしているのは二人を取り巻くクラスメイトの方であった。どうやら俺が参加するのを皆、嫌がっている様子であった。
「まぁ、それも当然だよな…」
確かにスクールカースト最下層をねぐらとする、それこそ乞食(こじき)のような俺まで楽しいイベントに参加したら、楽しさも半減、どころ幻滅であろう。俺としてはクラスメイトの邪魔をするつもりは毛頭なかったので、
「悪いな。今日は忙しいんでな」
俺は嘘をついて、手を振ってみせると、踵(きびす)を返して教室を出て行った。クラスメイトが喜んだのはそれとほぼ同時であった。
帰宅すると俺を待ち受けていたのは母親からの質問攻勢であった。
「どこのクラスになったの?」
人を学歴と偏差値だけでか見られない人間らしい質問であった。もっとも俺としてはそれを殊更(ことさら)、非難するつもりはなかった。母親のその人を見る基準はあながち間違いとは言えなかったからだ。それどころか正しいとも言えた。確かに学歴や偏差値が高ければ高い人間ほど人間としての器が大きいとも言えた。それは大石(おおいし)と梶川(かじかわ)が何よりも証明していた。そして逆に学歴や偏差値が低ければ低い人間ほど人間としての器が小さく、何より卑屈である。それはこの俺が証明していた。
「1組だ」
「あらっ!それじゃあ特進クラスねっ!」
「そういうことになるらしい」
「それじゃあ六大学を狙えるわねっ!もしかしたら東大や京大あたりも…」
来年には特進クラスからこぼれ落ちるに違いないのに、そうとも知らずに無邪気(むじゃき)に喜ぶ母親の姿を見るにつけ、俺は心底から母親に同情した。
「自分の倅、ということもあって期待するのは仕方がないことことなのかもしれないが、俺が六大学に入れるはずもなく、ましてや東大や京大なぞそれこそ夢のまた夢、というヤツなのに…」
俺は母親の夢想は単なる夢想に過ぎず、現実になることは絶対にないと、そう真実を教えてやるべきかどうか悩んだ。だが母親の無邪気(むじゃき)に喜ぶ姿を見せつけられるととてもそんな気にはなれず、何よりそんなことを口にしたら恐らくは、
「それならこれから努力すれば良いじゃないっ!」
あるいは、
「あなたならきっと出来るはずよっ!」
とか金切り声で反論されるに違いなく、入学式初日から母親の金切り声に付き合わされるのは俺としてはとても耐えられなかったので、
「まあそうかも知れないね」
と言質(げんち)を与えないよう適当にかわすと、俺は自室に避難した。これ以上、母親と話をすればどんな言質(げんち)を取られるか分かったものではないからだ。それこそ、例えば六大学、あるいは東大や京大への合格を誓わされるとか、俺としてはそんな厄介な事態になる前にさっさと自分の部屋へと避難した方が得策だと思ったからだ。
夕方、父親が珍しく帰宅した。父親は自営業なので大抵は御前様であり、そんな夫との生活のすれ違いの寂しさや心の空白といったものを埋めるために母親はもしかすると一人息子の俺に過剰な期待、いや過干渉をすることで心の平穏を保とうとしているのかも知れなかったが、ともかく、珍しく早めに帰宅したのでその日は父親を交え、正に親子水入らずで夕食を共にした。その夕食の席で母親は俺が特進クラス入りしたことを嬉々とした様子で夫に報告した。だが夫…、父は母とは正反対に気のない様子で適当に妻の話を聞き流しているのが隣に座って夕食を口に運び入れていた俺にも容易に分かった。だが母はそんな夫の姿に気付かぬのか、あるいは気付いていても気付かぬフリをしているだけなのか、それは分からないが母親は何かに取り憑(つ)かれたように俺に対する将来の期待といったものを話し続けた。それでも母親の話を適当に受け流し続けた父親は大した人だと俺は心底から感心させられた。
父親は元来、人には興味のない人間であった。それは妻や息子に対しても同様で興味があるのは自分だけ、という極めてナルシスティックな人であった。会社経営者ともなるとナルシスティックな人間が多いのかもしれない。それが嵩(こう)じて他人には興味がない、という態度へと繋がり、それが家族にまでその対象、興味のない対象が広がるのかもしれなかった。だからと言って俺はそんな父親の人間性を非難する気は毛頭なかった。それどころか幾分(いくぶん)、どころかどれほど救われたか分からない。これで母親と同じように父親からも過剰な期待、或いは過干渉された日には俺は恐らくキレていたかもしれなかった。いくら強靭な神経…、他人から言わせると無神経、恥知らず、ということになるらしいが、そんな俺でも臨界点はある。だから父親の俺に対する無関心さ、といったものは俺にしてみれば正に愛のある無関心、というヤツであった。
それでも父親である以上、やはり息子に対して最低限の関心ぐらいは持ち合わせているらしく、夕食を取り終えて食器をキッチンへと運び終えてから俺は自室へと戻ろうとした時であった。父親はタバコを吸うべくベランダへと出ようとした時に、
「士郎(しろう)」
と俺の名を呼び、俺の足を止めさせた。父親は愛煙家であり母親は嫌煙家、それが父親が家から遠ざかる理由の一つでもあり、今日のように偶々(たまたま)、早く帰宅してからタバコを吸おうとしたら外へと出なければならなかった。この家を購入したのは父親の財布から出た金であるにもかかわらずこの家のルールの制定者は母親であった。普通なら異議を唱えても良いところであるが異議の一つも唱えないのはひとえに家の中は全て妻の好きにさせる代わりに自分も家の外では好きにさせてくれ、すなわち、何時に帰ろうとも、タバコを吸おうとも一切、ケチをつけないでくれ、という一種のバーターのようなものなのだろうかと、俺は勝手に解釈していた。ともかく父親は家でタバコを吸う際にはリビングの書棚にしまってあるピースの箱を取り出してベランダへと降り立つ、というのが我が家のルールの一つであった。
「なに?」
俺はベランダへと降り立つべくサンダルを突っかけた父親の方へと振り向いた。
「特進クラス、おめでとう」
「ああ…」
どうやら母親の話は最低限、聞いていたらしい。
「来年も特進クラスに入れると良いな」
「ああ…」
「まあお前の人生だ」
父親はそれだけ言うと俺の答えも聞かず…、いやそもそも俺の答えを聞きたいわけではなく専(もっぱ)らキッチンで洗物をしている母親に自分の言葉を聞かせたくてそう言ったのかも知れなかった。
「お前の人生だ」
つまり学歴や偏差値だけが人生ではない、父親なりの信念を母親に聞かせたかったのかもしれない。
ちなみに学歴、という点では両親共に高卒であり、今では父親は製薬会社の社長であり母親は専業主婦であった。そんな世間的には無職の母親が学歴を重視し、会社社長の父親はそれとは正反対にそれほど学歴を重視していなかった。勿論、そんな父親でも最低限の学歴は必要だと思ってはいるだろうが、それでも大学にはさほど興味はないらしい。母親はもしかしたら父親に対してコンプレックスを抱いているのかも知れなかった。同じ高卒でも自分は専業主婦で世間的には無職であるのに対して、夫は歴とした会社社長…、これで夫が大卒ならば自分は高卒だから、ということを格好の言い訳にして、世間的には無職である専業主婦の自分という存在を納得させることもできたが、しかし実際には夫も自分と同じく、高卒である。高卒だから、という言い訳はこの際、通用しなかった。例え、高卒でも本人の努力次第で、社長にまでのぼりつめることもできるのだ。だが母親はそうはせずに専業主婦に甘んじているのはひとえに、努力したくなかったからだ。そのことは誰よりも母親自身が分かっているに違いなく、母親は自分は女だからと、女を言い訳にして心の平安を保とうとしていた。その上で、
「今の時代、男なら大学ぐらい出ておかないと…」
そう時代まで言い訳として引っ張り出してきては、俺に高学歴を要求する。すべては専業主婦である自分という存在を納得させるために…、それが俺の読みであった。俺は自室に戻ると、机に並んだ実験器具を眺めた。皆、父親から贈られたものだ。少しでも化学に興味が持てればと、遊び感覚で使うと良い、とも付け加えて俺にプレゼントしてくれたのだ。決して勉強しろと強制しないあたり、いかにも父親らしかった。
だが俺が勝ち組だったのは、中学受験を勝ち抜いた3年前、ちょうど今時分(いまじぶん)の桜が満開の季節までだった。
俺が通う大塚学院は偏差値50の中堅どころの私立であった。別名、開文中のすべり止め校である。開文中は偏差値65もあり、開文中を第一志望とする受験生は大抵、すべり止め校として大塚学院を選ぶ傾向にあった。ちなみに俺は第一志望が大塚学院であった。元々、偏差値65もある私立中学を狙えるほどの頭の持ち主ではなかったからだ。
掲示板に貼り出されたクラス表、高等部1年1組の欄に俺の名前、吉良(きら)士郎(しろう)を見つけた。中等部もそうだが、1組は特進クラスである。つまりは成績優秀者の集団ということである。そして中等部も高等部も全学年、1組から7組まであり、2組の生徒から徐々に成績が落ちてゆき、最後の7組は成績最下位の集団であった。
俺は中等部時代はずっと1組で通してきた。だがそれは決して俺が頭が良いからというわけではなく、中等部の試験は教科書の丸暗記で事足りたからだ。だが、高等部ともなるとそうはいくまい。今から2ヶ月ほどまでの2月、大塚学院では高等部に進学するための内部試験が行われた。確かに受験こそないもの、内部試験はあった。無論、それはあくまでどこのクラスに割り振るか、その選別の試験であり、落とすのが目的ではない。期末試験の延長線上であった。ただし、期末試験と違うところもあった。それは教科書の丸暗記では到底、対応できない問題ばかりということであった。これまでは中間試験、期末試験共に、教科書の丸暗記で対応できたが、しかし、内部試験ともなると、教科書の丸暗記では到底、対応できない問題ばかりであった。高等部ともなると、いよいよ大学受験を控えることもあってか、それに備えて教科書の丸暗記では対応できない問題を出すことで、生徒の実力を測ろうとの意図であった。大塚学院は中高一貫校ではあるが、大学までは併設されておらず、それゆえ大学受験という関門が待ち受けていた。
当然、これまで教科書の丸暗記でしのいできた俺が解けるような問題ではなかった。だがそれでも俺は1組に紛れ込むことができたことから察するに、どうやら好成績をおさめてしまったようだ。いや、試験問題を目にした時から、これは良い点数が取れるかも、という自信が俺にはあった。それと言うのも、試験前に俺が張ったヤマがことごとく当たってしまったからだ。内部試験はこれまでの中間試験や期末試験のように教科書の丸暗記では対応できない…、そのことをホームルームなどの折に担任より聞かされていた俺は、これはもうどうあがいても駄目だなと諦めの境地であったが、それなら宝くじ気分で適当にヤマを張り、その部分だけ勉強してやれ…、そう思って勉強した部分がすべて的中してしまったのだ。だから俺本来の実力ではなかった。これから大いに苦しむことに違いないと、俺は内心、覚悟した。
1組に入ると、教壇の上に座席表があった。そこにクラスメイトが群がっており、俺もその一群に加わり、自分の席を確認した。1組は48人、縦8列、横6列という配置であり、俺は横2列目、縦2列目であった。
俺が席につくと、俺の前に座っていたクラスメイトが振り向いた。
「よっ」
そう声をかけてきたのは中等部時代はずっと学年2位の成績をおさめてきた新聞部員の梶川(かじかわ)照雄(てるお)であった。この大塚学院にもスクールカーストなるものが存在しており、その頂点に位置する一人であった。何しろ成績が良いのに加えて、顔の方もジャニーズ系ときた日には、カースト最上位に祭り上げられるのも当然と言えば当然ではあった。
そして俺はと言えば、中等部時代はこの梶川(かじかわ)と同様、ずっと1組で通してきたものの、とりたてて美男子というわけでもなく…、それどころかハッキリ言ってブ男の部類に入り、部活もスポーツ系ではなく、図書部というパットしない部活であり、畢竟(ひっきょう)、スクールカースト最下層をねぐらとしていた。
そんなスクールカースト最下層をねぐらとするこの俺に、梶川(かじかわ)が何ゆえ、声をかけてくれるのかと言えば、それは趣味が同じだからだ。
梶川(かじかわ)と俺に共通する趣味…、それはズバリ、時代小説が好き、という点であった。俺は図書部の部員として、放課後は図書館で好きなだけ、時代小説を読み漁り、そんな中、ジャーナリズム関係の本を借りにきた梶川(かじかわ)の目に止まったようだ。梶川(かじかわ)は小声で俺に声をかけてきた。そして俺が読んでいた時代小説…、火附盗賊改方長官の長谷川平蔵が主人公の時代小説のタイトルを感慨深そうに口にすると、「俺も好きなんだ」と言った。それまで梶川(かじかわ)とはクラスが同じだけでまったくと言って良いほどに接点がなかったが、それ以来、急速に仲が縮まった。もっとも俺はそれほど梶川(かじかわ)と親しくしたいと思ったわけではなかったが、梶川(かじかわ)の方が一方的に俺と親しく交わろうとした。恐らく、貴族が乞食(こじき)に気まぐれで施しをするような、そんな深層心理からに違いなかった。勿論、貴族が梶川(かじかわ)で、乞食(こじき)が俺である。だが俺はそれでも構わなかった。俺と親しくしたいという人間であれば、例え、動機がどうであれ、来る者拒まず、というのが俺のポリシーだからだ。
「また、お前と同じクラスになれて嬉しいよ」
「ああ。俺もだよ」
俺が梶川(かじかわ)にそう返すと、他のクラスメイトから刺すような視線を頂戴した。こともあろうにスクールカースト最下位にお前が何で梶川(かじかわ)と親しげに会話をしているんだ…、今にもそんな声が聞こえそうな視線であった。やれやれと、俺は思わずにはいられなかった。
「よぉっ」
俺は背中を強く叩かれた。背中を叩いたのは横1列目の一番後ろに座っていた大石(おおいし)冠(かん)であった。学年2位が梶川(かじかわ)ならば、1位はこの大石(おおいし)であった。大石(おおいし)もまた、歌舞伎役者を思わせる男ぶりであり、その上、空手部であった。当然、梶川(かじかわ)と並んでスクールカースト最上位であった。その大石(おおいし)とは梶川(かじかわ)に引き合わされる格好で、俺は付き合うようになった。大石(おおいし)と梶川(かじかわ)は大の親友、そしてどうやら梶川(かじかわ)が物珍しい生き物でも見つけたと、そんな風に俺のことを大石(おおいし)に紹介し、それに対して大石(おおいし)もきっと、もの珍しさから俺と付き合うようになったのかも知れない…、俺はそう確信していたが、例えそうだとしても、やはり俺にとってはどうでも良いことであった。俺と親しく付き合いたいと言うのであれば、勝手にしやがれ、である。
「また、お前らと同じクラスになれて嬉しいぜ」
大石(おおいし)も梶川(かじかわ)と同じようなことを言い、俺も「そうだな」と答えておいた。この大石(おおいし)と梶川(かじかわ)…、学年1位と2位のコンビは校内試験のみならず、全国共通の実力試験でも上位に食い込んでおり、本来ならば開文中にも入れるほどの実力の持ち主であった。それが今では開文中のすべり止め校として知られる我が大塚学院の生徒である。してみると、開文中に落ちたのかも知れなかったが、例えそうだとしても大石(おおいし)にしろ、梶川(かじかわ)にしろ、卑屈(ひくつ)なところはまったく見受けられなかった。大抵の場合、卑屈(ひくつ)になるケースが散見され、実際、俺の目から見てもこいつは開文中を落ちてやむなくここに通っているんだなと、そうと分かる生徒が散見されるが、こと大石(おおいし)と梶川(かじかわ)の場合はまったくそうしたところが見受けられず、スクールライフをエンジョイしていた。大変、結構なことである。
高校生活初日は授業もなく、ホームルームで終わりを告げた。掃除当番もなく、クラスメイトは皆、寄り道しようとはしゃいでいた。その輪の中心にいるのはやはり、大石(おおいし)と梶川(かじかわ)であった。クラスメイトは皆、大石(おおいし)や梶川(かじかわ)を誘って、やれファストフード店だ、やれカラオケだとはしゃいでいた。俺はそんなクラスメイトの喧騒(けんそう)から逃れるようにそっと教室を出ようとしたものの、あいにく大石(おおいし)の目に止まってしまった。
「士郎(しろう)、お前も行くだろ?」
大石(おおいし)は俺のことをファーストネームで呼ぶ。俺は大石(おおいし)の方へと振り返った。すると同時に、大石(おおいし)や梶川(かじかわ)を取り巻く連中の顔までも、嫌でも俺の視界に入ったが、それ以上に嫌な思いをしているのは二人を取り巻くクラスメイトの方であった。どうやら俺が参加するのを皆、嫌がっている様子であった。
「まぁ、それも当然だよな…」
確かにスクールカースト最下層をねぐらとする、それこそ乞食(こじき)のような俺まで楽しいイベントに参加したら、楽しさも半減、どころ幻滅であろう。俺としてはクラスメイトの邪魔をするつもりは毛頭なかったので、
「悪いな。今日は忙しいんでな」
俺は嘘をついて、手を振ってみせると、踵(きびす)を返して教室を出て行った。クラスメイトが喜んだのはそれとほぼ同時であった。
帰宅すると俺を待ち受けていたのは母親からの質問攻勢であった。
「どこのクラスになったの?」
人を学歴と偏差値だけでか見られない人間らしい質問であった。もっとも俺としてはそれを殊更(ことさら)、非難するつもりはなかった。母親のその人を見る基準はあながち間違いとは言えなかったからだ。それどころか正しいとも言えた。確かに学歴や偏差値が高ければ高い人間ほど人間としての器が大きいとも言えた。それは大石(おおいし)と梶川(かじかわ)が何よりも証明していた。そして逆に学歴や偏差値が低ければ低い人間ほど人間としての器が小さく、何より卑屈である。それはこの俺が証明していた。
「1組だ」
「あらっ!それじゃあ特進クラスねっ!」
「そういうことになるらしい」
「それじゃあ六大学を狙えるわねっ!もしかしたら東大や京大あたりも…」
来年には特進クラスからこぼれ落ちるに違いないのに、そうとも知らずに無邪気(むじゃき)に喜ぶ母親の姿を見るにつけ、俺は心底から母親に同情した。
「自分の倅、ということもあって期待するのは仕方がないことことなのかもしれないが、俺が六大学に入れるはずもなく、ましてや東大や京大なぞそれこそ夢のまた夢、というヤツなのに…」
俺は母親の夢想は単なる夢想に過ぎず、現実になることは絶対にないと、そう真実を教えてやるべきかどうか悩んだ。だが母親の無邪気(むじゃき)に喜ぶ姿を見せつけられるととてもそんな気にはなれず、何よりそんなことを口にしたら恐らくは、
「それならこれから努力すれば良いじゃないっ!」
あるいは、
「あなたならきっと出来るはずよっ!」
とか金切り声で反論されるに違いなく、入学式初日から母親の金切り声に付き合わされるのは俺としてはとても耐えられなかったので、
「まあそうかも知れないね」
と言質(げんち)を与えないよう適当にかわすと、俺は自室に避難した。これ以上、母親と話をすればどんな言質(げんち)を取られるか分かったものではないからだ。それこそ、例えば六大学、あるいは東大や京大への合格を誓わされるとか、俺としてはそんな厄介な事態になる前にさっさと自分の部屋へと避難した方が得策だと思ったからだ。
夕方、父親が珍しく帰宅した。父親は自営業なので大抵は御前様であり、そんな夫との生活のすれ違いの寂しさや心の空白といったものを埋めるために母親はもしかすると一人息子の俺に過剰な期待、いや過干渉をすることで心の平穏を保とうとしているのかも知れなかったが、ともかく、珍しく早めに帰宅したのでその日は父親を交え、正に親子水入らずで夕食を共にした。その夕食の席で母親は俺が特進クラス入りしたことを嬉々とした様子で夫に報告した。だが夫…、父は母とは正反対に気のない様子で適当に妻の話を聞き流しているのが隣に座って夕食を口に運び入れていた俺にも容易に分かった。だが母はそんな夫の姿に気付かぬのか、あるいは気付いていても気付かぬフリをしているだけなのか、それは分からないが母親は何かに取り憑(つ)かれたように俺に対する将来の期待といったものを話し続けた。それでも母親の話を適当に受け流し続けた父親は大した人だと俺は心底から感心させられた。
父親は元来、人には興味のない人間であった。それは妻や息子に対しても同様で興味があるのは自分だけ、という極めてナルシスティックな人であった。会社経営者ともなるとナルシスティックな人間が多いのかもしれない。それが嵩(こう)じて他人には興味がない、という態度へと繋がり、それが家族にまでその対象、興味のない対象が広がるのかもしれなかった。だからと言って俺はそんな父親の人間性を非難する気は毛頭なかった。それどころか幾分(いくぶん)、どころかどれほど救われたか分からない。これで母親と同じように父親からも過剰な期待、或いは過干渉された日には俺は恐らくキレていたかもしれなかった。いくら強靭な神経…、他人から言わせると無神経、恥知らず、ということになるらしいが、そんな俺でも臨界点はある。だから父親の俺に対する無関心さ、といったものは俺にしてみれば正に愛のある無関心、というヤツであった。
それでも父親である以上、やはり息子に対して最低限の関心ぐらいは持ち合わせているらしく、夕食を取り終えて食器をキッチンへと運び終えてから俺は自室へと戻ろうとした時であった。父親はタバコを吸うべくベランダへと出ようとした時に、
「士郎(しろう)」
と俺の名を呼び、俺の足を止めさせた。父親は愛煙家であり母親は嫌煙家、それが父親が家から遠ざかる理由の一つでもあり、今日のように偶々(たまたま)、早く帰宅してからタバコを吸おうとしたら外へと出なければならなかった。この家を購入したのは父親の財布から出た金であるにもかかわらずこの家のルールの制定者は母親であった。普通なら異議を唱えても良いところであるが異議の一つも唱えないのはひとえに家の中は全て妻の好きにさせる代わりに自分も家の外では好きにさせてくれ、すなわち、何時に帰ろうとも、タバコを吸おうとも一切、ケチをつけないでくれ、という一種のバーターのようなものなのだろうかと、俺は勝手に解釈していた。ともかく父親は家でタバコを吸う際にはリビングの書棚にしまってあるピースの箱を取り出してベランダへと降り立つ、というのが我が家のルールの一つであった。
「なに?」
俺はベランダへと降り立つべくサンダルを突っかけた父親の方へと振り向いた。
「特進クラス、おめでとう」
「ああ…」
どうやら母親の話は最低限、聞いていたらしい。
「来年も特進クラスに入れると良いな」
「ああ…」
「まあお前の人生だ」
父親はそれだけ言うと俺の答えも聞かず…、いやそもそも俺の答えを聞きたいわけではなく専(もっぱ)らキッチンで洗物をしている母親に自分の言葉を聞かせたくてそう言ったのかも知れなかった。
「お前の人生だ」
つまり学歴や偏差値だけが人生ではない、父親なりの信念を母親に聞かせたかったのかもしれない。
ちなみに学歴、という点では両親共に高卒であり、今では父親は製薬会社の社長であり母親は専業主婦であった。そんな世間的には無職の母親が学歴を重視し、会社社長の父親はそれとは正反対にそれほど学歴を重視していなかった。勿論、そんな父親でも最低限の学歴は必要だと思ってはいるだろうが、それでも大学にはさほど興味はないらしい。母親はもしかしたら父親に対してコンプレックスを抱いているのかも知れなかった。同じ高卒でも自分は専業主婦で世間的には無職であるのに対して、夫は歴とした会社社長…、これで夫が大卒ならば自分は高卒だから、ということを格好の言い訳にして、世間的には無職である専業主婦の自分という存在を納得させることもできたが、しかし実際には夫も自分と同じく、高卒である。高卒だから、という言い訳はこの際、通用しなかった。例え、高卒でも本人の努力次第で、社長にまでのぼりつめることもできるのだ。だが母親はそうはせずに専業主婦に甘んじているのはひとえに、努力したくなかったからだ。そのことは誰よりも母親自身が分かっているに違いなく、母親は自分は女だからと、女を言い訳にして心の平安を保とうとしていた。その上で、
「今の時代、男なら大学ぐらい出ておかないと…」
そう時代まで言い訳として引っ張り出してきては、俺に高学歴を要求する。すべては専業主婦である自分という存在を納得させるために…、それが俺の読みであった。俺は自室に戻ると、机に並んだ実験器具を眺めた。皆、父親から贈られたものだ。少しでも化学に興味が持てればと、遊び感覚で使うと良い、とも付け加えて俺にプレゼントしてくれたのだ。決して勉強しろと強制しないあたり、いかにも父親らしかった。
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