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プロローグ
1. 誰でもいいから説明してくれ
しおりを挟む湿った風が柔らかい夏の夜だった。清閑な庭には白々しい月明かりが差し込んで、街灯など必要ないくらいに明るい。小さな太陽のような果実をたわわに実らせる大きな木の下、光の中にはふたつの人影があり、その影が隙間なく重なってからしばらくの時間が経とうとしていた。
懐かしい匂いと温もりに包まれて、涙が出そうになりながら、カランは考えている。
――ああ、死に物狂いで魔法薬を作って本当によかった。
でなければこんな掻き抱くような抱擁を、カランは一生経験することができなかっただろう。
アメジストの瞳で見上げた先には、三つ編みに結った黒髪を片側に流した精悍な顔つきがある。異国人らしく綺麗に焼けたパンケーキの裏側みたいな濃い肌の色は、光を吸って熟したオレンジに似た琥珀色の双眸によく馴染んでいた。
三つ歳上の彼は、カランの幼い頃の従者だった。今はもう違う。過ぎた歳月は自分をどんどん臆病にさせていくのに十分で、そのあいだに、かつては隣にいたはずの人は、遠く手の届かない竜殺しの英傑にまでなってしまった。
別れてから八年が経っている。出会ったのは十一の頃で、そこから数えれば十年だ。
十年。
それは、カランが彼を想い続けた時間と同じでもある。
数字にするといっそ馬鹿らしい。それだけの歳月を、たったひとりの人間に心奪われている。最初に心に抱いた親しみがいつから恋と呼ばれるものに変わったのか、それを明確な言葉で説明することはできないけれど、たしかにカランは目の前の男が好きだった。
けれども、これは不毛な恋だ。
最後に別れてから、二人には何の交流もなかった。人づてに名前を聞いたり遠目に見たりすることはあっても、声を聞くことはなかった。一度はカランの方から歩み寄ろうとしたこともあるが、すげなく拒まれている。それきり今に至っていた。
もう、いい加減終わらせなければ。
そう決心したはいいものの、出会った頃から抱え続けた十年の恋は重かった。無垢だった想いはもはや未練に成り果て、その未練は妄執と呼んでも差し支えない。ただ忘れて捨て去るには心を占めすぎている。なにか餞になるものが、報われるものがなければ、一生呪われたままだと思った。
――最後に、ほんの少しでいいから、君に恋人として愛されてみたい。
姉が主催してくれた誕生日パーティーに彼が出席すると聞いて半月、死に物狂いで調合した魔法薬。惚れ薬と記憶喪失薬をかけ合わせた複合薬は、相手を恋人だと誤認させ、効果が切れるとその時間の記憶をすべて失わせる。
十年に対して、たった十分。笑ってしまうほどの凝縮。
でもそれでいい。思い出にするには、じゅうぶんだ。
「――カラン様」
夜に溶けるような静かな声がした。
「今にも泣きそうな顔をされて、どうしたんですか?」
長い睫毛に縁取られた瞼が少し伏せがちになって、色の瞳の色が濃くなっている。幼い頃からこの美しい目を見つめるのが大好きだった。視線の先で目を細めた男は、背後に回していた手で慰めるようにカランの頭を撫でた。やさしい手つきだ。苦しくなるほど。その触れ方が昔と何も変わっていないことが、うれしくて切ない。
どうしようもなくて、カランはほどけるように笑った。
「僕って、出会った頃から君のことが本当に好きだったんだなと思って」
どうせすべて忘れる。今なら何を言っても自由だった。
ありがとう、一生分の思い出ができたよ、と言うと、ユヴェンは怪訝そうに「思い出……?」と繰り返した。
「ユヴェン、君は今、夢を見てるんだよ」
「……夢?」
「そうだよ」
夢から覚めたら、君はこの時間のことをすべて忘れる。
――……でも、おかしいな。
予定の十分はすでに経過している気がする。薬の効果が切れれば、それはすぐに分かるはずだ。なのにユヴェンは先ほどから一向に夢から覚める様子がない。それはカランにとってはとても好都合だけれど、なんだか少し不安にもなってくる。
――魔法薬、ちゃんと効いてるよね?
いや、効いているはずだ。間違いない。だって、カランはしっかり彼の気持ちを確かめたのだから。それは、魔法薬が効いていなければ彼の口から返ってくることのないはずの言葉たちだった。だから、絶対に効いている……はず。
ところで、暑いな。
季節は夏で、抱き合っていると暑い。彼が目覚めたときに、カランが急に汗を流していたら明らかにおかしいだろう。たいへん名残惜しいが、そろそろ抱き合うのをやめた方がいい気がしてきた。
もう十分すぎるほど堪能した腕の中からそろりと抜け出そうとする。が、腰に回った腕が、離れることを嫌がるようにそれを許してくれない。
「ユヴェン、そろそろ離してくれる?」
そうだった、向こうは今カランを恋人だと思い込んでいるのだ。でも大丈夫、これは恋人の言うことを何でも聞くようになる効果も入っているから、こう言えばすんなりと離してくれ――……
「いやです、夢にされたら困ります」
……――ない……?
「さっき言いましたよね、俺のことがずっと好きだった、忘れられなかった、って」
そうだ、カランは言った。何度も伝えた。この十年抱えてきた想いを、なにひとつ隠すことなく。
「こっちを見てください、――俺から逃げないで」
そむけた顔、無防備な耳朶に熱を帯びた甘ったるい声を流し込まれて、どっ、と鼓動の音が早くなった。胸がざわめいて、心臓が痛いくらい跳ねている。――思考が千々に乱れ、何も考えることができなくなりそうになる。
うなじに添えられたユヴェンの手のひらが、ひどく熱い。強制的に上向かされて、視線を逃すことができない。
「何度でも言います。俺も好きです、愛しています。――この十年、忘れた日なんか一日もなかった」
夜の中で燃えるような熱を宿すその瞳を再度見つめ、そこでようやくカランは気付いた。けれど、もうすべてが手遅れだ。
――薬の発動を示す光輪がない。
でも、ありえない。だって、この男にはとうに愛想を尽かされたはずなのだ。
そう思い込もうとするカランを否定するように、ユヴェンは懇願するように続けるのだ。
「カラン、俺のご主人様」
いったい何がどうなっている? 誰でもいいから説明してくれ。
「俺をまた、あなたのものにしてくれますか?」
――以下、回想。
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