握るのはおにぎりだけじゃない

箱月 透

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芽生えたものは

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 おしゃれな木製のドアを開ければ軽やかなカウベルの音が迎えてくれた。
「いらっしゃい。どうぞ好きなところに座ってちょうだい」
 優しく微笑むお店のおばさんの言葉に従い、端の方の二人掛けの席に腰を下ろす。さりげなく店内を見回すと、カウンター席を含めて二十席くらいあるうちの半分が埋まっていた。周囲から聞こえるさざめきのような話し声が心地良い。
 ふと目の前に座る涼を見れば、彼は物珍しそうにきょろきょろと視線をさまよわせていた。思わず頬を緩めながら、「なに食べる?」とテーブルの上にメニューを広げる。
 手作り感溢れるメニューにはカレーやハンバーグ、スパゲティーなどの写真が載っていて、その横に「当店イチバン人気!」などのおそらくお店のおばさんの手書きであろうコメントが書かれている。なんとなく『清水屋』を想起してしまい、じんわりとした温もりが胸に広がった。
「えっと……、康介は何にした?」
「俺はハンバーグセットにしようかな。すっげぇお腹減っちゃっててさ」
 お腹をさすりながら言うと、涼はクスッと笑った。
「じゃあ俺もそれにしようかな」
「りょーかい」
 二人分のオーダーをした後、涼が「康介も外で食べたりするんだな」と呟いた。
「うん、まあね。今日みたいに帰るのが遅くなる日は作る気力なんて湧かないから」
「そっか」
「涼は?」
「俺もバイト終わりに食って帰ることも多いかな。けど、ファストフードとかチェーン店とかがほとんど……って言ったら康介に怒られるかな」
 上目遣いでこちらを窺う涼に、康介は思わず笑ってしまった。
「俺もときどき食べてるよ、ファストフード」
「本当? すげぇ意外かも」
「ときどき無性に食べたくなっちゃうんだよなぁ。セットでサラダとか付けておけば大丈夫だろって自己弁護してる」
 おどけたように言ってみせると、涼は肩を揺らして笑ってくれた。
「でも、やっぱりそういうとこに気を配ってるんだ? 偉いな」
「そうかな」
 くすくすと笑いながら褒められて、胸のあたりがむず痒くなる。康介はおしぼりの端っこをイジイジと指先でもてあそんだ。
 大学のことやバイトのことを話しているうちに、香ばしいソースの匂いとともにハンバーグが運ばれてきた。
「うわ、美味しそう」
 思わず康介が感嘆をもらすと、運んできてくれたおばさんが「ウフフ、ありがとうね」と目尻の皺を深くした。
「学生さんでしょう? たくさん食べてお勉強頑張ってね」
「ありがとうございます」
 穏やかな笑顔とともにかけられた言葉に、康介も同じように笑顔で応える。
 厨房へと引っ込んでいくおばさんの背中を見送っていると、涼が「なあ」と呟いた。
「康介、ここの店よく来るの?」
「いや? 前に一回来たことがあるだけだよ」
「ふうん?」
 涼は納得いかないような表情のまま不思議そうに首を傾げている。康介は笑いながらひらひらと手を振った。
「個人経営のお店だと結構店員さんが話しかけてくれること多いよ」
「そうなんだ」
「うん。実家の近くに定食屋があるんだけど、そこの女将さんも話し好きでさ」
 話しながらハンバーグに箸を入れる。じゅわっと溢れ出した肉汁がソースと混ざり合い、キラキラと光る。ふわりと立ちのぼる湯気の匂いに食欲が刺激され、ごくりと唾を飲み込む。
「この前のゴールデンウィークに帰省してたときもその定食屋に行ったんだけど、一緒に料理作ってる最中もずっと女将さん話しっぱなしでさあ。本当機関銃みたいだったよ」
 一口サイズに分けたハンバーグを箸で掴み、パクリと口に放り込む。途端に肉の旨味とデミグラスソースのフルーティーな香ばしさが口いっぱいに広がった。疲れているときの肉ってなんでこんなに染み渡るのだろう。ふわふわと幸せな気分になり、うんうんと頷く。
 ちらりと涼を窺えば、彼もちょうどハンバーグを口に運んだところだった。やけに神妙だったその表情がホロッと綻ぶのを見て、康介も頬を緩める。
「ん、一緒に料理って?」
 セットのコーンスープのカップに手を伸ばしながら涼が尋ねる。
「新しい料理を教えてもらってた。俺、料理はほとんどその女将さんに教わったんだ」
 パクパクとハンバーグを頬張りながら康介が言うと、涼がわずかに目を見開いた。おや?と康介が訝しく思うと同時に、涼はふっと眉を下げて笑った。
「やっぱりそうだったんだな」
「え?」
 静かに、まるでひとり言のように呟かれた言葉。康介はまじまじと目の前の涼の顔を見た。
 彼の涼やかな黒い瞳はコーンスープのカップも康介も通り越して、どこか遠くを見つめている。穏やかで柔らかな眼差しだが、……けれどどこか、ちらりと微かに切なさの影が浮かんでいる気がする。
 かける言葉が見つからないまま涼を見つめていると、その視線に気づいた涼がハッとした表情になった。取り繕うようにさりげなく微笑んでみせた彼は、さっき飲んだばかりのカップに再び口をつけている。
 康介も何も言えないまま、少し冷たくなったハンバーグに箸を刺し入れた。ドクリ、ドクリと高鳴る心臓の音が、やけにうるさく聞こえていた。

 店を出ると、夜空にはいつのまにか鈍色の雲が薄くかかっていた。欠けた月の明かりを頼りに、すぐそばのアパートまでの道のりをのんびりと二人で辿る。
「いやー、お腹いっぱいになったな」
「結構な量あったもんな」
 少し後ろを歩く涼を振り返ると、お腹を撫でながら涼が苦笑をもらした。もともと少食気味な涼には少し量が多すぎただろうか、と康介は思わずじっと涼を見つめる。
 そんな心配を見透かしたように、涼はにこっと笑ってみせた。
「でも、美味しかったよ」
「ほんと? よかった」
「康介の誘いについてくといつも美味しいもん食えるな」
 ふざけるように軽口を叩いて笑う涼と同じように笑おうとして、──ふと疑問が頭をよぎる。
 初めて涼を部屋に招いた、あの日。作りすぎたカレーを一緒に食べてくれた涼は、どうしてあの突然の誘いに乗ってくれたのだろう。
 あの時点ではまだ仲良くなれていたとは言い難いし、お互いのことなんてほとんど何も知らなかったのに。なぜ、自ら人との距離をつめようとはしない涼がわざわざ部屋に来てくれたのだろう。
 いやもっと前の、引っ越した初日だってそうだ。挨拶に行っただけの康介に「仲良くしてくれる?」と尋ねた涼は、どうして距離をつめて仲良くなろうとしてくれたのだろう。康介はふっと地面に視線を落とす。ゆるゆると歩く二人の足元には、雲の影がゆらりと漂っていた。
考え込むうちに、いつのまにか自室の前にたどり着いていた。
「じゃ、おやすみ。水曜日も楽しみにしてる」
 ひらりと手を振った涼が、ドアの向こうへと消えていく。康介はぼんやりとしたままそれを見送った。
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