【完結】20-1(ナインティーン)

木村竜史

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Case11【竹房征樹】セイレーンの歌声

後編

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 僕の視線に気づかないのか、星浜と名乗る女性は右手をひたすらに動かし、何を表現しているのかまるでわからないデタラメな旋律を奏で続けていた。よくオーケストラなどで旋律によって情景を想像できるという輩がいるが、想像することよりもテキストに書かれている説明文しか記憶することしか出来なかった僕には、このような抽象的なものはわからなくて当然なのかもしれない。

 それでも、僕の足を止めてこうして何かを考えさせることをさせるあたり、この滅茶苦茶で奇天烈なメロディにはきっと何かがあるのだろう。それは恐らく、僕が箱庭にいた頃やそこから抜け出して産声を上げた後、そして今に至るまで全く触れることが出来なかったものなのだ。左手の指の形を変えながら弦を押さえる場所が移り変わり、丸みを帯びた三角形の恐らくプラスチック製であろうピックを摘んだ右手が軽やかに振り落とされる。
 全ての弦を勢いよく弾くと独特の和音が鳴らされたと思えば右手はすぐに上へと戻され、また弾かれた弦たちがまた和音を奏でる。忙しなく両の手が動かされ、交互に弾かれる六本の弦から聞こえる連続した音の暴力が僕の鼓膜を一切の容赦なく攻めていった。

 このアコースティックギターが掻き鳴らす訳の分からない大量の音符が僕の耳の中に入り耳孔の中を暴れ回る度に、胸の中でずっと燃え続けていた怒りの炎がまるでオーディオスペクトラムのように激しく揺さぶらせていく。

 旋律がどんどん激しくなる。どうやらこの曲のクライマックスのようだ。彼女が弾き続ける六本の弦以外に音を発しているものは何もない。少しメインストリートのほうへ歩けば、激しい喧騒と騒音が街道を支配している筈なのに、この音色で全ての音が上書きされているのではないだろうか。まるで、アコースティックギターの音で世界を支配しているような。そんな感覚すら覚えていた。

 ピックを持った右手を大きく空に掲げて、一際大きな和音を掻き鳴らし、曲の終わりを告げる。白く細い首が激しく振られ、額に浮かんでいた汗が宙を舞い、LEDの人工的な激しい光に反射して輝いた。

「センキュゥ……!」

 星浜という名の女性は大きく息を吐きながら、絞り出すように声を出した。夜とはいえ一年のうち一番暑いこの時期にあれだけ腕を激しく動かしていたから当然ではあるが、額だけでなく腕などにも大量の汗を流していた。肩を出しているキャミソールのような服が薄く汗に濡れ、どことなく扇情的な雰囲気を醸し出していた。

「いやぁ、こんな夜にわざわざありがとうね、少年。月は見えないけどいい夜じゃあないか!」

 空のギターケースの影に置かれていたビニール袋から水が入ったペットボトルを取り出し、封を開けて一気に飲み干して一息ついた後に、ようやく僕の存在に気づいた女性は口角の片方だけ上げてニヤリと笑う。その自信に満ちたような笑みに、胸の奥の炎の勢いが少しだけ強くなった。

「しかし、キミもつくづく運がいいねぇ。あたしの曲を独り占めできるなんて、こんな夜に愛をもってあの隕石を歓迎できるなんて。いろんな意味で幸せかもしれないよ。キミは幸せかい? 愛、感じてるかい?」

 愛をもって?

 目の前で無邪気に微笑う女性の言っていることが全くもって理解できなかった。世界を滅ぼす巨大な隕石をなぜ愛をもって歓迎する? なぜ愛? そもそも愛とは? 文化が違うという概念を飛び越えて、違う星の生き物の言葉を聞いているようだ。奏でている曲がデタラメならば、思想すらデタラメなのか。

 胸の中で燃え続けている怒りをもって歓迎しようとする僕とまるで正反対だ。自分自身の感情が正しいものだなんて微塵も思っていないが、こんな女性と意気が合った会話などできる気がしないし、僕の足が止まったのはただ単にまるで波長が合わないから、それに違和感を感じてしまっただけに過ぎないのだと納得する。

 それと同時に、こんな愛をもって歓迎するなどと世迷い言を口にするような女性の滅茶苦茶な音の羅列で怒りの炎が揺らいでしまったという事実に、自分自身に向かって激しい怒りを覚える。

「下らない事を言わないでくれよ」

 一度声に出してしまったなら、もう止まる事はない。止まれない。堰を切ったように怒りの感情が声になって溢れ出す。

「愛をもって? 僕は、怒ってるんだよ。この世界を滅ぼすあの隕石が。何も知らなかった僕を目覚めさせて産声を上げさせたこの隕石を。アレがこっちに飛んでこなければ幸せになるために何もかも我慢して、不条理に耐えていることすら知らないままに生きていられたんだ。なんで愛なんてよくわからない感情を向けてやらないといけないんだ? だって僕は! 僕は!」

 僕は。

 腹の底から湧き上がるこの気持ちを制御できない。制御なんてする気も湧かなかった。あの時母親に向けた感情が再び爆発する。

 僕は。

 僕は!

「誰にも愛されることがなく死んでいくんだぞ!? それなのに、あんなもの、どうやって愛せっていうんだよ! そんなの無理に決まってるじゃないか!」

 僕の心からの叫びを聞いた目の前の女性は、驚くこともなく平然としている。まるで、そんなことは心底どうでもいいとでも言いたそうな目で、こちらを覗き込んでいた。

「そりゃあそうでしょ。キミ、愛ってなにかわかってないじゃない? まさか、昔の歌みたいに躊躇わないことかなにかと思ってないかい? 愛ってのは相互的なモンだよ。与えるだけの愛なんて、そんなんはマスタベと一緒さ。愛を受け取ったなら、その分だけ愛を返してあげないとダメなんだ。あの隕石はね、きっと寂しいんだよ。だからこそ、人肌で温められてぬっくい地球にぶつかって一つになろうとしてる。それこそ愛をもって、ね」

 小さく風が吹く。昼間の太陽のような眩いほどに光る街灯の下、赤く染められた短めの髪が燃えるように揺らめいた。僕の胸の中で激しく燃え盛る怒りの炎とはまるで違う。それはまるで、真っ暗な夜の闇を優しく温かく照らす篝火のようだった。

 彼女のしなやかで健康的な脚が、小さく楽しそうにステップを刻んでいる。今にも踊り出しそうだ。口元から笑みを消さないまま、言葉を続けていく。

「だからさ。抱きしめたいって両腕を広げてこっちにやってくる子を拒んじゃあいけないのさ。こっちも受け入れなきゃいけないんだ」

「その結果、死ぬ事になってもか? その腕で殺されるようなもんじゃないか」

 苛立ちを隠さずに目の前の女性を睨みつける。相変わらずその視線などどこ吹く風だと言いたそうにステップを刻み続けていた。

「あたし達が隕石に殺されるんじゃないよ。あの星と地球のハグに押し潰されちゃうんだ。愛し合う二人はきっと、恥ずかしがり屋なんだ。誰にも見て欲しくないから、上に乗ってる人をふるい落としちゃうだけなんだ。きっとね」

 そう言って再びアコースティックギターを持ち直し、軽く弦を弾く。間抜けな音が二つ、夜になった無音の街を駆け抜けていく。

「だからさ」

 今度は全ての弦を弾く。六つの音が重って和音となり、およそ秒速三百四十メートルで何処か遠くに消えていった。

「もうすぐ世界が終わるんだ。折角だから、愛してみなよ、この世界をさ。世界を愛することができれば、あたしの言ってることも、あたしとエースのデュオの意味もさ、きっとわかると思えるぜ」

 そんなこと、出来るはずがない。終わるはずの世界を愛するなんて芸当ができるのであれば、よほどの狂人だ。そもそも僕が見ていた世界はいつだって不条理と暴挙に満ちていて、何かを愛するとか愛さないとか、そういう次元の問題ではなかった。

 だからこそ、怒りの声を上げたのだ。ただ耐えていれば幸せになれるとだけ考えながら漠然と生きていた僕にとっては、耐えることすら出来なく無意味に死んでいくことがとてもとても腹立たしかったのだ。

「無理に決まってるだろ。だって――」
「どうやって愛していいかわかんないから、だろ? だってキミ、そんな顔してるヨ、さっき愛されたことがないって言ってたけど、もしかして身寄りとかがないとか、トンデモな親だったってところかい? なんかそんな感じだろう?」

 彼女は僕の言葉を遮りながら、デリカシーの欠片もないことを言い出す。反論したくても、その言葉に言い返すことは出来なかった。何故なら彼女の言うことは事実そのものだからだ。つい最近まで箱庭の中で生きてきた僕に、両親は一般的な愛のような感情を、僕に向けていただろうか。彼女の言う愛を、向けてくれていたのだろうか。

 子供の頃に同級生の家に遊びに行った時、遠くから息子を優しく見つめていた母親。あの暖かい日溜りのような視線を両親から感じたことなど、ただの一度もなかった。記憶の中にある二人の目は、思い出すだけで刺し殺されそうな、身震いする程に冷たいものだったのだ。

「ふふん、図星ってところだね」

 何も言えずに視線を逸らした僕に向かって、どこか悪戯っぽく微笑う。虚仮にしているのかと思わず再び声を荒げそうになったが、その屈託のない笑みに何処か悲しむような、慈しむような。それこそ先ほど思い出した友人の母親に似た面影を感じてしまったのだ。

 形は違っても、それは確かに慈愛に満ちていた。同じ性別の『女』を盲目的に憎み続ける母親が絶対に見せないような、今まで見たことのないその微笑に、僕自身の胸の中の炎の勢いが忙しなく変わり続けていく。

 おおよそ彼女にそのような印象など感じていなかった。白い歯を見せながら、街灯の激しい光にも負けないほどの眩しい笑みを浮かべている。その笑みが、どうして慈愛に満ちていた友人の母親を思い出すのか、僕自身にもわからない。

 僕の困惑など意に介さず、目の前の女性は何か大きなものを抱くかのように両の腕を広げながら、息を大きく吸い込む。未だ彼女自身の汗で微かに濡れた薄手のキャミソールで強調された豊かな乳房が、肺の中に取り込まれた空気に押し出されてさらに大きく膨らんだ。

「じゃあ、あたしがあと四時間だけ、世界が終わるまで、キミを力一杯愛してあげるよ。キミはただ、感じたものをあたしに向かって同じだけぶつけてみればいい。それが、愛し合うってことだ。家族愛でも隣人愛でも恋人達の愛でも、なんだっていい。とにかく、この愛に満ちた世界の最後の最期に愛を知らないで死ぬなんて勿体無い! だから、愛を覚えてくれ!」

 最後の方は叫ぶように懇望しながら、先程まで薄く笑みを浮かべていた顔から一転し真剣な眼差しを僕に向けている。その夏の終わりの空のような温度差に、何故か首を縦に振ってしまった。

 こんなことに意味はない。ここに来たのも首を縦に振ったのも、ただの気紛れだ。誰も僕の事を知らないこの銀城の街で一人で死んでいこうと思っていたが、地球が終わる四時間を共にいると答えた珍妙な女性の言葉が、妙に心地よかった。

 お互い、名乗りあってすらいない。『星浜 結』という名前なんて、おそらく偽名だろう。この街をメインに活動しているプロ野球チームを捩ったネーミングだろう。そんな二人が、彼女曰く『愛を教え、それを与え合いながら死ぬ』なんてあまりに奇妙で、馬鹿馬鹿しい。アコースティックギターの音に釣られた僕は、短い人生の最後の気紛れを起こしてここまで来たのだ。名前も知らない女性と、相反する感情を抱いたまま共に地球の無理心中に付き合うのも、一興な気がした。

「じゃあ、こっち来てよ」

 再びニヤリと口角を上げた彼女の右手が俺の右手を優しく握る。胸の中の炎が少しだけ弱くなる。少し力を入れて握り返すと、なんだか炎とはまた別の感覚が胃袋の方からせり上がってくるのを感じた。

 この感覚が一体何なのかはわからない。ただ言えることは、僕が箱庭にいた頃にも怒りにまみれた産声を上げた時からも感じたことのない不思議なものであった。

 もうすぐ世界は滅びる。それまでにこの感覚の正体を求めるのも、悪くはないのかもしれない。勢いが増したり翳ったりする胸の奥の炎が、命の灯火より先に消えることがあるのだろうか。

 星が殆ど見えない都会の空の下、街頭の激しい光が一瞬だけ微かに弱まった。
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