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6月2日(金)雨 『週末のモラトリアム』
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紺野のことがわからなくなった。
待ちに待った金曜日。授業が終わると僕はまっすぐ寮の部屋に向かい、栗谷のマンションに向かうための準備にかかった。
そこに忽然と、本来であれば部活に行っているはずの紺野が、野球部のユニフォーム姿のまま顔を出したのである。
最初、忘れ物でも取りに来たのかと思ってあまり気にとめなかったのだが、紺野は部屋から出ていかない。何をするでもなく自分のベッドに腰掛けて、そこから僕の様子を見つめている。
何か用? と訊ねる僕に、紺野は少し口ごもったあと、思い切ったように『週末、一緒に遊ばないか』と返してきた。
――はあ? 何で僕が紺野と?
そのとき僕は、ただただ早くマンションに向かいたいという気持ちで、それを妨げるように部屋に居座る紺野に苛立ちを感じはじめていたから、紺野への返事はいきおい辛辣なものになった。
――たまにはいいだろ? 一緒に遊んだら楽しいと思うからさ。
けれども紺野はめげずにそんな返答を返してきた。
――遊ぶって言ったって、どこで遊ぶんだよ。
――遊園地とかどうよ?
――遊園地? 何で僕が紺野とそんなデートみたいなこと……。
言いかけて、そこで僕は紺野の表情が変わっていることに気づいた。……それは、文字通り必死な表情だった。まるで意中の女子に一世一代の告白をしているような――
だがそこまで考えて、それが『まるで』でも何でもなく、それそのものであることに僕は気づいた。
紺野は僕をデートに誘っているのだ。そして言うまでもなく、それは僕への好意を打ち明けていることに他ならない。
はっきりとそれを理解した僕の胸に、例によってふわふわした落ち着きのない気持ちが湧きおこってくるのがわかった。
けれどもそのときの僕の中には早くマンションに向かいたいという気持ちが強く存在していたから、紺野の言葉によりにわかにもたらされた感情よりもそちらの気持ちの方が勝った。
――ごめん、土日どっちも用事あるから。
そう言って手早に荷物をまとめ、僕は部屋を出ようとした。だが、ベッドから立ち上がった紺野がその前に立ち塞がるようにドアの前に立った。
――どいてくれよ。出られないだろ。
冷たく言い放つ僕に、紺野は必死な表情のまま何も言わず、ドアの前から動かない。僕は舌打ちをし、強引に押し通ろうとした。けれども女になったこの身体で曲がりなりにも運動部の紺野を押し退けられるはずもない。
――おい! いい加減にしろよ!
ついに僕が大声で怒鳴ると、そこではじめて紺野はドアから離れ、どっかりとベッドに腰を下ろした。
そのまま紺野が両手で顔を覆い、小さなうめき声をもらし始めるのを無視して、僕は逃げるように部屋をあとにした。
そして今、僕は誰もいない栗谷のマンションでこの日記を書いている。
紺野のことがわからなくなった――冒頭にはそう書いたが、こうして文章にしてみると何となく……いや、はっきりとわかってくることがある。
なにしろ昨日の今日だ。寝床で僕があれだけ言葉を尽くして諭したにも関わらず、今日もまた紺野があんな行動に出たことが、あいつの中にあるものを雄弁に物語っている。
紺野は、僕に恋愛感情を抱きはじめているのだ。僕が女になったことを知らぬまま……つまり、男としての僕に。
……そのことを思うと居たたまれない。そんな紺野の想いに、僕は応えることができないからだ。
日記だから、正直に自分の気持ちを書く。
もし紺野が恋愛とかそういうのは関係なしに、ただ純粋に僕とセックスしたいと言ってきたのだとしたら、状況によっては僕はそれに応じていたかも知れない。
けれども今日のような調子で、明らかに恋愛がらみのイベントに付き合ってくれと紺野に言われたなら、僕ははっきりと断らざるを得ない。
TS病の進行は僕に、男とのセックスに関する少なからぬ興味を植え付けつつある。だが一方で、男との恋愛については少しの関心もいだかせはしないのだ。
自分の心を素直に観照してみると、そのあたりはとても明確に切り分けられていることがわかる。ちょうど思春期の男子が女子とのデートになどまったく興味を示さず、ただただ女子とのセックスにのみ強い衝動を覚えるのと似ている。
……なるほど、未成熟な女子の身体に思春期男子の性衝動とは言い得て妙だ。それはただ激しさのみならず、性質までもが同じ、ということだったのだ。
だから紺野にしてみたところで、僕をネタにオナニーしているとか言っているうちは良かったのだ。思春期男子の迸るような性欲にあてられ、僕は紺野に犯される妄想を楽しむこともできた。
けれども今、紺野の中に僕への本気の恋心などという不純物が生まれはじめているのだとすれば、それはもう僕にとって煩わしいだけだ。
半年前まで男だった者として、同じ部屋で寝起きする僕に恋をしてしまった紺野の苦しい胸の内が理解できないでもない。
だが情にほだされて僕がその想いを受け容れたが最後、どうしようもなく面倒くさいことになるのは目に見えている。いくら男とのセックスに興味がわいてきているとはいえ、そんなものを背負い込んでまで紺野とセックスしたいとは思わない。
……ただ、そうなるとどうすればいいのだろう。紺野と僕がひとつ部屋に寝起きしている以上、紺野の恋心は大きくなる一方だろうし、もっと真剣に告白してくるのも時間の問題だ。高校生男子のリビドーを思えば、寝込みを襲われる危険性も充分にあり得る。
となれば、ルームメイトを替えてもらうくらいしか解決策は見いだせないが、そのためにはよほど説得力のある理由が必要になってくる。紺野の口添えもまず期待できないだろうし、うまくいくようには到底思えない。
……と、深刻な方向に陥りかけたが、何も今からそんなことを考えなくてもいいのではないだろうか?
そう――今からそんな頭の痛くなるようなことを考えなくてもいい。待ちに待った金曜の夜、栗谷のマンションにひとりで過ごす時間を謳歌しているのだから、嫌なことはすべて忘れてこの時間を楽しめばいいのだ。
ちなみに今、僕はノーブラTシャツにショーツ一枚というあられもない格好でこれを書いている。紺野と過ごすあの部屋でこんな格好をしていれば僕は即座に処女を奪われることになるのだろうが、ここではこんな格好でいても――ましてや一糸まとわぬ裸でいてもいいのだ。
男の目を気にせず、こうして女子として過ごせるこの部屋は、本当に快適だ。
……ここで過ごす時間がモラトリアムであることはわかっている。週が明ければ僕はまたあの寮に戻り、紺野との問題に向き合わなければならない。
ただ、その問題を今ここで考える必要はない。
そのときのことはそのときの僕に任せて、今はこのワンルームマンションで過ごす自由な時間をめいっぱい楽しもうと思う。
待ちに待った金曜日。授業が終わると僕はまっすぐ寮の部屋に向かい、栗谷のマンションに向かうための準備にかかった。
そこに忽然と、本来であれば部活に行っているはずの紺野が、野球部のユニフォーム姿のまま顔を出したのである。
最初、忘れ物でも取りに来たのかと思ってあまり気にとめなかったのだが、紺野は部屋から出ていかない。何をするでもなく自分のベッドに腰掛けて、そこから僕の様子を見つめている。
何か用? と訊ねる僕に、紺野は少し口ごもったあと、思い切ったように『週末、一緒に遊ばないか』と返してきた。
――はあ? 何で僕が紺野と?
そのとき僕は、ただただ早くマンションに向かいたいという気持ちで、それを妨げるように部屋に居座る紺野に苛立ちを感じはじめていたから、紺野への返事はいきおい辛辣なものになった。
――たまにはいいだろ? 一緒に遊んだら楽しいと思うからさ。
けれども紺野はめげずにそんな返答を返してきた。
――遊ぶって言ったって、どこで遊ぶんだよ。
――遊園地とかどうよ?
――遊園地? 何で僕が紺野とそんなデートみたいなこと……。
言いかけて、そこで僕は紺野の表情が変わっていることに気づいた。……それは、文字通り必死な表情だった。まるで意中の女子に一世一代の告白をしているような――
だがそこまで考えて、それが『まるで』でも何でもなく、それそのものであることに僕は気づいた。
紺野は僕をデートに誘っているのだ。そして言うまでもなく、それは僕への好意を打ち明けていることに他ならない。
はっきりとそれを理解した僕の胸に、例によってふわふわした落ち着きのない気持ちが湧きおこってくるのがわかった。
けれどもそのときの僕の中には早くマンションに向かいたいという気持ちが強く存在していたから、紺野の言葉によりにわかにもたらされた感情よりもそちらの気持ちの方が勝った。
――ごめん、土日どっちも用事あるから。
そう言って手早に荷物をまとめ、僕は部屋を出ようとした。だが、ベッドから立ち上がった紺野がその前に立ち塞がるようにドアの前に立った。
――どいてくれよ。出られないだろ。
冷たく言い放つ僕に、紺野は必死な表情のまま何も言わず、ドアの前から動かない。僕は舌打ちをし、強引に押し通ろうとした。けれども女になったこの身体で曲がりなりにも運動部の紺野を押し退けられるはずもない。
――おい! いい加減にしろよ!
ついに僕が大声で怒鳴ると、そこではじめて紺野はドアから離れ、どっかりとベッドに腰を下ろした。
そのまま紺野が両手で顔を覆い、小さなうめき声をもらし始めるのを無視して、僕は逃げるように部屋をあとにした。
そして今、僕は誰もいない栗谷のマンションでこの日記を書いている。
紺野のことがわからなくなった――冒頭にはそう書いたが、こうして文章にしてみると何となく……いや、はっきりとわかってくることがある。
なにしろ昨日の今日だ。寝床で僕があれだけ言葉を尽くして諭したにも関わらず、今日もまた紺野があんな行動に出たことが、あいつの中にあるものを雄弁に物語っている。
紺野は、僕に恋愛感情を抱きはじめているのだ。僕が女になったことを知らぬまま……つまり、男としての僕に。
……そのことを思うと居たたまれない。そんな紺野の想いに、僕は応えることができないからだ。
日記だから、正直に自分の気持ちを書く。
もし紺野が恋愛とかそういうのは関係なしに、ただ純粋に僕とセックスしたいと言ってきたのだとしたら、状況によっては僕はそれに応じていたかも知れない。
けれども今日のような調子で、明らかに恋愛がらみのイベントに付き合ってくれと紺野に言われたなら、僕ははっきりと断らざるを得ない。
TS病の進行は僕に、男とのセックスに関する少なからぬ興味を植え付けつつある。だが一方で、男との恋愛については少しの関心もいだかせはしないのだ。
自分の心を素直に観照してみると、そのあたりはとても明確に切り分けられていることがわかる。ちょうど思春期の男子が女子とのデートになどまったく興味を示さず、ただただ女子とのセックスにのみ強い衝動を覚えるのと似ている。
……なるほど、未成熟な女子の身体に思春期男子の性衝動とは言い得て妙だ。それはただ激しさのみならず、性質までもが同じ、ということだったのだ。
だから紺野にしてみたところで、僕をネタにオナニーしているとか言っているうちは良かったのだ。思春期男子の迸るような性欲にあてられ、僕は紺野に犯される妄想を楽しむこともできた。
けれども今、紺野の中に僕への本気の恋心などという不純物が生まれはじめているのだとすれば、それはもう僕にとって煩わしいだけだ。
半年前まで男だった者として、同じ部屋で寝起きする僕に恋をしてしまった紺野の苦しい胸の内が理解できないでもない。
だが情にほだされて僕がその想いを受け容れたが最後、どうしようもなく面倒くさいことになるのは目に見えている。いくら男とのセックスに興味がわいてきているとはいえ、そんなものを背負い込んでまで紺野とセックスしたいとは思わない。
……ただ、そうなるとどうすればいいのだろう。紺野と僕がひとつ部屋に寝起きしている以上、紺野の恋心は大きくなる一方だろうし、もっと真剣に告白してくるのも時間の問題だ。高校生男子のリビドーを思えば、寝込みを襲われる危険性も充分にあり得る。
となれば、ルームメイトを替えてもらうくらいしか解決策は見いだせないが、そのためにはよほど説得力のある理由が必要になってくる。紺野の口添えもまず期待できないだろうし、うまくいくようには到底思えない。
……と、深刻な方向に陥りかけたが、何も今からそんなことを考えなくてもいいのではないだろうか?
そう――今からそんな頭の痛くなるようなことを考えなくてもいい。待ちに待った金曜の夜、栗谷のマンションにひとりで過ごす時間を謳歌しているのだから、嫌なことはすべて忘れてこの時間を楽しめばいいのだ。
ちなみに今、僕はノーブラTシャツにショーツ一枚というあられもない格好でこれを書いている。紺野と過ごすあの部屋でこんな格好をしていれば僕は即座に処女を奪われることになるのだろうが、ここではこんな格好でいても――ましてや一糸まとわぬ裸でいてもいいのだ。
男の目を気にせず、こうして女子として過ごせるこの部屋は、本当に快適だ。
……ここで過ごす時間がモラトリアムであることはわかっている。週が明ければ僕はまたあの寮に戻り、紺野との問題に向き合わなければならない。
ただ、その問題を今ここで考える必要はない。
そのときのことはそのときの僕に任せて、今はこのワンルームマンションで過ごす自由な時間をめいっぱい楽しもうと思う。
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