Make A Joyful Noise!

外鯨征市

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第10話

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「ねぇねぇ東郷くん!」
 登校して上履きに履き替え、教室に向かおうとしていた東郷に声が掛けられた。振り返るとそこには女子生徒が立っていた。
「えっと……」
 フレンドリーな女子生徒であるが東郷は彼女とは面識がなかった。彼はあまり友好的な性格ではないが高校に入学して半年は経過している。その女子生徒は少なくともクラスメイトではないことは理解できた。
 果たして彼女は誰なのだろう。
 東郷の交友関係はあまり広いほうではない。ましてや目の前の相手は女子生徒だ。女子という存在ほど東郷にとって遠いものはない。
 彼は何と返事をすれば良いのか悩んだ。
 東郷は相手と面識がないけども、それはただ単に彼が忘れているだけかもしれない。普通の人間ならば質問することができるのかもしれないけども、残念なことに東郷は「どちら様ですか?」と聞くような勇気を持ち合わせてはいなかった。
 戸惑っている東郷に気を使ったのか。それとも相手に気を使わない強引な性格なのだろうか。彼女は自身の名を名乗ることなく本題を切り出した。
「私たちのバンドに入って欲しいの」
「いや、僕は……」
「実力なら折り紙付きだって鶴見先輩から聞いているから」
 その発言で目の前の女子生徒が同級生ということに気づいた。鶴見は二年生だ。必然的に彼のことを先輩呼ばわりするのは一年生だけということになる。
 なんてことをしてくれたのだろう。
 彼女にとって鶴見は先輩だ。
 しかし東郷にとっては戦犯だった。
 勧誘するためにわざわざ昇降口で待ち構えていた彼女はバンドの内情を語る。仲のいい同級生でバンドを組んだもののベース担当者がいなかったこと、先輩からベースを借りて一時的に彼女がベーシストを務めていること。そして東郷が加入してくれれば彼女はリードギターにコンバートすることができ、より表現の幅が広がるということを。
「ごめん。今は吹奏楽部の助っ人に入っているから時間が……」
「え? 吹奏楽部の関係者なのに軽音楽の部活動昇格を手伝ってくれたの?」
 軽音楽部と吹奏楽部はお互いに敵として認識しているようだった。
 いくら猛烈に部活動昇格を阻止しようとしていた吹奏楽部だって一枚岩ではないだろう。心の中で部長とは異なる意見を持っている部員だっているかもしれない。
 しかし目の前の軽音楽部員はまるで吹奏楽部の総意として部活動昇格を阻止しようとしていたかのような言いぐさだった。
「いや、中学時代の吹奏楽部を手伝っているから……」
「卒業したのにずっと手伝わないといけないの?」
 これまで軽音楽部に勧誘してきたのは鶴見だけだった。
 幼馴染ということもあってその誘いを断るのは簡単だった。
 しかし鶴見はこれを狙っていたのか、それとも偶然こういうことになってしまったのか。他の部員たちを勧誘に送り込む手段を取り始めた。よりにもよって今回の伏兵は女子生徒だった。これまでにほとんど女子と関わったことがなく、免疫がない東郷はただ戸惑うしかなかった。
「ううん。今度の定期演奏会に卒業生として参加してくれって言われていて……」
「じゃあそれが終われば軽音部に入部できるね?」
「いや、それは……」
 東郷は言葉に詰まった。
 忙しくて部活に参加している余裕がないという主張はあっさりと潰されてしまった。隣町から通学しているから放課後に部活をするのは難しいという理由を使って断ろうと考えたがそれもすぐに諦めた。鶴見の実績があるからそんな理屈は通りそうにはなかった。ましてや鶴見は隣町から通学しながら部活動に参加しているだけでなく、進学塾にも通っている。「東郷は塾に通っていないから放課後に時間があるでしょう?」と反論されるのが関の山だ。彼女は東郷が塾に通っていないことを知らないかもしれないが、鶴見が入れ知恵をしていないとは思えなかった。
 どのようにこの場を切り抜けようか。
 東郷が悩んでいると廊下の向こうから知っている人物が近づいてきた。
 大村だった。
 東郷が練習しているのは鳴子川高校吹奏楽部との合同演奏のためだ。彼女たちとの共同演奏に向けて母校の細島中学校では練習に熱が入っているが、それと同じようにゲストたちも本気で準備している。
 東郷はその共同演奏に参加するかどうかの結論を出せていないが、他の部員たちはきっと参加するだろうと考えているらしい。
「先輩、おはようございます」
「………………」
「先輩?」
「………………」
 東郷は本能的に挨拶を送ったが、その返答が返ってくることはなかった。
 無言を貫く大村は普段とは違っていた。彼女は後輩から挨拶をされたらすぐに返答するどころか、後輩が気づかなかったとしても陽気に話しかけるような性格だったはずだ。
 確かに大村は東郷の存在を認識していた。
 さらに東郷のすぐ横を通過していった。
 周囲が混雑していて声が聞こえなかったわけではない。
「……東郷くん?」
「あっ、ごめん」
 軽音楽部の部員と会話している途中に大村がやってきたから少しだけ挨拶するつもりだった。しかし彼女の様子に困惑し、話し相手の言葉を一切聞いていなかった。
 普段の大村ならばすぐ隣にいた東郷を見落とすわけがない。そして彼女ならばこちらが戸惑うようなハイテンションで接してくるはずだ。
 初めての対応に東郷は戸惑いながら、未練がましく大村が去っていった方向に振り返った。
 首に白いギブスを巻き、腕を三角巾で吊るして松葉杖をついている。
 そこには満身創痍の枕崎と楽しそうに話す大村の姿があった。

 土曜日の朝。
 東郷は中学校の音楽室に来ていた。
 今日は最後の合同練習の日。
 そして明日が本番だ。
 彼は階段を登りながら明日に対して緊張していた。
 本番当日にステージ脇で控えている時とはまた違った緊張感。本番前日の独特な緊張感を東郷は心のどこかで懐かしんでいた。
 それにしても最近の休日は毎日のように母校の吹奏楽部に顔を出している。これでは現役時代と変わらないどころか、実質的に高校でも吹奏楽を続けているようではないか。
 再びの日常となった音楽室に向けて階段を踏みしめる。
 一段一段と登っていくにつれて人の気配が増えていく。
 しかし違和感があった。
 いつもならばこの時間帯でも早くに到着した部員たちが練習を始めている。しかし今日は楽器の音がしないのだ。人の声は聞こえてくるが肝心の楽器の音がしない。
 音楽室が入った三階に到着した。
 廊下の奥では部員たちが言い争っている。そして廊下のところどころでは他の部員たちがその様子を心配そうに伺っていた。
「え、何かあったの?」
 現役時代には話したことがなかったが一応は顔を知っていた近くの後輩に聞いてみた。彼女は野次馬に熱中していたようで突然東郷に声を掛けられたことに驚いていたが、把握できている限りのことを説明してくれた。
「なんかコンクールの結果のことで喧嘩になったみたいですよ」
「コンクールの結果って?」
「ほら、私たちって今年は銀賞で、鳴子川高校は銅賞だったじゃないですか。それで演奏技術がどうとか経験年数がどうとかで喧嘩になったそうです。私もよく分からないんですけど鳴子川の部長の機嫌が悪かったみたいで、ちょっとした事で言い争いなったみたいで……」
 後輩からの説明を聞いていたが、話題の中心ではさらにヒートアップしている。言われてみれば鳴子川陣営では大村が先陣に立って激高している。これではいつ掴み合いの本格的な喧嘩になってもおかしくはない。細島中学校の関係者で大村をよく知っているのは東郷だ。ここは東郷が間に割って入るしかないだろう。それに毎回のように合同練習に参加しているから鳴子川高校の吹奏楽部にも多少は顔が効くかもしれない。
 ここは自分が動くしかないんだ。
 そのように東郷は覚悟を決めると人混みをかき分けて争いの最前線へと入っていった。
「先輩! 落ち着いてください!」
「銀賞が何なのよ! 去年までは銅賞だったのに!」
「らしくないですって! 先輩!」
「東郷も東郷よ! 吹奏楽を辞めたのにノコノコ戻ってきて!」
「先輩ってば!」
「関係者でもないのに軽音の手伝いをしいたくせに!」
「落ち着いてって! 大村先輩!」
「東郷は黙ってて!」
 大村はヒステリックに叫ぶと東郷を突き飛ばした。
 東郷は壁に打ち付けられて背中に激痛が走る。痛みに耐えながらも争いの中心地点を見ると関係者たちの雰囲気が変わっていた。
 顔を知っている自分たちの先輩が暴力を振るわれたのだ。その暴力を振るったのはその先輩の先輩だったが、共にステージに上がったことがある先輩とそうでない先輩であればどちらに親しみを持ちやすいかなんて想像は難しくなかった。
 喧嘩の中心にいた細島中学校陣営が大村に掴みかかった。それに対抗するように鳴子川高校陣営も掴みかかる。
 自分がこんなに後輩たちから大切に思われていたなんて。
 心のどこかでそのように感動した東郷だったが、さすがに取っ組み合いの引き金になるのは御免だった。
 この中で唯一の男子生徒は東郷だ。
 責任感を感じた彼はこの争いを仲裁しなければと考えたが、壁にぶつかった際に腰が抜けてしまっていた。
 このままでは明日の本番に支障を来してしまう。
 掴み合いの喧嘩で手を怪我すれば楽器の操作はできなくなる。もしも殴り合いに発展して口を怪我すれば音すら出せなくなってしまう。
 細島中学校吹奏楽部の卒業生としても、中学時代の大村を知っている元部員としても、帰宅部員であるが鳴子川高校の生徒としてもこの争いを止めなければならなかった。
 しかし東郷は腰が抜けて動けない。
 それは壁に衝突した物理的なものだけではない。
 あそこまで感情を露わに叫ぶ大村を見たのなんて生徒総会以来、いや、それ以上のヒステリックぶりだった。昔から信頼していた先輩に突き飛ばされたという事実に対しても東郷はショックを受けていた。
 本来、吹奏楽部は美しい音楽を奏でる場所だ。
 しかし今はそれとはほど遠い。
 怒りで叫ぶ者。
 あまりの騒ぎに悲鳴を上げる者。
 どうするべきか戸惑って近くの部員と不安げに相談するもの。
 顧問に助けを求めて駆けていく足音。
 それはもはや騒音だった。
 雑音だった。
 吹奏楽部が理想としている美しい音楽とはほど遠い。
 取っ組み合いの喧嘩が行われているなか、東郷は廊下に座ったまま動けなかった。
 本来ならば自分が率先して仲裁しなければならないのに。
 乱闘のなか、何度も脚を踏みつけられた。その痛みに耐えながらも彼は自身の無力さを嘆いていた。
「元気があるのは分かったから、少し落ち着け」
 大喧嘩の騒ぎで気づかなかった。
 しかしいつもの人物が介入してきた。
 ヒーローは遅れてやってくるものだ。
 そういう有名な言葉通り、東郷の目に彼はヒーローに映っていた。
 無力な東郷に代わって全ての問題を片付けてくれる英雄。
 東郷とは大違いの人物だ。
「お前たちは吹奏楽部だろうが。ラグビーをやりたければ他所でやれ」
 部員の誰かが呼んできてくれたのだろうか。それとも騒ぎを聞きつけて宗太郎が駆けつけてくれたのだろうか。
「他の教室で練習している奴にも集合を掛けろ。話を聞くから音楽室に入れ。な?」
 宗太郎は怒るでもなく、ただいつも通りに指示を出していた。
 部員たちはお互いの陣営に対して不満げな様子だった。しかし誰も指示に反抗することなく素直に音楽室へと入っていった。細島中学校の部長による集合の号令で隣の教室からも部員たちが集まってくる。
「東郷、強くなったじゃないか」
 廊下で身動きが取れなくなっていた東郷は宗太郎に抱きかかえられ、ピアノ専用の椅子へと運ばれていった。

「事情は分かった」
 指揮者台の椅子に鎮座した宗太郎は指揮棒のコルクを弄びながらそれぞれの主張を聞いていた。しかし事情を聴き終わった彼は何の感情も露わにすることはなかった。
 口を開いたかと思うとその口調はいつも通りのものだった。
「苅田先生、星野先生。今回だけ監督権限を使わせてもらいます」
 その質問に二人は首肯した。
 そもそもこの共同演奏では宗太郎が音楽監督を務めることになっている。わざわざ権限行使の許可を取る必要なんてないはずだが、それでも彼は顧問たちに許可を求めた。
「まず質問だ。合同演奏の本番はいつだ?」
「……明日です」
 指揮者の近くに配置されているクラリネットの誰かが怯えながらつぶやいた。
 回答した部員に対して宗太郎は「そんなに怖がらなくていい」と小声で伝えると、他の部員たちを見回した。彼女たちの状況把握は一致していた。合同演奏の本番の日程を勘違いしていた者はいなかった。
「その通り明日が本番だ。必然的に今回で合同練習は最後となる。それを把握したうえで音楽監督として指示を出す」
 再び宗太郎は部員たちを見回す。
 ここまで厳重に前置きをするだなんて、とても重要な指示に違いない。
 東郷は背の高いコントラバス奏者用の椅子に体重を預けたまま、その高い視点から部員たちを見回した。誰もがこの後の指示に身構えていた。
 細島中学校の部員でも鳴子川高校の部員でもない東郷であったが、他の演奏者たちが緊張している姿を見て彼は戸惑っていた。
 一体、どのような指示が飛んでくるのだろう。
 東郷は音楽監督へと視線を戻した。
 そこには東郷に不敵な視線を送りながら指揮棒ケースに手を伸ばす宗太郎がいた。
「俺は綺麗事が嫌いだ。だから演奏に優劣をつけるべきではない、なんて言わない。だけどコンクールの金、銀、銅なんてあまり重要とは思っていない」
 指揮棒を収納すると宗太郎はケースをパチンと閉めた。
 高級感を覚えるその閉鎖音は静まり返った音楽室の中に大きく響いた。
「本日の合同練習は中止とする」
 その発表に部員たちが驚くのは当然のことだった。
 吹奏楽部の大きなイベントは夏のコンクールと毎年の定期演奏会だ。
 大切にしていないわけではないけども、式典での伴奏のような小さな本番であれば朝から夕方まで練習するようなことはしない。
 確かに金銀銅。さらには九州大会、全国大会と演奏技術が比較されるコンクールに比べれば定期演奏会なんて重要度は低いかもしれない。しかし引退する三年生たちの最後の晴れ舞台ということで、送る側も送られる側もコンクールと同じかそれ以上に集中して練習に取り組む重要な本番だ。
 そんな定期演奏会のための最後の合同練習を中止するだなんて、普通の吹奏楽部ではありえないような決定だった。
「お前たちは年齢も違えば学校も違う。だから方針や価値観も違うだろう。普段のステージで演奏している曲も違うはずだ」
 宗太郎に指摘されて気が付いた。
 東郷は現役時代の三年間、硬派な吹奏楽曲を演奏するのはコンクールぐらいのものだった。それ以外のステージではほとんどが世間で流行しているポピュラー音楽を吹奏楽用に編曲したものだった。
 鳴子川高校の吹奏楽部はポピュラー音楽を演奏しないわけではない。だけど放課後の学校に流れる彼女たちの演奏は半分が最初から吹奏楽曲として作曲されたものだった。
 そしてさらに振り返ると陸上自衛隊の第8音楽隊。
 普段は式典の伴奏を任務としている彼らであるが、広報活動として日向市にやってきた時にはかなり古い歌謡曲を演奏していた。来場者の年齢層が高かったこともあって観客のためにそれを選曲したのだろう。東郷の祖母はその演奏を聴きながら、懐かしい曲を口ずさんでいたものだ。
「細島は漁業で栄えた町だ。門川も漁業で栄えた町だ。考え方や趣味嗜好が異なるとはいえ、同じ海で育ち、そして音楽に青春を捧げている。そんな奴ら同士ならば話せば分かるだろう?」
 わざわざ殴り合いなんてしなくてもさ?
 宗太郎はそう問いかけた。
 殴り合い――。
 その単語は先ほどの騒動だけを言っているのではない。
 先日のクラスマッチの特別試合の事も言っているのではないかと東郷は考えていた。
 軽音楽同好会の部活動昇格を賭けた空手部との決闘。それは助っ人として参加した宗太郎によって全てが片付けられた。
 東郷が最初に応援を依頼した時、彼は「職業柄、参加できない」と言っていた。しかしそれは建前で本心では「わざわざ殴り合いをする必要はない」と思っていたのではないだろうか。
 あの時、依頼を断られた後に東郷は軽音楽同好会を取り巻いていた事情を説明していた。
 応援を呼べば軽音楽を嫌っている空手部顧問が試合に出てくること。
 その顧問の後ろ盾があることで空手部と吹奏楽部が強気で反対していること。
 事前に生徒総会の件を把握していた宗太郎は大村の発言について呆れていた。
 それらを総合して決闘に参加して決着をつけなければならないと考えたのではないだろうか。つまりあの問題は話し合いではどうにもならないと判断されたのだろう。
 しかし今の宗太郎は決闘を勧めてはいない。
 ただ仲裁に徹していた。
「別に嫌いなものを好きになれと言っているわけじゃない。その感情を言葉に出すなと言うつもりもない。嫌いなものは嫌いだ。だけどその嫌いなものは、他の誰かが大事にしているものかもしれないということを忘れてはいけない」
 宗太郎が語ったのはそれっきりだった。
 その後に彼から言われたのはただの業務連絡だった。それぞれの場所で個人練習。パート練習は許可するが、セクション練習は禁止。そしてそれぞれの練習場所で宗太郎や顧問たちが監視する。
 さすがにこれはまずいと思ったのだろう。
 中学と高校のそれぞれの部長たちが集まって何かを話していた。そして指揮者台の椅子で音楽室を監視している宗太郎に先ほどのトラブルについて謝り、合奏練習をさせてくれと嘆願していたが、音楽監督は決してそれを許可することはなかった。
 東郷は一段高くなった音楽室のステージの上で同じ低音パートの部員たちと合奏練習をしていた。大村の豹変ぶりに抜けてしまっていた腰もいつの間にか元に戻っていた。そしてちょっとした手空き時間に宗太郎の様子を伺っていた。
 これは本番がとんでもない事になるかもしれない。
 明日を恐れながら東郷はコントラバスを弾き鳴らしていた。
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