盗みから始まる異類婚姻譚

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2.名のない子供

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 翌朝、リュカは娼館の主人であるリー・ジンに呼び出された。悪趣味な程にゴテゴテと装飾された室内に足を踏み入れれば、リー・ジンが不機嫌顔で少年を出迎えた。黒と赤の見るからに高価な革張りの肘掛け椅子に座った男は、几帳面そうな顔をしていた。油を撫でつけた深緑色の髪はきっちりと整えられ、ぬらぬらと光っている。まるで糸のように細い目は、上客をもてなす時にだけ開かれるのを、リュカは知っていた。
 その後ろでは、ステラが薄気味悪い笑みを浮かべて立っていた。そこでリュカは自分が呼び出されたのは、昨夜彼と揉めた件だと悟る。元より悪い予感しかしていなかったが。リュカがこの部屋に呼び出されて嬉しかったことなど一度もないのだ。

「小僧、昨日ステラに殴りかかったようだな?」

 馬鹿でかい机に肘をついて手を組んだ主人が切り出す。リュカは答えず、黙っていた。違う、事情があった、と訴えかけても聞いてもらえないのは長年の経験から身に染みている。
 長い前髪で顔が見えないのをいいことに、視線を下に落とす。自分の靴の爪先が見える。破れたところを繕って何年も履いているそれは、さすがにそろそろ限界のようだった。また出費だ、くそ。

「そうだったな、ステラ?」

 リュカに答える気がないと悟ったのか、リー・ジンはステラを振り返った。下卑た笑みを浮かべたステラは慌てて、瞳を潤ませて被害者面をし始めた。

「うん…っ。僕は食事を一緒にとろうと思って、彼の部屋を訪ねたんだ。そうしたら、何が気に入らなかったのか、突然飛びかかってきて…」
「ああ、よしよし。怖かっただろうなあ」

 よくもまあスラスラと嘘八百を並べられるものだと、リュカは感心した。泣き真似でリー・ジンの同情を買い、頭を撫でられるステラを冷めた目で見る。三文芝居に騙されるリー・ジンも、馬鹿だ。
 部屋に戻りたいと思っていると、リー・ジンが立ち上がってこちらに向かってきた。正面に立ったかと思うと、平手打ちを食らう。あまりの強い力に、たまらずリュカは倒れた。

「小僧、その歳になってもまだ自分の立場が分からんか!誰のおかげで生きていられると思ってる。何の価値もない人間、それも男のお前を清掃夫として置き、衣食住の保証もしてやってる。奴隷としては破格の待遇だ。感謝しこそすれ、あまつさえお前に優しくしようとしたステラに暴力を働くとは!…全く、ヒルデの温情が無ければ、お前みたいな役立たず、寒空の下そこらに打ち棄ててやっていたものを!」

 何が温情だ。あのババアに母親らしいことをしてもらった記憶などない。自分の子供に名前さえつけなかった女が、温情だって?笑わせやがる。
 視界の端で、ステラが満足そうに笑っているのが見えた。冷酷な笑みだ。彼に殺意がわく。自分が受けた罵倒と同じくらい下品な言葉で彼を罵りたかった。だがきっと、リー・ジンの更なる怒りを買ってしまう。そうなれば本当にここを追い出されてしまう。どんなに嫌でも、テル・メルを取り仕切るリー・ジンに逆らってはいけない。

「…すいませんした」
「ステラ、聞こえたか?」
「全然?今、何か言ったの?」

 甘ったるい声でとぼけるステラに、リュカは歯を食いしばる。拳を握る手が震えていた。

「…すみませんでしたッ!」

 リュカは叫ぶように吐き捨てた。惨めな気分だった。
 リー・ジンはフン、と鼻を鳴らすと、部屋を出ていくように告げた。リュカは逃げるように退室した。
 自分の部屋へと戻る道すがら、腹から下は蛇の女が向かい側からやって来るのを見て、リュカは思わず立ち止まった。女も少年の存在に気づくと、一瞬立ち止まったが、すぐに視線を逸らして角を曲がった。

「…くそっ」

 リュカは舌打ちをすると、階段を駆け上がり自室へと向かった。
 リュカは、テル・メルで清掃夫として働いている。とは言っても、賃金などないに等しく、奴隷だ。リュカは、蛇女から生まれた人間だった。蛇の下半身を持つ母ヒルデは、テル・メルの娼婦だ。彼らは母子にも関わらず、全く似ていなかった。ヒルデは金色の長い巻き髪を持ち、鮮やかな緑の瞳をもっている。一方でリュカは、黒い髪に茶色い目の三白眼だ。髪質も正反対で、母親のように舌が二股に分かれていたりはせず、全身に鱗の一片すらない。異形の者から生まれたというのに、息子の体にはその片鱗が全く見られなかった。
 同宿内にいる他の子供からもそれを指摘され馬鹿にされ、幼いリュカは母親に何故だと問いながら泣いた。するとヒルデは自慢の金髪を櫛で丁寧に梳かしながら、一切息子に目を向けることなく言い放った。

「ああ、あんたの父親が人間だからよ。昔、人間の男を連れてきた客がいてさあ。自分の奴隷と一緒に来る客なら他にもいるけどさ、そいつ、奴隷とファックしろって言うのよ。しかも倍以上の金を払うから、中出しさせてくれって。そんでその客は何をするわけでもなく、黙って座って、奴隷が鼻水垂らして泣きながら腰振ってんのを見てるわけ。その奴隷の男が、あんたと同じ黒髪で茶色の目してたわ。きつい目つきまでそっくり。…あ~あ、今まで何度も色んな客に中出しされてきたけど、よりによって人間を生むとはね。おかげで劣等種しか産めないなんてレッテル貼られちゃって…、大物の子供でもできてたら、妾くらいにはしてもらえたかもしれないのに。全く、アタシの人生の汚点よ、あんた。ほんと最悪」

 母親の口から飛び出す、まさかの言葉の連続に、リュカの目はすっかり乾いていた。鏡の中のヒルデの顔は憎しみに満ちている。リュカは子供ながらに、母親が自分のことを愛していないのだと、理解した。
 それとなくは分かっていた。他の親子とは違い、ヒルデとは生活空間を分けられ、リュカだけが屋根裏のボロ部屋にあてがわれた。少年の中に、母親に抱きしめられたり、笑いかけてもらった記憶はない。名前を呼ばれたこともなく、呼びつけるときは、「あんた」か「クソガキ」とだけ。
 そもそも名前もつけられていなかったのだ。その日から、彼はヒルデのことを母親だと思うのはやめた。
 娼婦の子は男娼に。テル・メルのルールだ。リュカも男娼として働かされる予定だったが、宿の主人であるリー・ジンの発言で覆った。
 どこの物好きが金を払ってまで奴隷である人間を抱こうとする?人間なぞ、そこらにはいて捨てるほどいる。金を生み出せない無価値な人間は、下働きさせる他ない、と。自分を見下し馬鹿にする屑共に、リュカは次第に反骨心を抱くようになった。
 いつか絶対に、このはきだめから出て行ってやる。
 そのためには資金を貯めなければならなかった。仮にやけくそでテル・メルを飛び出しても、金がなければ何もできない。路頭に迷い、誰かの奴隷となるしか道がなくなる。しかし、清掃夫としてもらえる金ははした金でしかない。
 だから、リュカはスリを働くことにした。
 それには清掃夫が良い隠れ蓑になった。きつい三白眼が目立たないように前髪を伸ばし、黒い装束を身に纏い、フードで顔を隠した。客達は清掃夫をはじめ、宿で働く下働きの者には目もくれないので、警戒心がない。塵芥に注意を払う者などいない。リュカはそれを逆手に取った。
 とは言え、スリを働く客は慎重に選んだ。感覚の鋭い獣達、身体中に無数の目を持つ異形、素面の客はなるべく避けた。逆に狙い目なのは、昨日見かけた一つ目の巨人や、怪力自慢の愚鈍な怪物、べろべろに酔っぱらった客、一見さんの客だ。
 身のこなしには自信があった。毎日屋根裏から何百段の階段を何往復もして、足腰は十分に鍛えられていた。だが、リュカは驕ることは一切なかった。欲張らず、深追いせず、無理だと思えばすぐに身を引いた。バレたら折檻どころではないのだ。テル・メルの品位と信用を貶めたとして、待つのは死だ。それも散々いたぶられた後で。
 次の部屋の清掃へと向かう途中、サロンが目に入った。指名の入っていない娼婦や男娼が自分を買ってもらおうと客引きをする場所だ。
 趣味の悪い柄の長椅子に、大柄な男が座っていた。淡い桃色の肌に、黒味がかった深い赤の長髪。頭から生えた、二本の黒い角から、男が鬼一族の者なのがわかる。二人の娼婦が四つん這いで、彼の足の間に顔を埋めていた。鬼の背後には別の女がなまめかしい手つきで、彼の体を触っている。美丈夫の鬼に相手してもらおうと、娼婦たちが必死にアピールをしているのが丸わかりだった。鬼もそれは承知のようで、女達を見下ろす目は、侮蔑に満ちていた。弱者を搾取し、支配する目だ。
 毛先があちこちにはねた髪と同じ色の瞳が、こちらに向いた気がした。まずい、凝視しすぎだ、とリュカは慌ててその場を離れた。
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