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23. 消燈
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あちこち視線をやって、匂いの発生源を探す。
リースロークが目と鼻の先にいることも、おじい様が会場内のどこかで僕のことを監視しているであろうことも、貞操帯をつけられていることも、何もかもが頭の中から一瞬にして消えた。
シグ。シグルドがここにいる……っ!
なんで、どうしてここに、って疑問が次から次へと湧いて頭が混乱しているけど、運命の番の匂いに全身が喜んでるのが分かる。心臓が胸から飛び出しそうなくらい大きく拍動して、血液が凄い速度で身体中を巡っている。
どこ、どこにいるの、シグ!ぼくはここにいるよ…っ!
必死でシグルドの姿を探すのに、見つからない。見逃すはずないのに!目を閉じてもシグルドの姿を鮮明に思い出すことができるのに!
焦燥ばかりが募る中、視界が突然真っ暗になった。比喩ではなく、文字通りの意味。明かりが消えて、暗闇が広がった。何も、見えない。
思いがけない出来事に、どよめきが聞こえた。自分の運命を呪いたくなる。悔しくて悲しくて、激しい怒りで呼吸ができない。
どうして、肝心な時にこんな……不利になることばかりが起こるんだ…っ!?シグが近くにいるのに…!どうして、どうして……ッ!!!
「ユテ」
匂いが、一層濃くなった。次いで、耳に馴染みのある声が。
「シ…グ…、…っ?」
「ああ、俺だ。ユテ、ユテ…!」
僕が絞り出したか細く震える声に応えてくれる、力強い声。力強い腕に抱きしめられて、全身が心地良い温もりに包まれる。
幻覚じゃない、夢じゃない、本物のシグルドがいる。
「シグ…シグ…!ぼく…僕…っ!」
急にいなくなってごめんなさい。家のことも話してなくてごめんなさい。傷つけて心配をかけたことを謝りたいのに、言葉が全く出てこない。
こみあげる感情のせいで喉がぎゅうと締め付けられて、呼吸さえままならない。
「ユテ、悪いが時間がねえ。いくつか聞きたいことがある。あの日俺の元からいなくなったのはユテの意志じゃねえよな?」
違う、違うよ。
否定したいのに声が出なくて、でもなんとかして伝えたくて何度も頭を左右に振る。
シグルドがネックガードの隙間に指を差し込んでくる。うなじを撫でられる感覚。僕がまだ噛まれてないか、確かめてるんだ。
「リースロークとの結婚、ユテが望んでるんじゃねえよな?」
さっきよりも激しく頭を振って否定する。
「ちが、…違う…!僕には、シグしか…っ。シグじゃなきゃ…!」
身振りだけじゃ嫌で、どうにか言葉を嗚咽混じりに紡ぐ。シグルドの唇が触れる耳元で、彼が息を吐くのが聞こえた。
安堵の混じったそれに、胸が締め付けられる。だけど次の瞬間には、シグルドの声が一際低くなった。
「……ユテ、これ、一体何をつけられてる…?」
うなじを撫でるのと反対の手、僕の全身を撫でていた手がズボンの中に入り込む。貞操帯の革の生地を撫で、その手は股間へと伸び、陰茎を覆う金属部に到達した。
シグルドの息を呑む音に、涙が溢れる。
「て、ていそぅ、たい…。僕が…馬鹿なこと、しな、ように…って」
「……鍵は、誰が持ってる」
「リ…スロ、ク…」
最愛の人の声は、強く食いしばった歯の隙間から、明らかな怒気を孕んでいた。
シグに知られてしまった悲しみと情けなさ、何を言わずとも僕の異変に気づいてくれた喜び。相反する感情が同時に発生して、もうぐちゃぐちゃだ。
「ユテ…必ず助ける。ユテは俺のモンだ。リースロークなんかに絶対やらねえ」
「シグ……っん…!」
嬉しい。強い闘志の窺える力強い言葉に、気分がたまらなく高揚する。
唇に柔らかな感触。触れる時は優しかったのに、重なってからは情熱的なものに変わった。
熱い舌を受け入れると、途端に全身に甘い痺れが広がる。舌先が触れた瞬間、自分からも積極的に吸いついた。
体格の違いからか、シグのは舌まで大きい。それに自分の舌を絡ませて、口の中でいっぱいになった唾液を飲み込む。
舌を絡ませて、上顎を舐められて、吐息さえ奪うような情熱的なキス。その気持ちよさに頭がとろけて、夢心地になる。
この瞬間が永遠に続いてほしい。そう強く願っていたけれど、口付けが終わると同時に体も離れた。
頭が真っ白になる。
なんで、どうして、僕のこと離さないで欲しいのに……。
「きっと迎えに行く。俺を信じて、もう少しだけ待っててくれ」
シグルドの口から出た言葉は、耳を疑うものだった。
僕のことを迎えに来てくれたものだと思っていた。このまま連れ去ってくれるんだと思ったのに、違うの?
きつく抱きしめてくれていた腕がするりと逃げていく。
「やっ…やだ、シグ…っ!」
置いていかないで。ここにいて、お願い。
このまま二人でどこかに──……ッ!
シグルドの手に追い縋ってぎゅうと握る。その指を絡め取られて、唇を何度も啄まれた。
「大丈夫だ。すぐ、すぐだからな。約束する。…ユテ、愛してる」
「……ッ!…僕も…っ」
必死で目を凝らしても真っ暗闇のせいで、シグがどんな表情をしているのか全く見えない。でも囁く声は揺るぎなく真っ直ぐで嘘がなかった。
返事をしたつもりだけど、喉がひくついてきちんと音を成していたかは分からない。
愛しい人の熱が引いていく。漆黒の闇に取り残されてしまう。
それから間もなく照明が戻った。光に目が慣れない状態だけど、周囲に視線を巡らせる。
まだそう遠くには行ってないはず。仮面を被った人々の中、目当ての人物を一心不乱に探した。
……だけど、淡い赤色の長い髪をした髭の男の姿は見つからなかった。匂いさえもすっかり消え失せていた。
あれは極限状態の僕自身が作り出した幻だったのかもしれない。そんな考えが頭をよぎったけど、すぐに違うと分かった。
おもむろに唇に手を伸ばす。
シグの唇の感触と熱が、まだ口に残ってる。うなじを撫でる、少しざらついた指の感覚だって。
幻覚でも幻聴でも幻触でも幻臭でもない。ちゃんと、シグルドはここにいた。
なら、あの言葉も嘘じゃない。僕のことを助ける、って。必ず迎えに来る、って。
「ユテ」
名前を呼ぶ声に、はっと頭を上げる。
目の前にいたのはシグルド──ではなく、リースロークだった。
シグルドのはずがないって理解してるはずなのに、密かに期待してしまった。一気に現実に引き戻される。
「泣いたのか?目が赤くなっているようだけど」
顔を覗き込まれて、反射的に俯く。この照明の中で仮面を着けているというのに、泣いた跡に気づくなんて目敏い。
「…急に真っ暗になって驚いたどなたかに思い切り足を踏まれたんです。その拍子にバランスを崩して、頭も思い切り壁にぶつけてしまって……」
「……へえ~。それはそれは」
シグルドがさっきまでここにいたことを知られないようにと、咄嗟に出たでまかせだった。
リースロークの視線が僕の顔から床に落ちて割れたグラスに移る。男の声は抑揚がなく、どんな感情を抱いているか窺えなかった。
発言の真偽を疑っているようにも思えるし、僕のドジをせせら笑っているようにも思えた。
「皆の者、驚かせてしまってすまない。不手際で灯りが落ちてしまった。だが現在は既に復旧措置を施しており、心配は無用だ。引き続き、夜会を楽しんでくれ」
若いが、威厳のある声が会場内に響く。他の客同様に仮面を着けてはいるが、恐らくはエルフィード陛下だ。
何が起こったのか分からず騒然としていた場が、王の言葉によって少しづつ収まっていく。そして何事もなく夜会は再開した。
「はあ…しらけた。とりあえずあらかた挨拶回りはできたし、帰るとするかな」
リースロークはため息を吐きながら、うんざりとした様子で髪をかきあげ、踵を返した。
監獄と化した屋敷に自分から帰ることを考えると、体が竦む。
シグルドがいたこの空間に少しでも長くいたい。もう少しだけ、幸せな余韻に浸りたい。
シグ…僕はこのまま要塞に戻ってもいいの…?
「…頭を打って、ご主人様のことまで忘れたのかい?俺は帰るって言ったんだよ。さっさと来い、駄犬が」
リースロークが振り返る。態度や声から彼が苛ついているのが分かる。顔が嫌悪に歪んでいるのが仮面でも隠しきれていない。
男をこの会場に留まらせるだけの口実が見つからない。きっと、僕が何を言っても怪しまれる。
シグは誓ってくれた。どうやって知ったのか分からないけど、今夜僕のところまで辿り着いて、暗闇の中見つけてくれた。だから、僕が屋敷に戻ったとしても、絶対に来てくれる。
自分の運命の番の言うことを信じないでどうする。
強く拳を握って、前に一歩踏み出した。
「…貞操帯、外してくれますよね」
屋敷に戻る道すがら、遠ざかっていく王城を車窓から見つめながら尋ねる。
「そんな約束したかな?」
この期に及んで狡猾なリースロークに心底腹が立つ。確かに外すという言質はなかった。それを承知の上で、僕に言うことを聞かせようとしているんだ。
「…僕に馬鹿にさせないために着けたのですよね?僕は従順にして約束を守ったんです。お願いですから、外してください」
ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべるリースロークを真っ向から見つめる。
「番になるんです。少しくらい敬意を払ってください」
「俺の番になる決心を固めたってこと?」
「……それ以外の選択肢が僕に与えられてますか?」
「まあね」
こんな男に迎合するつもりなんてない。シグルド以外と番になる気も毛頭ない。僕の気持ちは変わらない。
だけど、貞操帯があったままでは話が進まない。観念したふりをして、不愉快な枷を外させる。
結局、屋敷の着くまでにリースロークから色よい返事は出てこなかった。表情は変わらないまま黙り込んでいた。
「アンタのさっきの提案だけどさ」
屋敷内に入り外套を護衛に手渡しながら、ようやくリースロークが口を開いた。僕は別の護衛に付き添われて自室へ戻ろうと階段を登るところだった。
「貞操帯を外すのはもう少し待とうかな。俺が欲しいのは敬意を払える番じゃなくて、俺に従順で都合のいい人形のような番なんでね」
どこまで非道な男なんだ……っ!
同じ人間なのに、第二次性が違うだけでどうしてここまで残酷な仕打ちができるんだ…!
「ははっ、いいねその表情!アンタ本当にいい顔するよ!何度でもぐちゃぐちゃに壊したくなる!」
歓喜を剥き出しに、腹を抱えて大笑いするリースローク。
この男は人間じゃない。人の皮を被った純然たる悪魔だ。
狂気を覚えるその姿に、恐怖で身も心も凍りつきそうになる。この男に囚われたが最後、彼が良しとするまで玩具として嬲り殺される。予感ではない確信。
ひとしきり笑ったリースロークは、目に浮かんだ涙を指で拭いながら、追い払うように手を動かした。途端、護衛に腕を掴まれる。
僕はリースロークから視線を外すことができなかった。頭の中を占めるのは、これから自分の身に降りかかることよりも、シグルドのことだった。
シグルドが僕を助けに来たら、リースロークと相対することになる。シグルドが傷つけられることが何より耐えられない。あの人はもう十分に苦しんだ。身も心もボロボロで、最近になってようやく前に進めるようになったのに。
護衛に引きずられるがままの自分の無力さに歯噛みしていると、私兵の一人が慌てた様子でリースロークに駆け寄った。
「リースローク様、大変です…!屋敷が取り囲まれています……!」
「は…?」
喫緊の報告に、リースロークのにやけた表情はたちまち厳しいものへと変わった。玄関前に集っていた兵たちも驚きを露わにする。僕の腕を掴む護衛も例外ではなかった。
そして、扉をノックする音が静かに、だけど力強く響いた。
リースロークが目と鼻の先にいることも、おじい様が会場内のどこかで僕のことを監視しているであろうことも、貞操帯をつけられていることも、何もかもが頭の中から一瞬にして消えた。
シグ。シグルドがここにいる……っ!
なんで、どうしてここに、って疑問が次から次へと湧いて頭が混乱しているけど、運命の番の匂いに全身が喜んでるのが分かる。心臓が胸から飛び出しそうなくらい大きく拍動して、血液が凄い速度で身体中を巡っている。
どこ、どこにいるの、シグ!ぼくはここにいるよ…っ!
必死でシグルドの姿を探すのに、見つからない。見逃すはずないのに!目を閉じてもシグルドの姿を鮮明に思い出すことができるのに!
焦燥ばかりが募る中、視界が突然真っ暗になった。比喩ではなく、文字通りの意味。明かりが消えて、暗闇が広がった。何も、見えない。
思いがけない出来事に、どよめきが聞こえた。自分の運命を呪いたくなる。悔しくて悲しくて、激しい怒りで呼吸ができない。
どうして、肝心な時にこんな……不利になることばかりが起こるんだ…っ!?シグが近くにいるのに…!どうして、どうして……ッ!!!
「ユテ」
匂いが、一層濃くなった。次いで、耳に馴染みのある声が。
「シ…グ…、…っ?」
「ああ、俺だ。ユテ、ユテ…!」
僕が絞り出したか細く震える声に応えてくれる、力強い声。力強い腕に抱きしめられて、全身が心地良い温もりに包まれる。
幻覚じゃない、夢じゃない、本物のシグルドがいる。
「シグ…シグ…!ぼく…僕…っ!」
急にいなくなってごめんなさい。家のことも話してなくてごめんなさい。傷つけて心配をかけたことを謝りたいのに、言葉が全く出てこない。
こみあげる感情のせいで喉がぎゅうと締め付けられて、呼吸さえままならない。
「ユテ、悪いが時間がねえ。いくつか聞きたいことがある。あの日俺の元からいなくなったのはユテの意志じゃねえよな?」
違う、違うよ。
否定したいのに声が出なくて、でもなんとかして伝えたくて何度も頭を左右に振る。
シグルドがネックガードの隙間に指を差し込んでくる。うなじを撫でられる感覚。僕がまだ噛まれてないか、確かめてるんだ。
「リースロークとの結婚、ユテが望んでるんじゃねえよな?」
さっきよりも激しく頭を振って否定する。
「ちが、…違う…!僕には、シグしか…っ。シグじゃなきゃ…!」
身振りだけじゃ嫌で、どうにか言葉を嗚咽混じりに紡ぐ。シグルドの唇が触れる耳元で、彼が息を吐くのが聞こえた。
安堵の混じったそれに、胸が締め付けられる。だけど次の瞬間には、シグルドの声が一際低くなった。
「……ユテ、これ、一体何をつけられてる…?」
うなじを撫でるのと反対の手、僕の全身を撫でていた手がズボンの中に入り込む。貞操帯の革の生地を撫で、その手は股間へと伸び、陰茎を覆う金属部に到達した。
シグルドの息を呑む音に、涙が溢れる。
「て、ていそぅ、たい…。僕が…馬鹿なこと、しな、ように…って」
「……鍵は、誰が持ってる」
「リ…スロ、ク…」
最愛の人の声は、強く食いしばった歯の隙間から、明らかな怒気を孕んでいた。
シグに知られてしまった悲しみと情けなさ、何を言わずとも僕の異変に気づいてくれた喜び。相反する感情が同時に発生して、もうぐちゃぐちゃだ。
「ユテ…必ず助ける。ユテは俺のモンだ。リースロークなんかに絶対やらねえ」
「シグ……っん…!」
嬉しい。強い闘志の窺える力強い言葉に、気分がたまらなく高揚する。
唇に柔らかな感触。触れる時は優しかったのに、重なってからは情熱的なものに変わった。
熱い舌を受け入れると、途端に全身に甘い痺れが広がる。舌先が触れた瞬間、自分からも積極的に吸いついた。
体格の違いからか、シグのは舌まで大きい。それに自分の舌を絡ませて、口の中でいっぱいになった唾液を飲み込む。
舌を絡ませて、上顎を舐められて、吐息さえ奪うような情熱的なキス。その気持ちよさに頭がとろけて、夢心地になる。
この瞬間が永遠に続いてほしい。そう強く願っていたけれど、口付けが終わると同時に体も離れた。
頭が真っ白になる。
なんで、どうして、僕のこと離さないで欲しいのに……。
「きっと迎えに行く。俺を信じて、もう少しだけ待っててくれ」
シグルドの口から出た言葉は、耳を疑うものだった。
僕のことを迎えに来てくれたものだと思っていた。このまま連れ去ってくれるんだと思ったのに、違うの?
きつく抱きしめてくれていた腕がするりと逃げていく。
「やっ…やだ、シグ…っ!」
置いていかないで。ここにいて、お願い。
このまま二人でどこかに──……ッ!
シグルドの手に追い縋ってぎゅうと握る。その指を絡め取られて、唇を何度も啄まれた。
「大丈夫だ。すぐ、すぐだからな。約束する。…ユテ、愛してる」
「……ッ!…僕も…っ」
必死で目を凝らしても真っ暗闇のせいで、シグがどんな表情をしているのか全く見えない。でも囁く声は揺るぎなく真っ直ぐで嘘がなかった。
返事をしたつもりだけど、喉がひくついてきちんと音を成していたかは分からない。
愛しい人の熱が引いていく。漆黒の闇に取り残されてしまう。
それから間もなく照明が戻った。光に目が慣れない状態だけど、周囲に視線を巡らせる。
まだそう遠くには行ってないはず。仮面を被った人々の中、目当ての人物を一心不乱に探した。
……だけど、淡い赤色の長い髪をした髭の男の姿は見つからなかった。匂いさえもすっかり消え失せていた。
あれは極限状態の僕自身が作り出した幻だったのかもしれない。そんな考えが頭をよぎったけど、すぐに違うと分かった。
おもむろに唇に手を伸ばす。
シグの唇の感触と熱が、まだ口に残ってる。うなじを撫でる、少しざらついた指の感覚だって。
幻覚でも幻聴でも幻触でも幻臭でもない。ちゃんと、シグルドはここにいた。
なら、あの言葉も嘘じゃない。僕のことを助ける、って。必ず迎えに来る、って。
「ユテ」
名前を呼ぶ声に、はっと頭を上げる。
目の前にいたのはシグルド──ではなく、リースロークだった。
シグルドのはずがないって理解してるはずなのに、密かに期待してしまった。一気に現実に引き戻される。
「泣いたのか?目が赤くなっているようだけど」
顔を覗き込まれて、反射的に俯く。この照明の中で仮面を着けているというのに、泣いた跡に気づくなんて目敏い。
「…急に真っ暗になって驚いたどなたかに思い切り足を踏まれたんです。その拍子にバランスを崩して、頭も思い切り壁にぶつけてしまって……」
「……へえ~。それはそれは」
シグルドがさっきまでここにいたことを知られないようにと、咄嗟に出たでまかせだった。
リースロークの視線が僕の顔から床に落ちて割れたグラスに移る。男の声は抑揚がなく、どんな感情を抱いているか窺えなかった。
発言の真偽を疑っているようにも思えるし、僕のドジをせせら笑っているようにも思えた。
「皆の者、驚かせてしまってすまない。不手際で灯りが落ちてしまった。だが現在は既に復旧措置を施しており、心配は無用だ。引き続き、夜会を楽しんでくれ」
若いが、威厳のある声が会場内に響く。他の客同様に仮面を着けてはいるが、恐らくはエルフィード陛下だ。
何が起こったのか分からず騒然としていた場が、王の言葉によって少しづつ収まっていく。そして何事もなく夜会は再開した。
「はあ…しらけた。とりあえずあらかた挨拶回りはできたし、帰るとするかな」
リースロークはため息を吐きながら、うんざりとした様子で髪をかきあげ、踵を返した。
監獄と化した屋敷に自分から帰ることを考えると、体が竦む。
シグルドがいたこの空間に少しでも長くいたい。もう少しだけ、幸せな余韻に浸りたい。
シグ…僕はこのまま要塞に戻ってもいいの…?
「…頭を打って、ご主人様のことまで忘れたのかい?俺は帰るって言ったんだよ。さっさと来い、駄犬が」
リースロークが振り返る。態度や声から彼が苛ついているのが分かる。顔が嫌悪に歪んでいるのが仮面でも隠しきれていない。
男をこの会場に留まらせるだけの口実が見つからない。きっと、僕が何を言っても怪しまれる。
シグは誓ってくれた。どうやって知ったのか分からないけど、今夜僕のところまで辿り着いて、暗闇の中見つけてくれた。だから、僕が屋敷に戻ったとしても、絶対に来てくれる。
自分の運命の番の言うことを信じないでどうする。
強く拳を握って、前に一歩踏み出した。
「…貞操帯、外してくれますよね」
屋敷に戻る道すがら、遠ざかっていく王城を車窓から見つめながら尋ねる。
「そんな約束したかな?」
この期に及んで狡猾なリースロークに心底腹が立つ。確かに外すという言質はなかった。それを承知の上で、僕に言うことを聞かせようとしているんだ。
「…僕に馬鹿にさせないために着けたのですよね?僕は従順にして約束を守ったんです。お願いですから、外してください」
ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべるリースロークを真っ向から見つめる。
「番になるんです。少しくらい敬意を払ってください」
「俺の番になる決心を固めたってこと?」
「……それ以外の選択肢が僕に与えられてますか?」
「まあね」
こんな男に迎合するつもりなんてない。シグルド以外と番になる気も毛頭ない。僕の気持ちは変わらない。
だけど、貞操帯があったままでは話が進まない。観念したふりをして、不愉快な枷を外させる。
結局、屋敷の着くまでにリースロークから色よい返事は出てこなかった。表情は変わらないまま黙り込んでいた。
「アンタのさっきの提案だけどさ」
屋敷内に入り外套を護衛に手渡しながら、ようやくリースロークが口を開いた。僕は別の護衛に付き添われて自室へ戻ろうと階段を登るところだった。
「貞操帯を外すのはもう少し待とうかな。俺が欲しいのは敬意を払える番じゃなくて、俺に従順で都合のいい人形のような番なんでね」
どこまで非道な男なんだ……っ!
同じ人間なのに、第二次性が違うだけでどうしてここまで残酷な仕打ちができるんだ…!
「ははっ、いいねその表情!アンタ本当にいい顔するよ!何度でもぐちゃぐちゃに壊したくなる!」
歓喜を剥き出しに、腹を抱えて大笑いするリースローク。
この男は人間じゃない。人の皮を被った純然たる悪魔だ。
狂気を覚えるその姿に、恐怖で身も心も凍りつきそうになる。この男に囚われたが最後、彼が良しとするまで玩具として嬲り殺される。予感ではない確信。
ひとしきり笑ったリースロークは、目に浮かんだ涙を指で拭いながら、追い払うように手を動かした。途端、護衛に腕を掴まれる。
僕はリースロークから視線を外すことができなかった。頭の中を占めるのは、これから自分の身に降りかかることよりも、シグルドのことだった。
シグルドが僕を助けに来たら、リースロークと相対することになる。シグルドが傷つけられることが何より耐えられない。あの人はもう十分に苦しんだ。身も心もボロボロで、最近になってようやく前に進めるようになったのに。
護衛に引きずられるがままの自分の無力さに歯噛みしていると、私兵の一人が慌てた様子でリースロークに駆け寄った。
「リースローク様、大変です…!屋敷が取り囲まれています……!」
「は…?」
喫緊の報告に、リースロークのにやけた表情はたちまち厳しいものへと変わった。玄関前に集っていた兵たちも驚きを露わにする。僕の腕を掴む護衛も例外ではなかった。
そして、扉をノックする音が静かに、だけど力強く響いた。
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