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9. 不気味な闖入者
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アサドとローディル、両者間の誤解が解けてから、彼はしょっちゅう姿を見せるようになった。ローディルが昼寝をしていたり、一人で遊んでいると部屋にやってきて、体に顔を埋めてくる。スーハースーハーと盛大にしばらく匂いを嗅いで、出て行く。この一連の行為の間、彼は一言も発さない。
最初はひどく驚き、体を強張らせて緊張していた獣だったが、あまりにも頻繁に起こるのですっかり慣れてしまった。今では昼寝中にされても目を覚まさなくなったくらいだ。
(ただ匂いを激しくかがれるだけだし害はないからいいけど……)
今日も今日とて、大きな窓から差し込む日光の心地良さに耐え切れず、オルヴァルのベッドの上で昼寝をしていると、突然何かがのしかかってくるのを感じた。体が一瞬緊張するも、すぐに耳馴染みのあるスーハースーハーという音に、すぐに脱力した。またアサドが匂いをかぎに来たらしい。
(毎日毎日、よく飽きねーなあ…。一体なにが楽しくてやってんのか、全然理解できねー…。神経質そうだし、疲れすぎておかしな行動してんのかな……)
満足したらしいアサドが離れていく気配を感じながら、ローディルは心地の良いまどろみの中でそんなことをぼんやり考えていた。夕飯までもうひと眠りと体勢を変えようとした途端、悪寒が走った。即座に飛び上がり、ベッドの上で身構える。
(何だこれ!?すっごく嫌な感じがする…っ!)
全身の毛が逆立ち、グルルと咽喉が鳴る。言葉に言い表せない不快感を扉の方から感じていた。得体の知れない存在が近づいている。目の前でゆっくりとドアノブが動いた。
(…ひっ…!)
男がぬるりと部屋に入ってきた。白く長い髪はぼさぼさで顔にかかっている。その隙間から見える灰色の瞳は生気がなく、昏く淀んでいた。顔色も悪く、アサドよりもずっと青白い。
「…オル、ヴァル…オルヴァル…」
部屋の主を呼ぶ声も、気味が悪かった。咽喉がつぶれたような耳障りな音だ。前のめりで扉に寄りかかり、目を忙しなくぎょろぎょろと動かして目当ての者を探している。
やがて濁った灰色の瞳が獣を捉えた。首を傾げる様は長年油をさしていないブリキの人形のようで、今にも軋んだ音が聞こえるようだ。ぎこちない動きで、手を伸ばしてくる。
(あ…ぁ…)
不気味な風貌の男に、ローディルの咽喉は引き攣った。身の毛がよだつ。頭の中で警鐘が鳴っている。逃げなきゃ、と頭では分かっているのに体が全く言うことを聞かない。まるで全身が石に替えられてしまったかのように重たく、人間の形をした目の前のおぞましい物体から視線を外すことが出来ない。
その間に、無情にも手は目の前にまで迫ってきていた。優しさや温もりなど皆無のそれに、ローディルはぎゅっと目を閉じた。
「イズイーク殿下」
凛とした声に、眼前に迫っていた手がぴたりと止まった。そろりと目を開けた獣は、男の注意が自分から逸れていることに気がついた。彼の背後に、アサドの姿があった。顔は険しく、どこか強張っているように見える。
「イズイーク殿下、オルヴァル殿下はそこにはいらっしゃいません」
「…オル…オルヴァルはどこだ…?」
「オルヴァル殿下は市場の視察に出ています」
「なぜ、なぜいない…?弟は兄を、出迎えるものだろう…?」
「どうか非礼をお許しください。イズイーク殿下がいらっしゃるとは、我々一同存じ上げなかったものですから…。今オルヴァル殿下の元に急使を向かわせております」
アサドの説明をどこまで理解しているのか、イズイークと呼ばれた男はまるでうわごとのようにオルヴァルの名前を呟いている。
「長旅できっとお疲れのことでしょう。部屋をご用意しておりますので、そちらでオルヴァル殿下の帰還をお待ちください。サルサラの実を仕入れたところでして、味は申し分なく、果肉はとても瑞々しく柔らかくて近年でも稀にみる程最上の出来だとか。きっとイズイーク殿下もお気に召すかと」
アサドは礼儀正しい所作で彼の手を取ると、扉までゆっくりと誘導した。さながら廃人のような男は足を引きずるような歩みで、導かれるままに部屋を後にした。
扉が静かに閉まる音でようやくローディルは我に返った。無意識に呼吸を止めていたらしく、急に息を吸ったことで肺が張り裂けそうに苦しい。胴体や頭に汗腺はないのに、全身の毛穴から脂汗がどっと湧き出るかのような感覚に陥る。
未だ恐怖と緊張でこわばる体を叱咤し、幼獣は慌ててベッドの下へと潜った。心臓は激しく拍動し、今にも筋肉や皮膚を突き破って飛び出してしまいそうだった。暗闇の中、じっと息をひそめ、自信を落ち着かせようと試みる。
(い、…今のは一体なんなんだ…!?人間…!?あんな生物、見たことない!)
男は、ほの暗い深い井戸のようだった。中は真っ暗で底がどこまで続いているのかわからない、石を落としても一向に着水音が聞こえてこないくらいに深い井戸。今にも人間を吸いこんでしまいそうで、風の音が反響して得体の知れない怪物の鳴き声にも聞こえる。あの男はそんな井戸を連想させた。
(アイツ…オルヴァルのことを弟って言ってた…。てことは、兄!?全ッ然似てねーのに?……それに、イズイークって名前、どこかで……あっ!)
ローディルははっとした。いつかの夜、疲れた顔をしているにも関わらず寝ずにランプの灯りを頼りに、オルヴァルが読んでいた紙に書かれていた名前だ。目にしたのは一瞬だったが、読めた単語がわずか二語だったこと、もう一つの単語が錯乱と不穏なものだったから覚えている。
あの時のオルヴァルの横顔が頭をよぎる。眉間にシワの寄った硬い表情で、どこか思いつめた様子だった。紙にも書かれていた、イズイークというあの兄のことを考えていたのだろうか。
生きた亡霊が戻って来るのではないかとやきもきしていたローディルだったが、しばらく経ってもその様子はなく、少しだけ警戒を解いた。とは言え、まだ心臓は早鐘を打っているし、耳は頭にぴったりと張り付いたままだ。
(あそこでアサドが来てくれなかったら……)
想像するだけで全身の毛がぶわりと逆立つ。この部屋に出入りするのはあの三人だけだから安全だと思っていたのだが、あの不気味な男の来訪によってそうではないと思い知らされた。今まで日向ぼっこをしながら無防備に昼寝していたのが怖くなってしまった。
ローディルは周囲の様子を窺いながら、注意深く這い出た。床に散らばっていたお気に入りの玩具やふわふわのタオルを素早くベッドの下へと運ぶ。自分の存在がわかるものを不用心に晒しておきたくなかったのだ。
(トイレ……は、さすがに無理だな!)
人間の姿になれば移動させられるが、今のこの状況で変身するのは危険だと判断する。できる限り壁際に行き、身を隠すようにタオルを己の体に巻きつけた。馴染みの匂いと肌触りに包まれて、少しだけほっとした。
**************
「ロ…ディル…ローディル」
何度も名前を呼ばれて、獣は目を細めながら顔を上げた。どうやらいつの間にか眠ってしまったらしい。もう一度名前を呼ばれて声のした方を見れば、エミルがこちらを覗きこんでいた。
「ローディル、ご飯の時間だぞ~」
離れた距離でも、ご飯の良い香りが漂ってきて鼻腔をくすぐる。幼獣は喜び勇んでエミルの元へと駆けつけようとしたが、寸でのところではっと我に返った。ピンと耳を立て、周囲の音に神経を集中させる。青年以外の気配がないか慎重に探る。その間もエミルが不思議そうな声で名前を呼んでいる。
(エミル以外いないみたいだ…。じゃあ出て行っても安全だな)
ゆっくりと這い出ると、優しく頭を撫でられた。気持ち良さに目を細めながらも、室内を見渡す。目視でも自分と青年しかいないことを確認して、胸を撫で下ろす。
「今日はどうしたんすか?珍しいとこで昼寝してたんすねー」
(だって、イズイークってヤツが急に部屋に入ってきて怖かったんだ!)
「おっ、興奮してどうしちゃったんすか?早くご飯寄こせって?」
(違うっ!…早く飯食いたいってのは間違ってねーけどお…)
ぎゃうぎゃう鳴いて訴えるも、エミルには全く通じない。当然ではあるが、少し悲しくなる。だがそれも目の前に差し出された、おいしそうなご飯のおかげで霧散する。精神的に疲れたこともあって、急に自分が空腹であることを自覚する。獣は口の中であふれそうになる唾液を飲みこんだ。
いっぱい食って大きくなれよー、の言葉を合図に、顔を突っ込んで食事を堪能する。
(うはー…今日の飯もサイコーだったなあ)
満腹になって幸せを感じながらごろりと横たわる。完食しただけなのにエミルがたくさん褒めてくれるのも嬉しい。口の周りについたカスを前脚できれいにしていると、部屋のドアが開かれた。途端に体がぎくりとこわばり、ローディルは急いでベッドの下へ避難した。
「アサドさん、お疲れ様っす。オルヴァル様…は一緒じゃないんすね?」
「エミルこそ、ご苦労様。ええ、殿下が少しの間二人きりにしてくれと…。とは言え心配なので、すぐに戻ります。…ところで、ローディルはどこです?」
「え、さっきまでそこに…。あれ、またベッドの下に潜っちゃってるっす。おーいローディル、アサドさんっすよー」
(アサド…?)
獣はアサドを何か言いたげな目でじっと見上げた後、ポテポテと効果音がつきそうな足取りでゆっくりと近づいた。切ない鳴き声を発して、ふかふかの前脚で靴の先をちょいちょいと触って来るローディルを男は抱き上げた。
アサドに頬擦りされても全く嫌がる様子はなく、むしろ自分から頭を擦りつけていた。時折彼の鼻や頬を舐め、完全に甘えているようだった。
「ローディル、今日なんだか変なんすよね。朝はいつも通りだったんすけど、ご飯あげに来たら昼寝はベッドの下でしてたみたいなんすよ。お気に入りのおもちゃとタオルも下に持ち込んでるみたいで」
「イズイーク様が来たのですよ」
「えっ!来た、ってこの部屋にすか?」
驚きに目を丸くするエミルに、アサドはローディルの咽喉を撫でながら頷く。
「私が声をかけた時、イズイーク様は手を突き出していたんです。こうやって。ローディルは目を見開いた状態で固まっていたので、きっと恐怖で身動きできなかったのでしょうね。かわいそうに」
「…あーそれは怖がって警戒心バチバチになっちゃうのもしょうがないっすね~。言っちゃ悪いすけど、ぎょっとする見た目っすもん」
(うん、うん。俺、めちゃくちゃ怖かったんだよ~…)
眉間に口づけてくる男にすり寄りながら、獣はゴロゴロと咽喉を鳴らして甘えた。
「それでもこうして触るのを許してくれると言うことは、私達には心を開いてくれているのですね。光栄の至りです」
(あんたらは俺のこと傷つけないってなんとなく分かってるからな!)
アサドは、まるで返事をするかのようにひと鳴きするローディルの前脚を手に取った。硬めの弾力の肉球を指で撫でながら、愛おしそうに唇を何度もくっつけた。
「あーっ、アサドさんこの間からずるいっすよ!俺も肉球を触るのはまだ遠慮してるってのに!」
(俺、エミルなら別に気にしないけど…遠慮してくれてたのか。二人きりのとき、触らせてやろうかな)
不満そうに頬を膨らますエミルに、男は自慢げに口角を吊り上げて微笑んだ。
「けれども、ローディルを不安にさせたままにはできませんね。イズイーク様がまたいつ無断でこの部屋に足を運ぶともしれませんし。今日はたまたま間一髪のところで駆けつけることができましたが…」
「確かに。……あ、オルヴァル様さえ良ければ、俺が部屋にいましょうか?それならイズイーク様が来てもローディルに危害がないようにできるっす。その代わり午後の仕事はできないっすけど…」
「そうですね。それが最善でしょう。ローディルのこととなれば殿下も承諾なさるはず。私からお伝えしておきます」
では私はそろそろ殿下の元へ戻ります、と彼は言い、ずっと腕に抱いていた幼獣をエミルに手渡した。アサドが名残惜しいと言わんばかりの表情を浮かべているのにも気づかず、ローディルは両前脚を青年の顔に押しつけた。
「どしたっすかローディル!俺に抱っこされるのは嫌なんすか!?そんな拒否んなくても良くないっすか!?」
(拒否じゃなくて!俺の肉球触りたいってさっき言ってたじゃん!だから、堪能してもいーぜ!)
無遠慮にいきなり力強く肉球を押しつけられたエミルは喜ぶどころか困惑していた。ローディルは何で喜んでくれないんだ?と内心首を傾げつつ、ぐいぐいと前脚を押しつけ続けている。青年の顔に愛くるしい前脚がめりこんでいるのを見届けながら、アサドはそっと主人の部屋を後にしたのだった。
最初はひどく驚き、体を強張らせて緊張していた獣だったが、あまりにも頻繁に起こるのですっかり慣れてしまった。今では昼寝中にされても目を覚まさなくなったくらいだ。
(ただ匂いを激しくかがれるだけだし害はないからいいけど……)
今日も今日とて、大きな窓から差し込む日光の心地良さに耐え切れず、オルヴァルのベッドの上で昼寝をしていると、突然何かがのしかかってくるのを感じた。体が一瞬緊張するも、すぐに耳馴染みのあるスーハースーハーという音に、すぐに脱力した。またアサドが匂いをかぎに来たらしい。
(毎日毎日、よく飽きねーなあ…。一体なにが楽しくてやってんのか、全然理解できねー…。神経質そうだし、疲れすぎておかしな行動してんのかな……)
満足したらしいアサドが離れていく気配を感じながら、ローディルは心地の良いまどろみの中でそんなことをぼんやり考えていた。夕飯までもうひと眠りと体勢を変えようとした途端、悪寒が走った。即座に飛び上がり、ベッドの上で身構える。
(何だこれ!?すっごく嫌な感じがする…っ!)
全身の毛が逆立ち、グルルと咽喉が鳴る。言葉に言い表せない不快感を扉の方から感じていた。得体の知れない存在が近づいている。目の前でゆっくりとドアノブが動いた。
(…ひっ…!)
男がぬるりと部屋に入ってきた。白く長い髪はぼさぼさで顔にかかっている。その隙間から見える灰色の瞳は生気がなく、昏く淀んでいた。顔色も悪く、アサドよりもずっと青白い。
「…オル、ヴァル…オルヴァル…」
部屋の主を呼ぶ声も、気味が悪かった。咽喉がつぶれたような耳障りな音だ。前のめりで扉に寄りかかり、目を忙しなくぎょろぎょろと動かして目当ての者を探している。
やがて濁った灰色の瞳が獣を捉えた。首を傾げる様は長年油をさしていないブリキの人形のようで、今にも軋んだ音が聞こえるようだ。ぎこちない動きで、手を伸ばしてくる。
(あ…ぁ…)
不気味な風貌の男に、ローディルの咽喉は引き攣った。身の毛がよだつ。頭の中で警鐘が鳴っている。逃げなきゃ、と頭では分かっているのに体が全く言うことを聞かない。まるで全身が石に替えられてしまったかのように重たく、人間の形をした目の前のおぞましい物体から視線を外すことが出来ない。
その間に、無情にも手は目の前にまで迫ってきていた。優しさや温もりなど皆無のそれに、ローディルはぎゅっと目を閉じた。
「イズイーク殿下」
凛とした声に、眼前に迫っていた手がぴたりと止まった。そろりと目を開けた獣は、男の注意が自分から逸れていることに気がついた。彼の背後に、アサドの姿があった。顔は険しく、どこか強張っているように見える。
「イズイーク殿下、オルヴァル殿下はそこにはいらっしゃいません」
「…オル…オルヴァルはどこだ…?」
「オルヴァル殿下は市場の視察に出ています」
「なぜ、なぜいない…?弟は兄を、出迎えるものだろう…?」
「どうか非礼をお許しください。イズイーク殿下がいらっしゃるとは、我々一同存じ上げなかったものですから…。今オルヴァル殿下の元に急使を向かわせております」
アサドの説明をどこまで理解しているのか、イズイークと呼ばれた男はまるでうわごとのようにオルヴァルの名前を呟いている。
「長旅できっとお疲れのことでしょう。部屋をご用意しておりますので、そちらでオルヴァル殿下の帰還をお待ちください。サルサラの実を仕入れたところでして、味は申し分なく、果肉はとても瑞々しく柔らかくて近年でも稀にみる程最上の出来だとか。きっとイズイーク殿下もお気に召すかと」
アサドは礼儀正しい所作で彼の手を取ると、扉までゆっくりと誘導した。さながら廃人のような男は足を引きずるような歩みで、導かれるままに部屋を後にした。
扉が静かに閉まる音でようやくローディルは我に返った。無意識に呼吸を止めていたらしく、急に息を吸ったことで肺が張り裂けそうに苦しい。胴体や頭に汗腺はないのに、全身の毛穴から脂汗がどっと湧き出るかのような感覚に陥る。
未だ恐怖と緊張でこわばる体を叱咤し、幼獣は慌ててベッドの下へと潜った。心臓は激しく拍動し、今にも筋肉や皮膚を突き破って飛び出してしまいそうだった。暗闇の中、じっと息をひそめ、自信を落ち着かせようと試みる。
(い、…今のは一体なんなんだ…!?人間…!?あんな生物、見たことない!)
男は、ほの暗い深い井戸のようだった。中は真っ暗で底がどこまで続いているのかわからない、石を落としても一向に着水音が聞こえてこないくらいに深い井戸。今にも人間を吸いこんでしまいそうで、風の音が反響して得体の知れない怪物の鳴き声にも聞こえる。あの男はそんな井戸を連想させた。
(アイツ…オルヴァルのことを弟って言ってた…。てことは、兄!?全ッ然似てねーのに?……それに、イズイークって名前、どこかで……あっ!)
ローディルははっとした。いつかの夜、疲れた顔をしているにも関わらず寝ずにランプの灯りを頼りに、オルヴァルが読んでいた紙に書かれていた名前だ。目にしたのは一瞬だったが、読めた単語がわずか二語だったこと、もう一つの単語が錯乱と不穏なものだったから覚えている。
あの時のオルヴァルの横顔が頭をよぎる。眉間にシワの寄った硬い表情で、どこか思いつめた様子だった。紙にも書かれていた、イズイークというあの兄のことを考えていたのだろうか。
生きた亡霊が戻って来るのではないかとやきもきしていたローディルだったが、しばらく経ってもその様子はなく、少しだけ警戒を解いた。とは言え、まだ心臓は早鐘を打っているし、耳は頭にぴったりと張り付いたままだ。
(あそこでアサドが来てくれなかったら……)
想像するだけで全身の毛がぶわりと逆立つ。この部屋に出入りするのはあの三人だけだから安全だと思っていたのだが、あの不気味な男の来訪によってそうではないと思い知らされた。今まで日向ぼっこをしながら無防備に昼寝していたのが怖くなってしまった。
ローディルは周囲の様子を窺いながら、注意深く這い出た。床に散らばっていたお気に入りの玩具やふわふわのタオルを素早くベッドの下へと運ぶ。自分の存在がわかるものを不用心に晒しておきたくなかったのだ。
(トイレ……は、さすがに無理だな!)
人間の姿になれば移動させられるが、今のこの状況で変身するのは危険だと判断する。できる限り壁際に行き、身を隠すようにタオルを己の体に巻きつけた。馴染みの匂いと肌触りに包まれて、少しだけほっとした。
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「ロ…ディル…ローディル」
何度も名前を呼ばれて、獣は目を細めながら顔を上げた。どうやらいつの間にか眠ってしまったらしい。もう一度名前を呼ばれて声のした方を見れば、エミルがこちらを覗きこんでいた。
「ローディル、ご飯の時間だぞ~」
離れた距離でも、ご飯の良い香りが漂ってきて鼻腔をくすぐる。幼獣は喜び勇んでエミルの元へと駆けつけようとしたが、寸でのところではっと我に返った。ピンと耳を立て、周囲の音に神経を集中させる。青年以外の気配がないか慎重に探る。その間もエミルが不思議そうな声で名前を呼んでいる。
(エミル以外いないみたいだ…。じゃあ出て行っても安全だな)
ゆっくりと這い出ると、優しく頭を撫でられた。気持ち良さに目を細めながらも、室内を見渡す。目視でも自分と青年しかいないことを確認して、胸を撫で下ろす。
「今日はどうしたんすか?珍しいとこで昼寝してたんすねー」
(だって、イズイークってヤツが急に部屋に入ってきて怖かったんだ!)
「おっ、興奮してどうしちゃったんすか?早くご飯寄こせって?」
(違うっ!…早く飯食いたいってのは間違ってねーけどお…)
ぎゃうぎゃう鳴いて訴えるも、エミルには全く通じない。当然ではあるが、少し悲しくなる。だがそれも目の前に差し出された、おいしそうなご飯のおかげで霧散する。精神的に疲れたこともあって、急に自分が空腹であることを自覚する。獣は口の中であふれそうになる唾液を飲みこんだ。
いっぱい食って大きくなれよー、の言葉を合図に、顔を突っ込んで食事を堪能する。
(うはー…今日の飯もサイコーだったなあ)
満腹になって幸せを感じながらごろりと横たわる。完食しただけなのにエミルがたくさん褒めてくれるのも嬉しい。口の周りについたカスを前脚できれいにしていると、部屋のドアが開かれた。途端に体がぎくりとこわばり、ローディルは急いでベッドの下へ避難した。
「アサドさん、お疲れ様っす。オルヴァル様…は一緒じゃないんすね?」
「エミルこそ、ご苦労様。ええ、殿下が少しの間二人きりにしてくれと…。とは言え心配なので、すぐに戻ります。…ところで、ローディルはどこです?」
「え、さっきまでそこに…。あれ、またベッドの下に潜っちゃってるっす。おーいローディル、アサドさんっすよー」
(アサド…?)
獣はアサドを何か言いたげな目でじっと見上げた後、ポテポテと効果音がつきそうな足取りでゆっくりと近づいた。切ない鳴き声を発して、ふかふかの前脚で靴の先をちょいちょいと触って来るローディルを男は抱き上げた。
アサドに頬擦りされても全く嫌がる様子はなく、むしろ自分から頭を擦りつけていた。時折彼の鼻や頬を舐め、完全に甘えているようだった。
「ローディル、今日なんだか変なんすよね。朝はいつも通りだったんすけど、ご飯あげに来たら昼寝はベッドの下でしてたみたいなんすよ。お気に入りのおもちゃとタオルも下に持ち込んでるみたいで」
「イズイーク様が来たのですよ」
「えっ!来た、ってこの部屋にすか?」
驚きに目を丸くするエミルに、アサドはローディルの咽喉を撫でながら頷く。
「私が声をかけた時、イズイーク様は手を突き出していたんです。こうやって。ローディルは目を見開いた状態で固まっていたので、きっと恐怖で身動きできなかったのでしょうね。かわいそうに」
「…あーそれは怖がって警戒心バチバチになっちゃうのもしょうがないっすね~。言っちゃ悪いすけど、ぎょっとする見た目っすもん」
(うん、うん。俺、めちゃくちゃ怖かったんだよ~…)
眉間に口づけてくる男にすり寄りながら、獣はゴロゴロと咽喉を鳴らして甘えた。
「それでもこうして触るのを許してくれると言うことは、私達には心を開いてくれているのですね。光栄の至りです」
(あんたらは俺のこと傷つけないってなんとなく分かってるからな!)
アサドは、まるで返事をするかのようにひと鳴きするローディルの前脚を手に取った。硬めの弾力の肉球を指で撫でながら、愛おしそうに唇を何度もくっつけた。
「あーっ、アサドさんこの間からずるいっすよ!俺も肉球を触るのはまだ遠慮してるってのに!」
(俺、エミルなら別に気にしないけど…遠慮してくれてたのか。二人きりのとき、触らせてやろうかな)
不満そうに頬を膨らますエミルに、男は自慢げに口角を吊り上げて微笑んだ。
「けれども、ローディルを不安にさせたままにはできませんね。イズイーク様がまたいつ無断でこの部屋に足を運ぶともしれませんし。今日はたまたま間一髪のところで駆けつけることができましたが…」
「確かに。……あ、オルヴァル様さえ良ければ、俺が部屋にいましょうか?それならイズイーク様が来てもローディルに危害がないようにできるっす。その代わり午後の仕事はできないっすけど…」
「そうですね。それが最善でしょう。ローディルのこととなれば殿下も承諾なさるはず。私からお伝えしておきます」
では私はそろそろ殿下の元へ戻ります、と彼は言い、ずっと腕に抱いていた幼獣をエミルに手渡した。アサドが名残惜しいと言わんばかりの表情を浮かべているのにも気づかず、ローディルは両前脚を青年の顔に押しつけた。
「どしたっすかローディル!俺に抱っこされるのは嫌なんすか!?そんな拒否んなくても良くないっすか!?」
(拒否じゃなくて!俺の肉球触りたいってさっき言ってたじゃん!だから、堪能してもいーぜ!)
無遠慮にいきなり力強く肉球を押しつけられたエミルは喜ぶどころか困惑していた。ローディルは何で喜んでくれないんだ?と内心首を傾げつつ、ぐいぐいと前脚を押しつけ続けている。青年の顔に愛くるしい前脚がめりこんでいるのを見届けながら、アサドはそっと主人の部屋を後にしたのだった。
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プロフのwebサイトから両方に飛べるので、もしよかったら!
本編以降のお話、恋愛ルートも、おまけのお話の更新も、アルファポリスさまだけですー!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
悪役令息を改めたら皆の様子がおかしいです?
* ゆるゆ
BL
王太子から伴侶(予定)契約を破棄された瞬間、前世の記憶がよみがえって、悪役令息だと気づいたよ! しかし気づいたのが終了した後な件について。
悪役令息で断罪なんて絶対だめだ! 泣いちゃう!
せっかく前世を思い出したんだから、これからは心を入れ替えて、真面目にがんばっていこう! と思ったんだけど……あれ? 皆やさしい? 主人公はあっちだよー?
ご感想欄 、うれしくてすぐ承認を押してしまい(笑)ネタバレ 配慮できないので、ご覧になる時は、お気をつけください!
ユィリと皆の動画つくりました! お話にあわせて、ちょこちょこあがる予定です。
インスタ @yuruyu0 絵もあがります
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