10 / 107
10. 懐かしい夢
しおりを挟む
「じいちゃん、俺なんで大きくならないんだろ」
青年の発言に、老齢の男は怪訝そうに眉をひそめた。
「何を言うておる。わしの背をとっくに追い越しておるくせに。どれだけでかくなるつもりだ」
「ちがうよ。この姿じゃなくて、こっちのこと!」
青年は手近な布で鼻を擦り、くしゃみをした。瞬く間に彼の姿は獣へと変化した。黒く丸い耳に、茶色い体毛に散った黒い斑点に不思議な色をした瞳。足は細めだが、掌部分は丸く大きめだ。猫よりかは大きく、大型犬よりは小さい。
獣はぎゃう、とひと鳴きしながら両足を掲げて真っ黒な肉球を見せた。その後もう一度くしゃみをし、人の形へと戻る。
「人型は確かに身長もぐんと伸びたし、体も大きくなったよ。けど、獣型はもう何年もずっとあのままだ」
「それが成獣の姿ってことじゃろう」
「そんなはずねーって!」
「何を根拠にそう言える」
「だって、さっきじいちゃんに見せた足!おっきくて立派だろ?絶対にもっとでっかくなるはずなんだ!」
「……そもそも、何故そんなに大きくなりたいんじゃ。今のままでも不便はないじゃろう」
「でっかい方がかっこいいじゃん!」
にっこりと歯を見せて笑う青年に、老人は加齢で落ち窪んだ目をあらんかぎりに見開いた。
「ほら、じいちゃんが読んでくれるおとぎ話にちょくちょく出てくるじゃん、大きな獣。賢くて忠義があって、どの話でも凛々しく雄々しくかっこよく描かれてるだろ?俺、人型になれば話せるし、読み書きだって一応できるし、賢いってとこは当てはまってる。獣の姿だって見た目は悪くないし、大きくなれば凛々しくて雄々しいと思うんだよな~」
ふっふっふ、と口元をにやつかせながら、若者は腕を組む。なぜだかその顔は誇らしげである。
大して中身のない理由に、老人は大きく声を立てて笑った。彼がこんなにも大笑いするのを久しく見ていなかった青年は驚きに目を丸くした。
「…なんだよ、なんで笑うんだよ!面白いとこひとつもなかっただろ!」
「あんまりにも予想外な理由でびっくりしたんじゃ」
「それなら笑う必要ねーじゃん」
青年は眼を細め、頬を膨らませて不満を露にした。笑い飛ばされて不服に思ったが、老人が心から笑う姿を久しぶりに見れた喜びの方が大きかった。老人はなおもくつくつと咽喉を鳴らして笑いながら、若者の金髪を骨ばった手で撫でた。
「そうむくれるな。きっと、獣型と人型とでは成長速度がきっと違うんじゃろうて。焦らんでもいいじゃろう?」
「けどさ大きくなったら、その分力だって増すだろ?例えばじいちゃんを乗せられたら、移動が便利になるし、たくさんの荷物を一度に運べるようにもなる。冬は俺がじいちゃんのこと抱いて寝れば暖も取れるし、大きい方が便利じゃね?」
「儂を乗せられるくらいの大きさじゃと?おいおい、こんなボロ家なぞあっという間に破壊されてしまいそうじゃ!」
「壊しちゃったら、また新しいの建てりゃいいじゃん!それだけのパワーがあれば、木を切ったり運ぶのだってへっちゃらだ!俺がもっといいの建ててやるって!」
青年は腕をまくると、肘を曲げて力こぶを作って見せた。老人は呆れた表情を浮かべていたが、彼の純粋無垢な気持ちに、やれやれと言わんばかりにため息を吐いた。その顔は若者に対する慈愛に満ちている。
「焦って大きくなろうとせんでいい。坊主があっという間に大きくなってしもうたら、この腕に抱いてやれんなる。お前が大きくなった姿はそれは盛観じゃろうが、儂としてはちと寂しいのう」
老人の声は優しく落ち着いたトーンだった。年齢を感じさせる、いくつものシワが刻まれた目元は柔らかく細められ、薄っすらと笑みが浮かんでいる。青年の金髪を撫でつけていた手は下がり、今度は頬を撫でた。
「抱っこなんて…俺、それで喜ぶような年齢でもないし」
「儂がしたいんじゃ。冬になると温もりを求めて儂の膝の上に乗って来るのも好きでなあ。もう少し、小さいお前さんを堪能したいんじゃ」
そう言われると、もう何も言えなくなってしまう。青年は視線を落として、古くなった床板の木目を数えた。なぜだかこみ上げてくる涙をこらえるためだ。
「何も心配することない。ゆっくり大きくなればええ。まだまだ儂にお前さんを守らせてくれ」
老人の指は、皮膚が硬くなってかさついている。ちくちくと痛みを感じたが、裏腹に心の中は温もりで満たされた。
***********************
(また、じいちゃんの夢…。最近よく見るな。なんでだろ…)
いつかの夜も夢を見て途中で覚醒したことを思い出しながら、ローディルはあくびを一つした。窓の方を見る。レースのカーテン越しに見える空は真っ暗で、空高く昇った月が煌々と輝いている。夜明けにはまだほど遠い。
(じいちゃん…、俺は守って欲しかったんじゃなくて、俺がじいちゃんのことを守りたかったんだよ…)
その思いは虚しく、夜の静けさに呑まれてしまう。
あの後、オルヴァルが戻ってきたのは遅い時間だった。彼と入れ替わりで、それまでずっと遊んでくれていたエミルは部屋を後にした。戻って来たオルヴァルはひどく疲れているようで、顔に覇気がなかった。ありがとう、とエミルに向けた笑みも気力を振り絞っているように見えた。
風呂に直行した彼は濡れた髪もそのままに、倒れるようにベッドに横になった。オルヴァルのいつにない姿にどうしていいかわからず、ローディルは床の上に座ったままだ。すると浅黒い肌の男はゆっくりと目を開き、おいでと獣を呼び寄せた。主人に呼ばれてベッドの上に華麗に乗り上げた幼獣は大丈夫かと言わんばかりに男の顔に頬擦りした。体を丸くして横たわるローディルの体を撫でながら顔を埋め、オルヴァルはあっという間に眠ってしまっていた。
(オルヴァル、まるで気を失うように眠っちゃったな…大丈夫か?)
カーテンの隙間から差しんだ月の光に照らされている男の顔を覗きこむ。相変わらず、死んだように静かに眠っている。
(目の下、すげえクマが出来てる)
夜闇の中であっても、彼の目の下に刻まれた濃いクマを見逃すことはできなかった。たった半日の間にやつれてしまったようにも見える。ローディルは前脚の肉球をクマに押しあてた。マッサージを施すかのように、優しく揉んでやる。
「う…」
(ヤベッ。力強かったか?)
小さな呻き声が聞こえて、ローディルは慌てて前脚を離した。起こしてしまったかと危惧したが、目はしっかりと閉じられていて、ほっと息を吐く。だが次の瞬間、オルヴァルは激しく呼吸をし始めた。まるで水中で酸素を求めているかのようだ。額には深いシワが刻まれ、額には汗が滲んでいる。だが両目はしっかりと閉じられていた。うなされているのは明らかだった。
(オルヴァル、落ち着け!大丈夫、大丈夫だから)
ローディルは彼を落ち着かせようと、頭を擦りつけた。毛づくろいをするかのように顔をチロチロと舐め、力の入った眉間は前脚で優しく解してやる。
少しずつゆっくりとオルヴァルの様子が落ち着きを見せ始める。効果があったのだと分かり、ローディルは継続して男の顔をペロペロと舐めた。勢いあまって舌がオルヴァルの唇をかすめる。
瞬間、ローディルは眩い閃光に包まれた。
突然のことに身を低くし、目を閉じる。何かが襲い来るのかと思い身構えるもその気配は一向に訪れず、獣はゆっくりと目を開けた。
「え…っ!?」
目の前に広がる光景に、驚きの声を上げる。と同時に自分の声が獣の鳴き声ではないことにも気づいた。自分の体を見下ろすと、人型へと変わっていた。
自分を取り囲む景色と体を交互に見る。それでも状況を理解することはできなかった。
ベッドの上にいたのに、青々とした緑に囲まれている。夜であったはずなのに、空は晴天で月ではなく太陽が昇っている。すぐ傍で眠っていたオルヴァルの姿もない。首輪や鎖もついていなかった。
「な、なんだこれ…俺、一体どこにいるんだ?」
ローディルの呟きに答える声はない。鳥のさえずりが聞こえるだけだ。彼はおそるおそる足を一歩前に踏み出してみた。地面の感覚はしっかりしている。
とりあえず状況を把握しようと、きょろきょろと視線を彷徨わせながら歩く。緑にあふれているが、この緑を囲むようにして石造りの建物が建っている。見たこともない鮮やかな色の花が咲き乱れ、剪定された木々との調和がとれていた。どうやら庭園のようだ。
建物の円形の屋根は真っ青で白磁の壁との対比がとても美しい。ところどころに黄金の装飾が施され、太陽光を受けて眩い輝きを放っていた。
「こんなに大きな建物に庭…ふもとの村にもなかった。すっげえ…」
美しい景色に思わず立ち止まり、見入ってしまう。すると彼の目の前を何か小さなものが横切った。自然とローディルの意識はそっちに向いた。
本を小脇に抱えた子供が歩いていた。短い黒髪はくりくりの巻き毛で、浅黒い肌をしている。沈んだ表情で足取りが重い。どこかオルヴァルの面影があるように思えた。
だがローディルはありえない、とすぐにその考えを払拭した。彼は自分の隣で眠っていたのだ。同一人物であるはずがない。
「オルヴァルの子供かな…」
そっちの考えの方が納得がいくな、と思いながら青年は子供に声をかけた。だが子供は立ち止まることなく、どんどん遠ざかっていく。ローディルは彼の後を追った。浮かない顔の理由が気になってしまい、そのままにしておけなかった。
やがて子供は地面の上に腰を下ろし、本を読み始めた。ローディルはもう一度声をかけたが、反応はない。この距離で聞こえていないはずはないのに。
「無視しないでくれよ。聞こえてるんだろ?俺、傷つくんだけど」
それでも反応は一切帰ってこない。若干むっとなりながらも、ローディルは子供の隣に座りこんだ。近くで見るとますますオルヴァルに似ている。こっちの声が一切耳に入らないって、そんなに面白い本なのかと覗きこむと同時にヒソヒソとした声が聞こえてきた。
「まあ、見て…」
「本当に肌の色が黒いのね…まるで頭から煤をかぶったみたい」
「母親は蛮族の出身との噂だけれど、あの肌の色を見ればあながち嘘ではなさそうですわね…」
少し離れたところから、豪奢なドレスに身を包んだ二人の婦人が身を寄せ合ってこちらを見ていた。扇子で口元を隠しているが、整えられた眉毛は不愉快だとばかりに歪んでいる。本人たちは気が付いてないのだろうが、会話の内容は丸聞こえだ。その証拠に、子供は泣くのを我慢するかのように唇をぎゅっと噛んでいる。辛そうな表情に、ローディルの頭に血が昇る。
「おい、聞こえてるんだよ!」
ローディルは無性に腹が立って、彼女たちが口元を覆っている扇子を取り上げようと思った。だが伸ばした手は彼女たちを貫通し、空を切った。
「え…っ!?」
まさかの出来事に目を大きく見開く。婦人方の体の向こうに自分の手が見える。完全に突き抜けていると言うのに、彼女たちは一切表情を変えない。むしろ気づいてないようにも見える。
試しに子供の元に戻り、彼に触れてみる。同様に触ることはできず、空振り。
「なにがどうなってるんだ…!?」
ローディルは自分の両手を見下ろしながら、呆然と立ち尽くした。そんな彼の体の中から、一人の少年が出てきた。ローディルは一人悲鳴をあげて、地面に尻もちをついた。思わず腹を見下ろすが何ともなかった。少年が腹を突き破って出てきたのかと思ったが、そうではなかった。
(びびびびびっくりした!俺の体を通り抜けてきたんだよな…!?し、死んだかと思ったーっ!)
「オルヴァル、ここにいたのか!」
「イ、イズイーク兄様…!?」
腰を抜かして半泣きのローディルだったが、少年の出現に驚く子供と同じように目を丸くした。
「え、この子供がオルヴァル?アイツの子供じゃなくて?それに、イズイークって…」
青年の困惑した呟きは誰の耳にも届くことなく、心地の良い風にさらわれていくだけだった。
青年の発言に、老齢の男は怪訝そうに眉をひそめた。
「何を言うておる。わしの背をとっくに追い越しておるくせに。どれだけでかくなるつもりだ」
「ちがうよ。この姿じゃなくて、こっちのこと!」
青年は手近な布で鼻を擦り、くしゃみをした。瞬く間に彼の姿は獣へと変化した。黒く丸い耳に、茶色い体毛に散った黒い斑点に不思議な色をした瞳。足は細めだが、掌部分は丸く大きめだ。猫よりかは大きく、大型犬よりは小さい。
獣はぎゃう、とひと鳴きしながら両足を掲げて真っ黒な肉球を見せた。その後もう一度くしゃみをし、人の形へと戻る。
「人型は確かに身長もぐんと伸びたし、体も大きくなったよ。けど、獣型はもう何年もずっとあのままだ」
「それが成獣の姿ってことじゃろう」
「そんなはずねーって!」
「何を根拠にそう言える」
「だって、さっきじいちゃんに見せた足!おっきくて立派だろ?絶対にもっとでっかくなるはずなんだ!」
「……そもそも、何故そんなに大きくなりたいんじゃ。今のままでも不便はないじゃろう」
「でっかい方がかっこいいじゃん!」
にっこりと歯を見せて笑う青年に、老人は加齢で落ち窪んだ目をあらんかぎりに見開いた。
「ほら、じいちゃんが読んでくれるおとぎ話にちょくちょく出てくるじゃん、大きな獣。賢くて忠義があって、どの話でも凛々しく雄々しくかっこよく描かれてるだろ?俺、人型になれば話せるし、読み書きだって一応できるし、賢いってとこは当てはまってる。獣の姿だって見た目は悪くないし、大きくなれば凛々しくて雄々しいと思うんだよな~」
ふっふっふ、と口元をにやつかせながら、若者は腕を組む。なぜだかその顔は誇らしげである。
大して中身のない理由に、老人は大きく声を立てて笑った。彼がこんなにも大笑いするのを久しく見ていなかった青年は驚きに目を丸くした。
「…なんだよ、なんで笑うんだよ!面白いとこひとつもなかっただろ!」
「あんまりにも予想外な理由でびっくりしたんじゃ」
「それなら笑う必要ねーじゃん」
青年は眼を細め、頬を膨らませて不満を露にした。笑い飛ばされて不服に思ったが、老人が心から笑う姿を久しぶりに見れた喜びの方が大きかった。老人はなおもくつくつと咽喉を鳴らして笑いながら、若者の金髪を骨ばった手で撫でた。
「そうむくれるな。きっと、獣型と人型とでは成長速度がきっと違うんじゃろうて。焦らんでもいいじゃろう?」
「けどさ大きくなったら、その分力だって増すだろ?例えばじいちゃんを乗せられたら、移動が便利になるし、たくさんの荷物を一度に運べるようにもなる。冬は俺がじいちゃんのこと抱いて寝れば暖も取れるし、大きい方が便利じゃね?」
「儂を乗せられるくらいの大きさじゃと?おいおい、こんなボロ家なぞあっという間に破壊されてしまいそうじゃ!」
「壊しちゃったら、また新しいの建てりゃいいじゃん!それだけのパワーがあれば、木を切ったり運ぶのだってへっちゃらだ!俺がもっといいの建ててやるって!」
青年は腕をまくると、肘を曲げて力こぶを作って見せた。老人は呆れた表情を浮かべていたが、彼の純粋無垢な気持ちに、やれやれと言わんばかりにため息を吐いた。その顔は若者に対する慈愛に満ちている。
「焦って大きくなろうとせんでいい。坊主があっという間に大きくなってしもうたら、この腕に抱いてやれんなる。お前が大きくなった姿はそれは盛観じゃろうが、儂としてはちと寂しいのう」
老人の声は優しく落ち着いたトーンだった。年齢を感じさせる、いくつものシワが刻まれた目元は柔らかく細められ、薄っすらと笑みが浮かんでいる。青年の金髪を撫でつけていた手は下がり、今度は頬を撫でた。
「抱っこなんて…俺、それで喜ぶような年齢でもないし」
「儂がしたいんじゃ。冬になると温もりを求めて儂の膝の上に乗って来るのも好きでなあ。もう少し、小さいお前さんを堪能したいんじゃ」
そう言われると、もう何も言えなくなってしまう。青年は視線を落として、古くなった床板の木目を数えた。なぜだかこみ上げてくる涙をこらえるためだ。
「何も心配することない。ゆっくり大きくなればええ。まだまだ儂にお前さんを守らせてくれ」
老人の指は、皮膚が硬くなってかさついている。ちくちくと痛みを感じたが、裏腹に心の中は温もりで満たされた。
***********************
(また、じいちゃんの夢…。最近よく見るな。なんでだろ…)
いつかの夜も夢を見て途中で覚醒したことを思い出しながら、ローディルはあくびを一つした。窓の方を見る。レースのカーテン越しに見える空は真っ暗で、空高く昇った月が煌々と輝いている。夜明けにはまだほど遠い。
(じいちゃん…、俺は守って欲しかったんじゃなくて、俺がじいちゃんのことを守りたかったんだよ…)
その思いは虚しく、夜の静けさに呑まれてしまう。
あの後、オルヴァルが戻ってきたのは遅い時間だった。彼と入れ替わりで、それまでずっと遊んでくれていたエミルは部屋を後にした。戻って来たオルヴァルはひどく疲れているようで、顔に覇気がなかった。ありがとう、とエミルに向けた笑みも気力を振り絞っているように見えた。
風呂に直行した彼は濡れた髪もそのままに、倒れるようにベッドに横になった。オルヴァルのいつにない姿にどうしていいかわからず、ローディルは床の上に座ったままだ。すると浅黒い肌の男はゆっくりと目を開き、おいでと獣を呼び寄せた。主人に呼ばれてベッドの上に華麗に乗り上げた幼獣は大丈夫かと言わんばかりに男の顔に頬擦りした。体を丸くして横たわるローディルの体を撫でながら顔を埋め、オルヴァルはあっという間に眠ってしまっていた。
(オルヴァル、まるで気を失うように眠っちゃったな…大丈夫か?)
カーテンの隙間から差しんだ月の光に照らされている男の顔を覗きこむ。相変わらず、死んだように静かに眠っている。
(目の下、すげえクマが出来てる)
夜闇の中であっても、彼の目の下に刻まれた濃いクマを見逃すことはできなかった。たった半日の間にやつれてしまったようにも見える。ローディルは前脚の肉球をクマに押しあてた。マッサージを施すかのように、優しく揉んでやる。
「う…」
(ヤベッ。力強かったか?)
小さな呻き声が聞こえて、ローディルは慌てて前脚を離した。起こしてしまったかと危惧したが、目はしっかりと閉じられていて、ほっと息を吐く。だが次の瞬間、オルヴァルは激しく呼吸をし始めた。まるで水中で酸素を求めているかのようだ。額には深いシワが刻まれ、額には汗が滲んでいる。だが両目はしっかりと閉じられていた。うなされているのは明らかだった。
(オルヴァル、落ち着け!大丈夫、大丈夫だから)
ローディルは彼を落ち着かせようと、頭を擦りつけた。毛づくろいをするかのように顔をチロチロと舐め、力の入った眉間は前脚で優しく解してやる。
少しずつゆっくりとオルヴァルの様子が落ち着きを見せ始める。効果があったのだと分かり、ローディルは継続して男の顔をペロペロと舐めた。勢いあまって舌がオルヴァルの唇をかすめる。
瞬間、ローディルは眩い閃光に包まれた。
突然のことに身を低くし、目を閉じる。何かが襲い来るのかと思い身構えるもその気配は一向に訪れず、獣はゆっくりと目を開けた。
「え…っ!?」
目の前に広がる光景に、驚きの声を上げる。と同時に自分の声が獣の鳴き声ではないことにも気づいた。自分の体を見下ろすと、人型へと変わっていた。
自分を取り囲む景色と体を交互に見る。それでも状況を理解することはできなかった。
ベッドの上にいたのに、青々とした緑に囲まれている。夜であったはずなのに、空は晴天で月ではなく太陽が昇っている。すぐ傍で眠っていたオルヴァルの姿もない。首輪や鎖もついていなかった。
「な、なんだこれ…俺、一体どこにいるんだ?」
ローディルの呟きに答える声はない。鳥のさえずりが聞こえるだけだ。彼はおそるおそる足を一歩前に踏み出してみた。地面の感覚はしっかりしている。
とりあえず状況を把握しようと、きょろきょろと視線を彷徨わせながら歩く。緑にあふれているが、この緑を囲むようにして石造りの建物が建っている。見たこともない鮮やかな色の花が咲き乱れ、剪定された木々との調和がとれていた。どうやら庭園のようだ。
建物の円形の屋根は真っ青で白磁の壁との対比がとても美しい。ところどころに黄金の装飾が施され、太陽光を受けて眩い輝きを放っていた。
「こんなに大きな建物に庭…ふもとの村にもなかった。すっげえ…」
美しい景色に思わず立ち止まり、見入ってしまう。すると彼の目の前を何か小さなものが横切った。自然とローディルの意識はそっちに向いた。
本を小脇に抱えた子供が歩いていた。短い黒髪はくりくりの巻き毛で、浅黒い肌をしている。沈んだ表情で足取りが重い。どこかオルヴァルの面影があるように思えた。
だがローディルはありえない、とすぐにその考えを払拭した。彼は自分の隣で眠っていたのだ。同一人物であるはずがない。
「オルヴァルの子供かな…」
そっちの考えの方が納得がいくな、と思いながら青年は子供に声をかけた。だが子供は立ち止まることなく、どんどん遠ざかっていく。ローディルは彼の後を追った。浮かない顔の理由が気になってしまい、そのままにしておけなかった。
やがて子供は地面の上に腰を下ろし、本を読み始めた。ローディルはもう一度声をかけたが、反応はない。この距離で聞こえていないはずはないのに。
「無視しないでくれよ。聞こえてるんだろ?俺、傷つくんだけど」
それでも反応は一切帰ってこない。若干むっとなりながらも、ローディルは子供の隣に座りこんだ。近くで見るとますますオルヴァルに似ている。こっちの声が一切耳に入らないって、そんなに面白い本なのかと覗きこむと同時にヒソヒソとした声が聞こえてきた。
「まあ、見て…」
「本当に肌の色が黒いのね…まるで頭から煤をかぶったみたい」
「母親は蛮族の出身との噂だけれど、あの肌の色を見ればあながち嘘ではなさそうですわね…」
少し離れたところから、豪奢なドレスに身を包んだ二人の婦人が身を寄せ合ってこちらを見ていた。扇子で口元を隠しているが、整えられた眉毛は不愉快だとばかりに歪んでいる。本人たちは気が付いてないのだろうが、会話の内容は丸聞こえだ。その証拠に、子供は泣くのを我慢するかのように唇をぎゅっと噛んでいる。辛そうな表情に、ローディルの頭に血が昇る。
「おい、聞こえてるんだよ!」
ローディルは無性に腹が立って、彼女たちが口元を覆っている扇子を取り上げようと思った。だが伸ばした手は彼女たちを貫通し、空を切った。
「え…っ!?」
まさかの出来事に目を大きく見開く。婦人方の体の向こうに自分の手が見える。完全に突き抜けていると言うのに、彼女たちは一切表情を変えない。むしろ気づいてないようにも見える。
試しに子供の元に戻り、彼に触れてみる。同様に触ることはできず、空振り。
「なにがどうなってるんだ…!?」
ローディルは自分の両手を見下ろしながら、呆然と立ち尽くした。そんな彼の体の中から、一人の少年が出てきた。ローディルは一人悲鳴をあげて、地面に尻もちをついた。思わず腹を見下ろすが何ともなかった。少年が腹を突き破って出てきたのかと思ったが、そうではなかった。
(びびびびびっくりした!俺の体を通り抜けてきたんだよな…!?し、死んだかと思ったーっ!)
「オルヴァル、ここにいたのか!」
「イ、イズイーク兄様…!?」
腰を抜かして半泣きのローディルだったが、少年の出現に驚く子供と同じように目を丸くした。
「え、この子供がオルヴァル?アイツの子供じゃなくて?それに、イズイークって…」
青年の困惑した呟きは誰の耳にも届くことなく、心地の良い風にさらわれていくだけだった。
11
あなたにおすすめの小説
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
異世界にやってきたら氷の宰相様が毎日お手製の弁当を持たせてくれる
七瀬京
BL
異世界に召喚された大学生ルイは、この世界を救う「巫覡」として、力を失った宝珠を癒やす役目を与えられる。
だが、異界の食べ物を受けつけない身体に苦しみ、倒れてしまう。
そんな彼を救ったのは、“氷の宰相”と呼ばれる美貌の男・ルースア。
唯一ルイが食べられるのは、彼の手で作られた料理だけ――。
優しさに触れるたび、ルイの胸に芽生える感情は“感謝”か、それとも“恋”か。
穏やかな日々の中で、ふたりの距離は静かに溶け合っていく。
――心と身体を癒やす、年の差主従ファンタジーBL。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
異世界で8歳児になった僕は半獣さん達と仲良くスローライフを目ざします
み馬下諒
BL
志望校に合格した春、桜の樹の下で意識を失った主人公・斗馬 亮介(とうま りょうすけ)は、気がついたとき、異世界で8歳児の姿にもどっていた。
わけもわからず放心していると、いきなり巨大な黒蛇に襲われるが、水の精霊〈ミュオン・リヒテル・リノアース〉と、半獣属の大熊〈ハイロ〉があらわれて……!?
これは、異世界へ転移した8歳児が、しゃべる動物たちとスローライフ?を目ざす、ファンタジーBLです。
おとなサイド(半獣×精霊)のカプありにつき、R15にしておきました。
※ 造語、出産描写あり。前置き長め。第21話に登場人物紹介を載せました。
★お試し読みは第1部(第22〜27話あたり)がオススメです。物語の傾向がわかりやすいかと思います★
★第11回BL小説大賞エントリー作品★最終結果2773作品中/414位★応援ありがとうございました★
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
悪役令息を改めたら皆の様子がおかしいです?
* ゆるゆ
BL
王太子から伴侶(予定)契約を破棄された瞬間、前世の記憶がよみがえって、悪役令息だと気づいたよ! しかし気づいたのが終了した後な件について。
悪役令息で断罪なんて絶対だめだ! 泣いちゃう!
せっかく前世を思い出したんだから、これからは心を入れ替えて、真面目にがんばっていこう! と思ったんだけど……あれ? 皆やさしい? 主人公はあっちだよー?
ご感想欄 、うれしくてすぐ承認を押してしまい(笑)ネタバレ 配慮できないので、ご覧になる時は、お気をつけください!
ユィリと皆の動画つくりました! お話にあわせて、ちょこちょこあがる予定です。
インスタ @yuruyu0 絵もあがります
Youtube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます
プロフのWebサイトから、両方に飛べるので、もしよかったら!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
【完結】利害が一致したクラスメイトと契約番になりましたが、好きなアルファが忘れられません。
亜沙美多郎
BL
高校に入学して直ぐのバース性検査で『突然変異オメガ』と診断された時田伊央。
密かに想いを寄せている幼馴染の天海叶翔は特殊性アルファで、もう一緒には過ごせないと距離をとる。
そんな折、伊央に声をかけて来たのがクラスメイトの森島海星だった。海星も突然変異でバース性が変わったのだという。
アルファになった海星から「契約番にならないか」と話を持ちかけられ、叶翔とこれからも友達として側にいられるようにと、伊央は海星と番になることを決めた。
しかし避けられていると気付いた叶翔が伊央を図書室へ呼び出した。そこで伊央はヒートを起こしてしまい叶翔に襲われる。
駆けつけた海星に助けられ、その場は収まったが、獣化した叶翔は後遺症と闘う羽目になってしまった。
叶翔と会えない日々を過ごしているうちに、伊央に発情期が訪れる。約束通り、海星と番になった伊央のオメガの香りは叶翔には届かなくなった……はずだったのに……。
あるひ突然、叶翔が「伊央からオメガの匂いがする」を言い出して事態は急変する。
⭐︎オメガバースの独自設定があります。
炎の精霊王の愛に満ちて
陽花紫
BL
異世界転移してしまったミヤは、森の中で寒さに震えていた。暖をとるために焚火をすれば、そこから精霊王フレアが姿を現す。
悪しき魔術師によって封印されていたフレアはその礼として「願いをひとつ叶えてやろう」とミヤ告げる。しかし無欲なミヤには、願いなど浮かばなかった。フレアはミヤに欲望を与え、いまいちど願いを尋ねる。
ミヤは答えた。「俺を、愛して」
小説家になろうにも掲載中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる