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32. 老父の深い愛情
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『坊主、お前がこの文章を読んでいる時、儂はもう傍にはおらんじゃろう』
ローディルは必死で抵抗したが、オルヴァルの声を通して養父の言葉が脳内に流れこんでくると、まるで金縛りにあったかのように身動きが取れなくなってしまった。
アサドは、目を見開き呼吸すら止める彼の拘束を解き、優しく抱きしめた。落ち着かせるように、背中を撫でてやる。
『お前さんを一人残してしまって、本当にすまない。もっと早く独り立ちさせるべきじゃったが、坊主が可愛いあまり、儂の方が子離れできなんだ。儂がいなくとも、元気でやっているか?図体は大きくとも、いつまでも甘えん坊じゃから、心配じゃ。じゃが同時に、強い子でもあるから、きっと大丈夫じゃろうな。そんなお前さんに、儂は何度も救われてきた』
「じい、ちゃ…」
オルヴァルなのに、脳内で彼の声が養父のものに変換される。まるで本当に養父が目の前で喋っているかのような感覚に陥っていた。
『恥ずかしくて面と向かっては言えなかったが、お前さんは儂の生きる光じゃった。お前さんを拾ったあの日、儂は命を絶とうとしていた。ある出来事によって生きる気力を失い、全てにおいて絶望しておった。傷つき倒れた獣を見つけ、最初は放っておこうと思った。じゃが、何故かどうしても放っておけなかった。
連れ帰り手当を施し、傷が癒えて元気になると野生に返そうと思っておった。じゃがその日、お前さんはくしゃみをして、人間の子供に変身しおった!お前さんは覚えておらんかもしれんが、無邪気な笑顔でじいちゃんと呼ばれた瞬間、涙が止まらんかった。あの瞬間、儂はこの子を残して死ねない、と思った。まるで儂を生かすために神様が遣わしてくれたように思えたんじゃ。
まさしく、お前さんと過ごした月日は、儂の人生で最上の時間じゃった。貧しく、食い扶持を確保するのにも苦労したが、間違いなく充実した日々じゃった。
最後まで坊主には名前をつけんかったが、正しくはつけられなかったんじゃ。最初は、いずれ自然に帰す身、と考えて愛着が湧いては困ると考えてのことじゃった。お前さんを育てると決めた後も、名前で縛りつけたくないと思うた。こんなにも美しく尊い獣に儂が名前を与えるなど、おこがましいことと思えたんじゃ。
お前さんには散々苦労をかけてきたが、名前以外で儂が与えられるものは全て与えてきたつもりだ。これからは、思うままに自由に生きなさい。それと、家の近くの一番高いシュイの樹の根元にも僅かな金と金目の物を埋めてあるから、使っておくれ。金が入用なら、本を売ると良い。大きな街に出れば、いくらかの金になるじゃろう。
誰に似たのか、お前さんは頑固なところもあるから、面と向かって言っても聞かんじゃろう。じゃから、こうして本に便りを残すことにした。気づかぬのならそれでも良い。
こんな偏屈な爺を親のように慕ってくれて、嬉しかったぞ。これから儂は星の一つとなって、お前さんのことをずっと見守っておるからな。お前さんは、儂のかけがえのない宝物じゃ。強く優しく、明るく元気で美しい生物と過ごせて、儂は本当に果報者じゃった。楽しい余生を過ごさせてくれてありがとうな、坊主。幸せになるんじゃぞ』
老父の遺書に、ローディルは激しく慟哭した。まるで子供のように声を上げ、じいちゃんと繰り返し名前を呼びながらわんわん泣く姿に、見る者の胸は張り裂けそうに苦しくなる。
誰一人として何も言葉を発することができなかった。エミルの頬にも滝のような涙が流れ、アサドはただただ強くローディルを抱きしめた。どう慰めていいのかわからなかった。
オルヴァルは本の表紙を撫でながら、青年の様子から見るにどれも初めて耳にする内容なのだろうと思った。老父が死に場所を探していたとは知らなかっただろうから、ローディルは酷くショックを受けただろう。だがそれ以上にこの遺書には彼への愛情が満ち溢れていた。嫌がる青年に無理矢理聞かせたことに罪悪感は生じていたが、だからと言って見逃すことはできなかった。
彼の話から聞くに、老父は不器用な人物だった。きっと、こういう方法でしか本音を伝えられなかったのだろうと思う。大好きな養父を失った悲しみを再び思い起こさせ、喪失の傷を広げさせてしまったかもしれない。だが、ローディルは知るべきだとオルヴァルとアサドは判断した。
「どうした?」
しばらく続いていた泣き声が突然止まり、オルヴァルは慌ててアサドに近づいた。彼の胸に力なく寄りかかるローディルの顔を覗きこむ。
「…眠っているようです。精神的な負荷が大きかったのでしょうね」
「アサド、ベッドに寝かせてやってくれ。俺が一晩付き添う」
アサドは頷くと、青年の体を抱き上げて優しくベッドに寝かせた。彼らの後ろでは、エミルが未だ止まらない涙を袖で拭っている。
「ううっ…泣けるっす。ローディルの悲しみは計り知れないっすけど…」
「そうだな。ローディルに笑顔が戻るまで、俺達で出来ることは全てしてやろう」
主人の言葉に、アサドは当然ですと言わんばかりに頷き、エミルはやる気に満ちた表情で両手に力強い握り拳を作った。
二人が退室するとオルヴァルは灯りを消して、ローディルの隣に体を横たえた。顔を濡らす涙を拭ってやるも、その頬が乾くことはなかった。閉じた目の隙間から、拭いても拭いても涙がにじみ出てくるのだ。
ローディルの体を抱き寄せ、全身で包みこむ。寝ながらも涙を流す目の前の生き物が、愛おしくてたまらなかった。
彼の中から悲しみを取り除いてやりたい。一人ではない。自分をはじめ、アサドやエミルが傍にいると知って欲しかった。それ程までに、ローディルは三人にとって大事な存在になっていた。
「ローディル、泣き止んでくれ」
額におやすみのキスを落とし、オルヴァルは彼を抱いたまま目を閉じた。
翌朝目を覚ますと腕の中に閉じ込めた存在が感じられず、オルヴァルは飛び起きた。青年が腕の中から抜け出したことに気づかず眠りこけていたことに愕然とする。頭をよぎる最悪の状況を振り払いながら、慌てて室内を見回す。
少し離れた場所で、茶色い塊が見えた。獣の姿になったローディルが体を丸めて眠っていた。距離を取られていたことは気にかかるものの、ひとまずは彼の安全を確認できたことにほっとした。口から大きく安堵の息が漏れる。
「ローディル、良かった…」
規則的に上下する体に唇を埋め、優しく撫でる。するとゆっくりと目が開いて、夜明けのような美しい色合いの瞳が現れた。眠そうに何度も目を瞬かせる獣に、おはようと声をかける。ローディルは大きなあくびをしながら、体を起こして伸びをした。
「昨夜はすまなかった。嫌がるローディルに無理強いをした」
指でそっと前脚に触れる。獣は主人の顔をじっと見上げた後、その手に顔を擦り寄せた。まるで、許す、と言ってくれているかのようだ。
いつも通り人懐っこい獣に思えるが、昨晩の影響がないわけではなかった。しばらくの間、ローディルは一切人間に変身しようとしなかったのだ。頻繁に鳴いていたのにそれもなくなり、屋敷内を満たしていた賑やかさは明らかに減った。
ただ、甘えん坊なところは唯一変わらなかった。抱っこもせがんでくるし、積極的に頭や体を寄せてくる。撫でると気持ちよさそうに目を閉じるのも相変わらずだ。会話をしてくれないので何を思っているのかはわからないが、こうして触れるのを許してくれているということは、まだ嫌われてはいないらしい。
大人しく元気のない様子は確かに気にかかるものの、食欲は変わらず、夜も三人の内の誰かの部屋に戻っている。オルヴァルとアサドは普段通りに接するのが良いと判断したが、エミルは頭では分かっていながらもやはり心配で目を離せないようだった。
一匹で廊下を歩いているのを見つけると、仕事そっちのけで後をついていく。声をかけたりはせず、距離もある程度取り、邪魔をしないよう心がけた。獣はやがて、調理場の入り口で腰を下ろした。床に伸びた長い尾が大きくゆっくり振れている。
「ロティ、来てたのか。ちょっと待ってなー」
ローディルに気づいたユンが、肉の欠片が載った小皿を床に置いた。獣は無言のままそれをぺろりと平らげると、調理場を離れた。もう行っちゃうのか?とユンの問いかけに、見向きもしない。
「お、エミル。ロティさ、最近変じゃないか?いつもなら来たら鳴き声で知らせてくれるし、食べた後もご機嫌そうにしてるってのに」
「そうっすか?食事は毎回きっちり完食してるっすよ?ただ、そういう気分じゃなかっただけじゃないっすかねえ。ほら、動物って気まぐれじゃないっすか~」
「ふーん、そういうもんかな?」
腕を組んで不思議そうにローディルの後ろ姿を見るユンに、エミルは苦笑いを浮かべた。何と説明すればいいのか分からなかったのだ。
「でさ、ローディルはまだ帰ってきてないの」
「え、あ、あーそうなんっすよ。故郷に戻ったら何だかんだやることが残ってたみたいっす」
「そっか。早く戻って来て欲しいよな。元気な声が聞こえなくなって、物足りなくってさ」
ユンの質問に、エミルはぎくりと体を強張らせた。急に姿を見せなくなったローディルは、親族の遺品を整理するために故郷に戻っているということにしている。
ロティがいつもと違う、ローディルの姿が見えない、という心配の声はそこかしこで聞かれた。その度にエミルは同様の言葉をかけ。追求をのらりくらりとかわしている。皆とりあえずは納得してくれるものの、何かしらの異変に気づいているようだ。
「エミル」
階段を降りて庭園へと向かっていく獣の後を追いかけていると、アサドに呼び止められた。男の視線が、エミルが運んでいた洗濯済みのタオルの山、それから小さな獣へと移る。口よりも雄弁に語る目に、青年は困ったように微笑んだ。
「ごめんなさいっすアサドさん、ロティのことが心配で…。オルヴァル様のところにいるなら安心なんですけど、ああやって一人でうろついてるのを見ると、どうしても不安になっちゃうっす。いつの間にか、いなくなっちゃうんじゃないかって……」
「…そうですね。精神的に不安定なのは間違いないでしょうし。ですが、今のところ夜には必ず戻って来てくれています。今更何も言わずに出て行くことはないでしょう」
「そうっす、よね…。アサドさん、俺達にできることないんですかね?」
エミルの問いに、アサドはゆっくりと頭を左右に振った。
「ロティは今、自分の中の悲しみに向き合い、受け入れようとしているはずです。私達にできることは、彼を見守り、信じて待つことだけ。彼の気持ちの整理がついたその時には、迎え入れて抱きしめてあげましょう」
「……そうっすね。その時は、今よりうんと甘やかしてやらないとっすね」
ローディルの消えていった廊下の先をじっと見つめながら、エミルは早くその日が来るようにと切に願ったのだった。
ローディルは必死で抵抗したが、オルヴァルの声を通して養父の言葉が脳内に流れこんでくると、まるで金縛りにあったかのように身動きが取れなくなってしまった。
アサドは、目を見開き呼吸すら止める彼の拘束を解き、優しく抱きしめた。落ち着かせるように、背中を撫でてやる。
『お前さんを一人残してしまって、本当にすまない。もっと早く独り立ちさせるべきじゃったが、坊主が可愛いあまり、儂の方が子離れできなんだ。儂がいなくとも、元気でやっているか?図体は大きくとも、いつまでも甘えん坊じゃから、心配じゃ。じゃが同時に、強い子でもあるから、きっと大丈夫じゃろうな。そんなお前さんに、儂は何度も救われてきた』
「じい、ちゃ…」
オルヴァルなのに、脳内で彼の声が養父のものに変換される。まるで本当に養父が目の前で喋っているかのような感覚に陥っていた。
『恥ずかしくて面と向かっては言えなかったが、お前さんは儂の生きる光じゃった。お前さんを拾ったあの日、儂は命を絶とうとしていた。ある出来事によって生きる気力を失い、全てにおいて絶望しておった。傷つき倒れた獣を見つけ、最初は放っておこうと思った。じゃが、何故かどうしても放っておけなかった。
連れ帰り手当を施し、傷が癒えて元気になると野生に返そうと思っておった。じゃがその日、お前さんはくしゃみをして、人間の子供に変身しおった!お前さんは覚えておらんかもしれんが、無邪気な笑顔でじいちゃんと呼ばれた瞬間、涙が止まらんかった。あの瞬間、儂はこの子を残して死ねない、と思った。まるで儂を生かすために神様が遣わしてくれたように思えたんじゃ。
まさしく、お前さんと過ごした月日は、儂の人生で最上の時間じゃった。貧しく、食い扶持を確保するのにも苦労したが、間違いなく充実した日々じゃった。
最後まで坊主には名前をつけんかったが、正しくはつけられなかったんじゃ。最初は、いずれ自然に帰す身、と考えて愛着が湧いては困ると考えてのことじゃった。お前さんを育てると決めた後も、名前で縛りつけたくないと思うた。こんなにも美しく尊い獣に儂が名前を与えるなど、おこがましいことと思えたんじゃ。
お前さんには散々苦労をかけてきたが、名前以外で儂が与えられるものは全て与えてきたつもりだ。これからは、思うままに自由に生きなさい。それと、家の近くの一番高いシュイの樹の根元にも僅かな金と金目の物を埋めてあるから、使っておくれ。金が入用なら、本を売ると良い。大きな街に出れば、いくらかの金になるじゃろう。
誰に似たのか、お前さんは頑固なところもあるから、面と向かって言っても聞かんじゃろう。じゃから、こうして本に便りを残すことにした。気づかぬのならそれでも良い。
こんな偏屈な爺を親のように慕ってくれて、嬉しかったぞ。これから儂は星の一つとなって、お前さんのことをずっと見守っておるからな。お前さんは、儂のかけがえのない宝物じゃ。強く優しく、明るく元気で美しい生物と過ごせて、儂は本当に果報者じゃった。楽しい余生を過ごさせてくれてありがとうな、坊主。幸せになるんじゃぞ』
老父の遺書に、ローディルは激しく慟哭した。まるで子供のように声を上げ、じいちゃんと繰り返し名前を呼びながらわんわん泣く姿に、見る者の胸は張り裂けそうに苦しくなる。
誰一人として何も言葉を発することができなかった。エミルの頬にも滝のような涙が流れ、アサドはただただ強くローディルを抱きしめた。どう慰めていいのかわからなかった。
オルヴァルは本の表紙を撫でながら、青年の様子から見るにどれも初めて耳にする内容なのだろうと思った。老父が死に場所を探していたとは知らなかっただろうから、ローディルは酷くショックを受けただろう。だがそれ以上にこの遺書には彼への愛情が満ち溢れていた。嫌がる青年に無理矢理聞かせたことに罪悪感は生じていたが、だからと言って見逃すことはできなかった。
彼の話から聞くに、老父は不器用な人物だった。きっと、こういう方法でしか本音を伝えられなかったのだろうと思う。大好きな養父を失った悲しみを再び思い起こさせ、喪失の傷を広げさせてしまったかもしれない。だが、ローディルは知るべきだとオルヴァルとアサドは判断した。
「どうした?」
しばらく続いていた泣き声が突然止まり、オルヴァルは慌ててアサドに近づいた。彼の胸に力なく寄りかかるローディルの顔を覗きこむ。
「…眠っているようです。精神的な負荷が大きかったのでしょうね」
「アサド、ベッドに寝かせてやってくれ。俺が一晩付き添う」
アサドは頷くと、青年の体を抱き上げて優しくベッドに寝かせた。彼らの後ろでは、エミルが未だ止まらない涙を袖で拭っている。
「ううっ…泣けるっす。ローディルの悲しみは計り知れないっすけど…」
「そうだな。ローディルに笑顔が戻るまで、俺達で出来ることは全てしてやろう」
主人の言葉に、アサドは当然ですと言わんばかりに頷き、エミルはやる気に満ちた表情で両手に力強い握り拳を作った。
二人が退室するとオルヴァルは灯りを消して、ローディルの隣に体を横たえた。顔を濡らす涙を拭ってやるも、その頬が乾くことはなかった。閉じた目の隙間から、拭いても拭いても涙がにじみ出てくるのだ。
ローディルの体を抱き寄せ、全身で包みこむ。寝ながらも涙を流す目の前の生き物が、愛おしくてたまらなかった。
彼の中から悲しみを取り除いてやりたい。一人ではない。自分をはじめ、アサドやエミルが傍にいると知って欲しかった。それ程までに、ローディルは三人にとって大事な存在になっていた。
「ローディル、泣き止んでくれ」
額におやすみのキスを落とし、オルヴァルは彼を抱いたまま目を閉じた。
翌朝目を覚ますと腕の中に閉じ込めた存在が感じられず、オルヴァルは飛び起きた。青年が腕の中から抜け出したことに気づかず眠りこけていたことに愕然とする。頭をよぎる最悪の状況を振り払いながら、慌てて室内を見回す。
少し離れた場所で、茶色い塊が見えた。獣の姿になったローディルが体を丸めて眠っていた。距離を取られていたことは気にかかるものの、ひとまずは彼の安全を確認できたことにほっとした。口から大きく安堵の息が漏れる。
「ローディル、良かった…」
規則的に上下する体に唇を埋め、優しく撫でる。するとゆっくりと目が開いて、夜明けのような美しい色合いの瞳が現れた。眠そうに何度も目を瞬かせる獣に、おはようと声をかける。ローディルは大きなあくびをしながら、体を起こして伸びをした。
「昨夜はすまなかった。嫌がるローディルに無理強いをした」
指でそっと前脚に触れる。獣は主人の顔をじっと見上げた後、その手に顔を擦り寄せた。まるで、許す、と言ってくれているかのようだ。
いつも通り人懐っこい獣に思えるが、昨晩の影響がないわけではなかった。しばらくの間、ローディルは一切人間に変身しようとしなかったのだ。頻繁に鳴いていたのにそれもなくなり、屋敷内を満たしていた賑やかさは明らかに減った。
ただ、甘えん坊なところは唯一変わらなかった。抱っこもせがんでくるし、積極的に頭や体を寄せてくる。撫でると気持ちよさそうに目を閉じるのも相変わらずだ。会話をしてくれないので何を思っているのかはわからないが、こうして触れるのを許してくれているということは、まだ嫌われてはいないらしい。
大人しく元気のない様子は確かに気にかかるものの、食欲は変わらず、夜も三人の内の誰かの部屋に戻っている。オルヴァルとアサドは普段通りに接するのが良いと判断したが、エミルは頭では分かっていながらもやはり心配で目を離せないようだった。
一匹で廊下を歩いているのを見つけると、仕事そっちのけで後をついていく。声をかけたりはせず、距離もある程度取り、邪魔をしないよう心がけた。獣はやがて、調理場の入り口で腰を下ろした。床に伸びた長い尾が大きくゆっくり振れている。
「ロティ、来てたのか。ちょっと待ってなー」
ローディルに気づいたユンが、肉の欠片が載った小皿を床に置いた。獣は無言のままそれをぺろりと平らげると、調理場を離れた。もう行っちゃうのか?とユンの問いかけに、見向きもしない。
「お、エミル。ロティさ、最近変じゃないか?いつもなら来たら鳴き声で知らせてくれるし、食べた後もご機嫌そうにしてるってのに」
「そうっすか?食事は毎回きっちり完食してるっすよ?ただ、そういう気分じゃなかっただけじゃないっすかねえ。ほら、動物って気まぐれじゃないっすか~」
「ふーん、そういうもんかな?」
腕を組んで不思議そうにローディルの後ろ姿を見るユンに、エミルは苦笑いを浮かべた。何と説明すればいいのか分からなかったのだ。
「でさ、ローディルはまだ帰ってきてないの」
「え、あ、あーそうなんっすよ。故郷に戻ったら何だかんだやることが残ってたみたいっす」
「そっか。早く戻って来て欲しいよな。元気な声が聞こえなくなって、物足りなくってさ」
ユンの質問に、エミルはぎくりと体を強張らせた。急に姿を見せなくなったローディルは、親族の遺品を整理するために故郷に戻っているということにしている。
ロティがいつもと違う、ローディルの姿が見えない、という心配の声はそこかしこで聞かれた。その度にエミルは同様の言葉をかけ。追求をのらりくらりとかわしている。皆とりあえずは納得してくれるものの、何かしらの異変に気づいているようだ。
「エミル」
階段を降りて庭園へと向かっていく獣の後を追いかけていると、アサドに呼び止められた。男の視線が、エミルが運んでいた洗濯済みのタオルの山、それから小さな獣へと移る。口よりも雄弁に語る目に、青年は困ったように微笑んだ。
「ごめんなさいっすアサドさん、ロティのことが心配で…。オルヴァル様のところにいるなら安心なんですけど、ああやって一人でうろついてるのを見ると、どうしても不安になっちゃうっす。いつの間にか、いなくなっちゃうんじゃないかって……」
「…そうですね。精神的に不安定なのは間違いないでしょうし。ですが、今のところ夜には必ず戻って来てくれています。今更何も言わずに出て行くことはないでしょう」
「そうっす、よね…。アサドさん、俺達にできることないんですかね?」
エミルの問いに、アサドはゆっくりと頭を左右に振った。
「ロティは今、自分の中の悲しみに向き合い、受け入れようとしているはずです。私達にできることは、彼を見守り、信じて待つことだけ。彼の気持ちの整理がついたその時には、迎え入れて抱きしめてあげましょう」
「……そうっすね。その時は、今よりうんと甘やかしてやらないとっすね」
ローディルの消えていった廊下の先をじっと見つめながら、エミルは早くその日が来るようにと切に願ったのだった。
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