58 / 107
57. ラクダに遊ばれる
しおりを挟む
翌日、オルヴァルはアサドから提出された報告書に目を通していた。アサドとベネディクタスの補佐とで詰めた、取り決めに関する詳細がまとめられたものだ。
「この内容で何ら問題ない」
「では、この内容で先方と連絡を取り、進めます」
「ああ、頼んだ。いつも苦労をかけてすまないな」
「いいえ。もうすっかり慣れましたから」
ローテーブルを挟んで対面に座る腹心の部下は澄ました顔で報告書を受け取り、カップに注がれた茶に口を付けた。昔馴染み特有の軽口に、オルヴァルは顔を綻ばせる。
「…ローディルのいる場では言えずにいたが、マルティアトでセヴィリスと邂逅した」
書類の束を机に打ちつけて角を揃えていた長髪の男は、弾かれたように顔を上げた。店先で偶然出会い言葉を交わしたことを話せば、途端に眉間には険しく深いシワが刻まれた。
「あれ以来一度も市街地では目撃報告がなかったにも関わらず、殿下のマルティアト訪問と同時に現れたと?」
「ああ。興行で訪れたそうだ」
不信感を露にした予想通りの反応に、オルヴァルは頷く。思うところは同じらしい。
「俺も同じ疑いを持ったが、プリヤによれば不審な印象は受けなかったそうだ。どんなに手練れであろうが負の感情を隠し通すことなどできない、密偵か暗殺者と決めつけるには根拠が足りないと言われた」
「数々の視線をくぐり抜けてきたプリヤの勘の鋭さと武人の腕には目を見張るものがあります。彼女が白と言うのであれば、そうなのでしょう。……ですが心のどこかでは、そんな偶然があるはずないと思ってしまうのです」
「何かが引っかかる気持ちはわかる。だが、見た目が派手でな。容姿も整っているし、かなり人目を惹く人物だから密偵や暗殺者には不向きに思える。それに根無し草の生活をしていると言うわりに品も感じる」
「……殿下の説明を聞いても、セヴィリスがどのような人物か全く想像がつかないのですが」
主君の説明に、アサドは何とも言えない表情を浮かべた。無意識に中央に寄る眉間を指で揉み解している。
オルヴァルは苦笑を浮かべるしかなかった。自分の説明が曖昧で、頭の中で人物像を描くのが難しいのは承知していた。それでも尚、掴みどころのないあの男をどう形容すればいいのか分からない。
「アサドも実際に会ってみるか?ひと目見れば、俺の言わんとすることが分かると思う」
主君の予想外の提案に、アサドは驚きに目を丸くする。明らかに怪しい人物に進んで会うなど言語道断、と条件反射で拒否しようとした男だが、寸でところで思いとどまった。
オルヴァルやローディルにとってどれほどの脅威となりうるかを自身の目で見極めるいい機会なのかもしれないと考え直す。エミルが敵意を剥き出しにし、ローディルは初対面にも関わらず、心を開き、オルヴァルが不思議な男だと形容する男を。
「…確かにそうですね。私以外の皆が会っているのですし、私も会っておくべきかもしれません。国内およびバルブロにまで足を運んでいるとのことですので、各地の情報も得られるかもしれませんしね。ですが、市街地を警らする兵士達でさえ遭遇しない人物に、一体どうやって会うのです?」
「彼の連れている鷲にローディルが頼めば、主人の元へと導いてくれるらしい」
「何なのです、その不可思議な仕組みは」
「俺もよく分からないんだが、ローディルにそう伝えて欲しいと頼まれた」
あまりにもざっくりとした眉唾な方法に、アサドは不信感を募らせる。まさかその発言を鵜吞みにしているのかとでも言いたげな部下の視線に、オルヴァルは困った様子で小さく唸り声をあげることしか出来なかった。彼も半信半疑なのだ。
「であれば必然的にローディルを連れて行くことになりますが、構わないのですか?話を聞く限り、セヴィリスは彼に執心のようですが…」
「…正直に言えば面白くはない」
オルヴァルの顔は途端に苦虫を嚙みつぶしたようなものに変わった。行儀悪く長椅子に深くもたれ、額に手をあてて深く息を吐いた。
「ローディルは友の一人作るのにも俺達の許可が必要なのか、とプリヤに揶揄われてな。本人は何の気なしに言ったのだろうが、少し気が咎めてしまった」
「屋敷内の者は雇用前に一通り身辺調査を行っていますし、何ら心配などしません。屋敷外の方でも素性がはっきりとしているなら、こちらとしてもとやかく言ったりしません。ただセヴィリスに関しては怪しさが拭えないと言うだけで。警戒するのは至極真っ当だと思いますが」
今度はアサドが顔をしかめる番だった。不愉快だと感情を露にし、この場にいないプリヤにも喧嘩腰だ。堅物な部下は主君と青年の件になると、途端に好戦的になる。
だが彼の言うことも尤もだった。半分獣のわりにローディルはどこか危なっかしく、守ってやらねばという意識が芽生えるのだ。
「二人きりで会うとなれば心配だが、誰かと一緒なら目くじらを立てる必要もないと思ってな。本音を言えば俺が同伴したいが、屋敷外では制限も多く叶わない。だがアサドと一緒なら安心して任せられる」
「お任せください。不埒な輩から、しっかりとローディルをお守りしてみせます」
堅物な男には珍しくおどけた物言いに、オルヴァルは小さく笑いをこぼしたのだった。
*****************
一方その頃、手持ちの仕事を終えたローディルは厩舎にいた。ラクダが木桶いっぱいに入れられた野菜を夢中で食べている。その隣では仔ラクダも母親の真似をしているのか、葉物野菜を口に咥えて振り回している。ロティの姿になった時の良き遊び相手でもある。母親はマフタで、子供はキュルだ。
マルティアトの中継地へ向かうのにラクダを使用したが、人型でも乗り心地が悪いのかどうか気になってしまい、気づけばここにいた。ここで飼育されているラクダではなく、乗り物貸し屋のラクダだったから気持ち悪かったのかもしれない。丁寧に飼育された毛艶のいい、オルヴァル所有のラクダならば勝手が違うのではと思っていた。
「ローディル、どうした?マフタをじっと見つめて」
厩舎のラクダ担当のトレットが声をかけてくれた。動物の飼育係をしているだけあって寛容で、ローディルがキュルと干し草の山で遊んで散らかしても怒ったりしない優しい男だ。袖を肩までまくり上げ、露出した腕は厩舎の仕事で鍛えられて太く逞しい。
「あのさトレット、俺マフタに乗ってみたいんだけど」
「そりゃあいいけど…なんでまた?」
「エミルがラクダの乗り心地は悪いって言ってたから、どんな感じなのか興味があって」
きっと聞かれると思い、事前に考えていた理由を告げる。自分の秘密を隠すためにオルヴァルやアサドが少しの真実を混ぜて嘘の設定をいつも考えてくれるのを真似てみた。
理由を告げると、トレットはおかしそうに咽喉を鳴らして笑った。肩に担いでいた、干し草をかき集めるホークを近くに立てかけ、食事を終えてご満悦の母ラクダに手際よく手綱と鞍を取りつける。
マフタは顎をモゴモゴと大きく動かしながら、飼育係の呼びかけに素直に応じ、脚を折り曲げる。トレットの手を借り、二つに隆起したコブの間に取り付けられた鞍に、大きく足を開いて跨る。
「しっかり掴まってろよ。揺れるぞ」
「うぎゃっ」
トレットの助言通りに足に力をこめ、両手で鞍にしがみついて衝撃に備えていたのだが、ラクダが体を起こす際の揺れは予想以上だった。体が前後に振り回されて落ちそうになる。
マルティアトへの道中も、檻の中でゴロゴロ転げ回っていた記憶が蘇る。
「うわっ、揺れる、揺れるっ!」
ラクダは片側の前脚と後脚を同時に出して歩行する。右の脚を出せば、ローディルの体は左へ傾き、反対の脚が出ると、今度は右へと傾く。
トレットに手綱を引かれて厩舎の外を歩くマフタは努めてゆっくり歩いているのだが、その度に背の上のローディルの体は大きく左右に揺れていた。
「大げさだなあ。腹!腹にぐっと力入れてみろ」
「い、入れてるってえ!うぎゃ、あぁっ」
ぎゃあぎゃあ女々しい声をあげる青年に、トレットは呆れ顔だ。ローディルは腹に力を入れていると言うが、体は前のめりになり、腰がひけている。バランスが取れずに体が揺れるのも無理はないのだが、完全に怯えてしまっている彼が気づくことはない。
怖がっているのを感じ取ったのか、マフタは速度を上げ、脚を動かす動作を大きくした。ローディルは今まで以上に左右に激しく揺さぶられることになった。
「ぎゃあああ!と、トレット、とめ、止めてええぇぇぇ…っ!」
青年の悲痛な悲鳴が周囲に響き渡る。涙まじりのそれに哀れに思い、トレットはコブつきの獣に止まるよう求めた。だがラクダは飼育係の声を無視し、軽快なステップを刻んで走り回っている。カチカチと歯が噛み合わされる音がまるで笑っているかのように思えた。
「ごめんローディル。マフタ楽しんでるから止まってくれそうにないわ。無理に止めたら多分頭噛まれる」
「そ、そんなああ…~っ!」
もはやローディルは泣いていた。振り落とされないように鞍にしがみついて踏ん張っているが、いつ力尽きるとも分からない。
「なんだなんだ、何の催しだ?」
「ローディルがラクダのロデオをやってるぞ」
「あーあー、すげえ振り回されてるな」
青年の悲鳴が絶えず轟く地獄絵図のような現場に、休憩中らしき兵士たちが何事かと集まってきた。予想外の余興に彼らはローディルを不憫に思うも、誰一人として助けに入ろうとする者はいなかった。
マフタの楽しみを邪魔して、彼女の怒りを買いたくなかったからだ。ラクダは普段は温厚で穏やかな性格だが、怒ると一転狂暴になり人間を殺すこともある。砂漠で暮らす彼らはそれを重々承知しており、心の中で静かに合掌した。
マフタの気が済んで解放される頃には、青年はぐったりとしていた。胃の部分がずんと重たく、気持ちが悪い。兵士達の手により運ばれ、木陰で体を横たえる。
「…ぅ、うゔっ、おれぇ…もう一生ラクダ、乗りたくないぃ…っ!」
「うんうん、怖かったよな」
「けどまあ、もっと穏やかな性格のラクダもいるからさ…」
「そうそう、たまたまマフタはちょっと意地悪な奴だったってだけで」
顔を真っ赤にしてさめざめと泣くローディルを、兵士達は皆で慰める。水分補給をさせ、少しでも気分が良くなるようにと背中をさすり、仰いでやる。
それを離れた場所で見ながら、トレットはマフタを咎めた。だが当のラクダはべそをかく青年を笑うかのように口をモゴモゴと動かしている。
「ローディル~、大丈夫っすか~?」
「お、ローディル、保護者が来たぞ」
兵士から報告を受けたエミルが走ってやって来る。頬を涙でぐっしょりと濡らすローディルの顔を手拭いで拭く彼の顔は心配そうだ。兄貴分であるエミルの登場に、青年も安心したのか、少し落ち着きを見せる。
その様子に兵士達もほっと胸を撫で下ろす。いつも快活で元気な青年のいつにない泣きじゃくる姿に、少なからず動揺していたのだ。彼らはエミルに背負われて屋敷内に戻っていくローディルの頭を慰めるように撫でた。
「この内容で何ら問題ない」
「では、この内容で先方と連絡を取り、進めます」
「ああ、頼んだ。いつも苦労をかけてすまないな」
「いいえ。もうすっかり慣れましたから」
ローテーブルを挟んで対面に座る腹心の部下は澄ました顔で報告書を受け取り、カップに注がれた茶に口を付けた。昔馴染み特有の軽口に、オルヴァルは顔を綻ばせる。
「…ローディルのいる場では言えずにいたが、マルティアトでセヴィリスと邂逅した」
書類の束を机に打ちつけて角を揃えていた長髪の男は、弾かれたように顔を上げた。店先で偶然出会い言葉を交わしたことを話せば、途端に眉間には険しく深いシワが刻まれた。
「あれ以来一度も市街地では目撃報告がなかったにも関わらず、殿下のマルティアト訪問と同時に現れたと?」
「ああ。興行で訪れたそうだ」
不信感を露にした予想通りの反応に、オルヴァルは頷く。思うところは同じらしい。
「俺も同じ疑いを持ったが、プリヤによれば不審な印象は受けなかったそうだ。どんなに手練れであろうが負の感情を隠し通すことなどできない、密偵か暗殺者と決めつけるには根拠が足りないと言われた」
「数々の視線をくぐり抜けてきたプリヤの勘の鋭さと武人の腕には目を見張るものがあります。彼女が白と言うのであれば、そうなのでしょう。……ですが心のどこかでは、そんな偶然があるはずないと思ってしまうのです」
「何かが引っかかる気持ちはわかる。だが、見た目が派手でな。容姿も整っているし、かなり人目を惹く人物だから密偵や暗殺者には不向きに思える。それに根無し草の生活をしていると言うわりに品も感じる」
「……殿下の説明を聞いても、セヴィリスがどのような人物か全く想像がつかないのですが」
主君の説明に、アサドは何とも言えない表情を浮かべた。無意識に中央に寄る眉間を指で揉み解している。
オルヴァルは苦笑を浮かべるしかなかった。自分の説明が曖昧で、頭の中で人物像を描くのが難しいのは承知していた。それでも尚、掴みどころのないあの男をどう形容すればいいのか分からない。
「アサドも実際に会ってみるか?ひと目見れば、俺の言わんとすることが分かると思う」
主君の予想外の提案に、アサドは驚きに目を丸くする。明らかに怪しい人物に進んで会うなど言語道断、と条件反射で拒否しようとした男だが、寸でところで思いとどまった。
オルヴァルやローディルにとってどれほどの脅威となりうるかを自身の目で見極めるいい機会なのかもしれないと考え直す。エミルが敵意を剥き出しにし、ローディルは初対面にも関わらず、心を開き、オルヴァルが不思議な男だと形容する男を。
「…確かにそうですね。私以外の皆が会っているのですし、私も会っておくべきかもしれません。国内およびバルブロにまで足を運んでいるとのことですので、各地の情報も得られるかもしれませんしね。ですが、市街地を警らする兵士達でさえ遭遇しない人物に、一体どうやって会うのです?」
「彼の連れている鷲にローディルが頼めば、主人の元へと導いてくれるらしい」
「何なのです、その不可思議な仕組みは」
「俺もよく分からないんだが、ローディルにそう伝えて欲しいと頼まれた」
あまりにもざっくりとした眉唾な方法に、アサドは不信感を募らせる。まさかその発言を鵜吞みにしているのかとでも言いたげな部下の視線に、オルヴァルは困った様子で小さく唸り声をあげることしか出来なかった。彼も半信半疑なのだ。
「であれば必然的にローディルを連れて行くことになりますが、構わないのですか?話を聞く限り、セヴィリスは彼に執心のようですが…」
「…正直に言えば面白くはない」
オルヴァルの顔は途端に苦虫を嚙みつぶしたようなものに変わった。行儀悪く長椅子に深くもたれ、額に手をあてて深く息を吐いた。
「ローディルは友の一人作るのにも俺達の許可が必要なのか、とプリヤに揶揄われてな。本人は何の気なしに言ったのだろうが、少し気が咎めてしまった」
「屋敷内の者は雇用前に一通り身辺調査を行っていますし、何ら心配などしません。屋敷外の方でも素性がはっきりとしているなら、こちらとしてもとやかく言ったりしません。ただセヴィリスに関しては怪しさが拭えないと言うだけで。警戒するのは至極真っ当だと思いますが」
今度はアサドが顔をしかめる番だった。不愉快だと感情を露にし、この場にいないプリヤにも喧嘩腰だ。堅物な部下は主君と青年の件になると、途端に好戦的になる。
だが彼の言うことも尤もだった。半分獣のわりにローディルはどこか危なっかしく、守ってやらねばという意識が芽生えるのだ。
「二人きりで会うとなれば心配だが、誰かと一緒なら目くじらを立てる必要もないと思ってな。本音を言えば俺が同伴したいが、屋敷外では制限も多く叶わない。だがアサドと一緒なら安心して任せられる」
「お任せください。不埒な輩から、しっかりとローディルをお守りしてみせます」
堅物な男には珍しくおどけた物言いに、オルヴァルは小さく笑いをこぼしたのだった。
*****************
一方その頃、手持ちの仕事を終えたローディルは厩舎にいた。ラクダが木桶いっぱいに入れられた野菜を夢中で食べている。その隣では仔ラクダも母親の真似をしているのか、葉物野菜を口に咥えて振り回している。ロティの姿になった時の良き遊び相手でもある。母親はマフタで、子供はキュルだ。
マルティアトの中継地へ向かうのにラクダを使用したが、人型でも乗り心地が悪いのかどうか気になってしまい、気づけばここにいた。ここで飼育されているラクダではなく、乗り物貸し屋のラクダだったから気持ち悪かったのかもしれない。丁寧に飼育された毛艶のいい、オルヴァル所有のラクダならば勝手が違うのではと思っていた。
「ローディル、どうした?マフタをじっと見つめて」
厩舎のラクダ担当のトレットが声をかけてくれた。動物の飼育係をしているだけあって寛容で、ローディルがキュルと干し草の山で遊んで散らかしても怒ったりしない優しい男だ。袖を肩までまくり上げ、露出した腕は厩舎の仕事で鍛えられて太く逞しい。
「あのさトレット、俺マフタに乗ってみたいんだけど」
「そりゃあいいけど…なんでまた?」
「エミルがラクダの乗り心地は悪いって言ってたから、どんな感じなのか興味があって」
きっと聞かれると思い、事前に考えていた理由を告げる。自分の秘密を隠すためにオルヴァルやアサドが少しの真実を混ぜて嘘の設定をいつも考えてくれるのを真似てみた。
理由を告げると、トレットはおかしそうに咽喉を鳴らして笑った。肩に担いでいた、干し草をかき集めるホークを近くに立てかけ、食事を終えてご満悦の母ラクダに手際よく手綱と鞍を取りつける。
マフタは顎をモゴモゴと大きく動かしながら、飼育係の呼びかけに素直に応じ、脚を折り曲げる。トレットの手を借り、二つに隆起したコブの間に取り付けられた鞍に、大きく足を開いて跨る。
「しっかり掴まってろよ。揺れるぞ」
「うぎゃっ」
トレットの助言通りに足に力をこめ、両手で鞍にしがみついて衝撃に備えていたのだが、ラクダが体を起こす際の揺れは予想以上だった。体が前後に振り回されて落ちそうになる。
マルティアトへの道中も、檻の中でゴロゴロ転げ回っていた記憶が蘇る。
「うわっ、揺れる、揺れるっ!」
ラクダは片側の前脚と後脚を同時に出して歩行する。右の脚を出せば、ローディルの体は左へ傾き、反対の脚が出ると、今度は右へと傾く。
トレットに手綱を引かれて厩舎の外を歩くマフタは努めてゆっくり歩いているのだが、その度に背の上のローディルの体は大きく左右に揺れていた。
「大げさだなあ。腹!腹にぐっと力入れてみろ」
「い、入れてるってえ!うぎゃ、あぁっ」
ぎゃあぎゃあ女々しい声をあげる青年に、トレットは呆れ顔だ。ローディルは腹に力を入れていると言うが、体は前のめりになり、腰がひけている。バランスが取れずに体が揺れるのも無理はないのだが、完全に怯えてしまっている彼が気づくことはない。
怖がっているのを感じ取ったのか、マフタは速度を上げ、脚を動かす動作を大きくした。ローディルは今まで以上に左右に激しく揺さぶられることになった。
「ぎゃあああ!と、トレット、とめ、止めてええぇぇぇ…っ!」
青年の悲痛な悲鳴が周囲に響き渡る。涙まじりのそれに哀れに思い、トレットはコブつきの獣に止まるよう求めた。だがラクダは飼育係の声を無視し、軽快なステップを刻んで走り回っている。カチカチと歯が噛み合わされる音がまるで笑っているかのように思えた。
「ごめんローディル。マフタ楽しんでるから止まってくれそうにないわ。無理に止めたら多分頭噛まれる」
「そ、そんなああ…~っ!」
もはやローディルは泣いていた。振り落とされないように鞍にしがみついて踏ん張っているが、いつ力尽きるとも分からない。
「なんだなんだ、何の催しだ?」
「ローディルがラクダのロデオをやってるぞ」
「あーあー、すげえ振り回されてるな」
青年の悲鳴が絶えず轟く地獄絵図のような現場に、休憩中らしき兵士たちが何事かと集まってきた。予想外の余興に彼らはローディルを不憫に思うも、誰一人として助けに入ろうとする者はいなかった。
マフタの楽しみを邪魔して、彼女の怒りを買いたくなかったからだ。ラクダは普段は温厚で穏やかな性格だが、怒ると一転狂暴になり人間を殺すこともある。砂漠で暮らす彼らはそれを重々承知しており、心の中で静かに合掌した。
マフタの気が済んで解放される頃には、青年はぐったりとしていた。胃の部分がずんと重たく、気持ちが悪い。兵士達の手により運ばれ、木陰で体を横たえる。
「…ぅ、うゔっ、おれぇ…もう一生ラクダ、乗りたくないぃ…っ!」
「うんうん、怖かったよな」
「けどまあ、もっと穏やかな性格のラクダもいるからさ…」
「そうそう、たまたまマフタはちょっと意地悪な奴だったってだけで」
顔を真っ赤にしてさめざめと泣くローディルを、兵士達は皆で慰める。水分補給をさせ、少しでも気分が良くなるようにと背中をさすり、仰いでやる。
それを離れた場所で見ながら、トレットはマフタを咎めた。だが当のラクダはべそをかく青年を笑うかのように口をモゴモゴと動かしている。
「ローディル~、大丈夫っすか~?」
「お、ローディル、保護者が来たぞ」
兵士から報告を受けたエミルが走ってやって来る。頬を涙でぐっしょりと濡らすローディルの顔を手拭いで拭く彼の顔は心配そうだ。兄貴分であるエミルの登場に、青年も安心したのか、少し落ち着きを見せる。
その様子に兵士達もほっと胸を撫で下ろす。いつも快活で元気な青年のいつにない泣きじゃくる姿に、少なからず動揺していたのだ。彼らはエミルに背負われて屋敷内に戻っていくローディルの頭を慰めるように撫でた。
10
あなたにおすすめの小説
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
異世界にやってきたら氷の宰相様が毎日お手製の弁当を持たせてくれる
七瀬京
BL
異世界に召喚された大学生ルイは、この世界を救う「巫覡」として、力を失った宝珠を癒やす役目を与えられる。
だが、異界の食べ物を受けつけない身体に苦しみ、倒れてしまう。
そんな彼を救ったのは、“氷の宰相”と呼ばれる美貌の男・ルースア。
唯一ルイが食べられるのは、彼の手で作られた料理だけ――。
優しさに触れるたび、ルイの胸に芽生える感情は“感謝”か、それとも“恋”か。
穏やかな日々の中で、ふたりの距離は静かに溶け合っていく。
――心と身体を癒やす、年の差主従ファンタジーBL。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
異世界転移した元コンビニ店長は、獣人騎士様に嫁入りする夢は……見ない!
めがねあざらし
BL
過労死→異世界転移→体液ヒーラー⁈
社畜すぎて魂が擦り減っていたコンビニ店長・蓮は、女神の凡ミスで異世界送りに。
もらった能力は“全言語理解”と“回復力”!
……ただし、回復スキルの発動条件は「体液経由」です⁈
キスで癒す? 舐めて治す? そんなの変態じゃん!
出会ったのは、狼耳の超絶無骨な騎士・ロナルドと、豹耳騎士・ルース。
最初は“保護対象”だったのに、気づけば戦場の最前線⁈
攻めも受けも騒がしい異世界で、蓮の安眠と尊厳は守れるのか⁉
--------------------
※現在同時掲載中の「捨てられΩ、癒しの異能で獣人将軍に囲われてます!?」の元ネタです。出しちゃった!
【完結】火を吐く土の国の王子は、塔から来た調査官に灼熱の愛をそそぐ
月田朋
BL
「トウヤ様、長旅お疲れのことでしょう。首尾よくなによりでございます。――とはいえ油断なされるな。決してお声を発してはなりませんぞ!」」
塔からはるばる火吐国(ひはきこく)にやってきた銀髪の美貌の調査官トウヤは、副官のザミドからの小言を背に王宮をさまよう。
塔の加護のせいで無言を貫くトウヤが王宮の浴場に案内され出会ったのは、美しくも対照的な二人の王子だった。
太陽に称される金の髪をもつニト、月に称される漆黒の髪をもつヨミであった。
トウヤは、やがて王家の秘密へと足を踏み入れる。
灼熱の王子に愛され焦がされるのは、理性か欲か。
【ぶっきらぼう王子×銀髪美人調査官】
前世が教師だった少年は辺境で愛される
結衣可
BL
雪深い帝国北端の地で、傷つき行き倒れていた少年ミカを拾ったのは、寡黙な辺境伯ダリウスだった。妻を亡くし、幼い息子リアムと静かに暮らしていた彼は、ミカの知識と優しさに驚きつつも、次第にその穏やかな笑顔に心を癒されていく。
ミカは実は異世界からの転生者。前世の記憶を抱え、この世界でどう生きるべきか迷っていたが、リアムの教育係として過ごすうちに、“誰かに必要とされる”温もりを思い出していく。
雪の館で共に過ごす日々は、やがてお互いにとってかけがえのない時間となり、新しい日々へと続いていく――。
ウサギ獣人を毛嫌いしているオオカミ獣人後輩に、嘘をついたウサギ獣人オレ。大学で逃げ出して後悔したのに、大人になって再会するなんて!?
灯璃
BL
ごく普通に大学に通う、宇佐木 寧(ねい)には、ひょんな事から懐いてくれる後輩がいた。
オオカミ獣人でアルファの、狼谷 凛旺(りおう)だ。
ーここは、普通に獣人が現代社会で暮らす世界ー
獣人の中でも、肉食と草食で格差があり、さらに男女以外の第二の性別、アルファ、ベータ、オメガがあった。オメガは男でもアルファの子が産めるのだが、そこそこ差別されていたのでベータだと言った方が楽だった。
そんな中で、肉食のオオカミ獣人の狼谷が、草食オメガのオレに懐いているのは、単にオレたちのオタク趣味が合ったからだった。
だが、こいつは、ウサギ獣人を毛嫌いしていて、よりにもよって、オレはウサギ獣人のオメガだった。
話が合うこいつと話をするのは楽しい。だから、学生生活の間だけ、なんとか隠しとおせば大丈夫だろう。
そんな風に簡単に思っていたからか、突然に発情期を迎えたオレは、自業自得の後悔をする羽目になるーー。
みたいな、大学篇と、その後の社会人編。
BL大賞に応募しましたので、見て頂けると嬉しいです!
※本編完結しました!お読みいただきありがとうございました!
※短編1本追加しました。これにて完結です!ありがとうございました!
旧題「ウサギ獣人が嫌いな、オオカミ獣人後輩を騙してしまった。ついでにオメガなのにベータと言ってしまったオレの、後悔」
【完結】悪役令息の伴侶(予定)に転生しました
* ゆるゆ
BL
攻略対象しか見えてない悪役令息の伴侶(予定)なんか、こっちからお断りだ! って思ったのに……! 前世の記憶がよみがえり、反省しました。
BLゲームの世界で、推しに逢うために頑張りはじめた、名前も顔も身長もないモブの快進撃が始まる──! といいな!(笑)
本編完結、恋愛ルート、トマといっしょに里帰り編、完結しました!
おまけのお話を時々更新しています。
きーちゃんと皆の動画をつくりました!
もしよかったら、お話と一緒に楽しんでくださったら、とてもうれしいです。
インスタ @yuruyu0 絵もあがります
Youtube @BL小説動画
プロフのwebサイトから両方に飛べるので、もしよかったら!
本編以降のお話、恋愛ルートも、おまけのお話の更新も、アルファポリスさまだけですー!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる