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第5章 すべての命に感謝を
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(梨央side)
夏の暑さはまだまだ覗いていて、まさしく残暑の日々になっていた。
いつもと変わらない店は、今日も客を迎え入れてくれる。マスターは半袖の制服を着こなしていて、出汁の効いた香りが店内を包んでいた。
「これはたまきさん、今日は和風ですね。
おでんとはハイカラですな」
「ええ、相変わらず暑いですから。
数量限定になりますが、お客様に良い汗を流してもらおうと思いましたので」
キッチンの中には、とても小さなおでん鍋が用意されていたのだ。中身はもちろん卵だけだと思ったが、さすがにそんなことはなかった。大根と少しの練り物が入っているようだ。おでんは色んな具材から出てくる美味しい味を楽しむ食べ物だ。
僕はカウンター席に座るなり思い出した話をしてみせた。
「僕の友人なんですけど、好きな卵料理で一番におでんのたまごを挙げていてね。
土産話にしても良いですか」
「はい、是非伝えてくださいね」
キッチンの中に居るマスターはいつもと変わらない微笑みで返事をしてくれた。その様子に僕は胸をなでおろした......。
・・・
あの日、たまきさんはその場に倒れ込んだ。
異変に気づいたのは、近くにいたOLたちだったと思う。彼女たちはすぐに駆け寄って、頬をぱしぱし叩きこんでいる。
「これって過呼吸じゃないかなあ」
「背中さすってあげよう、ゆっくりだよ」
身体を支えながら起こされたマスターはグラスの水を一口飲んだ。けれども目が映ろだった気がする。
情けないことに、僕はすぐに何もできなかった。レジにて大丈夫かと訊くのが精一杯だった。
「お見苦しいところを申し訳ありません」
ごめんなさい、ごめんなさいと謝る彼女が何だか不憫に思えた......。
その日は仕事が手に付かなかった。
天真爛漫な彼女のあんな姿を見るとは思いもしなかったし、憂いを帯びた表情はなんだか似合わないと思った。
その週の週末、彼女からメールがきた。
・・・
(たまきside)
朝日に照らされて私の瞳は開いた。
少し虚ろな表情をしたまま手元にある目覚まし時計で今日の日付を確認する。良かった、今日は定休日だった。
だけども、なんだかベッドから起き上がる気にはなれなかった......。
あの日の出来事を思い出してみる。
たしか、私はある台詞を言われてその場に倒れたんだっけ。あんまり記憶は覚えていなくて、"苦しい"という意識しかなかった。
お客様に迷惑をかけるなんて思いもしなかった。マスター失格だなって思う。
ため息をついた。
あの公園での風景を思い出してみる。ペッパーが居て、私が居て、あなたが居る。その風景が楽しかったのに、あの客が言ったことがすべてを壊してしまう気がした。
けれども、私は<卵の番人>なんだ、このお店を、私自身を守らないといけない。
ワンワン!
ペッパーも起きているようだった。朝ご飯をあげないと、彼はすぐ吠え出すからなあ。
「......ペッパー?」
身体を起こしたところで、ある可能性が頭をよぎった。朝ご飯の準備なんかとっくに忘れてしまい、ペッパーの首輪を外してみる。
あるものを見た私はその場にしゃがみ込んだ。怖くなった私は硬直した頭のままメールを打つしかできなかった。
......きちんと、彼と向き合おう。
・・・
(梨央side)
おでんのたまごはしっかり味が染み込んでいて、なんだか落ち着く味だった。ほのかに甘い出汁の味が僕の口の中に広がった。
食べ終わったところで、たまきさんはほうじ茶を出してくれた。だけども、彼女の表情は染みていない味のように、どこか素気のないものだった。
どうしたんだろう。僕は言葉にすることができずに首を傾げてしまう。
「......私が悪いんです」
「......そんなこと、悪いのは何か言った方でしょう」
彼女は首を横に振って続きの話を始めた。
「私の気づかない癖、なんでしょうけど。
馴れ馴れしいと思う人もいるかもしれません、お客様と距離を詰めてしまうところがあって。
あのお客様にも最初の頃は良く話しかけていました。
背格好というか、雰囲気が知人に良く似ていらしたので」
僕はお茶を飲む気になれず、彼女の方を見て話をしっかり聞いていた。
そうか、異性がフレンドリーな態度をとると好意をもつことはあるだろう。少年にしてみたらそれまで素気のない相手でも一瞬でときめいてしまうような。
何か言葉をかけないといけない気がする。でも、粋な一言も思いつかないままだ。仕方なくそのままお会計を済ませることにする。
こういう時、なんて言えば良いのだろうか......。
・・・
オフィスへ戻る僕の頭は悩みだしていた。
たまきさんの一言は、たぶん自分にも言えることだ。どこかしらに自分だってお近づきになりたかったのかもしれない。
遠くでクラクションの音が聞こえた。玉井たまきと近づかないように、そんな警告のような音みたいだった。
僕は信号待ちをしている間に彼女からのメールを見直した。そこにはこのようなことが書かれていたのだ。
----------
公園で会ったときのことを覚えていますか?
雑談の中で卵と玉子の違いについて話しましたね。
私、知らなかったからと回答を先延ばしにしたでしょう。
あの時、あの人がレジで「違いを説明してあげよう」って言ったのです。
卵は生き物が産む、生まれてくるもの......
玉子は鳥類の卵で主に食用のもの......
こんな偶然なんて起こるはずがありません。
だから、身の回りを調べてみたら、ペッパーの首輪に盗聴器が付いていたのです。
ペッパーは色んな人にじゃれてしまうので、
もちろんあの人にも飛びつきました。
隙をみて取り付けたのでしょう。
私は身の寒気を覚えました......。
もちろんそれは捨てましたが、
メールアドレスを交換したことも聞かれていたと思います。
そうすれば貴方に被害が及ぶかもしれません......
私のせいで、ごめんなさい
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夏の暑さはまだまだ覗いていて、まさしく残暑の日々になっていた。
いつもと変わらない店は、今日も客を迎え入れてくれる。マスターは半袖の制服を着こなしていて、出汁の効いた香りが店内を包んでいた。
「これはたまきさん、今日は和風ですね。
おでんとはハイカラですな」
「ええ、相変わらず暑いですから。
数量限定になりますが、お客様に良い汗を流してもらおうと思いましたので」
キッチンの中には、とても小さなおでん鍋が用意されていたのだ。中身はもちろん卵だけだと思ったが、さすがにそんなことはなかった。大根と少しの練り物が入っているようだ。おでんは色んな具材から出てくる美味しい味を楽しむ食べ物だ。
僕はカウンター席に座るなり思い出した話をしてみせた。
「僕の友人なんですけど、好きな卵料理で一番におでんのたまごを挙げていてね。
土産話にしても良いですか」
「はい、是非伝えてくださいね」
キッチンの中に居るマスターはいつもと変わらない微笑みで返事をしてくれた。その様子に僕は胸をなでおろした......。
・・・
あの日、たまきさんはその場に倒れ込んだ。
異変に気づいたのは、近くにいたOLたちだったと思う。彼女たちはすぐに駆け寄って、頬をぱしぱし叩きこんでいる。
「これって過呼吸じゃないかなあ」
「背中さすってあげよう、ゆっくりだよ」
身体を支えながら起こされたマスターはグラスの水を一口飲んだ。けれども目が映ろだった気がする。
情けないことに、僕はすぐに何もできなかった。レジにて大丈夫かと訊くのが精一杯だった。
「お見苦しいところを申し訳ありません」
ごめんなさい、ごめんなさいと謝る彼女が何だか不憫に思えた......。
その日は仕事が手に付かなかった。
天真爛漫な彼女のあんな姿を見るとは思いもしなかったし、憂いを帯びた表情はなんだか似合わないと思った。
その週の週末、彼女からメールがきた。
・・・
(たまきside)
朝日に照らされて私の瞳は開いた。
少し虚ろな表情をしたまま手元にある目覚まし時計で今日の日付を確認する。良かった、今日は定休日だった。
だけども、なんだかベッドから起き上がる気にはなれなかった......。
あの日の出来事を思い出してみる。
たしか、私はある台詞を言われてその場に倒れたんだっけ。あんまり記憶は覚えていなくて、"苦しい"という意識しかなかった。
お客様に迷惑をかけるなんて思いもしなかった。マスター失格だなって思う。
ため息をついた。
あの公園での風景を思い出してみる。ペッパーが居て、私が居て、あなたが居る。その風景が楽しかったのに、あの客が言ったことがすべてを壊してしまう気がした。
けれども、私は<卵の番人>なんだ、このお店を、私自身を守らないといけない。
ワンワン!
ペッパーも起きているようだった。朝ご飯をあげないと、彼はすぐ吠え出すからなあ。
「......ペッパー?」
身体を起こしたところで、ある可能性が頭をよぎった。朝ご飯の準備なんかとっくに忘れてしまい、ペッパーの首輪を外してみる。
あるものを見た私はその場にしゃがみ込んだ。怖くなった私は硬直した頭のままメールを打つしかできなかった。
......きちんと、彼と向き合おう。
・・・
(梨央side)
おでんのたまごはしっかり味が染み込んでいて、なんだか落ち着く味だった。ほのかに甘い出汁の味が僕の口の中に広がった。
食べ終わったところで、たまきさんはほうじ茶を出してくれた。だけども、彼女の表情は染みていない味のように、どこか素気のないものだった。
どうしたんだろう。僕は言葉にすることができずに首を傾げてしまう。
「......私が悪いんです」
「......そんなこと、悪いのは何か言った方でしょう」
彼女は首を横に振って続きの話を始めた。
「私の気づかない癖、なんでしょうけど。
馴れ馴れしいと思う人もいるかもしれません、お客様と距離を詰めてしまうところがあって。
あのお客様にも最初の頃は良く話しかけていました。
背格好というか、雰囲気が知人に良く似ていらしたので」
僕はお茶を飲む気になれず、彼女の方を見て話をしっかり聞いていた。
そうか、異性がフレンドリーな態度をとると好意をもつことはあるだろう。少年にしてみたらそれまで素気のない相手でも一瞬でときめいてしまうような。
何か言葉をかけないといけない気がする。でも、粋な一言も思いつかないままだ。仕方なくそのままお会計を済ませることにする。
こういう時、なんて言えば良いのだろうか......。
・・・
オフィスへ戻る僕の頭は悩みだしていた。
たまきさんの一言は、たぶん自分にも言えることだ。どこかしらに自分だってお近づきになりたかったのかもしれない。
遠くでクラクションの音が聞こえた。玉井たまきと近づかないように、そんな警告のような音みたいだった。
僕は信号待ちをしている間に彼女からのメールを見直した。そこにはこのようなことが書かれていたのだ。
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公園で会ったときのことを覚えていますか?
雑談の中で卵と玉子の違いについて話しましたね。
私、知らなかったからと回答を先延ばしにしたでしょう。
あの時、あの人がレジで「違いを説明してあげよう」って言ったのです。
卵は生き物が産む、生まれてくるもの......
玉子は鳥類の卵で主に食用のもの......
こんな偶然なんて起こるはずがありません。
だから、身の回りを調べてみたら、ペッパーの首輪に盗聴器が付いていたのです。
ペッパーは色んな人にじゃれてしまうので、
もちろんあの人にも飛びつきました。
隙をみて取り付けたのでしょう。
私は身の寒気を覚えました......。
もちろんそれは捨てましたが、
メールアドレスを交換したことも聞かれていたと思います。
そうすれば貴方に被害が及ぶかもしれません......
私のせいで、ごめんなさい
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