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第1話「再開」(蒼佑視点)
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翼を初めて見たのは、三年前の春だった。
職場のロビーで、両手いっぱいの資料を抱えた彼は、見知らぬ誰かとぶつかり床に書類をぶちまけた。
彼はひたすら謝りながら必死に書類を拾っていた。正直そのときは、「なんだかどんくさい奴だな」としか思わなかった。それだけの、取るに足らない一幕だった……はずだった。
数日後、部署合同の飲み会で再び彼と顔を合わせた。
「ああ、あの時の」と思い出した瞬間、なぜか胸の奥にざわつきが広がった。理由もわからないまま、つい目が自然と彼を追っていた。
彼は笑っていた。けれどその笑顔は、どこか空虚で、目はまるで笑っていなかった。
楽しげな雰囲気の中、他人の会話に相槌を打つ彼は、どこか遠くを見ているように感じた。
誰の懐にも入らず、誰も近づけない、そんな冷たい空気を纏いながら。笑顔の裏側に沈んでいたのは、音のない悲鳴のような沈黙だった。まるで助けを呼ぶように……でも誰にも届かない声。
その夜、何度も思った。
「……どうして、あんな顔をするんだろう」
翼の笑顔の裏に隠された孤独が、俺の心に強く響いていた。
それからというもの、俺は自然と彼のことが気になり、無意識に目で追うようになった。
それが、どんなに小さなことでも、気づけば彼のすべてが気になっていた。
でも、声をかける理由も立場もなかった。部署が違い同期でもない。彼と関わる術なんてなにもなかった。それでも、目がどうしても勝手に追ってしまう。
あの、作り笑いの奥に潜む、なにか闇のようなものに、どうしようもなく強く惹かれていた。
それなのに、その年の冬、突然、彼は会社を辞めた。何の前触れもなく、まるで霧の中に消えるように彼の姿は消えてしまった。
再び姿を見ることはなかった。名前も苗字しか知らない。会話だって、数えるほどしか交わしていないのに、なぜか胸に大きな穴が開いたような喪失感に苛まれた。
その空虚感が、言葉では表せないほど深く心に刻まれた。
……どうして、こんなにも苦しいのだろう。
付き合いが深くもない相手の不在に、ここまで胸が痛むなんて、人生で一度もなかった。
でもこのとき、ようやく理解した。これはただの好意なんかじゃない。もっと根深くて、もっと執着に近い深いもの。
「好き」じゃなくて「この人以外いらない」という感情なんだと。
自分でも身震いするほど怖くなった。
それからの俺は、理屈もプライドも全部投げ捨てて彼を探した。
SNSも、社員連絡網、同期の伝手。あらゆる手段を使って彼を探した。そして、ようやく辿り着いた……「羽瀬 翼」
画面に表示されたその名前を見た瞬間、歓喜で胸が震えた。嬉しくて、苦しくて、怖くなるほどに……。もう後戻りなんか、できないと本能が告げていた。
ようやく再開できたのは、それからしばらく後のことだった。
偶然を装って、彼の前に現れたけれど、あれは必然だった。俺が引き寄せた運命。
あのときより少しだけ痩せて、より儚げな雰囲気を纏った翼を見た瞬間、思考が真っ白になった。
住む街も環境も違っていたし、俺のことなんて覚えていなかった。
それでも構わなかった。
もう二度と、手放すつもりはなかった。今度こそ、ちゃんと掴み取ると心の奥で誓った。
翼は変わっていなかった。
人当たりがよくて、言葉も態度も礼儀正しいのに、決して誰にも心を預けない。
穏やかな微笑みの奥には、どこか空っぽな表情。何があったのかはわからない。でも、それでも守りたいと思った……いや、違う。
「守りたい」なんて綺麗な言葉じゃ到底足りない。執着に近い感情。
閉じ込めたい。誰の目にも触れさせたくない。
俺だけを見て、俺だけに笑いかけて、俺だけのものに……。
そんな歪な想いを抱えながらも、少しずつ距離を縮めていった。
警戒されないように、他愛もない誘いから始めた。
食事に誘い、雑談や何気ない笑い話を重ねていった。
そのたびに、翼の表情に変化が現れた。
少しだけ自然な笑顔がこぼれた瞬間……心臓が音を立てて跳ねた。
けれど嬉しさの裏側には、確かな恐怖もあった。
また、あの時のように突然、俺の前から消えてしまったら。今度は見つけられないかもしれない。
それに、この笑顔が、俺以外の誰かに向けられる未来があるとしたら……想像するだけで、胸が締め付けられて、喉の奥がひりついた。
嫉妬……そんなんじゃない。執着と不安と、焦がれるような欲望が渦を巻いて押し寄せてくる。
だから、抑えきれくなったある夜、思わず声が出た。
「ねえ、翼」
帰り際の夜道。ふと呼びかけると、彼がゆっくりと振り返った。
その瞳に、俺が映っていた。その事実だけで、胸が焼けるように熱くなった。
「翼のことをもっと知りたい。……俺だけに、翼のことを教えて」
そのときの彼の表情が忘れられない。戸惑いと迷い、そして……どこか、期待を滲ませた微かな眼差し。その一瞬が、すべてを変えた。
たしかに、あのときから俺たちはゆっくりと、でも確かに動き始めたんだ。
あの夜を境に、世界の色が変わったような気がする。
会話の温度も、視線の交わしかたも……互いに流れる空気が、どこか柔らかくなった。
この手が翼を抱きしめる未来は、手を伸ばせば届く距離にある。その確信が、胸を満たしていた。
職場のロビーで、両手いっぱいの資料を抱えた彼は、見知らぬ誰かとぶつかり床に書類をぶちまけた。
彼はひたすら謝りながら必死に書類を拾っていた。正直そのときは、「なんだかどんくさい奴だな」としか思わなかった。それだけの、取るに足らない一幕だった……はずだった。
数日後、部署合同の飲み会で再び彼と顔を合わせた。
「ああ、あの時の」と思い出した瞬間、なぜか胸の奥にざわつきが広がった。理由もわからないまま、つい目が自然と彼を追っていた。
彼は笑っていた。けれどその笑顔は、どこか空虚で、目はまるで笑っていなかった。
楽しげな雰囲気の中、他人の会話に相槌を打つ彼は、どこか遠くを見ているように感じた。
誰の懐にも入らず、誰も近づけない、そんな冷たい空気を纏いながら。笑顔の裏側に沈んでいたのは、音のない悲鳴のような沈黙だった。まるで助けを呼ぶように……でも誰にも届かない声。
その夜、何度も思った。
「……どうして、あんな顔をするんだろう」
翼の笑顔の裏に隠された孤独が、俺の心に強く響いていた。
それからというもの、俺は自然と彼のことが気になり、無意識に目で追うようになった。
それが、どんなに小さなことでも、気づけば彼のすべてが気になっていた。
でも、声をかける理由も立場もなかった。部署が違い同期でもない。彼と関わる術なんてなにもなかった。それでも、目がどうしても勝手に追ってしまう。
あの、作り笑いの奥に潜む、なにか闇のようなものに、どうしようもなく強く惹かれていた。
それなのに、その年の冬、突然、彼は会社を辞めた。何の前触れもなく、まるで霧の中に消えるように彼の姿は消えてしまった。
再び姿を見ることはなかった。名前も苗字しか知らない。会話だって、数えるほどしか交わしていないのに、なぜか胸に大きな穴が開いたような喪失感に苛まれた。
その空虚感が、言葉では表せないほど深く心に刻まれた。
……どうして、こんなにも苦しいのだろう。
付き合いが深くもない相手の不在に、ここまで胸が痛むなんて、人生で一度もなかった。
でもこのとき、ようやく理解した。これはただの好意なんかじゃない。もっと根深くて、もっと執着に近い深いもの。
「好き」じゃなくて「この人以外いらない」という感情なんだと。
自分でも身震いするほど怖くなった。
それからの俺は、理屈もプライドも全部投げ捨てて彼を探した。
SNSも、社員連絡網、同期の伝手。あらゆる手段を使って彼を探した。そして、ようやく辿り着いた……「羽瀬 翼」
画面に表示されたその名前を見た瞬間、歓喜で胸が震えた。嬉しくて、苦しくて、怖くなるほどに……。もう後戻りなんか、できないと本能が告げていた。
ようやく再開できたのは、それからしばらく後のことだった。
偶然を装って、彼の前に現れたけれど、あれは必然だった。俺が引き寄せた運命。
あのときより少しだけ痩せて、より儚げな雰囲気を纏った翼を見た瞬間、思考が真っ白になった。
住む街も環境も違っていたし、俺のことなんて覚えていなかった。
それでも構わなかった。
もう二度と、手放すつもりはなかった。今度こそ、ちゃんと掴み取ると心の奥で誓った。
翼は変わっていなかった。
人当たりがよくて、言葉も態度も礼儀正しいのに、決して誰にも心を預けない。
穏やかな微笑みの奥には、どこか空っぽな表情。何があったのかはわからない。でも、それでも守りたいと思った……いや、違う。
「守りたい」なんて綺麗な言葉じゃ到底足りない。執着に近い感情。
閉じ込めたい。誰の目にも触れさせたくない。
俺だけを見て、俺だけに笑いかけて、俺だけのものに……。
そんな歪な想いを抱えながらも、少しずつ距離を縮めていった。
警戒されないように、他愛もない誘いから始めた。
食事に誘い、雑談や何気ない笑い話を重ねていった。
そのたびに、翼の表情に変化が現れた。
少しだけ自然な笑顔がこぼれた瞬間……心臓が音を立てて跳ねた。
けれど嬉しさの裏側には、確かな恐怖もあった。
また、あの時のように突然、俺の前から消えてしまったら。今度は見つけられないかもしれない。
それに、この笑顔が、俺以外の誰かに向けられる未来があるとしたら……想像するだけで、胸が締め付けられて、喉の奥がひりついた。
嫉妬……そんなんじゃない。執着と不安と、焦がれるような欲望が渦を巻いて押し寄せてくる。
だから、抑えきれくなったある夜、思わず声が出た。
「ねえ、翼」
帰り際の夜道。ふと呼びかけると、彼がゆっくりと振り返った。
その瞳に、俺が映っていた。その事実だけで、胸が焼けるように熱くなった。
「翼のことをもっと知りたい。……俺だけに、翼のことを教えて」
そのときの彼の表情が忘れられない。戸惑いと迷い、そして……どこか、期待を滲ませた微かな眼差し。その一瞬が、すべてを変えた。
たしかに、あのときから俺たちはゆっくりと、でも確かに動き始めたんだ。
あの夜を境に、世界の色が変わったような気がする。
会話の温度も、視線の交わしかたも……互いに流れる空気が、どこか柔らかくなった。
この手が翼を抱きしめる未来は、手を伸ばせば届く距離にある。その確信が、胸を満たしていた。
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