【完結】期限付きの恋人契約〜あと一年で終わるはずだったのに〜

なの

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第6話:不在の理由と薬袋

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いつものように重い足取りで教室のドアを開けた俺は、すぐにその違和感に気づいた。

静かすぎるのだ。

いつもなら、教室の中心で馬鹿みたいにでかい声で笑っているはずの男がいない。

友人たちに囲まれ、輪の中心で太陽のように輝いているはずの存在が、そこにはなかった。

神谷蓮の席は、ぽっかりと穴が空いたように、ただ空っぽだった。

俺の視線が、無意識にその空席を彷徨っているのに気づいたのだろう。
近くの席の男子が、教科書を出しながら声をかけてきた。

「神谷?あいつ、なんか朝から熱あるらしくて風邪で休みだってさ。連絡きたわ。珍しいよな~、あいつが体調崩すなんて。白石、寂しいのか?」

ニヤニヤとからかうような口調。
いつもなら「うるさい」と一蹴するところなのに、その言葉はうまく出てこなかった。

風邪?

あの、有り余る元気を常に周囲に振りまいているような蓮が?

にわかには信じられなかった。
あいつは、ウイルスすら力ずくでねじ伏せてしまいそうなイメージだ。

一日中、教室はいつもより格段に静かだった。

蓮がいないだけで、こんなにも空気が違うものなのか。

教室の真ん中にあった熱源が、急になくなってしまったみたいだ。

昼休み、一人で食べる購買のパンはいつもと同じ味のはずなのに、なんだかひどく味気なく感じた。

いつもなら、「悠真、それ一口くれよ!」なんて言いながら、横から強引に奪っていく大きな手はない。

代わりに弁当を押し付けられることもない。

静かで、平穏で、俺が望んでいたはずの昼休み。

なのに、どうしてだろう。文庫本を開いても、一行も頭に入ってこなかった。

放課後、終わりを告げるチャイムが鳴っても、誰も俺の席には来なかった。

当たり前だ。
あいつはいないのだから。

でも、その当たり前が、妙に落ち着かなかった。

いつもなら、教室の後ろのドアに寄りかかって待っているはずの姿を探してしまう自分がいた。

……別に、あいつがいないと静かでいいじゃないか。
自分に強くそう言い聞かせる。

これは恋人「ごっこ」だ。ままごとみたいなものだ。

本気で心配する義理なんて、どこにもない。

そう思って、一人でさっさとカバンを持ち、帰路についた。

はずだった。

◇◇◇

気づけば俺は、昨日蓮が雑談の中で話していた「うちの近所のコンビニ」の前に、呆然と立ち尽くしていた。

右手には、スポーツドリンクと喉越しのいいゼリー飲料が数種類入ったビニール袋が、カサカサと音を立てて揺れている。

どうして、来てしまったのか。自分でもよくわからない。

ただ、授業中にふと脳裏をよぎった
「あいつ、一人で大丈夫なんだろうか」という思いが、幽霊のようにずっと頭の周りを漂って、離れなかったのだ。

蓮の家は、このコンビニのすぐ近くだと聞いていた。

少し歩くと、表札に達筆な文字で『神谷』と書かれた、少し大きな一軒家を見つけるのに、時間はかからなかった。

しかし、問題はここからだ。

インターホンの前で、俺は五分は逡巡しただろうか。
来てみたはいいものの、なんて言えばいい?

「お見舞いに来た」? 
恋人ごっこの相手が、そこまでするのはやりすぎじゃないか?

そもそも、ただの風邪なんだ。迷惑じゃないだろうか。

いや、帰ろう。これは、やりすぎだ。

そう思って踵を返しかけた瞬間、先週末に橋の上で見た、蓮のあの儚げな横顔が脳裏に浮かんだ。

『後悔しないようにしてんだ』

あの時の、静かな声が耳に蘇る。

――俺は、今ここで帰ったら、後悔するんだろうか。

わけのわからない衝動に突き動かされ、俺は震える指で、インターホンのボタンを押していた。

すぐに、パタパタという軽い足音が聞こえ、玄関のドアが少しだけ開いた。

隙間から顔を覗かせたのは、蓮より少し年下に見える、くりくりとした目が可愛らしい女の子だった。

「……はい、どなたですか?」

警戒するような、でも好奇心に満ちた瞳。

「あ、えっと……俺、神谷くんと同じクラスの、白石です。あいつ、風邪だって聞いたから、これ、差し入れっていうか……」

自分でも驚くほど、しどろもどろになってしまう。
俺がビニール袋を差し出すと、女の子はぱっと顔を輝かせた。

「あなたが、白石悠真さん!いつも兄がお世話になってます!どうぞ、上がってください!」

妹さんだろうか。
蓮によく似た、人懐っこい笑顔だ。
断る間もなく家に上げられ、「兄の部屋、二階なんで!」と、有無を言わさず案内される。

「兄ちゃん、白石さんが来てくれたよー」

コンコン、と軽くノックして妹さんが声をかけると、ベッドの中からくぐもった声が聞こえた。

「……ゆうま?なんで……いんだよ……」

部屋の中にいた蓮は、俺の知っている神谷蓮とは、まるで別人だった。

顔は真っ赤に上気し、ぜえぜえと息も荒い。
額には冷却シートが貼られ、汗で濡れた前髪が張り付いている。

いつもは自信に満ちた光を宿す瞳も、熱のせいで潤んでいて、焦点が合っていないように見えた。

ぐったりとベッドに沈み込むその姿は、いつもの太陽みたいな輝きはどこにもなく、ひどく弱々しく、頼りなく見えた。

「……馬鹿は風邪ひかないんじゃなかったのか」

心配を隠すために、精一杯の憎まれ口を叩いてみる。

けれど、声が少し震えてしまったのが自分でもわかった。

「うっせ……。お前にだけは、こんな情けねえとこ、見られたくなかった……」

蓮は力なく笑うと、ごほごほと苦しそうに咳き込んだ。

「ちょっとお水、持ってくるね」と、気遣うように妹さんが部屋を出ていく。

静かになった部屋で、俺は買ってきたものをサイドテーブルに置こうとして、ふとそこに無造作に並んでいるものに目を留めた。

大学病院の名前が印字された、白い薬袋。

それが、一つや二つじゃない。五つ、六つ……。

中身が少しはみ出していて、色も形も違う様々な錠剤やカプセルが見える。
その横には、折りたたまれた病院の処方箋らしき紙の束も置かれていた。

……風邪で、こんなに薬を飲むのか?

小さな、けれど鋭い違和感が、胸の奥に棘のように深く刺さった。

その正体を探る前に、「お待たせー」と妹さんが戻ってくる。

結局、俺は蓮が再び浅い眠りにつくのを少し見届けてから、長居は無用と家を辞することにした。

玄関まで見送りに来てくれた妹さんが、深々と頭を下げる。

「あの、白石さん。……兄ちゃん、最近すっごく楽しそうなんです。学校のこと、前は全然話してくれなかったのに、最近は白石さんの話ばっかりで。本当に、ありがとうございます」

その言葉に、俺は何も返せなかった。

脳裏に焼き付いて離れない、蓮の弱々しい姿。

サイドテーブルに並んだ、無数の薬袋。

そして、妹さんの屈託のない感謝の言葉。

俺はただ、言いようのない不安と、答えの出ない巨大な疑問を抱えたまま、夕暮れの道を一人、とぼとぼと歩くしかなかった。



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