【完結】期限付きの恋人契約〜あと一年で終わるはずだったのに〜

なの

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第27話:色のない世界で君を想う

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悠真が、あの小さな病室で涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、それでも俺のために「幸せだった」と笑ってくれた、最後の日。
あいつが面会に来る前に、俺は人生で一番の、そして最も残酷なわがままを母親に告げた。

「母さん頼む。もう、悠真をここに来させないでほしい」

嗚咽を漏らしながら懇願する俺を見て、母は一瞬、言葉を失っていた。
当然だろう。あいつが俺にとってどれほど大きな存在か誰よりも知っているはずだから。
それでも、俺は続けた。

「あいつの顔を見たら、俺の決意が鈍っちまうんだ。あの温かい手に触れてしまったら、『一緒にいたい』っていう本音を、もう隠しきれなくなる。俺の未来はもう限られてる。でも、あいつの未来はキラキラ輝いてるんだ。その光を、俺のせいで曇らせるわけにはいかないんだよ」

悠真が隣にいない現実は、俺にとって生きている意味を失うことと同義で考えうる限りで一番の地獄だとわかっていた。
それでも、俺は――その地獄を自ら選んだ。
それが俺にできる唯一の、そして最大の愛情の形だと信じて疑わなかった。

だが、悠真をこの手で突き放した、あの日から。
俺の世界は、本当に色と音と、そして匂いさえも失った。

そこから始まった日々は、「闘い」という言葉すら生ぬるい、出口のない地獄そのものだった。
新しい治療法は、俺の体を内側からじわじわと容赦なく蝕んでいく。
常に微熱が続き、まるで全身の骨が錆びついてしまったかのように関節という関節が軋むように痛んだ。
食欲なんてものはとうの昔に消え失せ、ただ薬を流し込むためだけに味のしないペースト状の栄養補助食品を鉛の塊みたいに喉に押し込む。

夜は全身の痛みと、いつ終わるとも知れない不安で一睡もできず昼間は大量の薬の副作用で意識が霧の中にいるように朦朧とする。
ただ、ひたすらに、病室のシミひとつない白い天井を眺めながら俺は何度も思った。

一体、何のために、俺はこんな苦しみに耐えているんだ?
悠真のいない世界で、俺が生き永らえたとして、そこに何の意味がある?
いっそ、このまま……。

そんな黒い考えが、何度も何度も頭をもたげた。
本格的なリハビリが始まったのは、そんな絶望のどん底でもがいていた頃だった。

担当になった理学療法士の上野さんは、俺より一回りほど年上で多くを語らない静かな湖のような目をした男だった。彼は俺の荒んだ心を見透かしているのか、馴れ合いの同情も、安っぽい励ましの言葉も口にしなかった。ただ、淡々と、事実だけを告げた。

「神谷くん、まずは自分の足で立ってみようか」

上野さんに両脇を支えられ、寝たきりだったベッドから、ゆっくりと足を下ろす。
床に触れた足の裏は、まるで他人の皮膚のように感覚が鈍い。
そして自分の体重をかけようとした瞬間、足はまるで意思を持たない棒切れのように、意思に反してガクガクとみっともなく震えた。

「……っ!」

駄目だ、立てない。
自分の体重すら支えられない情けなさと、自分の体の変わり果てた姿への絶望で奥歯を強く噛み締める。
唇からは血の味がした。

「焦らないで。君の体は、ちゃんと動き方を覚えてる。忘れてしまっただけだ。これから、一つずつ思い出させてあげればいい」

上野さんの静かな声が、やけに遠くに聞こえた。
その日は、結局、数秒間立つことすらできずに終わった。

情けなくて、悔しくて、一人きりになった病室で、枕に顔を押し付けて声を殺して泣いた。

悠真。
悠真。
お前のいない世界は、こんなにも苦しくて、痛くて、冷たい。
お前を突き放した罰なのか。なあ、悠真。

そんな地獄のような日々に、唯一、か細い光が差したのは、週に一度だけ許された妹との面会時間だった。
彼女だけが、外の世界の匂いをこの小さな病室に運んできてくれる。

ある日、面会時間も終わりに近づいた頃、妹は何かをためらうように視線を彷徨わせた後、意を決したように、でも俺が知るべきだと判断したのだろう、こう切り出した。

「お兄ちゃん……あのね、悠真さんだけど……」

その名前が出ただけで、俺の心臓は大きく跳ねた。

「大学、受かったって。都内の、結構いい大学」

その言葉を聞いた瞬間、俺の心臓は喜びと、そして、どうしようもないほどの嫉妬と焦燥感で、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられた。でも嬉しい。あいつが、ちゃんと俺との約束を守って、前に進んでいることが心から嬉しい。良かった。本当に、良かった。

でも、同時に、猛烈に悔しい。
あいつは新しい世界で、新しい仲間と出会って俺の知らない日常を生きている。
俺だけが、この白い四角い部屋に取り残されて、時間が止まったままだ。
悠真の時間は未来へ向かって進んでいるのに、俺の時間だけが過去に縫い付けられている。
その差が、耐えられなかった。

「……そっか。よかったな、あいつ」

俺がなんとかそう絞り出して無理に笑うと、妹は今にも泣き出しそうな顔で俺の顔をじっと見ていた。

その日を境に、俺の心は完全に切り替わった。
後から理学療法士の上野さんに「あの頃の神谷くんは、鬼気迫るものがあったよ」と苦笑されたほど、俺のリハビリへの取り組み方は、我ながら常軌を逸していたと思う。

そんなある日、小さな奇跡が起きた。
いつものように平行棒に掴まり、上野さんの「せーの」という掛け声で、俺は体重を足に乗せた。
ガクガクと震える足。もうダメだ、と思った次の瞬間、震えが、ほんの少しだけ収まった。

「……立て、た……?」

たった、数秒。それでも、何か月ぶりかに、俺は自分の足で、自分の体を支えていた。

「すごいじゃないか、神谷くん。言っただろ、体は覚えてるって」

上野さんの声が、初めて少しだけ弾んで聞こえた。
その日を境に、俺のリハビリは、闇の中に一条の光が差したように、少しずつ、でも着実に前進を始めた。

「上野さん!もう一回、やらせてください!」

平行棒に必死にしがみつきながら、俺は叫んだ。腕はもう限界で、プルプルと震えている。

「神谷くん、今日はもう限界だ。筋肉を傷めるだけだ。また明日にしよう」
上野さんが冷静に諭す。

「嫌だ!俺は……俺は、あいつに会いに行かなきゃならないんだ!」

俺は、まるで何かに取り憑かれたように、リハビリに没頭した。
悠真に会うために。いや、違う。ただ会うだけじゃない。
自分の足で、あいつの前に立つために。杖なんかに頼らず、胸を張って、まっすぐあいつの目を見て、そして言うんだ。「待たせたな」って。
あの日に、母さんが悠真にしたであろう約束を俺自身の手で果たすために。

立つ練習、歩く練習。一歩、また一歩と、生まれたての赤ん坊が歩みを覚えるように。
倒れては立ち上がり、また倒れる。その繰り返し。
汗と涙と、時々漏れるうめき声でぐしょぐしょになりながら、俺は心の中で何度も、悠真の名前を叫んだ。

悠真。お前は今、新しい大学で、笑ってるか。
友達はできたか。楽しいか。
俺のことなんて、もう忘れたか。

それでいい。お前が笑っていてくれるなら、それが一番なんだ。
でも、俺は絶対に忘れない。お前がくれた、あの言葉を。
『お前に会えて、世界で一番幸せだった』
あの言葉が、暗闇の中で何度も折れそうになる俺の心を、かろうじて支えてくれている。
お前がくれた、たった一つの道標なんだ。

そうして、季節が巡り、地獄のようなリハビリと治療の中で月日が過ぎていた。
俺の体は、まだ本調子とはほど遠い。
少し歩いただけですぐに息が切れ、痛み止めの薬も手放せない。
それでも、杖を使えば、なんとか自分の足で、震えながらも歩けるようにはなっていた。

そんな俺にとって、妹が面会に来てくれる時間は、世界で唯一のエンターテイメントであり、同時に心をかき乱される試練の時でもあった。

病室の窓の外で桜が舞い、新緑が目にまぶしい初夏が訪れた頃。

「……あのね、お兄ちゃん。これ、言おうか迷ったんだけど……」

妹は、俺の顔色を窺うように、少し躊躇いがちに切り出した。

「悠真さん、テニスサークルに入ったんだって。意外だよね、本ばっかり読んでたのに。なんだか、すごく頑張ってるみたい」

その言葉に、俺は一喜一憂した。
テニスサークルで新しい仲間と笑い合っている悠真を想像しては、胸がナイフで抉られるように痛くなる。

強い日差しの中で蝉が鳴く真夏には、少し呆れたような、でもどこか嬉しそうな声で言った。

「今度は、駅前のカフェでバイト始めたって。夜のシフトだと時給がいいんだ、なんて、悠真さんらしいこと言ってたよ。……無理してないといいけど」

カフェのエプロンをつけた悠真が、俺の知らない誰かのためにコーヒーを淹れている姿を思い浮かべては、どす黒い嫉妬が腹の底で渦を巻く。

そして、葉が色づき、空気が冷たさを帯びてきた秋。

「この前ね、メッセージのやり取りしてたら、レポートが大変だって愚痴ってた。でも絵文字とか使ってくれて、なんだかすごく……楽しそうだった」

最後の一言は、俺を気遣うように、少しだけ消え入りそうな声だった。

でも、報告を聞くたび、そのすぐ後に、あいつが元気で、自分の人生をちゃんと歩んでいることに、心からの安堵が波のように押し寄せてくるのだ。
その激しい感情の振り幅に、自分でもひどく疲れてしまうこともあった。
それでも、俺は妹に「もっと聞かせてくれ」とせがんだ。
悠真の「今」を知ることが、俺が「未来」へ進むための、唯一の燃料だったから。


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