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第十章:試練の時
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昨夜の甘い愛の誓いが、夢だったのではないか……。エリアスは朝の光の中で、まだ熱を帯びた自分の体に問いかけていた。
庭に出ると、花々がいつもより鮮やかに目に映る。
薔薇は香り高く咲き誇り、小鳥たちの歌声も祝祭のように心地よく響いていた。
――アレクシスが、僕を愛していると言ってくれた。
その事実が、彼の心を満たし、世界を輝かせていた。月光の下での熱い抱擁、彼の力強い言葉。
そして自分の口から確かにこぼれた愛の告白。すべてが現実だったのだと、胸の奥が温かく震える。
しかし、その幸福感と同時に、冷たい不安の影が忍び寄るのも感じていた。
ヴィクトルのような高貴な身分の青年がいる中で、自分のような素性の知れないΩが、本当に彼の隣に立つ資格があるのだろうか。
ヴィクトルの美しさ、揺るぎない自信、そして何より、アレクシスと対等に言葉を交わせる血筋の確かさ。
すべてが、今のエリアスには手の届かないものだった。
僕は、彼の重荷になるだけではないだろうか。
その不安を振り払うように、エリアスは庭の手入れに集中しようとした。
だが、心はどうしても昨夜のことばかりを思い出してしまう。
「エリアス」
背後からの声に振り返ると、アレクシスが立っていた。朝の柔らかな光を浴びた彼の姿は、いつもよりずっと穏やかに見える。
銀髪が陽光にきらめき、その神々しいほどの美しさに、エリアスは改めて息を呑んだ。
「おはようございます。アレクシス」
エリアスの頬に、薄っすらと赤みが差す。
昨夜の出来事を思い出し、急に全身が熱くなるのを感じた。
「昨夜のことだが……」
彼が真剣な面持ちで言いかけた、まさにその時だった。
屋敷のテラスから、ヴィクトルの明るい声が響いてきた。
「アレクシス、朝の散歩に付き合ってくれないかい?君の美しい庭を、ぜひ案内してほしいな」
その声は、親しみに満ちているが、同時にエリアスへの牽制を含んでいるようにも聞こえた。
アレクシスの眉が、わずかに不機嫌に寄せられる。エリアスは、自分がその不機嫌の原因であるかのように感じ、慌てて一歩後ずさった。
「失礼いたします。お客様がお待ちですので」
「エリアス、待て」
アレクシスの制止する声も聞かず、エリアスは足早にその場を立ち去った。
彼の心に、再び暗く冷たい不安の影が広がっていた。昨夜の甘い時間が、急に遠い幻のように色褪せて感じられた。
その日の午後、エリアスの不安は現実のものとなった。彼が庭の奥、薔薇のアーチに囲まれた人目につかない場所で作業をしていると、ヴィクトルが音もなく現れた。
彼は美しい若草色のフロックコートに身を包み、その手にはレースのハンカチを優雅に持っている。
「君がエリアスだね。少し話があるんだ」
ヴィクトルの美しい顔には、完璧な笑みが浮かんでいた。
しかし、そのサファイアの瞳の奥には、氷のような冷たさと、侮蔑の色が宿っている。
「……何でしょうか」
エリアスは作業の手を止め、土に汚れた手を慌ててエプロンで拭った。
ヴィクトルの完璧な美しさと、汚れひとつない高価な衣服の前で、自分の惨めな姿が恥ずかしくてたまらなかった。
「単刀直入に言おう。アレクシスから離れてくれないか」
その言葉は、まるで上質な絹の刃のように、静かに、しかし鋭くエリアスの胸に突き刺さった。
「君のような素性の知れないΩが、あの孤高の公爵様にふさわしいとでも思っているのかい?」
ヴィクトルの言葉は、エリアスの心の最も柔らかく、傷つきやすい部分を的確に抉ってくる。
彼は、エリアスが何を一番恐れているのかを、正確に理解していた。
「見ていれば分かるよ。君がどこの馬の骨とも知れない、身分の低いΩだということが。
アレクシスは優しいからね、君のような哀れな子に同情しているだけなんだ。それを愛情だと勘違いするなんて、滑稽だとは思わないかい?」
エリアスの顔から、さっと血の気が引いた。
もし彼が真実を知ったら……元公爵子息でありながら、偽りの番契約を破棄され、家族に捨てられた忌まわしい過去を知ったら、どんなに嘲笑うだろうか。
「僕とアレクシスは、幼い頃から互いを意識してきた仲なんだ。
家同士も、いずれはという話になっている。君のような存在は、所詮、彼の気まぐれに過ぎない」
ヴィクトルの声には、絶対的な自信と、生まれながらの勝者だけが持つ傲慢さが満ちていた。
「君が本当にアレクシスを想うなら、彼の輝かしい未来を考えるべきだ。
公爵には、公爵にふさわしい、血筋も力もあるパートナーが必要なんだよ。政治的にも、社交界においても、彼を支えられる存在がね」
ヴィクトルの言葉は、冷たい真実としてエリアスの心に重くのしかかった。
確かに、彼の言う通りかもしれない。アレクシスには、彼を支え、共に高みへと上れる相手が必要だ。
自分のような、ただ「恵みの魔法」を持つだけの無力なΩではない。
「君のような存在は、彼の足を引っ張るだけだ。
彼の完璧な経歴に傷をつけることになる。社交界でも笑いものになるだろうね。あの氷血公爵が、得体の知れない庭師のΩに現を抜かしている、とね」
ヴィクトルの美しい唇が、残酷な笑みを形作った。
「それに、君のその過去……何か、よほど人に言えないようなことを隠しているんだろう?
その目がそう語っているよ。その秘密が白日の下に晒された時、一番傷つくのは誰だと思う?アレクシスだよ」
エリアスの心臓が、恐怖で激しく跳ね上がった。彼は確信を持って、エリアスの弱点を突いてくる。
「よく考えることだね。賢い子なら、正しい選択ができるはずだよ。
愛する人のために、自ら身を引くという、美しい自己犠牲も時には必要だということさ」
ヴィクトルが優雅に踵を返し去った後、エリアスは、その場に崩れ落ちた。
涙が後から後から溢れ出し、土を濡らす。美しく咲き誇る薔薇が、今は彼の絶望を嘲笑っているかのようだった。
僕は、アレクシスの足枷になる……。
ヴィクトルの言葉が、呪いのように頭の中で何度も繰り返される。
愛しているからこそ、離れなければならないのか。彼が本当に幸せになるためには、僕という存在が消えることが最善なのか。
昨夜の幸福が、あまりにも遠い幻だったかのように感じられた。
愛だけでは、身分という越えられない現実の壁を乗り越えることはできないのかもしれない。
夕日が庭を血のように赤く染める中、エリアスは一人、薔薇に囲まれて泣き続けた。愛する人の未来のために、自分はこの身を捧げ、彼の前から消えるべきなのか。
そんな残酷な決断が、彼の心を容赦なく締め付けていた。
庭に出ると、花々がいつもより鮮やかに目に映る。
薔薇は香り高く咲き誇り、小鳥たちの歌声も祝祭のように心地よく響いていた。
――アレクシスが、僕を愛していると言ってくれた。
その事実が、彼の心を満たし、世界を輝かせていた。月光の下での熱い抱擁、彼の力強い言葉。
そして自分の口から確かにこぼれた愛の告白。すべてが現実だったのだと、胸の奥が温かく震える。
しかし、その幸福感と同時に、冷たい不安の影が忍び寄るのも感じていた。
ヴィクトルのような高貴な身分の青年がいる中で、自分のような素性の知れないΩが、本当に彼の隣に立つ資格があるのだろうか。
ヴィクトルの美しさ、揺るぎない自信、そして何より、アレクシスと対等に言葉を交わせる血筋の確かさ。
すべてが、今のエリアスには手の届かないものだった。
僕は、彼の重荷になるだけではないだろうか。
その不安を振り払うように、エリアスは庭の手入れに集中しようとした。
だが、心はどうしても昨夜のことばかりを思い出してしまう。
「エリアス」
背後からの声に振り返ると、アレクシスが立っていた。朝の柔らかな光を浴びた彼の姿は、いつもよりずっと穏やかに見える。
銀髪が陽光にきらめき、その神々しいほどの美しさに、エリアスは改めて息を呑んだ。
「おはようございます。アレクシス」
エリアスの頬に、薄っすらと赤みが差す。
昨夜の出来事を思い出し、急に全身が熱くなるのを感じた。
「昨夜のことだが……」
彼が真剣な面持ちで言いかけた、まさにその時だった。
屋敷のテラスから、ヴィクトルの明るい声が響いてきた。
「アレクシス、朝の散歩に付き合ってくれないかい?君の美しい庭を、ぜひ案内してほしいな」
その声は、親しみに満ちているが、同時にエリアスへの牽制を含んでいるようにも聞こえた。
アレクシスの眉が、わずかに不機嫌に寄せられる。エリアスは、自分がその不機嫌の原因であるかのように感じ、慌てて一歩後ずさった。
「失礼いたします。お客様がお待ちですので」
「エリアス、待て」
アレクシスの制止する声も聞かず、エリアスは足早にその場を立ち去った。
彼の心に、再び暗く冷たい不安の影が広がっていた。昨夜の甘い時間が、急に遠い幻のように色褪せて感じられた。
その日の午後、エリアスの不安は現実のものとなった。彼が庭の奥、薔薇のアーチに囲まれた人目につかない場所で作業をしていると、ヴィクトルが音もなく現れた。
彼は美しい若草色のフロックコートに身を包み、その手にはレースのハンカチを優雅に持っている。
「君がエリアスだね。少し話があるんだ」
ヴィクトルの美しい顔には、完璧な笑みが浮かんでいた。
しかし、そのサファイアの瞳の奥には、氷のような冷たさと、侮蔑の色が宿っている。
「……何でしょうか」
エリアスは作業の手を止め、土に汚れた手を慌ててエプロンで拭った。
ヴィクトルの完璧な美しさと、汚れひとつない高価な衣服の前で、自分の惨めな姿が恥ずかしくてたまらなかった。
「単刀直入に言おう。アレクシスから離れてくれないか」
その言葉は、まるで上質な絹の刃のように、静かに、しかし鋭くエリアスの胸に突き刺さった。
「君のような素性の知れないΩが、あの孤高の公爵様にふさわしいとでも思っているのかい?」
ヴィクトルの言葉は、エリアスの心の最も柔らかく、傷つきやすい部分を的確に抉ってくる。
彼は、エリアスが何を一番恐れているのかを、正確に理解していた。
「見ていれば分かるよ。君がどこの馬の骨とも知れない、身分の低いΩだということが。
アレクシスは優しいからね、君のような哀れな子に同情しているだけなんだ。それを愛情だと勘違いするなんて、滑稽だとは思わないかい?」
エリアスの顔から、さっと血の気が引いた。
もし彼が真実を知ったら……元公爵子息でありながら、偽りの番契約を破棄され、家族に捨てられた忌まわしい過去を知ったら、どんなに嘲笑うだろうか。
「僕とアレクシスは、幼い頃から互いを意識してきた仲なんだ。
家同士も、いずれはという話になっている。君のような存在は、所詮、彼の気まぐれに過ぎない」
ヴィクトルの声には、絶対的な自信と、生まれながらの勝者だけが持つ傲慢さが満ちていた。
「君が本当にアレクシスを想うなら、彼の輝かしい未来を考えるべきだ。
公爵には、公爵にふさわしい、血筋も力もあるパートナーが必要なんだよ。政治的にも、社交界においても、彼を支えられる存在がね」
ヴィクトルの言葉は、冷たい真実としてエリアスの心に重くのしかかった。
確かに、彼の言う通りかもしれない。アレクシスには、彼を支え、共に高みへと上れる相手が必要だ。
自分のような、ただ「恵みの魔法」を持つだけの無力なΩではない。
「君のような存在は、彼の足を引っ張るだけだ。
彼の完璧な経歴に傷をつけることになる。社交界でも笑いものになるだろうね。あの氷血公爵が、得体の知れない庭師のΩに現を抜かしている、とね」
ヴィクトルの美しい唇が、残酷な笑みを形作った。
「それに、君のその過去……何か、よほど人に言えないようなことを隠しているんだろう?
その目がそう語っているよ。その秘密が白日の下に晒された時、一番傷つくのは誰だと思う?アレクシスだよ」
エリアスの心臓が、恐怖で激しく跳ね上がった。彼は確信を持って、エリアスの弱点を突いてくる。
「よく考えることだね。賢い子なら、正しい選択ができるはずだよ。
愛する人のために、自ら身を引くという、美しい自己犠牲も時には必要だということさ」
ヴィクトルが優雅に踵を返し去った後、エリアスは、その場に崩れ落ちた。
涙が後から後から溢れ出し、土を濡らす。美しく咲き誇る薔薇が、今は彼の絶望を嘲笑っているかのようだった。
僕は、アレクシスの足枷になる……。
ヴィクトルの言葉が、呪いのように頭の中で何度も繰り返される。
愛しているからこそ、離れなければならないのか。彼が本当に幸せになるためには、僕という存在が消えることが最善なのか。
昨夜の幸福が、あまりにも遠い幻だったかのように感じられた。
愛だけでは、身分という越えられない現実の壁を乗り越えることはできないのかもしれない。
夕日が庭を血のように赤く染める中、エリアスは一人、薔薇に囲まれて泣き続けた。愛する人の未来のために、自分はこの身を捧げ、彼の前から消えるべきなのか。
そんな残酷な決断が、彼の心を容赦なく締め付けていた。
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