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第3章:血の秘密と二度目の逃亡
第15話:消えない所有の証
嵐が過ぎ去った後の森は、嘘のように静まり返っていた。
律の意識が、深い泥沼の底から引き上げられるように、ゆっくりと浮上する。最初に感じたのは、全身を苛む、筋肉痛のような鈍い痛み。
そして肌に触れる、滑らかなシーツの感触。
目を開けると、そこは見慣れたルシアンの私室の、黒檀の天蓋付きベッドの上だった。
(……また、失敗したのか……)
逃亡の記憶が、断片的に蘇る。嵐の音、泥の匂い、そして背後から自分を押さえつけた、絶対的な力。
律は、重い身体をゆっくりと起こした。その瞬間、首筋に走った、奇妙な疼きに思わず顔をしかめる。
いつもの、吸血された後の熱っぽい疼きとは違う。もっと深く、皮膚そのものが変質してしまったかのような、引き攣るような違和感。
恐る恐る、部屋の隅に置かれた姿見の前へと、ふらつく足で歩み寄る。
鏡に映った自分の姿を見て、律は息を呑んだ。
白い肌の至る所に、昨夜の陵辱の痕跡である、赤い斑点が痛々しく散らばっている。だが、問題はそこではなかった。
――首筋。これまで何度も牙を立てられてきた、その場所。
これまでの牙の痕は、吸血鬼の唾液の治癒効果なのか、数時間もすれば綺麗に消えていた。
しかし、今、鏡に映っているそれは、明らかに違った。
二つの小さな赤い点が、まるでルビーを埋め込んだかのように、くっきりと肌に残っている。
それは、ただの傷跡ではなかった。皮膚そのものが変質し、そこだけが周囲とは違う、血の色を帯びた組織になっている。消えることのない永遠の烙印。
「ああ……」
律の喉から、乾いた声が漏れた。
これは、「罰」だ。ルシアンが言っていた。もう二度と忘れられぬように、その身体に刻み込むと。
これは、所有の証。
自分が、誰のものであるかを、世界に示すための、消えることのない首輪。
鏡の中の自分は、もう「城戸 律」ではなかった。
首筋に吸血鬼の印を刻まれた、哀れなペット、「セドリック」の姿がそこにあった。
その事実を認識した瞬間、律の心の中で、かろうじて保たれていた何かが音を立てて完全に砕け散った。
二度目の逃亡は、ただ失敗に終わっただけではなかったのだ。
それは律から最後の希望と、人間としての尊厳を、根こそぎ奪い去っていった。
もう、逃げることはできない。物理的にだけでなく精神的にも。
この印がある限り、たとえここから逃げ出したとしても、自分は永遠に「ルシアンの所有物」として、他の吸血鬼たちからも追われることになる。安息の地など、世界のどこにもない。
膝から力が抜け、律はその場に崩れ落ちた。
涙も出なかった。ただ、虚ろな瞳で、鏡に映る自分の首筋の印を、ぼんやりと見つめるだけだった。
「……目覚めたか、セドリック」
静かな声に振り返ると、いつの間にかルシアンが部屋に入ってきていた。その手には、銀の盆に乗せられた、湯気の立つスープとパンがある。
ルシアンは、崩れ落ちている律の前に跪くと、その頬に優しく触れた。
「気分はどうだ。少しは、落ち着いたか」
その声には、昨夜の嵐のような激情は微塵も感じられなかった。あるのは、すべてを手に入れた王の、絶対的な安堵と、そして、慈愛に満ちた穏やかさだけだった。
――律は、何も答えない。答える気力もなかった。
ルシアンは、そんな律の様子を気にも留めず、スープの入った器を手に取ると、スプーンで一口分をすくい、律の口元へと運んだ。
「さあ、口を開けろ。体力をつけねばならん」
その光景は、数日前と何も変わらない。だが、その意味合いは、全く異なっていた。
以前は、抵抗する意志があった。心のどこかで、この餌付けを屈辱だと感じていた。
しかし、今は違う。
律は、まるで操り人形のように、ゆっくりと口を開けた。温かいスープが、無機質に喉を通り過ぎていく。
もはや、そこに感情はない。無力感。完全な諦観。
身体だけでなく、心まで完全に支配されてしまった。魂を、抜かれてしまったのだ。
ルシアンは、そんな律の様子に満足げに微笑むと、スープを与え続けた。
「それでいい。お前は、ただ私のそばにいて、私だけを見ていればいいのだ」
ルシアンは、律の首筋に残る、自らがつけた印を、愛おしそうに指でなぞった。
「美しい印だ……。これで、お前が誰のものか、誰にも疑う余地はなくなった。お前は、永遠に私の番だ」
その言葉は、もはや律の耳には、ただの音の羅列としてしか聞こえなかった。
「城戸 律」という人間は、昨夜の嵐の中で、完全に死んだのだ。
今ここにいるのは、吸血鬼の王ルシアンの寵愛を受ける、美しい鳥籠の中の小鳥、「セドリック」。
主人の与える餌を食べ、その牙を受け入れ、ただ生かされているだけの存在。
その運命を、律は、もはや抗うこともなく、ただ静かに受け入れていた。
それは、一人の人間の尊厳が、完全に踏みにじられた瞬間だった。
そして、歪んだ愛情と完全な支配によって成り立つ、二人の新たな関係が、静かに始まる瞬間でもあった。
律の意識が、深い泥沼の底から引き上げられるように、ゆっくりと浮上する。最初に感じたのは、全身を苛む、筋肉痛のような鈍い痛み。
そして肌に触れる、滑らかなシーツの感触。
目を開けると、そこは見慣れたルシアンの私室の、黒檀の天蓋付きベッドの上だった。
(……また、失敗したのか……)
逃亡の記憶が、断片的に蘇る。嵐の音、泥の匂い、そして背後から自分を押さえつけた、絶対的な力。
律は、重い身体をゆっくりと起こした。その瞬間、首筋に走った、奇妙な疼きに思わず顔をしかめる。
いつもの、吸血された後の熱っぽい疼きとは違う。もっと深く、皮膚そのものが変質してしまったかのような、引き攣るような違和感。
恐る恐る、部屋の隅に置かれた姿見の前へと、ふらつく足で歩み寄る。
鏡に映った自分の姿を見て、律は息を呑んだ。
白い肌の至る所に、昨夜の陵辱の痕跡である、赤い斑点が痛々しく散らばっている。だが、問題はそこではなかった。
――首筋。これまで何度も牙を立てられてきた、その場所。
これまでの牙の痕は、吸血鬼の唾液の治癒効果なのか、数時間もすれば綺麗に消えていた。
しかし、今、鏡に映っているそれは、明らかに違った。
二つの小さな赤い点が、まるでルビーを埋め込んだかのように、くっきりと肌に残っている。
それは、ただの傷跡ではなかった。皮膚そのものが変質し、そこだけが周囲とは違う、血の色を帯びた組織になっている。消えることのない永遠の烙印。
「ああ……」
律の喉から、乾いた声が漏れた。
これは、「罰」だ。ルシアンが言っていた。もう二度と忘れられぬように、その身体に刻み込むと。
これは、所有の証。
自分が、誰のものであるかを、世界に示すための、消えることのない首輪。
鏡の中の自分は、もう「城戸 律」ではなかった。
首筋に吸血鬼の印を刻まれた、哀れなペット、「セドリック」の姿がそこにあった。
その事実を認識した瞬間、律の心の中で、かろうじて保たれていた何かが音を立てて完全に砕け散った。
二度目の逃亡は、ただ失敗に終わっただけではなかったのだ。
それは律から最後の希望と、人間としての尊厳を、根こそぎ奪い去っていった。
もう、逃げることはできない。物理的にだけでなく精神的にも。
この印がある限り、たとえここから逃げ出したとしても、自分は永遠に「ルシアンの所有物」として、他の吸血鬼たちからも追われることになる。安息の地など、世界のどこにもない。
膝から力が抜け、律はその場に崩れ落ちた。
涙も出なかった。ただ、虚ろな瞳で、鏡に映る自分の首筋の印を、ぼんやりと見つめるだけだった。
「……目覚めたか、セドリック」
静かな声に振り返ると、いつの間にかルシアンが部屋に入ってきていた。その手には、銀の盆に乗せられた、湯気の立つスープとパンがある。
ルシアンは、崩れ落ちている律の前に跪くと、その頬に優しく触れた。
「気分はどうだ。少しは、落ち着いたか」
その声には、昨夜の嵐のような激情は微塵も感じられなかった。あるのは、すべてを手に入れた王の、絶対的な安堵と、そして、慈愛に満ちた穏やかさだけだった。
――律は、何も答えない。答える気力もなかった。
ルシアンは、そんな律の様子を気にも留めず、スープの入った器を手に取ると、スプーンで一口分をすくい、律の口元へと運んだ。
「さあ、口を開けろ。体力をつけねばならん」
その光景は、数日前と何も変わらない。だが、その意味合いは、全く異なっていた。
以前は、抵抗する意志があった。心のどこかで、この餌付けを屈辱だと感じていた。
しかし、今は違う。
律は、まるで操り人形のように、ゆっくりと口を開けた。温かいスープが、無機質に喉を通り過ぎていく。
もはや、そこに感情はない。無力感。完全な諦観。
身体だけでなく、心まで完全に支配されてしまった。魂を、抜かれてしまったのだ。
ルシアンは、そんな律の様子に満足げに微笑むと、スープを与え続けた。
「それでいい。お前は、ただ私のそばにいて、私だけを見ていればいいのだ」
ルシアンは、律の首筋に残る、自らがつけた印を、愛おしそうに指でなぞった。
「美しい印だ……。これで、お前が誰のものか、誰にも疑う余地はなくなった。お前は、永遠に私の番だ」
その言葉は、もはや律の耳には、ただの音の羅列としてしか聞こえなかった。
「城戸 律」という人間は、昨夜の嵐の中で、完全に死んだのだ。
今ここにいるのは、吸血鬼の王ルシアンの寵愛を受ける、美しい鳥籠の中の小鳥、「セドリック」。
主人の与える餌を食べ、その牙を受け入れ、ただ生かされているだけの存在。
その運命を、律は、もはや抗うこともなく、ただ静かに受け入れていた。
それは、一人の人間の尊厳が、完全に踏みにじられた瞬間だった。
そして、歪んだ愛情と完全な支配によって成り立つ、二人の新たな関係が、静かに始まる瞬間でもあった。
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