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第4章:魂の契約と心の揺らぎ
第16話:絶望の中に見る孤独
逃亡という最後の火種が消え、律の心は燃え尽きた灰のように静かになった。
あの日以来、律はルシアンの私室で暮らすようになった。それは、もはや監禁というよりも飼育に近かった。
ルシアンは律の傍を離れようとせず、食事も、入浴も、着替えでさえも、すべてその手で行おうとした。
律は、それに一切抵抗しなかった。
「セドリック、口を開けろ」
そう言われれば、操り人形のように口を開ける。
「腕を上げろ」
そう言われれば、力なく腕を上げる。
魂の抜けた人形。
それが、今の城戸 律の姿だった。
首筋に刻まれた消えることのない所有の証。
それは、鏡を見るたびに、自分がもはや人間ではなく、吸血鬼の所有物であることを残酷に突きつけてきた。自由を求める意志も、人間としての尊厳も、あの嵐の夜にすべて失ってしまった。
夜ごと繰り返される、ルシアンによる吸血と、それに伴う身体の交わり。
以前は、その中に屈辱と、そして背徳的な快楽があった。しかし、今はもう何も感じない。
ただ、されるがままに身体を預け、ルシアンが満足するのを待つだけ。
心が完全に死んでしまった今、肉体がどう扱われようと、もはやどうでもよかった。
快楽に喘ぐことさえなくなった律の姿はルシアンを苛立たせるのに十分だった。
「なぜ声を上げない。
感じているのだろう?」
ルシアンは、律の身体を激しく揺さぶり、そう問い詰める。だが、律の瞳は虚ろなまま、どこか遠くを見つめているだけだった。
「答えろ、セドリック!」
その声には、以前の怒りとは違う、どこか焦りのようなものが混じっていた。
しかし、律の心には、その声は届かない。まるで分厚いガラスの壁に隔てられているかのように、すべてのものが遠く現実感を失っていた。
そんな日々が、どれくらい続いただろうか。
律が生きる気力を失ってから、ルシアンの行動に奇妙な変化が現れ始めた。
初めのうちこそ、無反応な律に苛立ち力ずくで反応を引き出そうとしていたルシアンだったが、やがて、その行為は鳴りを潜めた。
代わりに彼はただ、じっと律のそばに座り、その虚ろな瞳を見つめる時間が増えた。
その紅い瞳に浮かんでいたのは、怒りではなかった。永劫の時を生き、万物を支配してきた王が生まれて初めて味わう「理解不能」という感情。
そして、唯一無二の番に拒絶されるという宇宙にたった一人で取り残されたかのような絶対的な孤独の色だった――。
ある日、律が暖炉の前に置かれた長椅子に、ただぼんやりと座っているとルシアンが隣に腰を下ろした。
彼は何も言わず、ただ揺れる炎を見つめている。
やがて、ぽつりと独り言のように呟いた。
「……私が、間違っていたのか」
その声は、驚くほど弱々しく自信を失っていた。
だが、律は反応しない。
「私はただ、お前をそばに置きたかった。他の誰にも渡したくなかった。
それだけだったのだ。だが、お前は……」
ルシアンは、言葉を切り、律の方を向いた。
「お前の瞳には、もう何の光もない。
初めて会った時の、あの強く私に反発してきた光は、どこへ行ってしまったのだ」
その声には、確かな痛みの色が滲んでいた。
まるで、手に入れたはずの極上の宝石が掌の中でただの石ころに変わってしまったのを嘆くかのように。
律は初めて、ルシアンの顔をまじまじと見た。
その完璧な美貌は変わらない。だが、その表情は、これまで見たこともないほど、傷つき寂しげに歪んでいた。絶対的な王ではない。ただ、愛する者に拒絶され、その心を壊してしまったことに途方に暮れている一人の男の顔だった。
その表情を見た瞬間、律の心に本当に、ほんのわずかなさざ波が立った。
(……なんだ……その顔は……)
自分をここまで追い詰めた張本人。
自分の人生を滅茶苦茶にした憎むべき相手。
それなのに、なぜ、そんなにも傷ついた顔をするのか。
自分をただの「餌」や「道具」としか見ていなかったのではなかったのか。
ルシアンが執着していたのは、自分の「血」だけではなかったというのか。
その夜、ベッドの中でルシアンは律をただ静かに抱きしめるだけだった。
吸血も、身体を求めることもしない。ただ、壊れやすいガラス細工でも抱くかのように、その温もりを確かめているかのようだった。
「……セドリック」
耳元で、囁かれる。
「頼む……どこへも行かないでくれ」
その声は、命令ではなかった。
縋るような、懇願だった。
幾千年という孤独の果てに、ようやく手に入れた唯一の魂の片割れ。
その心を自らの手で壊してしまったことへの後悔と絶望。
その痛切な感情が、抱きしめられた身体を通して、律の死んだ心に、じわりと染み込んでくる。
憎い。この男が、心底憎い。
だが、同時に、その底なしの孤独と不器用な愛情に、律は戸惑いを禁じ得なかった。
この男は、本当に、自分を……「城戸 律」という人間を、愛しているというのか?
絶望の闇の底で、律は初めてルシアンという存在の、新たな一面を垣間見た。
それは、かすかな、本当に小さな光だったかもしれない。
しかし、完全に閉ざされた律の心に、その光は確かに一条の揺らぎをもたらしていた。
魂の抜けた人形の瞳に、ほんの一瞬だけ、感情の色が戻ったのをルシアンはまだ気づいていなかった。
あの日以来、律はルシアンの私室で暮らすようになった。それは、もはや監禁というよりも飼育に近かった。
ルシアンは律の傍を離れようとせず、食事も、入浴も、着替えでさえも、すべてその手で行おうとした。
律は、それに一切抵抗しなかった。
「セドリック、口を開けろ」
そう言われれば、操り人形のように口を開ける。
「腕を上げろ」
そう言われれば、力なく腕を上げる。
魂の抜けた人形。
それが、今の城戸 律の姿だった。
首筋に刻まれた消えることのない所有の証。
それは、鏡を見るたびに、自分がもはや人間ではなく、吸血鬼の所有物であることを残酷に突きつけてきた。自由を求める意志も、人間としての尊厳も、あの嵐の夜にすべて失ってしまった。
夜ごと繰り返される、ルシアンによる吸血と、それに伴う身体の交わり。
以前は、その中に屈辱と、そして背徳的な快楽があった。しかし、今はもう何も感じない。
ただ、されるがままに身体を預け、ルシアンが満足するのを待つだけ。
心が完全に死んでしまった今、肉体がどう扱われようと、もはやどうでもよかった。
快楽に喘ぐことさえなくなった律の姿はルシアンを苛立たせるのに十分だった。
「なぜ声を上げない。
感じているのだろう?」
ルシアンは、律の身体を激しく揺さぶり、そう問い詰める。だが、律の瞳は虚ろなまま、どこか遠くを見つめているだけだった。
「答えろ、セドリック!」
その声には、以前の怒りとは違う、どこか焦りのようなものが混じっていた。
しかし、律の心には、その声は届かない。まるで分厚いガラスの壁に隔てられているかのように、すべてのものが遠く現実感を失っていた。
そんな日々が、どれくらい続いただろうか。
律が生きる気力を失ってから、ルシアンの行動に奇妙な変化が現れ始めた。
初めのうちこそ、無反応な律に苛立ち力ずくで反応を引き出そうとしていたルシアンだったが、やがて、その行為は鳴りを潜めた。
代わりに彼はただ、じっと律のそばに座り、その虚ろな瞳を見つめる時間が増えた。
その紅い瞳に浮かんでいたのは、怒りではなかった。永劫の時を生き、万物を支配してきた王が生まれて初めて味わう「理解不能」という感情。
そして、唯一無二の番に拒絶されるという宇宙にたった一人で取り残されたかのような絶対的な孤独の色だった――。
ある日、律が暖炉の前に置かれた長椅子に、ただぼんやりと座っているとルシアンが隣に腰を下ろした。
彼は何も言わず、ただ揺れる炎を見つめている。
やがて、ぽつりと独り言のように呟いた。
「……私が、間違っていたのか」
その声は、驚くほど弱々しく自信を失っていた。
だが、律は反応しない。
「私はただ、お前をそばに置きたかった。他の誰にも渡したくなかった。
それだけだったのだ。だが、お前は……」
ルシアンは、言葉を切り、律の方を向いた。
「お前の瞳には、もう何の光もない。
初めて会った時の、あの強く私に反発してきた光は、どこへ行ってしまったのだ」
その声には、確かな痛みの色が滲んでいた。
まるで、手に入れたはずの極上の宝石が掌の中でただの石ころに変わってしまったのを嘆くかのように。
律は初めて、ルシアンの顔をまじまじと見た。
その完璧な美貌は変わらない。だが、その表情は、これまで見たこともないほど、傷つき寂しげに歪んでいた。絶対的な王ではない。ただ、愛する者に拒絶され、その心を壊してしまったことに途方に暮れている一人の男の顔だった。
その表情を見た瞬間、律の心に本当に、ほんのわずかなさざ波が立った。
(……なんだ……その顔は……)
自分をここまで追い詰めた張本人。
自分の人生を滅茶苦茶にした憎むべき相手。
それなのに、なぜ、そんなにも傷ついた顔をするのか。
自分をただの「餌」や「道具」としか見ていなかったのではなかったのか。
ルシアンが執着していたのは、自分の「血」だけではなかったというのか。
その夜、ベッドの中でルシアンは律をただ静かに抱きしめるだけだった。
吸血も、身体を求めることもしない。ただ、壊れやすいガラス細工でも抱くかのように、その温もりを確かめているかのようだった。
「……セドリック」
耳元で、囁かれる。
「頼む……どこへも行かないでくれ」
その声は、命令ではなかった。
縋るような、懇願だった。
幾千年という孤独の果てに、ようやく手に入れた唯一の魂の片割れ。
その心を自らの手で壊してしまったことへの後悔と絶望。
その痛切な感情が、抱きしめられた身体を通して、律の死んだ心に、じわりと染み込んでくる。
憎い。この男が、心底憎い。
だが、同時に、その底なしの孤独と不器用な愛情に、律は戸惑いを禁じ得なかった。
この男は、本当に、自分を……「城戸 律」という人間を、愛しているというのか?
絶望の闇の底で、律は初めてルシアンという存在の、新たな一面を垣間見た。
それは、かすかな、本当に小さな光だったかもしれない。
しかし、完全に閉ざされた律の心に、その光は確かに一条の揺らぎをもたらしていた。
魂の抜けた人形の瞳に、ほんの一瞬だけ、感情の色が戻ったのをルシアンはまだ気づいていなかった。
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