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期待ととまどい
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目の前の王子様の瞳は深い慈愛に満ちていて、心を穏やかにしてくれる。
王子様の手は繊細だが力強くもあり、お姫様をゆっくりと抱き上げ、まるで宝物を扱うかのように優しく、しかし確かな手つきでお姫様を腰から抱きかかえた。
お姫様は嬉しくて顔が赤くなった。王子様もまた顔を赤らめて、お姫様の顔を見つめて笑った。
先生が「今一番楽しいことを考えて」とか言うものだから、必死に楽しいことを考えようとしていたら、そんな夢を見てしまった。王子様は谷口さん。
お姫様は私。自分で自分にひいてしまう。私の頭にはお花が咲いている。
会社の人たちに迷惑をかけて、休ませてもらっている身でありながら、勝手で独りよがりで妄想いっぱいの夢を見てしまった。いや、夢は妄想だから良いのか。
いやいや。
私の今の立場で夢も妄想とかもないでしょ。私は勝手で我儘な人間かもしれません。
でも、夢の中の私はとても幸せだった。すごく幸福感を味わっていた。こんな気持ちになるのは久しぶりだ。そして無性に谷口さんに会いたくなった。
私は月に一回、傷病手当金の申請書を会社に郵送している。送り先は人事部の谷口様宛。
モノクロで何の柄もない便箋を選んで、ペンを走らせる。
――お忙しい中、お手数をおかけしますが、どうぞ宜しくお願いします。
すると、数日後、谷口さんからメールが来る。
――田宮さん。書類届きました。焦らずゆっくりと療養してくださいね。
谷口さん、またお話ししたい。事務的なやりとりだと分かっていても、そう思ってしまう。
会いたい。
そんな事を念じていたら、本当に会ってしまった。意外な場所。心療内科の待合室。
私はいつものように、待合室の椅子に座っていたら、診察室から細身の男の人が出てきた。
谷口さんに似ている人だなあとか思っていたら、谷口さんだった。
びっくりした。
私は見つからないように息を殺して慌てて椅子から立った。きょろきょろ周りを見たら、一つ後ろの観葉植物に隠れている椅子が空いていた。スルスルと摺り足で身体を滑らせて、その椅子に座り身を隠した。
谷口さんは私がさっきまで座っていた椅子の前を通り過ぎて、受付に一番近い椅子へ座り込んだ。
谷口さんは、他の社員のことかなにかで、心療内科に来ているのだろうか。それとも?
観葉植物の葉の隙間から見える谷口さんは、いつもの違い元気が無さそうだ。ふうー、と溜息を何度かついていた。
谷口さんもメンタル不調で通い始めたのだろうか。
私は診察室の扉が開いて先生が私の名前を呼ぶ時間が、幾らかでも遅くなる事を祈った。先生、私を呼ばないで。
「谷口さん。お待たせしました」
谷口さんが先に受付の職員さんに呼ばれた。会計を済ませながら、処方箋が出ていますので薬局で受け取ってくださいね。また来月の同じ日の同じ時間のご予約で良いですか。職員さんが谷口さんに話す声が聞こえる。
やっぱり谷口さん、調子が悪いんだ。
「はい。来月の同じ日の同じ時間でお願いします」
谷口さんが自分のスマホを見ながら、そう答えていた。
私は葉っぱの隙間から、その様子を恐る恐る眺めていた。
「田宮優花さん、お入りください」
先生が私の名前を読んだ時、谷口さんは既に待合室を出ていた。わあ良かった。見つからなくて良かった。
「どうして私、隠れたんだろ」
私は先生に向かって唐突に言葉が出てしまった。少し息が上がっていた。先生は何の事か分からずに、ボカンと口を開けて私を見ていた。
いや、何でもないです。先生の小さな瞳の中にクエスチョンマークが光っているのを見なかった事にして、私は診察室の椅子に座った。
次の日。毎月送る谷口さん宛の便箋に、いつもと違う言葉を入れた。
――朝晩寒いですが、谷口さんお元気ですか。どうか。どうかご自愛下さいね。
最後にハートマークを入れそうになったけれど、慌てて心を落ち着かせて、マルだけにしておいた。危なかった。
数日後、谷口さんからメールが届いた。
――田宮さん。書類届きました。私は相変わらず元気にやっています。焦らずゆっくりと療養してくださいね。
うそつき。私を心配にさせて。私はメールの中の谷口さんに向かって口を尖らせた。
次の月の同じ日の同じ時間。私は心療内科の待合室の観葉植物の後ろの椅子に、隠れるように座った。診察室の中には谷口さんが入っているはず。
これってストーカー行為なのだろうか、とか心配になった。でもそれよりも谷口さんは大丈夫だろうか? 一目だけでも様子を見たい気持ちの方が上回っていた。
「自分自身以外の誰かに気持ちを傾けることが出来たら、メンタルが安定する事もあります」
いつだったか先生がそう言っていたのを思い出した。先月、谷口さんをここで見てしまってから、皮肉なことに私の調子は少しばかりだけれども、確実に良くなっていた。谷口さん、大丈夫だろうか? そう思う事が日に何度かあった。
診察室の扉が開いた。谷口さんが出てきた。私は葉っぱの隙間から、谷口さんの顔をじっと見た。見つからないように見た。先月よりも調子が悪いように思えた。
このまま谷口さんの前に出て行って、田宮です。谷口さん大丈夫ですか? て聞きたくなったけれど、谷口さんは会社にも隠して心療内科に通っているのかもしれない。そう思うと、隠れて見ているしか無かった。
王子様の手は繊細だが力強くもあり、お姫様をゆっくりと抱き上げ、まるで宝物を扱うかのように優しく、しかし確かな手つきでお姫様を腰から抱きかかえた。
お姫様は嬉しくて顔が赤くなった。王子様もまた顔を赤らめて、お姫様の顔を見つめて笑った。
先生が「今一番楽しいことを考えて」とか言うものだから、必死に楽しいことを考えようとしていたら、そんな夢を見てしまった。王子様は谷口さん。
お姫様は私。自分で自分にひいてしまう。私の頭にはお花が咲いている。
会社の人たちに迷惑をかけて、休ませてもらっている身でありながら、勝手で独りよがりで妄想いっぱいの夢を見てしまった。いや、夢は妄想だから良いのか。
いやいや。
私の今の立場で夢も妄想とかもないでしょ。私は勝手で我儘な人間かもしれません。
でも、夢の中の私はとても幸せだった。すごく幸福感を味わっていた。こんな気持ちになるのは久しぶりだ。そして無性に谷口さんに会いたくなった。
私は月に一回、傷病手当金の申請書を会社に郵送している。送り先は人事部の谷口様宛。
モノクロで何の柄もない便箋を選んで、ペンを走らせる。
――お忙しい中、お手数をおかけしますが、どうぞ宜しくお願いします。
すると、数日後、谷口さんからメールが来る。
――田宮さん。書類届きました。焦らずゆっくりと療養してくださいね。
谷口さん、またお話ししたい。事務的なやりとりだと分かっていても、そう思ってしまう。
会いたい。
そんな事を念じていたら、本当に会ってしまった。意外な場所。心療内科の待合室。
私はいつものように、待合室の椅子に座っていたら、診察室から細身の男の人が出てきた。
谷口さんに似ている人だなあとか思っていたら、谷口さんだった。
びっくりした。
私は見つからないように息を殺して慌てて椅子から立った。きょろきょろ周りを見たら、一つ後ろの観葉植物に隠れている椅子が空いていた。スルスルと摺り足で身体を滑らせて、その椅子に座り身を隠した。
谷口さんは私がさっきまで座っていた椅子の前を通り過ぎて、受付に一番近い椅子へ座り込んだ。
谷口さんは、他の社員のことかなにかで、心療内科に来ているのだろうか。それとも?
観葉植物の葉の隙間から見える谷口さんは、いつもの違い元気が無さそうだ。ふうー、と溜息を何度かついていた。
谷口さんもメンタル不調で通い始めたのだろうか。
私は診察室の扉が開いて先生が私の名前を呼ぶ時間が、幾らかでも遅くなる事を祈った。先生、私を呼ばないで。
「谷口さん。お待たせしました」
谷口さんが先に受付の職員さんに呼ばれた。会計を済ませながら、処方箋が出ていますので薬局で受け取ってくださいね。また来月の同じ日の同じ時間のご予約で良いですか。職員さんが谷口さんに話す声が聞こえる。
やっぱり谷口さん、調子が悪いんだ。
「はい。来月の同じ日の同じ時間でお願いします」
谷口さんが自分のスマホを見ながら、そう答えていた。
私は葉っぱの隙間から、その様子を恐る恐る眺めていた。
「田宮優花さん、お入りください」
先生が私の名前を読んだ時、谷口さんは既に待合室を出ていた。わあ良かった。見つからなくて良かった。
「どうして私、隠れたんだろ」
私は先生に向かって唐突に言葉が出てしまった。少し息が上がっていた。先生は何の事か分からずに、ボカンと口を開けて私を見ていた。
いや、何でもないです。先生の小さな瞳の中にクエスチョンマークが光っているのを見なかった事にして、私は診察室の椅子に座った。
次の日。毎月送る谷口さん宛の便箋に、いつもと違う言葉を入れた。
――朝晩寒いですが、谷口さんお元気ですか。どうか。どうかご自愛下さいね。
最後にハートマークを入れそうになったけれど、慌てて心を落ち着かせて、マルだけにしておいた。危なかった。
数日後、谷口さんからメールが届いた。
――田宮さん。書類届きました。私は相変わらず元気にやっています。焦らずゆっくりと療養してくださいね。
うそつき。私を心配にさせて。私はメールの中の谷口さんに向かって口を尖らせた。
次の月の同じ日の同じ時間。私は心療内科の待合室の観葉植物の後ろの椅子に、隠れるように座った。診察室の中には谷口さんが入っているはず。
これってストーカー行為なのだろうか、とか心配になった。でもそれよりも谷口さんは大丈夫だろうか? 一目だけでも様子を見たい気持ちの方が上回っていた。
「自分自身以外の誰かに気持ちを傾けることが出来たら、メンタルが安定する事もあります」
いつだったか先生がそう言っていたのを思い出した。先月、谷口さんをここで見てしまってから、皮肉なことに私の調子は少しばかりだけれども、確実に良くなっていた。谷口さん、大丈夫だろうか? そう思う事が日に何度かあった。
診察室の扉が開いた。谷口さんが出てきた。私は葉っぱの隙間から、谷口さんの顔をじっと見た。見つからないように見た。先月よりも調子が悪いように思えた。
このまま谷口さんの前に出て行って、田宮です。谷口さん大丈夫ですか? て聞きたくなったけれど、谷口さんは会社にも隠して心療内科に通っているのかもしれない。そう思うと、隠れて見ているしか無かった。
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