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予兆
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帝国領のとある森の奥には、魔女が住んでいるという。
十数年前に起きた大規模な『魔女狩り』により、魔術の心得を持つ魔術師の多くが姿を消した。しかし、その後間もなく発生した疫病に、古来より叡智を積み重ねてきた魔術師という対抗策を失った人々は為す術無く倒れ、世界の人口は急速に数を減らした。人目につかない僻地に逃れ、散り散りとなってひっそりと暮らしていた智者たちの協力が無ければ、世界人口は半分以下まで減少し、いくつもの国が崩壊していただろうと言われている。
その惨劇もあって、元々数が少なかった魔術師は今やほとんどが大国の専門機関に吸収され、国の中心部まで赴かなければ恩恵に与かることができない存在となっている。故に地方の貧しい人々は、高い税金を納めなければ満足にかかることのできない帝国所属の魔術師を頼ることができず、それが彼女の下を訪れる客足が一向に減らない要因となっていた。
しかし、理由はそれだけではない。魔術師の力量には当然ながら個人差があり、才能を完全に開花させることができる魔術師は一握りだ。機関に所属する魔術師の手に負えないような案件は、各地にいる極少数の名の知れた魔術師に回される。彼女の住む土地には他に有能な魔術師がいないため、屋敷には今日も客が訪れていた。
尤も、その客を相手にするかしないかは、彼女の心次第なのだが。
「……という訳で、我が国の機関に来て働けと言っているのだ。この私が何度も足を運んでやっているというのに強情な奴め。不敬罪で牢獄にぶち込んでもいいのだぞ? 一介の魔術師があまり大きな顔をするでないわ」
いかにも成金貴族といった振る舞いの、どうにも不遜で品性に欠ける顔つきをした、豪奢な鎧で貧相な体格を誤魔化した騎士らしき男がふん反り返って傲慢に弁を振るうのを、表情一つ変えずに少女は聞いていた。
彼女は魔女と呼ばれているが、その姿はまだ成人すらしていないだろう少女だ。肩から流れ落ちる癖のない髪は透き通るような銀で、それに縁取られた顔はまだ幼さを残す一方、年齢を不透明にする冷たさを含んでいる。感情が見てとれない瞳は深く澄んだ輝きを持つエメラルド色をしているが、薄く銀色がかって見えた。
実際まだ十七を過ぎたばかりの彼女は、魔女という呼び名など到底似合わない。
だが、彼女は魔術師だ。
いかに幼い子供であろうと、一見非力な女であろうと、魔術師は人とは違う。
無言で男の言葉を聞いていた少女は、少しの間を置いて呆れたような溜め息を吐いた。
「……何故私が、君みたいな取るに足らない下衆の言うことを聞く必要が? 意味がわからない。それに不敬罪なんて言うけど、由緒正しい貴族でもない人間の戯れ言が、魔術師としてそれなりに功績のある私に通じると思う? というかこの話何回もしたよね。そろそろいい加減にしてほしいんだけど」
「なっ……貴様ァ!」
「アーノルド・ヴェンジャー」
少女は一息ついて、静かな怒りと軽蔑とで凍てついた瞳を男へと向けた。
「君の悪評はこんな森の奥にまでしっかり届いてる。騎士としての職務を放棄して立場の弱い民衆を甚振って楽しい? 楽しいなら歴とした屑なんだろうけど。この間は町娘を無理矢理連れ去って妾にしたとか。薬を買いに遥々やってきた母親が泣いていたよ。他にも不正の数々、被害者から寄せられた証言とか色々あるけど、私から国王陛下に伝えてあげようか」
「ぐ……」
悪評のみならいざ知らず、己が上手く隠し通してきた不正行為についてまで握られているとは思わなかったのだろう。アーノルドは怒りと焦燥で顔を赤くしたり青くしたりしていたが、しばらくするとふんと鼻を鳴らしていけ好かない顔に厭らしい笑みを浮かべた。
「まあいいわ。これは国王の命でもあるのだ、断った貴様にどんな処罰が下るのかせいぜい高みの見物と決め込んでやる。いつか後悔するぞ、覚えておけ」
「そもそもこの森、帝国の領地だし私も一応ヴァールハイトの国民なんだけど……やれるものならどうぞ。君みたいな人間を野放しにするような国なんて、滅んでしまってもいいけどね」
言いたいだけ言って満足したのだろう、アーノルドは彼女に背を向けると、大仰な歩き方で扉の向こうへと消えていった。
「……どっと疲れた。なんであの馬鹿、何度も何度も懲りないんだろう……」
しかし溜息を吐いたのも束の間、屋敷のエントランスで再び耳障りな大声が響いた。
何事かと思って扉を押し開けてみれば、十にも満たないだろう少女と、その子供に罵声を浴びせる見せかけ騎士の姿。
「このクソガキが、服の裾が汚れただろうが! 小汚い格好でこの俺様にぶつかりやがって! 奴隷にでもしてやろうか!?」
「ご、ごめんなさ……!」
ぼろぼろの衣服を身に纏った幼い子供の胸倉を掴み上げる騎士。見るに堪えない光景に再び溜め息を吐いた彼女は、エントランスに出て小さく手を振り上げた。
「この……うおあああ!?」
それを合図にしたかのように、男の頭上に突如飛来したものがあった。
大きな翼を持っているものの、その生き物は鳥ではない。頭は尖った嘴を持つ勇猛な鷲だが、胴体は違う。前足は鋭い鉤爪、後ろ足は猫科のそれで、尾は獅子。全体の毛並は美しい緋。
俗に言うグリフィン。魔物の一種で、この屋敷の主である少女の人ならざる友だ。グリフィンは巨大な体躯で男の隣に降り立ち、威嚇するように鉤爪の前脚を振り上げた。
「ヒッ……!」
「いい子、ラグリス。……これ以上この屋敷で騒ぐなら、骨だけにして国に返送するけど、どうする?」
「……ッ、この化け物どもが……!」
陳腐な捨て台詞を残し、そそくさと逃げるように駆けて行くその背中に侮蔑の視線を投げかけ、少女は子供へと目を向けた。見覚えのある顔だ。恐らくは、以前赴いた集落の少女だろう。
記憶を辿りながら首を傾げると、半泣きだった子供は袖で顔を拭い、緊張した面持ちで両手を差し出してきた。
何事かと思い覗いてみると、田舎の貧しい市民が約一ヶ月食い繋いでいける程度の金額の硬貨が並んでいる。
「あ、あの……」
「……薬、かな。何の病気の薬が必要?」
手に握られていたものを見て用件を把握し声をかけると、子供は悲しげな表情で俯いた。
「あの……お母さんが、黒紋病で。でも、お薬高くて……街じゃ買えなくて……全然足りないのはわかってますけど、でも少しでいいので分けてほしくて……!」
「……なるほど」
黒紋病。魔女狩りから間もなく流行り出した死の病だ。発症すれば体の一部に小さな黒い痣ができ、徐々に広がっていく。小さいうちに対処すれば完治するのだが、体の表面積の半分が覆われてしまうとまず助からない。かつてはろくな対処法も見つからず、本人の生命力に任せるしかなかった病だが、今は適切な薬がある。
「お母さんの痣、どのくらいまで広がってる?」
「えっと……四分の一くらい、です」
そうなると結構強い薬じゃないと駄目だな、と内心思うが、この子供の言う通り黒紋病の薬は高価だ。生育が難しい薬草を使っていることも理由の一つだが、加工する工程がまた難しく、薬として使用できるレベルのものを精製できる確率は、腕のいい魔術師だとしても分量に対してせいぜい八割程。純粋に量産が難しいのだ。師の信条を継いでこうして屋敷で魔術を修めているため、必要以上の金銭を求めているわけではないが、流石に無償で薬を配るわけにはいかない。それで生計を立てている他の魔術師や、正当な対価を払って薬を得ている人々の反感を買いかねないからだ。
どうしたものかと考えながら顔を上げると、子供の首元に小さな飾りが下げられていることに気が付いた。
「……それ、何かな。首に下げてる」
「え……?」
子供はきょとんとした後、少し照れたような顔で俯いた。
「前に川で拾ったの。ただの石だけど、綺麗だから……お母さんが首飾りにしてくれて、お守り代わりにしてるの」
「そっか」
先ほどまで沈んでいた子供の明るい表情に、少女は小さく笑った。
「なら、そのお守りを代わりに貰っていい?」
「え?」
驚いたような顔で固まる子供に、首を傾げて尋ねた。
「駄目?」
「で、でも……本当にただの石だから、全然価値なんて……」
「大切なものなんでしょう? なら、あなたがきちんとお金を用意できる年になるまで預かるから、その時になったらお代と交換しよう。それに薬があればお母さんは治るから、もうお守りは必要ないよね」
「……!」
今にも泣き出しそうにくしゃりと顔を歪めた子供を宥めて薬を多めに用意し、ついでに今朝焼いたばかりのクッキーと滋養強壮効果のある薬草を持たせると、そんなによくしてもらえないと慌てて子供は首を振ったが、最後には溢れんばかりの笑顔を見せて帰って行った。子供が無事帰宅できるようにラグリスに乗せて帰したから、ラグリスが戻ってくるのは夕方過ぎだろう。
ようやく屋敷に静寂が戻る。ふうと小さく息を吐いたところで、突然聞き覚えのない声が耳に届いて反射的に身構えた。魔術師衣の袖に隠した触媒に手を伸ばす。
「優しいんですね。上の人の話を聞いて冷たい人かと思っていたけど、どうやら俺の勝手な誤解だったみたいだ」
エントランスの隅で壁に凭れこちらを見ていたのは、穏やかな笑みを浮かべた青年だった。少なくとも外見上はそうだが、もし彼が魔術師ならば実年齢はわからない。実験だの霊薬だのと人とは違うことをしているせいで、魔術師には年齢不詳の外見をしている者も多いのだ。触媒に触れたまま、注意深く観察した。
青年は優しげな顔立ちで、パールホワイトの髪を短く整え、そして背が高い。少なくとも百八十センチは越えていると思う。深い青の瞳は柔らかい光を灯していて、人好きする出で立ちをしている。腰に吊るしてあるのは立派な剣。鎧こそ着ていないものの、見覚えのある紋章が刺繍された服を纏っていた。
なるほど、帝国に所属する騎士か。
「……いつの間に」
「先ほど。ちょうどお取込み中だったみたいなので邪魔にならないよう静かにしていたんですが、驚かせてしまったみたいですね」
すみません、と微笑み小さく会釈してみせるその所作は誰もが好感を持ちそうな優雅なものだが、気を抜いていたとはいえ一切の気配を感じさせなかったことが少女の心に警戒の影を落とした。わざわざ気配を絶って屋敷に入ってきた理由と目的も見えない。
先ほどの騎士紛いの男と同じように、帝国が何か企んでいるのか。
「……用件は? 大した用じゃないなら早く帰ってほしいんだけど。薬草の手入れの続きをしたいから」
「ああ、申し遅れました。俺はヴァールハイトの第二騎士団所属、副団長のラルフ・ラインハルトと申します。この度は国の命であなたの下に赴きました。……あなたがかの大魔導師、アルム・ユニヴェール……ですね」
「…………」
沈黙を肯定と受け取ったのだろう。ラルフ・ラインハルトは再びにこりと笑みを向けて、やや険しい表情で己を眺める少女――銀翼の魔導師、アルム・ユニヴェールをじっと見つめた。
その目に曇りはない。先ほどまでの警戒心が溶かされてしまいそうな、誠実な目だ。そう見えるのに、気を緩めようと思えないのはどうしてだろう。
青年の仕草や表情を注意深く観察することは忘れぬまま、愛想のない目でアルムは口を開いた。
「……何が目的?」
「では、簡潔に説明しますね」
少女の言葉を了承と捉えたのだろう。青年は微笑みを浮かべながら、これからの少女の道行きを変えるきっかけとなる話を口にする。
それが己の運命も狂わせてしまうということを、彼自身も知らないまま。
十数年前に起きた大規模な『魔女狩り』により、魔術の心得を持つ魔術師の多くが姿を消した。しかし、その後間もなく発生した疫病に、古来より叡智を積み重ねてきた魔術師という対抗策を失った人々は為す術無く倒れ、世界の人口は急速に数を減らした。人目につかない僻地に逃れ、散り散りとなってひっそりと暮らしていた智者たちの協力が無ければ、世界人口は半分以下まで減少し、いくつもの国が崩壊していただろうと言われている。
その惨劇もあって、元々数が少なかった魔術師は今やほとんどが大国の専門機関に吸収され、国の中心部まで赴かなければ恩恵に与かることができない存在となっている。故に地方の貧しい人々は、高い税金を納めなければ満足にかかることのできない帝国所属の魔術師を頼ることができず、それが彼女の下を訪れる客足が一向に減らない要因となっていた。
しかし、理由はそれだけではない。魔術師の力量には当然ながら個人差があり、才能を完全に開花させることができる魔術師は一握りだ。機関に所属する魔術師の手に負えないような案件は、各地にいる極少数の名の知れた魔術師に回される。彼女の住む土地には他に有能な魔術師がいないため、屋敷には今日も客が訪れていた。
尤も、その客を相手にするかしないかは、彼女の心次第なのだが。
「……という訳で、我が国の機関に来て働けと言っているのだ。この私が何度も足を運んでやっているというのに強情な奴め。不敬罪で牢獄にぶち込んでもいいのだぞ? 一介の魔術師があまり大きな顔をするでないわ」
いかにも成金貴族といった振る舞いの、どうにも不遜で品性に欠ける顔つきをした、豪奢な鎧で貧相な体格を誤魔化した騎士らしき男がふん反り返って傲慢に弁を振るうのを、表情一つ変えずに少女は聞いていた。
彼女は魔女と呼ばれているが、その姿はまだ成人すらしていないだろう少女だ。肩から流れ落ちる癖のない髪は透き通るような銀で、それに縁取られた顔はまだ幼さを残す一方、年齢を不透明にする冷たさを含んでいる。感情が見てとれない瞳は深く澄んだ輝きを持つエメラルド色をしているが、薄く銀色がかって見えた。
実際まだ十七を過ぎたばかりの彼女は、魔女という呼び名など到底似合わない。
だが、彼女は魔術師だ。
いかに幼い子供であろうと、一見非力な女であろうと、魔術師は人とは違う。
無言で男の言葉を聞いていた少女は、少しの間を置いて呆れたような溜め息を吐いた。
「……何故私が、君みたいな取るに足らない下衆の言うことを聞く必要が? 意味がわからない。それに不敬罪なんて言うけど、由緒正しい貴族でもない人間の戯れ言が、魔術師としてそれなりに功績のある私に通じると思う? というかこの話何回もしたよね。そろそろいい加減にしてほしいんだけど」
「なっ……貴様ァ!」
「アーノルド・ヴェンジャー」
少女は一息ついて、静かな怒りと軽蔑とで凍てついた瞳を男へと向けた。
「君の悪評はこんな森の奥にまでしっかり届いてる。騎士としての職務を放棄して立場の弱い民衆を甚振って楽しい? 楽しいなら歴とした屑なんだろうけど。この間は町娘を無理矢理連れ去って妾にしたとか。薬を買いに遥々やってきた母親が泣いていたよ。他にも不正の数々、被害者から寄せられた証言とか色々あるけど、私から国王陛下に伝えてあげようか」
「ぐ……」
悪評のみならいざ知らず、己が上手く隠し通してきた不正行為についてまで握られているとは思わなかったのだろう。アーノルドは怒りと焦燥で顔を赤くしたり青くしたりしていたが、しばらくするとふんと鼻を鳴らしていけ好かない顔に厭らしい笑みを浮かべた。
「まあいいわ。これは国王の命でもあるのだ、断った貴様にどんな処罰が下るのかせいぜい高みの見物と決め込んでやる。いつか後悔するぞ、覚えておけ」
「そもそもこの森、帝国の領地だし私も一応ヴァールハイトの国民なんだけど……やれるものならどうぞ。君みたいな人間を野放しにするような国なんて、滅んでしまってもいいけどね」
言いたいだけ言って満足したのだろう、アーノルドは彼女に背を向けると、大仰な歩き方で扉の向こうへと消えていった。
「……どっと疲れた。なんであの馬鹿、何度も何度も懲りないんだろう……」
しかし溜息を吐いたのも束の間、屋敷のエントランスで再び耳障りな大声が響いた。
何事かと思って扉を押し開けてみれば、十にも満たないだろう少女と、その子供に罵声を浴びせる見せかけ騎士の姿。
「このクソガキが、服の裾が汚れただろうが! 小汚い格好でこの俺様にぶつかりやがって! 奴隷にでもしてやろうか!?」
「ご、ごめんなさ……!」
ぼろぼろの衣服を身に纏った幼い子供の胸倉を掴み上げる騎士。見るに堪えない光景に再び溜め息を吐いた彼女は、エントランスに出て小さく手を振り上げた。
「この……うおあああ!?」
それを合図にしたかのように、男の頭上に突如飛来したものがあった。
大きな翼を持っているものの、その生き物は鳥ではない。頭は尖った嘴を持つ勇猛な鷲だが、胴体は違う。前足は鋭い鉤爪、後ろ足は猫科のそれで、尾は獅子。全体の毛並は美しい緋。
俗に言うグリフィン。魔物の一種で、この屋敷の主である少女の人ならざる友だ。グリフィンは巨大な体躯で男の隣に降り立ち、威嚇するように鉤爪の前脚を振り上げた。
「ヒッ……!」
「いい子、ラグリス。……これ以上この屋敷で騒ぐなら、骨だけにして国に返送するけど、どうする?」
「……ッ、この化け物どもが……!」
陳腐な捨て台詞を残し、そそくさと逃げるように駆けて行くその背中に侮蔑の視線を投げかけ、少女は子供へと目を向けた。見覚えのある顔だ。恐らくは、以前赴いた集落の少女だろう。
記憶を辿りながら首を傾げると、半泣きだった子供は袖で顔を拭い、緊張した面持ちで両手を差し出してきた。
何事かと思い覗いてみると、田舎の貧しい市民が約一ヶ月食い繋いでいける程度の金額の硬貨が並んでいる。
「あ、あの……」
「……薬、かな。何の病気の薬が必要?」
手に握られていたものを見て用件を把握し声をかけると、子供は悲しげな表情で俯いた。
「あの……お母さんが、黒紋病で。でも、お薬高くて……街じゃ買えなくて……全然足りないのはわかってますけど、でも少しでいいので分けてほしくて……!」
「……なるほど」
黒紋病。魔女狩りから間もなく流行り出した死の病だ。発症すれば体の一部に小さな黒い痣ができ、徐々に広がっていく。小さいうちに対処すれば完治するのだが、体の表面積の半分が覆われてしまうとまず助からない。かつてはろくな対処法も見つからず、本人の生命力に任せるしかなかった病だが、今は適切な薬がある。
「お母さんの痣、どのくらいまで広がってる?」
「えっと……四分の一くらい、です」
そうなると結構強い薬じゃないと駄目だな、と内心思うが、この子供の言う通り黒紋病の薬は高価だ。生育が難しい薬草を使っていることも理由の一つだが、加工する工程がまた難しく、薬として使用できるレベルのものを精製できる確率は、腕のいい魔術師だとしても分量に対してせいぜい八割程。純粋に量産が難しいのだ。師の信条を継いでこうして屋敷で魔術を修めているため、必要以上の金銭を求めているわけではないが、流石に無償で薬を配るわけにはいかない。それで生計を立てている他の魔術師や、正当な対価を払って薬を得ている人々の反感を買いかねないからだ。
どうしたものかと考えながら顔を上げると、子供の首元に小さな飾りが下げられていることに気が付いた。
「……それ、何かな。首に下げてる」
「え……?」
子供はきょとんとした後、少し照れたような顔で俯いた。
「前に川で拾ったの。ただの石だけど、綺麗だから……お母さんが首飾りにしてくれて、お守り代わりにしてるの」
「そっか」
先ほどまで沈んでいた子供の明るい表情に、少女は小さく笑った。
「なら、そのお守りを代わりに貰っていい?」
「え?」
驚いたような顔で固まる子供に、首を傾げて尋ねた。
「駄目?」
「で、でも……本当にただの石だから、全然価値なんて……」
「大切なものなんでしょう? なら、あなたがきちんとお金を用意できる年になるまで預かるから、その時になったらお代と交換しよう。それに薬があればお母さんは治るから、もうお守りは必要ないよね」
「……!」
今にも泣き出しそうにくしゃりと顔を歪めた子供を宥めて薬を多めに用意し、ついでに今朝焼いたばかりのクッキーと滋養強壮効果のある薬草を持たせると、そんなによくしてもらえないと慌てて子供は首を振ったが、最後には溢れんばかりの笑顔を見せて帰って行った。子供が無事帰宅できるようにラグリスに乗せて帰したから、ラグリスが戻ってくるのは夕方過ぎだろう。
ようやく屋敷に静寂が戻る。ふうと小さく息を吐いたところで、突然聞き覚えのない声が耳に届いて反射的に身構えた。魔術師衣の袖に隠した触媒に手を伸ばす。
「優しいんですね。上の人の話を聞いて冷たい人かと思っていたけど、どうやら俺の勝手な誤解だったみたいだ」
エントランスの隅で壁に凭れこちらを見ていたのは、穏やかな笑みを浮かべた青年だった。少なくとも外見上はそうだが、もし彼が魔術師ならば実年齢はわからない。実験だの霊薬だのと人とは違うことをしているせいで、魔術師には年齢不詳の外見をしている者も多いのだ。触媒に触れたまま、注意深く観察した。
青年は優しげな顔立ちで、パールホワイトの髪を短く整え、そして背が高い。少なくとも百八十センチは越えていると思う。深い青の瞳は柔らかい光を灯していて、人好きする出で立ちをしている。腰に吊るしてあるのは立派な剣。鎧こそ着ていないものの、見覚えのある紋章が刺繍された服を纏っていた。
なるほど、帝国に所属する騎士か。
「……いつの間に」
「先ほど。ちょうどお取込み中だったみたいなので邪魔にならないよう静かにしていたんですが、驚かせてしまったみたいですね」
すみません、と微笑み小さく会釈してみせるその所作は誰もが好感を持ちそうな優雅なものだが、気を抜いていたとはいえ一切の気配を感じさせなかったことが少女の心に警戒の影を落とした。わざわざ気配を絶って屋敷に入ってきた理由と目的も見えない。
先ほどの騎士紛いの男と同じように、帝国が何か企んでいるのか。
「……用件は? 大した用じゃないなら早く帰ってほしいんだけど。薬草の手入れの続きをしたいから」
「ああ、申し遅れました。俺はヴァールハイトの第二騎士団所属、副団長のラルフ・ラインハルトと申します。この度は国の命であなたの下に赴きました。……あなたがかの大魔導師、アルム・ユニヴェール……ですね」
「…………」
沈黙を肯定と受け取ったのだろう。ラルフ・ラインハルトは再びにこりと笑みを向けて、やや険しい表情で己を眺める少女――銀翼の魔導師、アルム・ユニヴェールをじっと見つめた。
その目に曇りはない。先ほどまでの警戒心が溶かされてしまいそうな、誠実な目だ。そう見えるのに、気を緩めようと思えないのはどうしてだろう。
青年の仕草や表情を注意深く観察することは忘れぬまま、愛想のない目でアルムは口を開いた。
「……何が目的?」
「では、簡潔に説明しますね」
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