婚約破棄、感謝!今日からただの愉快な隣人として生きていきます。

夏乃みのり

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夕闇が迫る都の北端。

ガッシャーン、という派手な音を立ててバケツを落としたカシムは、幽霊でも見たような顔でこちらを凝視していました。


「……おい、メーサ。今、何と言った。聞き間違いでなければ、ここが『自分の家』だと言わなかったか?」


「ええ、はっきり言ったわよ。今日から私はここの主、つまりあなたの『可愛いお隣さん』よ、カシム!」


私は窓枠に肘をつき、満面の笑みで手を振りました。

カシムは、額を押さえて深い、深いため息をつきました。

その姿は、一日の過酷な任務を終えた騎士団長というよりは、近所の厄介者に絡まれた苦労人のそれでした。


「よりによって、なぜここだ。この家は十年前から事故物件として有名だったはずだぞ。屋根は腐り、床には魔術師の呪いが残っているという噂だ」


「あら、呪いなんて掃除のついでに吹き飛ばしたわよ。それよりカシム、見て! この生け垣の低さ。これなら、あなたが朝食に何を食べているか、二階の窓からバッチリ監視できるわね」


「監視するな。プライバシーを尊重しろ」


カシムは落としたバケツを拾い上げると、ずんずんと生け垣を乗り越えて、こちらの庭……というか、雑草の海へと侵入してきました。

彼は私の家の壁を指で軽く突きました。

すると、ポロリと壁の一部が剥がれ落ち、乾いた音を立てました。


「……メーサ、正気か? これは家じゃない、薪の山だ。今夜、風が強く吹けばお前は朝までに野宿することになるぞ」


「失礼ね。私はこう見えて、王宮の建築予算書を三年間も精査してきたのよ。どこを補強すれば崩れないか、構造計算は頭の中で済んでいるわ」


「その計算に『安全性』という文字は入っているのか?」


カシムは呆れ顔のまま、私の顔をじっと見つめました。

騎士団長特有の、鋭く射抜くような視線。

普通の令嬢なら、この視線だけで失神するか、あるいは恋に落ちるかの二択でしょうが、私にとっては「説教が始まる五秒前」の合図でしかありません。


「ほら、そんな怖い顔をしないで。お近づきの印に、これを差し入れに持ってきたわ!」


私は、アンナが市場で買ってきてくれた「例の串焼き」が十本入った袋を差し出しました。

脂が染み出し、強烈なニンニクの香りを放つその袋は、高潔な騎士団長に贈るものとしてはあまりに場違いです。


「……またこれか」


「毒見は済んでいるわよ。カシム、あなた最近、王宮のまずい配給食ばかり食べているんでしょう? これ一首で一週間の活力が湧くわよ。さあ、受け取って!」


私は半ば強引に、カシムの手に袋を押し付けました。

カシムは困惑しながらも、温かい袋を落とさないようにしっかりと持ち直しました。


「……。礼は言う。だが、メーサ。本気でここに住むつもりなら、今すぐ荷物をまとめて俺の家に来い」


「えっ!? カシム、それってまさかの同棲の誘い? 大胆ね、騎士団長閣下!」


「馬鹿を言うな。客間を貸してやると言っているんだ。こんな崩落寸前の廃墟に、公爵令嬢を……いや、元公爵令嬢を寝かせるわけにいかないだろう」


カシムの声は真剣でした。

幼馴染としての情か、あるいは騎士としての義務感か。

いずれにせよ、彼が本気で私の身を案じていることは伝わってきました。


「ありがとう、カシム。でも、お断りするわ」


「なぜだ」


「私、生まれて初めて自分の力で『拠点』を手に入れたのよ。誰にも干渉されず、誰の機嫌も伺わなくていい場所。たとえ屋根が飛んでも、床が抜けても、ここは私の自由の象徴なの」


私は、掃除したばかりの何もない室内を見渡しました。

埃っぽくて、隙間風が吹く、ボロ家。

でも、ここには王宮の冷たい静寂も、公爵邸の重苦しい伝統もありません。


「カシム、あなたは私の『お隣さん』として、時々ツッコミを入れに来てくれればそれでいいの。あ、あと、もし屋根が飛んだら、その時は全力で助けを呼ぶから、しっかりキャッチしてちょうだいね」


私は茶目っ気たっぷりにウインクしました。

カシムはしばらく無言で私を見ていましたが、やがて、わずかに口角を上げました。

それは、彼が心から呆れた時にだけ見せる、不器用な笑みでした。


「……わかった。キャッチはしないが、薪として再利用する準備はしておこう」


「冷たいわね! そこは『命に代えても守る』って言うところよ!」


「お前にその言葉を教えたのは、どこのどいつだ。……アンナ、お前も大変だろうが、死なせない程度に見張っておけ。何かあれば、壁を叩け。すぐに駆けつける」


カシムは背後のアンナにそう告げると、串焼きの袋を大事そうに抱えて、自分の家へと戻っていきました。


「……お嬢様。騎士団長閣下、耳の裏まで真っ赤でしたよ」


アンナが、私の隣でボソリと呟きました。


「あら、そう? きっとニンニクの香りに当てられたのよ。さあ、アンナ! 私たちも夕食にしましょう。メニューはもちろん、串焼きの残りと、井戸で冷やしたお水よ!」


「……明日こそは、野菜を買いに行きましょうね」


私たちは、月明かりが差し込むボロ家の中で、笑い合いながら食事を摂りました。

壁の向こう側からは、カシムが窓を閉める音が聞こえてきます。


かつての婚約者は、今頃王宮で「後悔しているだろう」と妄想に耽っている。

でも私は、こうして大好きな幼馴染の隣で、油まみれの幸せを噛み締めている。


「愉快な隣人生活、一晩目のスタートね!」


私は床に広げた簡素な寝袋に潜り込み、自由という名の深い眠りへと落ちていくのでした。
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